昨日の懸念材料
「梨乃ってば『ただいま』くらい言いなさいよ」
母さんの声を背中で聞きながら、玄関から真直ぐ向かった洗面所。
水道の蛇口を捻って勢いよく出る水を両手で掬うと思いっきり顔に叩きつけた。
「久し振りに会って粗相なんてしてないでしょうね? 本当に気がきくわよね、小川さんって。きっとあれでしょ、梨乃が連絡入れないとか言ったからわざわざ連絡してくれたのよね。で、今日は何食べてきたの?」
はしゃぐ母さんを尻目にびしょぬれになった顔をタオルでゴシゴシと拭い終わると母さんの横をすり抜け
「スティックきゅうり」
とだけ告げ、階段を踏みしめた。
「あんた、まさか本当に粗相して嫌われたりしてないだろうね?」
思いっきりデリカシーの無い言葉を階段下から大声で放つ母さん。
少しは察してよ、複雑すぎる私の気持ちを……。
勢いよく閉めたドアの音が私の返事。
サイドボードの引き出しを開け、化粧落としのペーパーで水浴びで落としきれなかった化粧を剥がす。
汚れたペーパーをゴミ箱に投げつけたけど、大きくそれて。
アンタまで私を馬鹿にしているの?
摘まみあげたペーパーに呟く私って、頭がおかしくなったのだろうか?
違う、頭がイカレテるのはアイツの方だ。
ブラウスのボタンを引きちぎりそうになりながら外し、スカートも床に落とすと下着姿のままベットにダイブした。
――馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ――
高級ホテルのバーで啖呵を切ってしまった。
周りの事なんておかまいなしに。
その時の私の行動は一つしかない訳で。
『帰る』と席を立ってしまった。
問題はその後だ。
席を離れようとした私の腕を掴んだアイツは。
――俺は馬鹿にしてないし冗談も言ってない。次に会う時は返事貰うから。――
確かそんな事を言ってた。
私は腕を振り払うように駆けてきたけど、アイツは追ってもこなかった。
普通そこで一人で帰す?
矛盾しているけど、そういうもんでしょ?
それに返事って何よ。
面と向かって、妥協して結婚するって言われて誰が『はい、そうですか』って言えるっていうの。
プロポーズに夢を持っちゃいけない歳な訳?
これを馬鹿にしてないってどういう神経なんだか。
サイテーだよ。
でも、そんなサイテーなむかつく奴なのに
結婚しようぜ、って言われて不覚にも心臓を打ち抜かれたように思ったのも事実。
なにせ、私は今日このムカツク男に告白をしようとしていたのだから。
好きだをすっ飛ばして、結婚って。
私達まだまともに付き合っても無いっていうのに。
そんな男の何処がいいんだか……
頭の中では警笛が鳴り響いている。
それは何に対しての警笛なのだか。
これ以上近づかない方がいいのか?
それとも、自分に素直になって妥協でも何でもアイツと結婚する事がいいのだろうか。
妥協、妥協、妥協、妥協、妥協……
私にとって妥協って何なのだろう。
自分を好きでない人と結婚してそんな人の子どもを産む事なの?
救いは私がアイツの事を好きな事?
一方通行の想いのまま、結婚ってして大丈夫なもの?
段々自分がみじめになっていくようだ。
こんな事なら、仮の婚約者だなんて引き受けなければ良かったんだ。
今更そんな過ぎた事を考えても無駄な事なのかもしれないけれど。
私が、アイツに告白したらどうなっていたのだろう。
頭に血がのぼって帰ってきちゃったけど、私が好きだと言ってもアイツは私と結婚しようと提案しただろうか?
きっと私が面倒な女じゃないから、好きだ嫌いだなんてわずらわしいって思っているから私にあんな事言ったんだと思う。
あーっ
頭を掻き毟り自虐的な思想を吹っ飛ばそうと声にならない声を枕に吐きだす。
返事なんてしてやるもんか。
結婚してくださいって頼んでみろっていうの。
言えっこない言葉を飲み込んで、微かにしか思い出せないシャンパンの味を巡らせた。
美味しいはずのシャンパン。
嬉しいはずのプロポーズ?
今日は考える事が多すぎて寝れなそうだな、なんて思っていたのに。
歳なのかしら、いつの間にか熟睡していたようで。
目覚ましよりも少し早めに自然と開いた瞼。
目覚めはすっきりときたもんだ。
昨日の事が夢だったら良かったのに。
ベットの脇に脱ぎっぱなしの洋服は昨日の事が夢ではないと言う事で。
現実なのよね。
スカートを引っ張り上げって軽く払って取れない皺を確認。
クリーニング行きに決定だ。
頭も身体もすっきりしつつも、やる気がでないのはアイツの言葉が離れないからで。
出来る女のはずの自分に叱咤しながら、クローゼットをこじ開けた。
取り敢えずあいつの事はシャットアウトよ。
小さな声で呟いて自分に言い聞かせる。
専ら一番の難関は母親だろう。
面白可笑しく私を煽るに違いない。
何が粗相よ。
昨日の母親の声が頭に浮かんで眉間に皺がよったのが解った。
人指し指で、眉間をなぞり如何に少ない会話でこの家から脱出出来るかを考えたり。
でも私は気がつかなかったんだ。
難関は母親だけじゃない事を。
意を決して部屋のドアを開けた。
シナリオは出来ている。
『昨日仕事残してきたから、もう行くね』
キッチンにちょっとだけ顔を出して家を出るつもりだったのに。
「おはよう梨乃。機嫌悪かったって? 母さん心配してたぞ。まあマリッジブルーなんてよくある話だから。早く芳人さんと仲直りするんだぞ」
私の顔を真直ぐみれないのは照れなのか?
まさか父さんに言われようとは……
「父さんもさぁ。私が結婚した方がいいと思ってる?」
思ってもいなかった言葉をするりと口にしてしまった。
父さんは口を半分開けたまま固まってしまった。
「ごめん、変な事言って。今日は急ぐからもう行くね、母さんに言っておいて」
逃げ出すかのように玄関に向かい、慌てて靴に踵をすべらせる。
「いってきます」
そう言った私の背中越しに
「梨乃が幸せになる事が父さんの一番の願いだ」
不覚にも涙が出そうになった。
三十路女でも子どもは子どもなのだろうか。
「うん、ありがと。じゃあ行ってくる」
父さんの顔は見れなかった。
私の幸せは何処にあるのだろう?
無意識でも迷う事なく踏み出す足に通勤路を任せながら、頭の中は思考を停止する予定だったのにいろんな思いを巡らせる。
むかつくけれど、嫌いになれない。
むかつくけれど、好きなんだよね。
「しょうがないから結婚してあげる」
そんな風にちゃかしながら、一生ポーカーフェイスを被り続けるのもありなのかもしれない。
願わくば、情が愛情に変わってくれる事を期待して。
私からは好きなんて言ってやらないんだから、なんて。
そんな微妙な妄想をしながらも会社近くのコンビニでサンドイッチとコーヒーを買って辿り着いた会社。
まだ早いこの時間、誰もいないフロアーでゆっくりと朝食を食べ終えた。
パソコンを立ち上げ、昨日の続きと仕事モードに切り替えた時。
「おはようさん。昨日は彼氏がお出迎えだって? 実は半信半疑だったけどマジで仙崎結婚するんだな」
吉川の言葉に身体が硬直。
昨日の懸念材料をすっかり忘れていた。
「ほれ、これ凄いウケルんだけど」
吉川が開いた携帯画面には
『スクープ』
と題した一枚の写真。
遠目で写ってはいるけれど、それは紛れもなく私がアイツを引っ張っている昨日の写真でして。
永山の奴……
まだ主のいないデスクを思いっきり睨みつけてやった。




