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旨いもの

「やりますか」


少しだけ伸びた髪を手首に巻いていた髪ゴムで一つに纏めると、給湯室で入れたコーヒーを一口含んでパソコンの電源を入れた。

真美の言う通り、私はあそこで玉砕するつもりでいたんだ。ムカつくプロポーズだったのには変わりないけど、受けて立ってやろうじゃない。アイツへの闘志が沸いてきたら仕事も断然やる気が出てきた気がした。


――大体ね、妥協なんて言われなくたって解ってるっていうの――

若さは無いし、顔だって平平凡凡。自分の事くらいよーく理解してますとも。三十路女を舐めると痛い目に合うって思い知らせてやる。何だかオーホッホと高笑いをしたくなったみたい、それは母の十八番なはず。私って母さん似なのかしら? いやいや私はあんなノー天気じゃないわよ。

そんな微妙なトリップをしながらも、気持ちを切り替えてからの作業は順調だった。


「仙崎、この案件って一昨年あたりにお前担当してたのに似たのあったって課長に言われたんだけど、どう?」

原田が差し出した資料を捲ると確かに記憶にあるそれと似ている感じだ。

「参考になるか解らないけど、作業ファイル送ろうか?」

私としては自然な会話だったのに

「何か久し振りに仙崎に会った気がする」

と原田。その真意は?


「マリッジブルーを通り越して破談になったりして」

ふんわり香るバラの香水は言わずとしれた片瀬だったり。ここのとこ静かじゃないなんて思ったのにあっという間の復活だよ。気分がノッているからか片瀬の言葉もいつもほど気にならず柔らかい笑みが出たと思う。

正直会社に結婚相手を求める事は悪い事じゃない。

一緒に働く姿を見れば相手の人となりも解るし、結婚してから失敗したというリスクだって少なくなるものなのかも。

私に無くて片瀬にあるものは若さ。片瀬はその武器を十二分に発揮している。

だからっていって仕事を疎かにする事は違う、若くて仕事がテキパキ出来ると良い男が向こうから寄ってくると思うのだけどね。

部長に嫌味を言われつつ残業をしたあの日から、この課のみんなは本性を見たようで一線ひいて片瀬に接しているのが良く解る。片瀬もそれをようやっと察知したのだろう、依然と比べ上目使いが減ったような? 

なんて、片瀬が結婚相手を見つけているかも解らないのに勝手な解釈をしている私って怪しいおばさんかも。

ざわついたフロアーの向こう側にいる江川の姿にちらりと視線を馳せ、顔が緩んだ。

あいつにターゲットを絞る事自体が間違っているのだけどね。


5日後の閉め切りのプレゼン資料もほぼ終わりになりかけた残業開始から30分後。


「仙崎、5番取って」

江川が受話器を持ち上げて、声を飛ばしてきた。


「どちらからですか?」

受話器に手を掛けながら負けじと大きな声を飛ばしてみるも江川の顔はどこ吹く風。

なんだっていうの。呆れつつも受話器を取ると


「久し振りだね、仙崎さん」

ちょっとだけ皺がれたその声は懐かしい響き。


「お久し振りです、安藤会長。お元気でいらっしゃいますか?」

先日江川との会話に出てきた安藤物産の会長からだった。

江川は話の内容を把握しているようで、受話器片手に安藤会長の言葉に頷きながら江川を見ると苦笑しながらも大きく頷いていて。


「では宜しくお願い致します」

と受話器を置いた。

最後に声を聞いたのはもう7、8年前なのに、この安藤会長の声はまるで最近聞いたかのように耳に馴染んで滲みいった。

やっぱり私って声フェチなのかしら?


「誰からだった?」

ひょいと顔を覗かせた原田に

「安藤物産の会長。近くにいるから課長同席で食事に付き合って欲しいって」


あともうちょっとだったのになぁ。

机の上の資料をポンポンと揃えてパソコンの時計をみやると待ち合わせまで後30分。

いくら近くにいるっていってもこっちの都合もあるでしょうに。

きっと江川には了解取ったに違いない。

私に判断を委ねるような事を言ってたけど、こりゃ決定事項だね。


「安藤物産の会長と会食なんて、したい奴山ほどいるって知ってるか?」

原田のちょっと呆れた声に


「そうかもね」

と会いたいけれど、ちょっと複雑なのよ。

幸い片瀬は就業時間きっかりに消えてくれたから良かったものの。

後で部長、専務絡みで嫌味を言われるのは勘弁だわ。


「仙崎が用意出来たら行くぞ。お前そのまま直帰でいいから」

いつの間にか背中越しに江川がいた。

そのまま直帰でいいからなんて言うけど、もう終業時刻は過ぎてるって言うの。


「了解」

パソコンを切り上げ立ち上がった私に


「旨いもんご馳走になってこいよ」

なんて隣で聞いてた吉川に言われて


「うーんと美味しいのご馳走になってくる」

とロッカーに向かった。

化粧直して、着替えると鏡に写した自分の姿。

こんな格好でいいのだろうか?

黒いパンツに白いブラウス。

可愛げも何もない、どんな場所で食事をするのか解らないけれど失礼にならないかが心配だった。

せめて踵のあるパンプスでも履いていたら良かったのだけど、普段内勤の私はローヒールのパンプスで。

ちょっと過った携帯電話のあれ。

少しは様になるかしら、とストラップもどきのアンクレットを足首に嵌めた。


課長は既にエントランスにいて、受付がいなくなった変わりに立ちはだかっている警備員さんと談笑していた。

「お待たせしました」

「じゃあ行こうか」


警備員さんにお辞儀をして二人並んで会社のドアを潜った。

付き合っていた時だって、こんな風に一緒にドアを潜る事なんてなかったから不思議な感じ。

ふと見上げた江川も少しだけ笑みを浮かべていたようで、もしかしたら同じような事思っていたのかなぁなんて。

まだ陽の差す時間に会社を出るなんて事は滅多にないだけにちょっと新鮮だった。


「で、何処に行くって?」

仕事モードを抜け出た私は敬語も抜けてまるでタイムトリップしたよう。


「梨乃、もしかしてフルコースとか期待してる?」

勿体ぶった物言いにさっさと教えろとばかりにわき腹を抓ってやった。

良く知っている江川の数少ない弱点だったり。


「やめろって。もう直ぐだから」

身体を捩りながら、絞りだした江川の声に笑いがこみ上げる。

そう江川とはこんな心地良い関係だったっけ。

向かっているのは駅だけど、果たしてこんなところに美味しい『もとい』安藤会長が嗜むような高級料理があったのだろうか? 首を捻る。


江川はそのまま駅の階段を上り、改札口を通り過ぎてまた階段を下りた。

きっと私には教える気はないと察した私はそのまま江川についていく。

少しづつ賑わい始めた繁華街を通り抜け、一本裏道に入ると食欲をそそるいい匂いが漂ってきて思わずお腹を押さえてしまう。

真っ赤な赤ちょうちんに大きな文字で「炭火ホルモン」と書かれたその店の暖簾を――眼の前の背中が潜った。


「ここ?」

背中越しに掛けた声に

「ここ」

と首を捻り店に入っていく江川。


「らっしゃい」

威勢のいい声が響く店内の片隅に安藤会長が陣取っていた。


「おおー待ってたよ」

既に焼酎を飲み始めていた安藤会長はご満悦らしい。

テーブルには赤くなり始めた炭火入りの七輪が置かれていた。


「江川君無理言って悪かったね。久し振りだね、仙崎さん。これはうちの孫で宗太だ。ここま旨いぞさぁ座って座って」

正直安藤会長がフランク過ぎて面食らってしまった。

慌てて挨拶をして腰を下ろすと江川が笑いを堪えているようで面白くない。


「すみません、祖父が強引に誘ってしまったようで」

年の頃は私と同世代だろうか? 宗太は本当にすまなそうに頭を下げてしまった。


「とんでもない、光栄です」

慌てて放ったもんだから声が裏返ってしまったり。


「仙崎さんはあんまりこういったお店には来ないかな? 店はそのなんだ、古いけど味は保証するよ。適当に頼んでおいたから、好きなものを呑んで」

何かもう、安藤会長は普通のおじさんでしかなかった。

いつもスーツをビシッと決めて、顔はにこやかだけど目が鋭いあの会社の感じは全く無くて。

といいつつ私には優しかった記憶しかないのだけどね。


遠慮なしにビールを頼んで、会長セレクトのホルモン焼きを嗜んだ。

焼肉屋さんとはまた違うホルモンの美味しさに思わず顔がほころぶ。

宗太も会長に負けじと朗らかで江川は会長に私生活を駄目だしされたり、久し振りに楽しい時間を過ごせているみたいだった。

そう会長の一言が出るまでは。


「そうそう、仙崎さんは江川君と結婚するとばかり思ってたのに正直驚いたんだよ、ねえ江川君」

と結構な爆弾発言。


「会長、もう過ぎた事ですから。なっ仙崎」

って江川も私に話を振るなっていうの。なんて言っていいのだか言葉に詰まる。

正直に私が江川に捨てられましたとでも言ってやろうかと思ったところ


「仙崎も婚約しまして、かなりの良い男だと評判ですよ」

と、言い始めた始末。

会長の視線が私の薬指に向かっているのに気がついて思わず

「恥ずかしくて、会社にはしてこれないのです」

なんて言い訳しちゃったり。本当は突き返したんだけど。


「それって最近の話だったりする? いや、実はコイツの相手に仙崎さんどうかなと考えていたんだよ」


「じいちゃんっ」

「「会長」」


3人の声が揃ったのだった。





























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