目標3メートル先
正直ちょっと飲み過ぎた。
会社に来てまで、頭痛が続くなんていつ以来だろう。
副社長が好きだというだけで、セレクトされた人気の無い「梅ジュース」を自動販売機から取り上げる。
この「梅ジュース」の賞味期限はどの飲みものよりも古いはず。
どうしてだか、飲み過ぎた次の日ってなんとなくこれを選んじゃうんだよね。
でもここでこれを買ったのはもう数年前のような気がする。
それほど久し振りに飲み過ぎたのだ。
最後にこれを買ったのはいつだなんて思い出すのも虚しくなるだけなので、それがいつだかは考えないように頭の中からシャットダウン。
思考変更と缶をみやると、昔と変わらないパッケージにちょっとホッとしたり。
喫煙室の椅子に寄りかかり、プルタブを引きあげるとチビリと口にした。
甘酸っぱい懐かしい味。
副社長の好みも解らなくはないのだけど、いつも飲みたいとは思えないのだよね。
今日は誰もいない喫煙室。
空気清浄機の音だけが響いたこの個室は私と真美との逢引の場所でもあるのだけど。
あいにく真美は外回りらしい。
何で煙草を吸わない私が煙草臭いこの部屋に来るか、自分でも良く解らないのだけど、知らぬ間についているだろうため息を誰にも聞かれたくないのかもしれない。
この階の喫煙室は、この会社で一番空いてる。
このフロアーに喫煙者が少ないっていうが定説なのだけど。
でも喫煙者が少ないんじゃなくて、隠してる子が多いってだけなのだよね。
あの子もあの子も煙草吸いでしょ?
このフロアーにいるだろう幾人かの女の子の顔を思い浮かべる。
会社の拘束時間中に一本も吸わないで我慢出来るんだったら、禁煙しちゃえばいいのにっていうのは真美の言葉。
真美には、無理な事よね。
今も昔も女の喫煙は煙たがられる。
営業が仕事だから、人一倍気にはしてるけど。
その営業がいらいらだらけなんて難儀な事よ。
ふと気がつくと指先から冷たい感触。
何となくポケットに手を突っ込んで携帯を握ってしまう癖がついてしまった。
掛ってくるはずもないのに。
自分から遠ざけた癖に馬鹿みたい。
待ってる
そう言ったあいつの顔は頭にこびれついている。
きっと電話したところで嫌味の一つは言うだろうけれど、普通に会話をするのだろう。
でも、私が言おうととしている事をあいつが聞いたら何と言うのだろう。
私があいつに本気になったと解ったら?
気まづい事になるに違いない。
この後に及んでどうしてこうなるのか。
一度見送ってしまったチャンスはこうも自信を無くさせるのか。
気に掛けている患者さんがいるから、なんて私の口実にしかすぎないのだ。
多少どころかかなり強引なあいつだけど、筋を通そうとする性格。
会えないかと聞いたらきっと短いながらも時間を作ってくれるのじゃないかと本当はそう思っている。
それでも進めないのは、この非常に微妙な関係でさえ途切れさせたくないという私の強かな願望なのだ。
ポケットから引きあげた携帯にはシルバーのチェーン。
指先でちょこんと突いて、揺らしてみる。
さらりさらりと揺れるそれはまるで私の心のよう。
外からみたらこれがアンクレットだなんて誰が思うだろう。
真美には馬鹿だね、なんて言われたけれどどうして足首にこれがつけられよう。
携帯とて同じ事かもしれないけれど、肌身につけているのとは違うから。
一度だけそっとつけたアンクレットの感触は、私の神経をそこに集中させてしまうかのようだった。
意識しすぎだと笑われるかもしれないけれど。
もう自分がいくつなのだろうという虚しさに襲われる。
何も知らなかった学生の頃とは違うというのに。
迷わないって思ったのは遠い日の事じゃないのに。
一日一日過ぎていくとその決意は徐々に減っていき……
あの時真美が言ったように、告白するのを止めたわけじゃないのだ。
駆け引きなんて、出来たらとっくにしてる。
今はただ意気地がないだけ。
身体の中から酸っぱい感覚が押し寄せてくるのは、この梅ジュースのせいなのだろうか。
うんきっと梅ジュースのせいだ。
決して甘酸っぱい初恋の気持ちなんかじゃないのだから。
まるで一人漫才のように自分に突っ込みを入れながら、少し生ぬるくなった梅ジュースを飲み干した。
往生際悪いよな。
これが入ったら、直ぐにでも電話しよう。
壁に凭れたまま、梅ジュースの空き缶を顔の前に掲げた。
目標3メートル先のゴミ箱。
入れとも入るなとも思わず、無心になってゴミ箱をみつめ、私の手から離れた空き缶は宙に綺麗な弧を描いた。