空白の後
疲れた。
ご丁寧に呼んで貰ったタクシーで家に辿り着いた瞬間に口に出た言葉。
私は正直ものだ。
ほんと、結婚を決めた女がこんなに疲れているって寂しすぎるのじゃないだろうか?
鞄の中から玄関のカギを探りあて誰に言うでもなく「ただいま」と反射的に声を出すと思いがけずに返事が返ってきた。
玄関にはキラリと光る小さいけれど一際存在感を放つ可愛い靴が並んでいた。
「お疲れ、今日は何食べてきたの?」
探るような姉貴の言葉に
「焼き鳥数本とチーカマ」
事実を告げると屈む元気もなくて、片方の踵を踏みつけるようにパンプスを脱いだ。
「肉じゃが余ってるけど食べるなら温めようか?」
そんな言葉に小さく頷くと満足そうに微笑んで
「じゃあ、待ってるからね」
とキッチンへと消えていった姉貴。
心配してくれているのが痛いほど解るだけに、少しは安心させてあげらるのかもしれないと思ったものの。
本当に結婚するのかな、なんて。
未だに信じられない自分もいる。
意気込んでいった癖に告白もできなかったのは私の性格なのだろうけれど、果たしてそれで良かったものなのか。
というかあんな展開になろうとは。
大事なところをすっ飛ばして結婚の約束だけするなんて、私達以外にどれだけ人がいるのだろう。
でも――。
好きな人と結婚出来るって事自体が重要なのか?
何ともすっきりしない展開だけど前進した事は確かなのだよね。
無意識に辿り着いた自分の部屋でいつものように化粧落としのペーパーで顔を拭いスエットに身を包むと姉貴には何と言えば良いものか考えあぐねた。
昔っから勘の良い姉貴の事だから多くは語らずにいるのが正解なのだけどね。
「お疲れ」
夜も更けたこの時間、乳飲み子を抱える姉貴がテーブルの向いで缶ビールを片手にしているってどうなのだろう?
「飲んでも平気なの?」
素直に口にすると
「大丈夫、もう離乳したからね」
なんて呑気な返事が。
まあ確かに離乳さえしていればいいのかもしれないけれど。
頂きます、と両手を合わせて温め直してくれた肉じゃがに箸をつけた。
「これ姉貴が作ったんだ」
母の味とは違う肉じゃが。
うちのはもっと甘い味付け。
「そうそう、結婚すると相手の好みもあるからね」
そう言って箸も持たずに指先で私の皿から肉じゃがを一摘まみ。
我ながら上出来だわ、なんて。
「姉貴、それ雅也がみたら真似するよ」
箸先で姉貴の指を差すと
「大丈夫、子どもの前でこんな事はしないから」
と懲りずにまた指先を伸ばすものだからパチンとその指先を払ってやった。
姉貴はペロリと舌を出し、前後の脈絡もなくさらりと口にした。
「小川さんとはその後どうなったの?」と。
不意打ちを食らった私の手は止まりそうになったものの必死で堪えて
さも平然としているように
「順調だよ」
と答えてみた。
そう順調。
仮の婚約者から本物の婚約者に昇格したのだから。
「ふーん」
疑り視線をビシバシと浴びまくり。
想像していた事だとはいえ居心地が悪い。
何も嘘をついてるわけじゃないけれど悪い事をしているような気分になるのは何故なのだろう。
姉貴の置いてくれた缶ビール。
飲むつもりじゃなかったけれど、自然と手が伸びてプルトップを引きあげていた。
「相手の親とかもう会ったりした?」
核心をつくような質問にビールが進む。
「ほら、病院辞めるみたいだから忙しいみたいで、もう少し落ち着いたらそのうちね」
それらしい言葉を並べてみたつもりだったけど、今までゆったりと構えていた姉貴が目を丸くした。
「病院辞めるって、結婚決まったのに転職でもするつもりなの? ちょっと無謀なんじゃない?」
姉貴の言う事は尤もだ。
多くを語るつもりはなかったはずなのに、一つ一つ紐を解かれるように話してしまう私って駄目駄目なのかも。
「へぇー小川医院を継ぐんだ、なら安心ねちょっとびっくりさせないでよ」
喋った後で次は何を聞かれるかと思うと冷や冷やもの。
お陰で飲むつもりのなかった缶ビール、2本目に突入。
動揺しないようにしているせいか、喉が渇くなんてもんじゃない。
義兄さん、なんでこんな日に出張するかな。
予定では、疲れ切った身体にムチ打って即行お風呂に入って寝るつもりだったのに。
「上手く行ってるのならいいのだけどね」
姉貴がそう呟いた時だった。
習慣でテーブルの隅に置いた携帯が唸りだしたのは。
ご丁寧に液晶画面の小窓には
『俺様』の文字。
咄嗟に掴んだものの姉貴にもしっかり見られてしまったようで。
俺様って何なのよ、とお腹を抱えて笑いだした。
電話でなくて、メールだった事は幸いだ。
二人の会話を聞かれた日には悲しすぎる。
ニヤニヤと笑う姉貴の前で開くのは癪なので軽くスルーを決め込んだのだけど
「見ないの? 急用かもよ?」
なんて言うものだから
「見ればいいんでしょ」
と売り言葉に買い言葉。
母さん、こんな性格になったのは貴方に育てられたからなのでしょうか?
身体を斜に構え開いた携帯には
――タクシー代請求していいぞ――
の文字。
呆れるにも程がある。
姉貴にしっかりその文字を見せると
「なるほど、俺様かもね」
なんてまた笑い転げるし。
でもね、気がついてしまった。
沢山の空白の後。
――さっきの撤回無しだからな――
念押しのような一言を見つけてしまった。
さっきのタクシー代請求の一言メールよっぽど壺に入ったのか涙を浮かべ笑う姉貴を尻目に
――3570円しっかりと請求させてもらいます――
その後にたっぷりと空白を入れて
――あんたこそね――
と返してやった。
例え好きになってくれなくても、こんな感じでいられたらそれでいいのかもしれない、なんて姉貴の作った肉じゃがを食べながらそう思う私もいた。
そう、世の中には片方のベクトルだけで結婚する人達は結構いるのかもしれないのだから。
と慰めにも似た言葉が頭に浮かんだ。
それにしても、今度こそ本心を聞き出そうと意気込んでいたのに。
私ってやっぱりどうかしてる。
言い訳ばかりが浮かんでは消え、これでいいんだ、と無理やり納得しようとする私がいた。