小さな紙袋
俯いたまま唇を噛んでいると、突然なった携帯の着信音。
静かすぎる車内に響いたその音はあいつからのメールだった。
「直ぐに戻る。絶対そこから動くなよ。絶対だ」
繰り返される絶対の文字。
何処までいってもむかつく男。
そして、何度もその文字を追って気が付いた。
ここから、居なくなるっていうのも有りだったのか、と。
そんなつもりは全く無かった。
何も話さずに帰るなんて思いもしなかったから。
順序が違っただけなのだから。
返信は出来なかった。
了解というたった二文字の言葉なのに。
私の言葉を遮ったあいつへの反抗心かもしれない。
携帯を開いたまま、じっとその画面を見つめていると苦しくなる。
文字が勝手にあいつの声に変換されて、私の脳内に流れてきたから。
もう手遅れ?
あいつの声を聞く度に、浸食されていくよう。
気持ちが加速していくみたいで、怖くなる。
一つ深いため息を吐いた時、運転席のドアが開いた。
小さな紙の手提げ袋が目に入った瞬間、胸がキューっと苦しくなる。
あいつは黙ったままその紙袋を後部座席に置くと、私に見向きもせずエンジンを掛けた。
何も言わないあいつに思わず声を掛けた。
「今度は何処に行くつもり」と。
すると、今まで無かった反応が返ってきた。
「レストラン、予約しているから」
驚き過ぎて、どう答えたらいいか解らなった。
宝石店からさほど離れていない場所にそのレストランはあった。
一軒家を改装したそのお店は、外から見たらレストランとは気がつかないかもしれない。
可愛らしいお家だなと思わせる外観。
入り口へと続く石畳を、あいつは進んでいく。
言いたい事を言えないまま、私はその後ろ姿を追った。
最後の晩餐か。今は昼だから、晩餐とは言わないか。
自然と小さくなる歩幅。
お気に入りのミュールの先を眺めながら、何をやっているのだろうと情けない気持ちになる。
さっきの決心はどうしたのと自分に問うけれど、一度振り絞った勇気はまだ充電されていない。
見つめていた茶色のミュールの先に、あいつの踵が。
ぼーっとしていたせいか、何時の間にやらあいつが立ち止まった事に気がつかなかった。
私も同じように足を止める。
「話しあるなら後で聞くから」
いつもより一層低い声に背筋がぞくりとなった。
正面を向いているから顔は解らない。
「うん」
さっきの駐車場での事、気に掛けてくれた?
私が返事をすると、あいつは数歩先に進み、入口のドアを引いた。
ドアの横に立っていると言う事はレディーファーストという事なのだろか。
私を見るあいつの顔は、いつものように嫌味っぽいそれでいて身惚れてしまうような笑顔。
その視線から逃れるように、店内に一歩踏み入れた。
お店の人に出迎えられると、あいつは二、三言葉を交わし、店の奥に連れていかれる。
パーティーションで区切られたその奥に、小さなスペースだけど個室があった。
猫足のテーブルセット。
壁に掛けられたルノアールの絵画。
窓際に飾られた、名の知らない小さな花。
感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
「素敵なところだね。良く来るの?」
お店の素敵さにさっきまでの気まずい雰囲気は少し緩和されたみたい。
「同僚に教えて貰った。俺も初めてだ」
椅子に座り、テーブルに置かれたおしぼりでゆっくりと手を拭くその仕草に色気を感じるってどういう事なのだろう。
一度気が付いたこいつへの気持ちは困った事に些細な事まで、反応してしまう。
それが自分の首を絞める事になろうとも。
俺も初めてと言った事にも安堵してしまう私がいた。
終わりにしようとしているのに。
静かにノックされ入ってきた店員。
目の前に鮮やかな前菜が並んだ。
自家菜園で作られたという十種類以上の色とりどりのサラダ。
優しい口当たりのビシソワーズ。
メインは子羊のグリル。
きっと、凄く美味しかったんだと思う。
きっと。
飾り付けも素敵で、何もかもが最高だったはずなのに。
いつもと違う饒舌で、柔らかい笑みを浮かべるこいつに……
料理の味が解らなかった。
会話はしたと思う。
あいつが話して、私が話して。
それは、私の会社の事だったり、あいつの患者の話しだったり、二度目に会う切っ掛けになった雅也の事だったり。
だけど、会話をしながらも上の空だった。
楽しいと思いたくなかったから。
これ以上、私に入ってこないでと気持ちに蓋をしながら会話をしたから。
きっと、あいつも解っているのかもしれない、今日が最後だって。
だからだろう、このレストランでのあいつは今までみたどのアイツとも違ったから。
気持ちに蓋をしながらも、この時間が終わらなければいいと思ったのも確かだ。
だから、私はビクビクしていたんだ。
作りものの笑顔を張りつけながら。
指輪の事を言いだしませんように、と。
別れを言うつもりなのに、自分が矛盾しているのは良く解る。
良く解るけど、矛盾してしまうのだ。
最後に運ばれたコーヒーを二人で飲み干した時、あいつがゆっくりと立ち上がった。
それは、私にタイムリミットが近づいてきた事を告げるサイン。
「ご馳走様」
私は笑えているだろうか。
最後くらい私が払った方が、とも思ったけれど。
いつものように奢られる事にした。
「ありがとう。美味しかったよ」
車に乗り込んで一番初めに言った言葉。
本当は味なんて解らなかったんだけど、きっと美味しかっただろうから。
嘘をついた訳じゃないけど、悪い気がして目を逸らしたら、ちらりと見えた小さな紙袋に胸が痛んだ。