準備中
ちょっと複雑な気持ちでやってきた「Adagio」
でも入口には、準備中の看板。
あいつってば確かめもせずに――。
少しいらつきながら、携帯を開いた。
まったくもう。
そう思いながらさっきの電話へと返信をする私。
プツっと呼びだし音が途切れた時、文句を言ってやろうとした私よりも先に、向こうの声が耳をつんざいた。
「遅い」
と一言。
遅いですって? 看板を睨めつけながら携帯を持ち直すと、目の前の扉が開いた。
は? えっ?
目の前には小洒落た格好のあいつがいまして――。
何なのよ、その顔は。
脳内で呟いたはずだったけど、口に出していた模様。
「何なのっていつもの顔だよ。早く入れって」
肩を揺らしながら、店の奥へと消えていくやつ。
本当に感じ悪いったらない。
そう思いながらも、少しカッコいいかもなんて思ったのは口が裂けても言わないわよ。
締まりかけたドアに手を伸ばして、私は店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
バーのカウンターで雑誌を読んでいたマスターが私の方を向いてニコリと笑った。
相変わらず渋くてかっこいい。
黒服を着ていないマスターを見るのは初めてだったけど、醸し出す雰囲気はマスターそのものだ。
蝶ネクタイをしてきっちり首元が隠れているのとは違って、淡いグリーンのシャツの首元はボタンを外してちょっと色っぽいかもなんて。
「こんにちは、準備中にすみません」
見とれてしまいそうにまった私は現実に返って会釈をした。
「いやいや、でもまさかこいつと梨乃さんがお知り合いだったとはね」
カウンターの真ん中にどっかと座るあいつを見て目配せをするマスター。
「いや、知り合いっていうほどじゃ」
あはははっと笑いながら、奴と2つ席を開けてカウンター席に座った。
そんな事も笑いのツボだったらしく、お腹を抱えて笑ってるし。
っていうか、こんな風に笑えるんだと妙な感じもしたりして。
いつもはお高く止まっているみたいに鼻で笑うから。
「サンキューおやっさん。後はやっとくから」
こいつの言葉が合図だったみたいに、マスターは腰を上げた。
「ああ、んじゃお言葉に甘えて宜しく頼むよ。後は好き勝手してくれていいから」
「どうも」
まるで第三者のようにマスターとの遣り取りを眺めていた私。
それって、ここで私はこいつと二人で話せって?
そんな私の事なんてお構いなしで、奴はカウンター内に入ると冷蔵庫からオレンジジュースを取りだした。
私に意見を求めるなんて事はないみたいだった。
目の前に置かれたオレンジジュースって私のよね?
で、自分はウーロン茶って。私に選択肢はなかったみたいだった。
それにしても、なんでマスターと?
「マスターは、俺の学生時代の友人の親父さんなんだ。ちょっとバイトさせて貰った時期もあったから俺にとっても親みたいなもんだ」
どうやら顔に出るみたいで聞きもしないのに、私の疑問を解決してくれた。
ふーん、バイトね。
医学生ってそんな暇あるのかしら?
そう思ったけれど、そこまでは答えをくれなかった。
「さてと、これからの事だけど」
手に取ったグラスの氷がカランと音を立てた。
ちらりと覗いた横顔はやっぱいい顔してるんだよね、悔しいけれど。
「これからも何もないわよ。勝手に呼びだしておいて何を言ってるんだか」
そう、まくしたててオレンジジュースに口をつけた。
きっとこれから嫌みを言うに違いないと、頭の中でシミュレーション。
堅くなりつつある頭は、それに対応できるだろうか?
仮にも相手は医者だから、きっと理論的に攻めてくるに違いない。
「ふーん。そうきたか」
ほらまた、あの鼻にかけた笑いだよ。
くーっ感じ悪い。
私は無言でオレンジジュースをただ握りしめていた。
そんな私に禁句を言いやがった。
「お前さ、結婚願望とかまだあるわけ? 見合いとか持ってこられて嬉しいとか思っちゃう奴?」
その馬鹿にしたような物言いに頭にかーっと血が上る。
「あるに決まっているでしょっ」
口に出してからあーっと思った。そうじゃない、そうじゃないんだってば。
ここは冷静に「別に、関係ないでしょ」とか言うはずだったのに。
あるに決まってるでしょ、なんてかっこ悪すぎる。
ほら、今度はお腹抱えて笑ってるし――。
「で、見合いは?」
笑いも治まらないうちに、こいつってば本当に感じ悪い。
「べ、別にそ、そんなのあんたには関係ないでしょ」
どうして、肝心なとこでどもるんだ私。