問題ないじゃない
「やっぱり、まだ怒ってますかね」
パソコンの向こう側で永山が吉川相手に私を伺うかのようなひっそり声。
聞こえてるって言うの。
私の指は正直で、キーを叩く音が雑に大きくなる。
何人にあのメールを送ったのか知らないけれど、興味本位で私に声を掛けてくる輩が多いのはきっと少なくないのだろう。
全く趣味の悪い事で。
「よっ」
肩に手を掛けられて振り向くと、満面の笑みを浮かべた真美がいた。
「珍しいね、この時間に外回りじゃないなんて」
真美には全く関係がないっていうのに、棘のある言い方になってしまった。
「梨乃がそろそろ爆発する頃かと思ってね」
真美のその声は私の頭を通り過ごして、まるで永山へと言っているみたい。
きっと何処かでメールの事を聞いたのかも。
「爆発なんて人聞き悪い、至って落ち着いてます」
口ではそう言っても、やっぱり指先は正直でして。
「『花籠』のランチクーポンをゲットしたから、お誘いしにきたんだけど、必要ないかしら?」
真美はクーポンが入っているだろうポケットをポンポンと叩くと私を流し眼する。
「ご一緒させて頂きます」
花籠のベーコンレタスサンドランチは私の好物と知って、必要ないとか言っちゃうか普通。
真美には聞いて貰いたかったっていうのはあるのだけど……
”このバカチンが”って言われるのは目に見えているだけに――有る程度の覚悟はいるのかも。
「じゃあ、後で」
颯爽と足取り軽く去っていく真美。
必要ないかしら? なんて思ってもいなかったってところよね。
それにしても色気より食い気のはずの私なのに、気分が浮上しない。
それ程一大事って事だよね。
一つ深い息を吐くと、脳内に繰り出そうとする昨日の光景を追い払うかのように頭を振った。
仕事に集中しなくっちゃ。
両方の眼頭を指先で摘まんで、再びパソコンと格闘した。
花籠の入り口に着いたのは12時を10分を過ぎたくらいだろうか。
手頃な価格で美味しいとあったら、この行列は納得だ。
そんな行列を尻目に暖簾をくぐる私。
会社から少し離れているとあって、本当だったらお昼の鐘が鳴ってからではこのランチにありつけるのは
至難の業、午後の就業時間に間に合わない事必須なのだから。
店員に『待ち合わせです』と軽く会釈すると食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。
和とアジアの雰囲気を融合させた何処か懐かしいような空間を縫うように歩き、見知った背中を発見した。
「おまたせ」
テーブルには既にアイスコーヒーが並んであった。
これもいつもの事。
外回りの営業である真美あってのこのランチだったり。
「梨乃のあれ頼んどいたから」
そういう真美はテーブルに両肘をついて組んだ手に顎なんか乗せてる。
もう閑話をせずに、と言う事なのだろう。
椅子を引くとコーヒーではなく、氷の沢山入った水を手に取った。
私にも準備が必要だっていうの。
「何だか私悪代官になったみたい。そんな顔しなくっても」
真美はくしゃっと笑うけど、みたいじゃなくて、そんなオーラは纏ってる、と口には出せない心の叫び。
勿体ぶるようなものでもないし、とランチが運ばれる前に話しておくのが懸命だよね。
決心して軽く息をのんだまさにその時
「そうそう、週末のあれ決めたから」
シレっと顔で言われた言葉に、意を削がれた私の頭は一瞬何が何だか?マークが点滅。
週末――。
昨日の職場がぽわっと浮かんできて自分の言い切ったあの会話だと気がついた。
真美ってば手配早すぎでしょ。
「決めたってあれだよね」
言葉を濁した私に
「そう、合コン」
はっきり告げられたその言葉。
アイツの事でていっぱいだって言うのに、合コンって。
「昨日あれだけ啖呵切っといて今更行けませんなんて言わないよね」
真美は面白がっているように見えるのだけど気のせい?
「あ、あのね」
上手に話せたかは解らない。掻い摘んで話そうと思っていたのに、真美から合コンの話を聞いて混乱したせいか、余計な事まで口走ったような気もする。
そう昨日の一部始終を。
真美は途中顰め顔をしたものの、時折頷きながら私の話を黙って聞いてくれた。
そして真美の第一声はというと
「問題なんてないじゃん」
とニヤリと不気味な笑み付き。
丁度そんな時料理が運ばれてきたものだから、ウエイターのお兄さんが真美に注視しちゃったり。
「あっ、それ私です」
何よりこの場から早く立ち去って欲しかった私は、両手にプレートを持ったままほんの数秒固まったお兄さんに手を伸ばした。
解るよ、真美のその毒っぽい笑みは武器にもなるから。
でも、早く行っておくれ。
「私の話聞いてた?」
プレートの隅っこに添えられたピクルスをフォークで突き刺して一睨みするものの。
「全部しっかり聞いてたよ」
とのほほんとした返事。
「だから、合コンまで気が回らないっていうか……」
言い淀んだ私に真美はズバリと言い放った。
「プロポーズされて保留にしているんでしょ、馬鹿にされると思ってムカついてるんだったら新しい出会いを期待してもいいんじゃない? 本当に梨乃の事を好きになる相手に出会うかもよ。あんな奴より、ね」
そんな真美の言葉に思わず反論してしまった。
「夢見る小中学生じゃあるまいし、お互いこの人しかいないなんてパターンはそうそう無いって解ってる。けどさ、バーゲンで値下げされた品物みたいなそんな言い方されたくなかった。嘘でもいいから、プロポーズはもっと――って思っちゃうじゃない。だから――」
なんかそんな自己分析していたらこみ上げてくるものがあって、大口開けてベーコンレタスサンドを頬張った。
「解ってるじゃん、だったらそう言えば良かったんだよ。告白して終わらせる気でいた癖に梨乃てばどうしてこうムキになっちゃうんだか。でもそこが可愛いんだけどね。まっ合コンは決定事項だから宜しく」
細身な癖に昼間っからステーキランチなんて頬張りながら、真美が放った言葉は私をノックダウンさせるのに十分なパンチ力だった。
咀嚼をしながらも、真美の言葉を反芻し自分の心と葛藤した。
昨日といい、今回といい美味しいものを食べている気が全くしない。
こんな自分にまたなるなんて。
正直真美との会話も上の空だった。
いつもだったらもっとゆっくりしていくのだけど、真美はこれから商談に出掛けるらしく化粧室から戻ると店を出る事に。
真美の貰ったクーポン券で御手頃価格のランチ代を払うと、「じゃあ私行くね」と手を挙げた真美を呼びとめた。
「真美、やっぱり私合コン行かない」
アイツ以上のいい男はきっといると思う。
アイツ以上に私の事を思ってくれる人はきっと何処かにいると思う。
けど――。
言葉足らずな私の呼びかけに真美はいつもの澄ました笑顔で
「了解」
と、それ以上は何も言わずに背を向けた。
ついさっきは決定事項だからなんて言っていたのに。
少しだけモヤが晴れた私の心。
余裕の出来た会社までの道のりなはずなのに、お気に入りの淡いブルーのパンプスが跳ねていた。