魔法の言葉
休みの日が辛い。
家族の視線が痛いんだ。
母は何か言いたそうにしている事は気がついているけれど、何と言ったらいいか解らずに顔を合わさないように過ごしてしまう。
自然と足が向くのは姉貴の家。
雅也の相手をしているのが一番安らぐなんて。
事情を知っている姉貴は憤慨しているけれど、あいつの願いを聞き入れたのは私なのだから。
あれから、一度も連絡が無いまま約束の一か月まで後十日。
これで、本当の意味で終わりなのだとカレンダーを見るのも切なくなってくる。
真美の言葉も忘れた訳じゃない。
だけど逃げることを選んだのは紛れもない自分。
振られるなんて事があったらきっと私笑えなくなるんじゃないだろうか。
今だって相当なダメージを受けているというのに。
婚約が駄目になったという間柄だけど、今のままならまた何処かで会った時、普通に飲み交わす事は出来るのじゃないかと思う。
今はまだ足を運べないけれど、いきつけの場所も一緒なのだから。
「梨乃ちゃーん」
砂場で遊んでいる雅也が私に手を振る。
無邪気に笑うその笑顔が私の一番の癒しだ。
全身砂だらけになっているけれど、お構いなしで遊んでいる雅也。
私もそんな頃があったはずなのに。
大人になるって面倒な事なのかもしれない。
日も暮れかけて、雅也と手を繋いで姉貴の家へ。
背中から覆いかぶさるように伸びる影に
「僕が大きくなった」
と手をぶんぶん振りながらはしゃいでいる。
素直に可愛いって思うんだよな。
子どもを欲しいって思う瞬間。
だけど、それにはまず恋をしなくちゃなのか……
こんな事ならいっそのことお見合いしてっていうのも有りなのかもしれない。
「あのね、梨乃ちゃん」
雅也が私の顔を覗きこんだ。
「なあに?」
にこにことほっぺが落ちそうな笑顔。
「僕ね、さっき砂場で遊んでた、なっちゃんが好きなんだよ」
真直ぐな瞳でそう言える雅也が少し羨ましかった。
「可愛かったよね」
「うん。でもね、一番好きなのは梨乃ちゃんだからね」
雅也は何も考えずに言った言葉だろうけれど、ササクレだった私の心を解きほぐしてくれるように温かな気持ちになった。
雅也に元気と癒しを貰った休日明け。
思わぬ呼び出しをされた。
「仙崎、時間が空いたら専務室に来るようにだってよ」
突然の事に戸惑いつつ、嫌な予感がする。
普段接点のない私と専務を結ぶもの――。
いつしかの真美の言葉が頭を過った。
頼っているつもりは毛頭ないが、声は掛けてくれているのは自覚しているだけにもしかしてとも思う。
胃がキリキリと痛みだした。
取り敢えず、作業中のパソコンを閉じ、ロッカーへ向かった。
取り越し苦労である事を願いながら身だしなみと咄嗟の用意をする。
鏡に写る顔は、緊張の為強張っている。
万に一つの可能性。
昇進の話でありますようにとポジティブに考えてみようかと思ったけど、そんな事があるはずないからね。
――好き――
鏡に向かって呪文のように唱えてみた。
昨日雅也から教わったんだ。
『好き』って言うと顔が勝手に笑うんだよ、魔法の言葉なんだよって。
好きと言った鏡向こうの私の顔は――
ごめん雅也。やっぱり多少は笑いながらも引きつってるよ。
半ばやけくそになりつつ何度も呪文を唱えてみると。
うん何か顔の筋肉ほぐれてきたかも。
これだけ連発、それも鏡をみながら自分の顔に向かって言うなんて愛の言葉もへったくりもありはしない。
きっと雅也の思う好きとは程遠いよなぁ。
それにしても憂鬱だ。
普段は押す事のない上階のエレベーターボタン。
ゆっくりと静かに登るそれは、嫌でも緊張させるもの。
甲高い電子音と同時に見慣れないフロアーが広がる。
重役室の一つであるその部屋をノックすると、中から低く短い返事。
意を決して、ドアを開けると江川の背中が飛びこんできた。
正面に見える専務の顔は厳しいものがある。
心の中でやっぱり、かと思いながらもその部屋に足を踏み入れたのだった。