年には勝てない……
自宅に着き、そーっと玄関の鍵を開けた。
私は実家に住んでいる。
会社からもさほど離れていないこの場所から動けないでいる。
交通の便もよく、朝、晩の食事もありつけ、洗濯までやってもらってどうしてここから出ようなんて考えるだろうか。
幸いなことにここ3年は、一緒にいたいと思える相手もいないし。
自分で言ってて虚しくなるけど。
ただいま〜一応声には出さずともそう言ってヒールを脱ぐと、奥の部屋から泣き声が響いていた。
姉貴が10日前に出産して、我が家に里帰りしたばかりだった。
少しだけ開いていたふすまから零れる電器の明かり。
ただいまと声を掛け覗いてみると
姉貴は丁度オムツを替えているところだった。
「おかえり、梨乃。あんまり呑み過ぎちゃ駄目よ」
母さんみたいな口調で窘められた。
肩を窄めて苦笑する。
ベビーベットの脇に屈みこみ、果歩と名づけられたばかりの姪っこの顔を覗きこんだ。
赤ちゃん特有のいい匂い。
その匂いは人の神経をほぐすのだろうか、愛しいという感情が湧いてくる。
姉貴曰く、この匂いをかいでいると夜中に何度起こされも全然苦じゃないのよね〜との事。
以前、友人から電話で同じ事を聞いた時は、若かった事もあってかちっとも解らなかったけど、今は違う。
その気持ちがよーく解った。
実際聞くだけでは解らないからね匂いは。
そのベットの向こうで何やら蠢く物体。
ではなく姉貴の上の子、雅也だった。
そういや雅也の時は義兄さんの仕事で北海道に行ってたからこの匂いを嗅げなかったんだよな。ふとそんなことを思い出した。
初めての出産で心細かっただろうに、でも確かあの時は母さんが北海道にすっ飛んで行ったんだっけ。
それにしてもこんなに、近くで泣いているのに、全然起きないんだよね。
感心感心。そう思っていたら
「今日は梨乃ちゃんと寝るってきかなかったんだから」
と。
始めは待っていると頑張って起きていたらしいのだが、どうやら8時半が限度だったようで、まるで電池がキレたようにソファーで寝てしまったらしい。
孫に甘ーいおじいちゃんに運ばれて布団にやってきたそうだ。
まさに天使の寝顔だ。
明日遊んであげるからねっと雅也の頭を撫でて部屋を後にした。
キッチンで冷たい水を一口飲むと、熱めのシャワーを浴びた。
鏡に写る自分の身体。
数年前までは肩口を弾いていていた水滴も今は肌に馴染んでしまって……
髪を洗っても、長年染め続けてしまったせいか指に引っかかる。
ここも……
これ以上は止めよう、虚しくなるから。
こんなことを考える日がくるなんてね。
思わずでる独り言。
そういえば、今日会社でも似たような事、言ってたっけ。
年には勝てないのね。
せめて結婚さえしていればなんて。
これっぽっちも思っていなかったはずなのに。
姉貴がいるからだろうか、こんな事を思うのは。
姉貴を見ていると日々の生活に追われていながらも、子供と楽しそうにしているのがよく解る。違った人生もあったかもと。
今から思い起こせば、そうなってもいいなと思った人がいないわけではない。
タイミングがね。
そう世の中すべてにおいてタイミングが大事なのだ。
恋にせよ、仕事にせよ。
適度にアルコールが回ったせいか妙にいろいろなことを考えてしまった。
ぐっすり眠る為にも、と思い冷蔵庫から程よく冷えたビールを1本取り出した。
さっきの店のグラスにはかなわないけど、何年か前に衝動買いしてしまったビールグラスに勢いよくビールを注ぐ。
程よく泡が立ち、一気に飲み干す。
2回めを注ごうとした時、キッチンのドアが静かに開いた。
「また飲んでるの?」
果歩を寝かしつけた姉貴だった。
姉貴は冷蔵庫から冷えた麦茶をグラスに注ぎ私の前へと腰掛けた。
「「お疲れ様」」
そう言ってグラスを合わせる。
「同じ麦からできるのに、えらい差があるわよね」
そう言いながら、コクリと喉を鳴らした。
「今年の夏は暑そうだから、ビールが美味しそうに見えるんだろうな。家に帰ったらあいつにはビール禁止令でもだそうかしら」
と笑う姉。
結構飲めるんだかこれが。
授乳中は我慢しなくちゃねとおどけて笑う姉が可愛くみえた。
姉貴は麦茶を1杯飲み終わると
「明日は宜しくね」
と部屋に戻っていった。
この宜しくが本当にいろんな意味で”宜しくね”
になるなんて思いもせずに眠りについた。
翌朝
「起きて〜」
という大きな声と共にお腹にドカッと衝撃が。
「うげっ」
へんなうめき声をあげ目を開けると、満面の笑みを浮かべた雅也の顔。
「おはよう」
「おはよう」
今年4歳になる雅也は子供らしく加減というものを知らない。
何の前触れもなくこやって乗っかられる事の痛い事、痛い事。
やっとのことで起き上がりまだ鈍い痛みを感じるお腹に手を当てた。
すると
「どうしたの?お腹痛いの?」
と心配そうに覗き込む雅也。
だから、お前が乗ったからだよ!!
といってやりたかったが、この顔をみたら言えるわけがない。
本当はあんまり大丈夫じゃないけど
「大丈夫だよ」
といってベットから立ち上がった。
早く早くと雅也に手を引かれリビングへと。
「あら、梨乃早かったじゃない」
母さんったらその早い理由がわかっているくせに!
「お蔭様でね」
冷蔵庫から冷えた麦茶を一杯。
ちょっとすっきりした。
昨日のお酒が少しだけ残っているようで軽い気だるさを感じる。
あんまり食べたくはないのだがテーブルに用意された焼き鮭を見てお腹か反応してしまう。
じゃあ顔を洗ってくると洗面台に向かうとそこに雅也も付いてくる。
可愛いんだよ、こいつ。
「雅也はもう食べたの?」
と聞くと
「そうだよ朝から果歩が煩くて、すっごく早くに目が覚めたんだ」
なんて胸を張っている。
夜と朝は違うのね。
ちょっぴりお兄さんになった雅也を頼もしくも思えた。