きっと、多分
慌てて指を引きぬいて
「寒かったのよ」
なんて。
お腹は確かに空いてるけれど。
「確かにな」
椅子に座らず立ったまま、ちらりと視線をやった天井の吹き出し口。
面会時間をとおに過ぎたこの時間、誰もいなかった待合室に暖房を入れないのは当たり前の事だろう。
何かをボソッと呟くと窓際にある暖房器具のスイッチを入れた指先。
つけたばかりの暖房は冷風に似た風が音を立てて吹いてきて思わず身を縮めてしまった。
白衣の裾を翻し私の正面にゆっくり座ると飲みかけの缶コーヒーに口をつける。
その仕草を目で追ってしまう。
そんな自分に気がついて、咄嗟にさっきの言葉の続きを促した。
「前からって?」
言葉が待ち遠しくて、カフェオレを手に取り小さく喉を鳴らした私。
「気になる?」
勿体ぶった言葉にちょっとだけイラっとムカついた。
「そりゃ気になるでしょ、言い掛けたのに途中で行っちゃうんだもん」
無意識に口を窄めていたみたいで、口元を手で覆って隠してみるのもも既に時は遅し。
「『だもん』って。お前いくつだよ」
そこはスルーするとこだっていうの。
危うく今度は頬を膨らませるところだった。
テーブルに置いた頼みのカフェオレはもう底をついてしまい。
「で?」
省略に省略を重ねた一音で、話しの続きを促せた。
フーっと息を吐くのはまるで
『仕方ねえな』とでも言ってるかのようで更にムカつく。
「小川医院を手伝おうかと考えてる。おじさん、年だろ? 本人は生涯現役にこだわってるみたいだけど、一人じゃ難しいんだよ。あの人柄だろ、休みだろうと夜間だろうと電話やチャイムが響けばどうしたって無理しちまう。おばさんから相談されてたのも一つの理由かもな。まあ、いろいろあるんだよ」
最後の言葉はきっと無意識だったのじゃないだろうか。
私の方としてはそのいろいろの方が興味あったりするのだけど、きっと反撃されるだろう事は容易の想像出来るだけに、聞かなかった事にしておこうとおじさんの事を思い浮かべた。
確かに。
腰が痛いって言ってたもんな。
「お前さ、さとっ――エロ馬鹿男とやらと付き合うの?」
はっ? 今なんて言った?
私が? あのエロ馬鹿男と?
不意打ちを食らったというか面食らったというか。
私の顔は正直だったみたい。
「すげー馬鹿面」
笑いながら言い放った言葉に、私の怒りのボルテージはマックスに。
「何で私があんなのと付き合わなくちゃいけないのよ、マジムカつく」
思わず手に取ってしまった空っぽになったカフェオレの缶、その缶を握りつぶす勢いで手に力が入った。
「そんな事だろうと思った」
その声は呟きのような小さな声で。
「当たり前でしょ、だいだいね、あんた何だって言うのよ。こんなとこまで私呼び出して本当だったらあんたが私のとこに取りに来るべきでしょ」
思わず勢いで言ってしまった。
「会社に?」
「それは嫌」
「じゃあ家に?」
「それも嫌」
何だか、また私押されてる?
っていうか完全にやつのペースみたいで凄く癪にさわるんですけど。
数秒の沈黙の後
「悪かった。でもここから出られないのは本当なんだ。もう3日家に帰ってない。放っておけない患者がいてっていうのもあるんだけど、雑用も多くてな。郵送でとも思ったんだけど」
また意味深なところで言葉を切るって何なのよ。
またもやプチっと頭の血管が切れそうになったのだけど、真直ぐに私に向けられた視線に違う血が上ってきたみたいだった。
思わず息を止めてしまう。
言葉の続きを促す事も出来ずにただ固まる私。
「お前の顔がみたかったのかもしれない」
その言葉の意味は?
直ぐにでも問いかけたくなる衝動に駆られるけれど、それを抑えるのが必死だった。
きっと今の私の顔も馬鹿面だろう。
でも期待した言葉の続きを言う事なく、壁に掛けられた時計を見るとポケットに手を突っ込んだ目の前の男。
「ファッションリングにでもって言ったのは俺だけど、もし仮にお前に男が出来たら名前入りの指輪なんてケンカの種になるだけだろうから」
そう言っておもむろにポケットから取り出した手。
そこには――
「アンクレット。これなら人目にもつかないし名前入ってないからもしもの時にも大丈夫だろ? これと交換だ」
テーブルに置きっぱなしだった紙袋を持ち上げて、変わりに置かれた細長いそれ。
本当に言葉が出なかった。
正確には息を呑みこんだまま吐けなかった。
「何だよ、いらねえって言うのか? これでもちっとは考えたんだぞ」
ほら、またあの顔。
私、本当に重傷かも。
今なら言える?
ドクドクとあらゆるとこの脈が打ちまくってるみたい。
これじゃまるで女子高生みたい。
頑張れ私。
バレナイように細く息を吐きだした時だった。
入り口のドアを叩く音。
同時に開いたドアからはさっきの看護師の強張った顔。
「小川先生、みなみちゃんが発作です」
聞くや否や立ち上がり、紙袋をかっさらうように手に取ったのをまるでスローモーションをみるかのように見つめる私がいた。
「今度は直ぐに戻れなそうだ。来て貰って悪かったな」
そう言って小走りにドアに向かう姿はもう、さっきまでのアイツじゃない。
咄嗟に立ち上がり、声を出していた。
「後で電話するから」
私の声に振り向くと真顔で
「待ってる」
なんて言うから
「頑張ってね」
なんて声まで掛けてしまった。
確かにそれは本音だけど。
「当たり前だろ」
って片手をあげて出ていく姿を見てしまっては、もう逃げられないって思うのに十分な事で。
真美の言う通りだと思った。
ぶつかってみなくちゃいけなかったんだ。
テーブルに置かれたアンクレットを鞄に入れて、お礼を言わなかった事に気がついた。
後で、でいいよね。
独り言をつぶやきながら、あいつと私の空き缶をゴミ箱に捨てた。
空調のボタンをオフにして、一人で入った待合室を一人で出ていく。
ナースステーションの前でお辞儀をすると、残っていた看護師さんからもお辞儀を返された。
来た時の私とはちょっとだけ違う。
これでもかって言うほど背筋を伸ばして、ヒールを鳴らさないように前を通り過ぎた。
エレベーターで一階まで下りると、さっきの守衛さんと目が合う。
守衛さんは
「用事は済んだかい?」
やっぱりイカツイ顔だったけど、さっきより優しい感じ。
「はい、でも半分だけ」
何だか自分で言って半分って何だよって思ったけど、守衛さんは笑って
「お気をつけて」
と言ってくれた。
「ありがとうございます」
首からぶら下げたホルダーを置いて、病院の外に出ると少しだけ冷たい風が頬を撫でた。
身を縮こませ見上げた夜空には明るすぎる月。
電話か……
当分病院から離れられないって言ってたけど。
もう迷わないって決めたから。
きっと、多分迷わないと――思う。