プロローグ
五月。うららかな春の陽気、というよりも季節を間違えたような強い陽光が肌を刺す季節。今年は冷夏だって、誤報の多い天気予報士が豪語していたけれど、単に今年は気が早くて尚且つしつこい奴じゃないのかと思える。どうせ七月も八月も、今よりうんとムシムシしてクーラーの効いた部屋で暑いだるいとごねる日々が来るに違いないんだ。いや、むしろ今がその時に違いないはずだったのに。
額に多量の汗を滲ませ、のろのろと坂を登る僕、常禾 司 (とこのぎ つかさ)は県内の山中にいた。なんでも、入学してまだ間もない僕たちが親睦を深められるようにと、親切にも学校側が用意してくれたハイキング行事だそうだ。学校側の身勝手な押し付けはともかくとして、ジリジリとした太陽光線をめいっぱい浴びながら、肌の保護や虫のためにと申し付けられた長袖のジャージを着て、大汗をかきながら山道を上ることと、生徒の親睦になんの関係性があるのか友達のいない僕にはわからなかったし、わかったら負けな気がする。
「ああ……暑すぎる」
暑いと言えば涼しくなるわけでもないのに、そう口をついて出てしまう。まるでこの暑さを噛みしめているみたいに。
「……そんなに後ろ向きな感じで歩いてるから、余計あちいんだよ」
背後から乱暴に声をかけられて、振り向く。学校指定のむさくるしい紺色のジャージを着て、長めの髪を整髪料で遊ばせたこの男は笑いながら言う。
「その内、氷みたいに融けちまうんじゃないか?」
「なんだよ藪から棒に。えーと、綴木……くんだっけ」
ぼんやりと脳内に映されたクラスメイトの顔と名前を、自信なく組み合わせて言った。
「自信なさげに言うなよ、傷つくぞ。それになんだよ、君付けだなんて余所余所しい。俺たち、もう友達だろ?」
無邪気な笑みを浮かべて馴れ馴れしく言うこの男は、クラスメイトの綴木 彰人 (つづき あきと) だ。きちんと整列して山道を歩いてきたはずなのに、こいつはわざわざ列を抜けてきたのだろうか。そう思って周りを見渡すと、僕と同じようにだらけきった生徒たちが、思い思いに知人や友人と数人で談笑しながら歩いている。そこに秩序立った列の形は微塵もなかった。どうやら、こいつも同じ口らしい。
「あのな……。それじゃあ、今ごろ人類はみんな友達同士だよ」
僕はそう呆れつつも、今の発言について少し悔やんだ。無条件に友達であると言ってくれる人間がいるのに、その彼に対して自ら壁を作ってしまうなんて。それでも僕は、いきなり 「友達だろ?」 と馴れ馴れしく近づいてくる奴等に、ろくな人間がいないことは当然じゃないか、と正当化する。しかし、綴木はその壁をたやすく乗り越えた。
「そうかな……。じゃあ今から友達になればモーマンタイだろ。よろしくな、常禾」
綴木は鼻の頭を少し掻いてから、時代遅れな言葉と共に手を突き出してきた。
「モーマンタイって……、今時誰も言わないって。まあいいや、よろしく、綴木」
僕は再び呆れながら、その手を握った。どこか言動の古臭いこの男が僕の高校生活初めての友達になるとは思いもよらなかった。四月の初め、最初の授業での自己紹介があったので、互いの名前や出身学校、趣味特技などの個人情報を知っているはずだが、当の僕は緊張でまったく話を聞いていなかったので、この綴木彰人という男に、今の今まで印象らしい印象がなかったのだった。それが、こんなに馴れ馴れしいうえに――いや、社交性のあると言うべきだろうか?――そいつが最初の友達になるとは。僕たちは形式的で表面的な友情を交わし、儀式的な握手をやめて、前を向いた。歩き出したところで、僕は言う。
「君こそ余所余所しいじゃないか、僕のことは司でいいよ。綴木も彰人でいいだろ?」
僕の一言が予想外だったのか、綴木は一瞬驚いたが、すぐにぱあっと笑顔を見せて、「おう、司!」と元気に答えた。
山道は相変わらず果てしなく続いていた。時折、右や左へ思わせぶりにうねってみては、でこぼことした地面で僕らの脚を痛めつけた。この山は高校のある市内から車で数十分ほど走った郊外にある、標高二三百メートルほどの小高い山だ。幼稚園や小学校の遠足行事でしばしば訪れた思い出深いようでそこまで記憶のない山だが、この年になって此処に来ることになるとは思わなかった。そんなことを隣の男に言ってみると、綴木は「俺、地元はここじゃなくてもっと遠い場所なんだ」とこぼして、「だから、頂上からの眺め楽しみにしてるんだよな!」と無邪気に付け足した。
「いや、別にそんな凄いものでもないぜ。たかだか二三百メートルからだしさ」と返し、「それに田舎だしさ」と付け足す。それには都会へのコンプレックスがにじみ出ていた。だが、憧れと言うよりは恐怖の念が多いように思う。僕はあの高層ビル群や人の群れが産みだす威圧感がどうも嫌なのだ。だから、イベントなどで人が集まっている場所に行くと、気持ち悪さを感じてしまう。人に酔いやすいのだろうか。隣を歩く綴木もそんな都会からやってきたのだろうか。
「おいおい、自分の街をけなすなよ。いいところだと思うぜー、俺は」
頭の後ろに手を組んで綴木は言った。
「まあ、あんまりに都会な場所よりかはいいかな……」
「それに、本当に田舎に住んでる奴らに失礼だろ。ここは東京から遠くないし、都会だよ」
「そう、かなあ」
「そりゃあ、都心なんかと比べりゃ見劣りするが……」
「そういう彰人はどこから来たんだ?」
「俺か? 俺は、東京だよ」
僕は、そう言う綴木の表情が少し曇っているのに気付かなかった。
「やっぱ大都会の御人は違うンだべなァ」
普段、使いもしない方言――本当に地元の方言なのかも定かではない――をわざとらしく使って、訛りたっぷりにおどけて見せた。綴木は少しむっとした様子で「うるせーよ」と一言放った。
少しの沈黙があり、会話は途切れた。沈黙の中で、僕は、ふざけ過ぎだと己を詰った。僕には生来、無思慮なところがあって、昔から人を無自覚に傷つけてきたことがある。そうやって傷のついた人間関係に目を背けて、友達を減らしてきたのだ。何か声をかけなければ、話題を変えなければ、けれども、何を話す? そう、うだうだと意地汚い考えを逡巡させていると、前から声がした。
「だいたい、俺が東京にいたのなんて、たったの三年だよ。それまではド田舎もド田舎、ドが三つはついていい超弩級の田舎にいたんだから、田舎歴じゃ俺の方が上だぞ。ほら敬え、崇めろ」
暗く沈んでいた頭を、ガツンとはたかれたように感じて、僕はしばし呆気にとられていた。綴木は早口でそう捲くし立てた後、胸の辺りを軽く叩いて、ほらという視線を向ける。"敬え"ということらしい。
「え、な、なんだよ超弩級の田舎って……」
ようやく口を開けた僕は、詰まりながらも言葉を返した。脳内には自責の念や、フォローなんてものは欠片ほども残ってはいなかった。綴木の言葉がすべて吹き飛ばしてしまった。
「お前がふざけてきたんだから、ふざけ返しただけさ」
綴木はけらけらと笑った。僕は、学校がこの行事を設けた意味をほんの少しだけ理解できた気がした。
――変わった奴。