あれから3日
仕事にここまで身が入らなくなるなんて。
仕事にプライベートは極力持ち込まないというのが私の信条だった。
江川と別れた時だって、辛くて辛くて仕方なかったけど、仕事はきっちりしていたつもりだ。
同じ職場に相手がいるからこそだったかもしれないけれど。
「珍しいね、仙崎がミスるなんて」
吉川が、私の机にコーヒーを置きながらそう言ったので慌てて顔をあげる。
頼まれていた二つの会社のプランをごちゃまぜにレイアウトしてしまった。
こんな事は初めてだった。
クリップで止めたはずの資料を落とし、混在させてしまったのをよく確認せずに纏めてしまったから起きたミス。
確かにこんな事、会社に入ってから今までした事がないミスだ。
曖昧な笑みを浮かべ、置いてくれたコーヒーを口に含む。
あんまり甘くないコーヒーだけど、今の私にはぴったりかもしれない。
何だかなぁ。
馬鹿にも程がある。
「やっと結婚出来るからって浮かれているじゃないですか? あっそれとも本当に破談になっちゃったんですか? どちらにしても会社に持ち込まないで貰いたいものですね」
満面の笑みの直後に片方の口角をあげ哀れですね、なんて片瀬の嫌味。
いつもだったら、知らん顔してやりすごすのが私なのに
「なんですって」
と机にコーヒーを叩きつけ席から立ち上がってしまう。
「あら、ずばり言い当てられて動揺しちゃいました? ご愁傷さまです。でも仕事はきちんとしなさいって、仙崎さんの口癖ですからね」
片瀬の余裕な笑みがまたむかつく。
こいつー、もう許せない。
両手に拳を握った私。
一瞬ひるんだ片瀬の顔が目に入った時だった。
「片瀬、調子に乗るなよ」
片瀬の勝手すぎる言動や振舞いにも、やんわりと諭し片瀬の中で一番味方に近い存在だったに違いない吉川が、私の前を遮った。
吉川の背中が何も言うなと語っているように思えた。
「みんなして仙崎さんの味方して。悪いのは仙崎さんの方なのに」
見えずとも解る、きっと歯ぎしりしているのだろうと。
「味方とかじゃないだろ? 関係の無い俺が聞いても今のは凄く感じが悪かったよ片瀬。それにお前知らないだろうけど、お前のミスを黙って修正してるの他でもない仙崎って事知っておいた方がいいぞ。何が気に入らないのか解らないけれど、仙崎に突っかかるのなんて片瀬がやっていい事じゃないと俺は思う」
片瀬は何も言わなかった。
ただ走り去る時の鈍い足音は聞こえたけれど。
「さんきゅ、吉川がいてくれなかったら私、暴力沙汰で部長から呼び出しくらってたかも。それに吉川良かったの? 片瀬敵にまわしちゃったかも」
これは本当に申し訳ない。
どこからくるのか、理不尽で身勝手なあの負けん気、矛先が私から変わる事は無いだろうけれど、幾分か吉川にシフトするかも。
「なんて事ないから。仙崎が気に病む事なんてないって。解ってやってるんだからさ」
なんていい奴なのだろう。あいつに爪の垢煎じて飲ませたくなるくらいだ。
って私ってばまたあいつの事……。
いかんいかんと首を振り。
「惚れそう」
ニヤっと吉川の顔をみやると。
「勘弁しろよ。変わりにこれ、おかわり宜しく」
とコーヒーカップを掲げた吉川に
「ラジャー」と一言、自動販売機へと向かった。
それにしても片瀬の奴。
吉川が多少怒りを和らげてくれたものの、そんな簡単に鎮火するはずもなく。
ポケットから小銭入れを取りだすと、力を込めてボタンを押す。
力を入れようと入れまいと何の変わりもないけれど、そんな物にもあたりたくなる衝動は抑えられなかった。
陳列している梅ジュースが目に入った。
意を決し、あいつに連絡を入れたのはもう三日前の事だった。
私があの時放った空き缶は、見事なまでのシュートでして。
空き缶に背中を押されるってどういう事と思うかもしれないけれど、それが事実だったり。
忙しなく動き始めた心臓に手をやり、そっと耳に宛てた携帯。
聞こえてきたコールは五回で止んでしまった。
止んだコールの変わりに聞こえてきたのはアイツの声じゃなくて、自動で流れる留守番電話のアナウンス。
声を入れる事も出来ずに、息を止めたまま携帯を切った私。
それから数度チャレンジしてみたけれど、何度やっても結果は同じだった。
その度に、鼓動は速度を増していって。
絶対寿命が縮まったと思う。
そんなこんなで私の勇気はまた萎んでしまった。
アイツの携帯には私からの着信履歴が残っているはず。
きっと忙しくて出られなかったのだろう、履歴を見たら掛けてくるだろう。
いつ掛ってくれかもしれない携帯に神経をすり減らしていたこの三日間。
流石にもう、掛ってこないだろうと悟り始めていた。
私と何か話す価値もないってか?
待ってるって言ったのは、社交辞令か?
こんな事なら、携帯なんか掛けないで病院に乗りこんでいけば良かったのかもしれない。
また好奇な目に晒されたかもしれないけれど、玉砕してもう会わないのだったら関係ないのだから。
考えたところで何も始まらないのだけど、ね。
我に気がつくと、コーヒーが入った事を知らせる取り出し口のランプが点滅していた。
解ってますよ、取ればいいんでしょ。
自動販売機に話し掛ける怪しい女になっていた。
コーヒーを持って廊下を歩くと、感じる携帯の重み。
いっその事、捨ててしまおうかしら。
これがあるから、気になるんだ。
出来るはずもない訳の解らない考えまで出てくる始末。
もう一度連絡をする度量なんて何処にもなかった。
履歴が有るはずなのに、掛ってこないって事はそう言う事だよね。
廊下に虚しい呟きがため息と共に落ちていった。