微妙な間
「呼び出されたのは、さっきの救急車の人?」
聞いちゃいけない事だって解っているけど、無言でいるのも気が気じゃなくて思わず口にしてしまった。
言った途端にきっと
『言うと思うのか?』
なんて、聞いた私が思うのも何だけど冷めた言葉が返ってくると予想していたのに。
「ああ、俺の患者だ。小児喘息の発作だったけど、早急に対処出来たから直ぐに落ち着いてもう大丈夫」
そう言った目の前のこいつは、今まで見たことがない優しい顔に。
さっきとは違う、胸の痛み。
キュンと心臓が縮まるような、そうまるで、高校生にでもなったかのようなそんな感覚。
駄目、止まって。
照れなのだろうか、俯いてサンダルの先を見つめるコイツに今の私の顔を見られたくない。
誤魔化すように急いで引きあげたプルトップ。
開いたと同時に口にした。
何でよ、こんな些細なことで口が渇くってどうなのよ。
ここがこやつのテリトリーだからなのだろうか、何の話しもしていないのに追い詰められていくような気がするのは。
「落ち着いて良かった」
これは本音。
従姉妹の彩音が喘息持ちだったから、夜中の発作の苦しさは間近で見ていた。
それこそ、彩音が家に泊まりに来た時の発作で何度小川先生のお世話になった事か。
「だな」
自動販売機の唸る音なんてもう気にもならなかった。
今一番気になるのは自分の鼓動。
ドクドクと押し寄せるこの音が聞こえませんように、自分の鼓動を抑えるようにと開けたばかりのカフェオレを半分くらい飲んでしまった。
微妙な間が続く。
ドアを閉めたせいで、ナースシューズの足音もナースコールも聞こえない。
静かになった部屋の中、私の思考回路は複雑にこんがらがる。
呼びよせて、ここに留まらせた癖になんで何も言わないのか。
テーブルに置いたカフェオレを一睨みすると、さっき広田さんが言ってた言葉を聞いてみる事にした。
「病院辞めるの?」
自分で言いながら随分端折ったなぁなんて。
私の言葉に顔を上げ、目を丸くしてる姿は結構レアな顔かも。
驚いた? そんな感じ。
でも、ヤツもツワモノ、そんな顔一瞬で吹き飛ばして
「さとしから聞いたのか?」
なんて、いつものアレだよ。
鼻をフッて鳴らすみたいなの。
これはいつみてもむかつくんだよ。
「あのエロ馬鹿男からじゃないわ。何だか随分とオモテになるようで。『小川先生を必要な人がいるんです』だってさ」
口に出してから思った。
何だか私拗ねてるみたい?
なんか、あのむかつく『フッ』ってのみたら思わず言っちゃったじゃない。
案の定、コイツ笑ってるし……
「別に、私に関係ないけどね」
とってつけたような言葉を言ってみたけど、それは何の効力もないようで。
やっぱり私追い詰められてるみたい。
その余裕綽綽の顔はなんなのよ!
「前から考えてたんだ」
そう話し始めた時だった。
ドアをノックする音が聞こえて、コイツが立ち上がった。
白衣の裾を払うと歩き出し、ドアを開く時振り返って
「帰るなよ」
なんて。
どんだけ俺様だよ。
ちらりと見えたドアの向こうには、さっきの懐中電灯を持った看護師さん。
視線が痛いのは気のせいじゃなかったみたい。
医師が医師なら看護師も看護師だわ。
あのむかつくフッっていうのこの病院で流行っているんだろうか。
まあ、私は大人の女ですから、優雅にほほ笑んでみたつもりだったけど。
もしかしたら、引きつってたかもしれないけどね。
パタンとドアが閉じたら、また聞こえてきた自動販売機の唸り。
今度はドアを閉じられたから、余計に音が響くのですが……
帰るなよ、って言われたけれど帰ってやろうか思った。
でも、テーブルに置きっぱなしの指輪をみるとそうも出来ないような。
もう二度と会わないだろうし、関わりも無いのだから、これを看護師さんに見られたところで関係無いって言えば関係ないのだけど。
私の性分なのだろね。
ほっとけないのは。
むかつくんだよ、むかつくの。
でも――困ったことにそんなにも嫌じゃないんだよ。
矛盾してるのか、そうでないのか。
好きだから気になるのか?
あーまた考えたくもない妄想をしてしまったじゃない。
どうせならとテーブルに頬杖をついて、自分の馬鹿さを考えてしまった。
草食系の彼と穏やかな恋愛を望んでいたつもりだったけど、私が望んでいるのは俺様という自分勝手男なのだろうか。
私が選ぶのは性格の悪い顔良し男なのだろうか?
例え自分の事を好きじゃなくても?
だいたい何で私は好きになったんだ?
顔? 声? 声っ? ……頭の中にフラッシュバックするやつの口元。
思わず、右手が口元に。
軽く唇で人差し指を挟んでしまったのは、ヤツとのキスを思い出してしまったからで。
封印しようと思っても、それだけはどうしても出来なくて。
少なくないキスの経験。
過去の男達は碌でもないのばっかりだったけど、それぞれみんなちゃんと恋愛してた時もあったんだ。
でも、あんなキスをする男なんて一人もいなかった――。
元より、付き合い始めはみんなそんな悪い奴じゃなかったような気がするんだよね。
っていう事はあれか? 私が駄目な男にさせてしまったのだろうか?
今まで、正体を見破れなかったって思いこんできたけどもしかして、私のせいだったりする?
軽く目眩がしてきた。
そう思った時だった。
ノックもせずに開いたドアの向こうにヤツがいたのは。
未だ私は指を咥えたまま。
戻ってきたコイツの一声は
「腹減ったのか?」
と笑いを堪えた声だった。