必要とする人?
いつまで待たせれば気が済むのよ。
待てども待てども、待ち人来たらず。
隣のナースステーションから響くコール音の度に身体がビクッとなる私。
それに、時折唸る自動販売機の音がどうにも嫌で。
こんな音気にした事なんかなかったけど、ちょっと怖いって思ってしまった。
壁に掛けられた時計の音も良く響く事。
下に行ったらしいけど、きっとさっきの救急車の患者さんなのかな。
小児科担当だから運ばれてきたのは子どもだろうか?
こんな遅くに救急車で運ばれてくる子がいるのだと思うと切なくなってくる。
思いを遠くに馳せていると、何となく聞こえていたナースシューズの足音が止んだ気がした。
開きっぱなしのドアの向こうに懐中電灯を持った若い看護師さんの姿が見え、軽くお辞儀をした。
こっちに来てくれるなと念を送ってみたものの、その願いは届かなかったようで、一歩一歩私に向かって歩き出した看護師さん。
解るよ、何か言いたそうな顔してるよね。
でも、何も言ってくれるなよ、ともう一度念を送ってみるも……
「こんばんは」
「こんばんは」
長く温めた椅子から立ち上がり、紙袋の持ち手をギュっと握った。
社交辞令の挨拶の後、二人の間に流れる微妙な空気。
「あの――」
遠慮がちに出された声に、「はい?」と小さく小首を傾げてしまった私。
やめろって言われていたあれを無意識でやってしまった。
「小川先生を必要とする人がいらっしゃるのです」
俯きながら発せられたその言葉の意味を理解しがたい。
それは色恋沙汰の話なのだろうか。
その言葉に私は何と返したらいいのだろう。
ぐるりと頭の中を回転させても、どう答えたらいいのか解らなかった。
ただ、唖然と看護師さんのネームプレートを見つめてしまった。
広田さんというらしい。
「必要とする人?」
取り敢えずどう答えれば解らないので、オウム返しをしてみると。
「はい、先生がいなくなったら困るんです」
広田さんの言葉に私の頭の中はクエスチョンマークが点滅する。
いなくなる?
私の方が聞きたいよ。
冷静になれ、梨乃。
取り敢えず頭の中を整理だ。
アイツを必要とする人がいる。
アイツがいなくなる。
要点はその2点よね。
それが私と何の関係が?
アイツの職場であるここで私は何と返せば正解なのだろう。
「いなくなるって、小川から直接聞いたの?」
思ったより冷静な声が出て安堵した。
「真下先生とお話しているのが聞こえてしまいました。さ来月にはここを辞めると。先生を頼りにしている患者さんいっぱいいるのに」
初めて聞く話だった。
驚きのなにものでも無かったけど、きっと驚いた顔をしちゃいけないだろうと身構えていたからそれなりのポーカーフェイスは出来ていたのじゃないだろうか。
だけど、私はふいに口にしていた。
「患者さん――なのね」
と。
でも私の言葉に顔を赤くした広田さんも例外じゃないのかもしれない。
少しだけ冷静でいられる自分にびっくりした。
「ごめんなさいね。でも小川が決めた事だから。私からは何も言えないの」
なんか尤もらしい言葉。
自分で言っててそら恐ろしい。
というか、何で私があいつに気を使わなくちゃいけないのかしら。
自分の性分に呆れそうだ。
「す、すみません私、つい……」
慌ててお辞儀をする彼女を見ながら、片瀬もこんな可愛かったらな、と思ってしまった。
そんな事を思い顔が緩んだ時だった。
「悪い、待たせたな」
意地の悪そうな顔でドアの前に立つアイツがいた。
アイツの声で振り返った広田さんに
「ありがとう、相手してくれて」
なんて。
なんなのよ、その胡散臭そうな笑顔は。
無口で無愛想って高田が言ってたけど、それって誤報じゃない?
広田さんは「いえ、そんな――」と言うとパタパタとナースシューズを鳴らして目の前の先生の横を通り過ぎていった。
白衣姿を見るのは二度目だった。
初めてみたのは、雅也の熱が出たあの時。
軽くトリップした私の遠い視線の先、ゆっくりとドアが閉められていくのをまるで異空間のように感じた。
段々と近づいてくる足先。
そう計画してた通り、これを突き返して私は帰るんだ。
ぎゅっと握ったままの紙袋の持ち手を突き出した。
「持ってきたわよ――」
突き出した紙袋をあっさり受け取られ解っていたけど、胸がちくりと痛む。
うんともすんとも言わないコイツ。
私は
「じゃあ」
と足を踏み出すと。
「折角ここまで来たんだから、これ飲んでけよ」
そういって、白衣のポケットから取り出した、カフェオレをテーブルの上に置いた。
そんなのいらない。
そう言いたいのに、アイツは私の気も知らないで、優雅に自分の分の缶コーヒーをもう片方のポケットから取り出し、椅子を引いて座ってしまった。
カシャっとプルタブを引きあげる音が待合室に響く。
「まだ温かいぞ」
なんて。
私には選択肢があったはず。
『いらない』とか『折角だから持って帰る。』とか。
何で椅子に腰を下ろしてしまったのか。
自分が何をしたいのか、混乱している。
そんな私を尻目に、ちょっとだけ口角をあげるその顔が――。
男は顔でも声でも無いのよ。
精一杯の反論を心の中でする私。
半ば自覚してしまった自分の思いに、抵抗するのは困難で。
冷えた指先はこの広い空間で待たされたせいよ、とばかりにテーブルに置かれたカフェオレを両手で包んでため息と言う名の深呼吸。
冷静になれ。
頑張れ私。
「変な奴」
ボソっと呟かれた言葉にコイツの顔を見据えると。
「アンタに言われたくない」
って。
言葉を吐きだした途端に肩の力がすっと抜けた気がした。