小さな恋人
「いただきます」
手を合わせて、朝食を食べ始める。
休みの日位、キッチンに立たないといつまでたってもお嫁になんて行けないわよ。
母の小言が聞えた。
すると、
いいじゃないか、休みの日位ゆっくりしても
と母に聞えないように小さな声で私に囁き微笑む父。
姉貴が結婚してからは暫く寂しそうだったもんな。
夕食の時なんか、もう座らなくなった姉貴の席を遠い目でみてたっけ。
心配しなくても暫くいるからね。
心の中で呟いた。
「梨乃ちゃん、まだ〜。早く食べてお出かけしようよ〜」
私の隣でせっつく雅也。
「ちょっとだけ待っててね。直ぐに終わるから。ところで今日は何処行くか決めたの?」
目の前の焼き鮭を突っつきながら雅也に聞いてみる。
「うん、今日は水族館に行きたいの! 昨日ねテレビでやってたんだよ。イルカさんがね、すっごく高くにジャンプするんだよ。凄いんだから」
目を輝かせながら少し興奮気味に話す雅也。
「了解! じゃあ、用意してきなね」
「はーい」
そう言って荷物の置いてある部屋に一人向かっていった。
「あのこ本当に嬉しいのね。きっとテレビを見るの忘れてるわ」
姉貴が果歩を抱っこしながら笑っている。
「テレビって?」
と聞く私に
「子供番組よ。風邪引いて寝込んでたって這ってくるくらいなんだから。よっぽどなのよ」
うちのテレビはニュース番組を映していた。
慌てて父がチャンネルを変えようとするのだが
「いいって、父さん。本当に忘れてるんだから」
そう言う姉貴に続いて母は
「梨乃は子供とお年寄りにはモテるんだよね、昔から。ちょうどいい年頃の人には……何処かにいないのかしら?」
母さん、独り言にしては大きすぎるから声。
私は父と姉貴を交互に見て肩をすぼめた。
「ご馳走様。さてと私も用意してきますか!」
お皿を片付け、着替えるために部屋に戻った。
水族館かぁ。
やっぱジーンズだよね。
それに今日はスニーカーか。
きっと動きまくるんだろうからな。
久しぶりに履いたジーンズ。
少しお尻の辺りがキツイような気もするけど、気のせいだと思い込むことにして。
日焼け止めをたっぷり塗っていざ出陣だ。
私は車で行く気満々だったのに
「電車に乗るんだ〜!」
の雅也の一言で電車に決定。
仕方がなく父に駅まで送ってもらうことにした。
母に出かけ際
「はい、これ」
とお昼のお弁当を渡された。
水筒は重くなるから飲みたくなったら何か買って頂戴との言葉と共に。
「「いってきます」」
鼻歌を歌いながら雅也はご機嫌だ。
迷子にならないように離れちゃ駄目なんだからね。
というと
「解ってるよ」
といっちょまえの返事をした。
つい最近までそんな言葉知らなかっただろうに。
子供の成長って凄いもんだと感心してしまう。
駅に着くと父は
「何かあったら直ぐに電話するんだぞ。何処でも迎えにいってやるから」
といってくれた。
本当は一緒に行きたかったんだよね。
お昼に自治会の集まりがあるそうでしぶしぶ断念したと母が言っていた。
「じゃあ」
と駅に向かった。
「梨乃ちゃん。切符自分で持つね」
雅也は嬉しそうに言うのだが
確か、未就学児は無料だったような。
私は定期を持っているから切符は買わないんだけど。
目をキラキラさせてせがむ雅也が可愛くて思わず解ったと言ってしまった自分。
仕方なく、一番安い区間の切符を買い雅也に持たせた。
すると嬉しそうに、切符を高く上げてみては、ポケットにしまったり。
そして少し経つとまた取り出してにこにこ眺めてみたり。
まだ水族館に着いてないのにそんなに喜んでいいのか? って思ってしまった。
途中、突然雅也が後ろ向きになって
「窓の外をみたいー」
と座席にひざ立ちをした。
私は慌てて雅也の靴を脱がした。
「雅也、こうやって乗るんだったら靴は脱がないと人の迷惑になるんだよ」
土曜の午前中、車内は空いてはいたがこういうことは見たときに言わないと忘れちゃうからな。最近は専ら車で移動する姉貴。
電車に乗るなんて滅多にないだろうからな、ちゃんと覚えていてくれるといいんだけれど。
電車に揺られる事30分。
目的地の水族館に到着した。
私はひざまずき、雅也の目線に合せて言い聞かせた。
「いい、見たいところは何処でも付き合うから、絶対急に走り出したり、何処かに行っちゃ駄目なんだよ」
「はーい!」
とってもいい返事が返ってきた次の瞬間。
雅也は前触れも無く、水族館の入り口に向かって走り出した。
「梨乃ちゃーん、早くおいでよ〜」って
今言ったばかりだっていうのに、水族館に入る前でどっと疲れが出てきたのは気のせいなんだろうか?
「梨乃ちゃんー早くってばー」
屈託ない笑顔を浮かべ手を振る雅也。
頼むから迷子にだけはなってくれるなよと願わずにはいられなかった。
水族館へ入ってからの雅也のはしゃぎようといったらなかった。
”わーすっごい”を連発してあちらの水槽、こちらの水槽へと渡り歩いていく。
その度に、梨乃ちゃーんと大声を出しとびっきりの笑顔をみせてくれる。
中でもイルカのブースが一番気に入ったようで、暫くの間、動くことなくじーっとみつめていた。
雅也の先には、最近産まれたばかりの赤ちゃんイルカとよりそう母イルカ。
水槽の中を縦横無尽に泳ぎまわる赤ちゃんイルカの後をついてまわる母イルカの姿がそこにあった。
「赤ちゃんとお母さんは一緒なんだね」
ぽつりと呟いた雅也、きっと雅也は母親と妹を思い浮かべているのかもしれないとそう思った。
「雅也……」
きっと、この子も寂しかったんだろうなぁ。
”雅也はちっとも赤ちゃん返りをしなくって、助かる反面、ちょっと心配なの”
この前聞いた姉貴の言葉が頭を過ぎった。
私は膝を着き、雅也の隣にしゃがみこんだ。
「雅也、あっちの水槽も見てご覧」
私が促した水槽には、もう少し大きくなったイルカの親子。
「ほら、こっちは少しお兄さんなんだろうね。きっとその隣にいるのは妹で、その後ろがお母さんなんだよ。お母さんはどの子もとっても大好きで、いつもそばにいたいって思っているんじゃないかなぁ。みてみて、とっても仲良しだよ」
母親らしきイルカの周りをくるくる回転しながら泳ぐ子イルカ達。
イルカの言葉はわからないけれど、きっと”大好きだよ”って行っているような気がしてやまなかった。
すると、私の指を、雅也が突然握りだした。
私は雅也の顔を見て、その小さな手を握り返した。
その手はとても暖かかった。