まだ今日だから
「まさかこんな明るい時間に帰る事になるとは思わなかったな」
高速を降りる時、笑いながらそういったあいつ。
「本当だね。高校生だってこんな時間に帰らないかも」
私もつられて笑ってしまった。
――じゃあ、もう少しだけ――
そう言いたい、そう言われたい? そんな言葉が過ったけれど、未練がましく一緒にいたら今日私が決心した意味が無くなるから。
トラックが少ないせいか、土曜の午後という時間のせいなのか、幹線道路は空いていて刻々と我が家に近づいてくる。
「あっすっかり忘れてた。後ちょっとだけ付き合えよ」
見慣れた地元の風景に入り、窓の外を『何も考えないように』と見つめていた私は咄嗟に返事が出来なかった。
私が振り返った事が肯定の意味と思ったのか、それともいつのもように私の返事なんてお構い無しといったところだろうか、曲がるはずの道をスルーして、辿り着いた先は私が小さい頃に良く遊んだ公園の駐車場だった。
「懐かしい」
子どもの頃はよく姉貴と一緒に来たっけ。
「あぁ」
そう言ながら身体を捻り後部座席から、あの紙袋を取ったんだ。
「これ、俺が持っててもしょうがないから。婚約指輪と思わないで、買う時に言ったみたいにファッションリングにでもしたらいい」
ほら、と言って渡されたけど受け取るなんて出来ないと突っぱねた。
「誰かに渡そうにもお前の名前が入ってるんじゃ、渡せないだろ。付けたくないなら捨てるなり売るなりすればいいから」
――だったら、あんたが売ればいいじゃん――
そう思ったけれど、出来なかった。
見た事もないような何だか切ない顔をしていたから。
「じゃぁ貰っとく」
膝の上に置いた紙袋。
「お前の家の人にも悪かったよな。期待させて」
ポツリと言った言葉だけど、それが一番問題なんだよ。
朝からあんな楽しそうな顔さえといて、何言ってるんだか。
あぁ、本当にこれで終わりなんだと思ったら、身体の中からジワリと何かが溢れてきそうで。
泣くもんかと歯を食いしばった。
フロントガラスの先の子ども達を見ているのだろうか。
黙ったままハンドルに両手を重ね顎を乗せる横顔をそっと、盗み見た。
さらっとした髪。
綺麗な目。
通った鼻筋。
ゆっくりと視線を下ろして目に入る、唇。
厚くもなく薄くもない唇。
こんな時になって、あの時のキスを思いだしてしまった。
高田とお見合いしたその日、助けてくれたこの唇。
あの時から目に入れないようにしていたなんて、なんて少女趣味だろう。
激しくて優しいキスだった。
きっと今までで一番のキスだったかもしれない。
私って、何でこんな最後の最後でそんな事を考えてしまうんだろう。
馬鹿にも程がある。
だけどそれでも、これで最後だからという事もあるのだろうか。
じっと見つめ過ぎたせいか気配を感じたのか、顔がゆっくりと私に向いてきた。
そして、綺麗な瞳が私を映した。
真直ぐなその瞳から、目を離せなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。
たった数秒だったかもしれない。
「今日、で終わりにするんだよな」
突然降ってきた言葉に私は小さく頷いた。
その途端、やつの長い指が私の顎に掛った。
「まだ、今日だから」
聞こえないような小さな声でそう呟いた後、あの時のように、違う、それ以上のキスが……
頭の中が混乱してる。何で? どうして? と。
だけど、これを望んでいるのは紛れもない自分。
忘れられなくなっちゃうのに……私の思考が働いたのはそこまでだった。
後は必死に拳を握りしめていた。
この広い背中に手を回したくて仕方の無い手を動かさないように。
両手に、身体にこいつの温もりが伝わってしまったら最後、私はずっと忘れられなくなる。
何度も何度も角度を変えて口づけてくる。
ここは昼間の公園の駐車場という事も忘れてしまうくらい激しいキスの嵐だった。
最後に、チュッと音のする啄みのようなキスの後、私の顎に添えられた手が離れていった。
「これ、指輪代な」
「馬鹿っ」
口紅がすっかり剥げてしまっただろう唇をそっと手の甲で拭うと、私は笑顔を張り付けた。
「じゃあ、私ここで降りるよ。まだ明るいし、ちょっと歩きたいから」
もう限界だったから。
「本当にここでいいのか?」
何でこう最後に優しい言葉を掛けるかな。
察しろって言うの。
まぁ察しられても困るんだけど。
「これ、ありがとね。じゃあ」
紙袋を持ち上げて二度目の『じゃあ』を言うと私はドアを開けた。
オレンジ色のミュールが片方だけ車から出ると、思いがけず、もう一度声が掛った。
「あのさ、さっきの話しなんだけど。俺からは連絡しないから、もう少しだけ婚約者の形でいて欲しいんだ。勿論梨乃は何もしなくていいから。ただ――」
もう片方の足を車から出して両足を揃えた。
あいつが言い淀んだ先は私が一番のネックになるところ。
それをしたら、まだ囚われて続けてしまうのじゃないかと、珍しく冷静な判断が出来てしまう事に驚きだった。
でも、断る事が出来なかったんだ。
「もう少し、家族には婚約してる振りをすればいいのね。それでその『もう少し』はどれくらい?」
「――本当は半年と言いたいところだが、一か月、そうしてくれると有難い」
やけに力の入ったその物言いに、理由を聞いてみたいところだけど、さっきの余韻が唇に残ったままな私は一刻も早くこの場から立ち去りたくて。
「了解。一か月だけだからね。芳人」
背中を向けたまま、そう言ってドアを閉めた。
初めて名前を呼んでみた。
あいつが、芳人がどんな反応をしたか見てみたかったけど、振り返る事が出来なかった。
頬に一筋涙が零れてしまったから。
それからどうしても、家に足が向かなくて、公園に入り、子ども頃良く遊んだブランコの前のベンチに腰掛けた。
目の前でブランコを揺らす子ども達がいるというのに、私は溢れ出る涙を堪える事が出来なくて、ハンカチを目に当てて声を殺して泣き続けた。
涙はいつまでも枯れてくれなくて、とうとう一人ぼっちになってしまった。
気が付くと、辺りは暗くなり外灯が私を照らしていた。
帰りたくないけど、帰らなくては。
オフィスの椅子とは違い、堅い鉄制のベンチに座り続けたせいか、お尻が少し痛くて、情けないなぁと一人呟いてしまった。