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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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八章:夢ノ橋絶テ〈後〉

【八章:夢ノ橋絶テ〈後〉】





 折れた肋骨が肺に刺さったらしく呼吸が覚束ない。刀身を杖に、倒れることを拒絶した。

 切られた頬が痛む。血はなく、肌が焼け焦げる異臭が室内に立ち込めていた。


「その状態でなお諦めないという心意気は見上げたものだ」


 背後からの声に遊は咄嗟に剣を振るうが、圧倒的な力に押し負け、壁に叩きつけられる。


「ッ――くぅ!」


 壁に血の化粧を彩らせ、遊が崩れ落ちる。

 切られた左肩が熱い。

 黒炎を纏う斬撃は体に痛みを二乗分与えた。切られた痛みと肌を焼かれる痛み。相乗して熱を帯びた連撃だ。斬られたのは右脇腹と左肩、右足の太腿。中でも腿の傷口は焼け爛れ、黄色の脂肪が零れ掛けていた。

 対する鬼の背広には染み一つない。しなやかな身のこなしは鬼の力が加わることで既に芸術の域に達していた。

 喉元に炎を纏う剣を突きつけられ、遊は緩慢と鬼を見上げる。


「呆気ない(まつ)()だ。そうなっても未だ私を捕縛するなどという世迷い事を吐くか」


 痛みで取り落としてしまいそうになる刀の柄を震える手で握る。蒼の瞳は死んでいない。


「たかが人間風情が、誇り高き鬼を虐げようとしたことがそもそもの過ちなのだ」


 鬼の言葉には滴る憎悪が見て取れた。遊は鬼の目を静寂(しじま)と共に見つめ返す。


「わたしはあなたを止めるためにここにいます。鬼だとか、人だとか、そんなのは関係ない」


 鬼は不快そうに秀麗な顔を歪めた。剣先で少女の剣を払い、彼方へと追いやる。切っ先を再び突きつけて愚者を睥睨した。


「正義気取りか、小娘」


 鬼は少女の左肩に開いた傷跡を火の宿る刃先でなぞった。

 遊の瞳が激痛によって見開かれる。白い肌を穢す血は鬼の刀に跳ね、だが黒炎によってすぐさま蒸発した。脂肪と筋肉を絶たれ、骨に剣が当たった硬質な感触だけが厭に鮮明だった。

 少女は声を上げることなく、頭を振って激痛に堪える。常人なら気絶している痛みだ。鬼は大して面白くもなさそうに刀を納め、血糊を払う。


「……()めだ、興が逸れた」


 遊は滲む世界で懸命に鬼の姿を辿る。鬼の手には一枚の御符が握られていた。鬼は符を右手に翳すと、やがて肌と同化し消えていく。


「お前は境の世界で死に殺そう。産土に骨を埋めることもない、永久(とこしえ)穢土(えど)流離(さすら)うがいい」


 宣言と共に部屋の景色が電子映像の如く揺らいだ。

 夜の藍空は完全な暗闇に色を変え、部屋の輪郭が虚空に滲む。

 遊を支えていた背後の壁さえ消失し、部屋は新しい世界を形作り始めた。夢の如く、変質していく現実に遊は息を呑む。


「な、に……?」

「失われた古代式符術にはこういう物もあるということだ。世界を歪ませたのはお前達だが、此処はそれ以前からあった世界」


 異質が器官を通して五臓六腑を侵す。遊は苦心しながらも立ち上がり、周囲を見回した。

 室内は黒から白へと遷り変わる。

 それが光の色だと気付くのに数秒を要した。床は顔が映り込むほどに磨き抜かれている。眼前には水瓶を抱える美女の石像が噴水の中心に立っていた。


「此処は辻裏。お前達が境と呼ぶ、人間界の狭間と言ったところか」


 二人の近くを背広姿の人々が行き交う。鬼は刀を振るい、その中の一人を斬りつけた。しかし剣は空しく虚空を切るばかりで、惨劇が開幕することはなかった。


「今見えているのは土地の記憶だ。大地に溶けた名もなき魄の夢」


 鬼は刀を構え直し、笑みを浮かべる。


「私を殺さない限り、この辻裏からは出られない。元の世界に帰ることも不可能だ。さあどうする、白亜の住人よ」





 それまで確かに感じていた二対の感覚が一瞬にして掻き消えた。

 知砂は息を呑み、上階を見上げる。

 頭上には崩れ落ちた三階の床と鉄骨の糸を引いた瓦礫がぶら下がっているだけだった。四階の天井は存在したが虚ろな気配だけが舞い降りていた。


「……遊?」

「人のことより自分の心配をしたらどうだ」


 身を隠していた瓦礫が手刀によって破壊され、知砂は意識を現実に引き戻す。

 鬼である偉継と人間である知砂の力の差は歴然だった。符術によって致命傷は避けているものの、速さと力を兼ね備えた鬼の攻撃を完全に避けることは出来ない。

 知砂は追随する偉継の気配を察し、瓦礫の間を退避しながら仕掛けた符術を発動させる。だが鬼は宙高く舞い、それを逃れた。そして猫のようなしなやかさで音もなく着地する。


「お前を殺し、私は彼等に鬼として迎えられる。邪魔はさせない」


 人と鬼の混血。境界に立つがゆえに苦しむ鬼は静かに独白を零した。知砂の耳には届かない。

 偉継は歩みを止めて周囲を見回した。土煙が晴れない室内はひどく見晴らしが悪い。符術によって空間が歪められたことが災いして、仇敵の隠れる場所は多くあった。


「これで護符による攻撃は十五回目だ、人間」


 偉継はそのよく通る声で虚空に語りかける。

 知砂は巨大な瓦礫に背を預けて呼吸を整えていた。

 偉継は足の筋肉を撓め、再び跳躍する。

 知砂は直感的にその場を離れた。やがてその反応が正しかったことを知る。瓦礫は綺麗に二等分され、土煙と轟音を生み出しながら崩れた。

 鬼は知砂の眼前に歩み寄る。二人の身長はさほど変わらなかったが、鬼の纏う殺気は知砂に一層の圧迫感を与えた。


「何故力を使わない」

「その言葉、そっくりお返しするよ」


 苦い笑みを浮かべながら、知砂は間合いを図る。電子眼鏡の精緻な計算ではなく、自らの生物としての感覚を頼りに後ろへ下がった。

 鬼の眼光に観念し、知砂は渋々左手を上げる。……右手は尺骨が折れているため、下げたままだ。左手の人差し指で自らのこめかみを差す。


「期待にそぐえなくて悪いけど、生憎発揮する能力が頭の中と寝台(ベッド)の上にしか無くてね」

「……貴様、円ノ衆ではないのか」

「あたしは答えたけど?」


 電子眼鏡は最も効率が良い退路を示していたが、知砂は努めてそれを無視する。知砂は円ノ衆でもなければ円坐天でもない。強大な力を持つ鬼の前では限りなく無力な存在だ。

 偉継は大きく息を吐いて、忌まわしい何かを思い出すように左手へと視線を落とした。


「……私は鬼と人の間に生まれた。人として育ち、鬼として覚醒した」


 偉継の左右非対称の色の目はきつく握られた手に向けられている。


「私の力はヒトの力」


 知砂の眉間に微細な皺が寄る。偉継の目はきつく握られた手に向けられていた。


「人間の能力が私の力だ。先に言ったはず、私は半端者だと。そういう意味だ」


 円ノ衆にはそれぞれ魂の属性とも言える力がある。火や水、土や風といったものが最たるものだが、細分化すれば体の構成を変化させる力や治癒、超記憶力など種類は実に多様だ。

 偉継はそのいずれにも属さない性質の力を持っていた。戸惑いの視線を感じ取り、偉継は最後の注釈を加える。


「この力は鬼ならば誰しもが持ち得る純粋な力だ。私は鬼人と言っても名ばかりのもの。そしてこの意味を持たない外見と、何の力もない鬼であることが私を血の境に迷わせる」


 偉継が握った拳からは赤が伝った。知砂を切り裂いた時に染み付いた血液だ。


「だがあの方は違った。親にすら見放された私に居場所をくれた。だから私は」

「朱天童子の為に命を賭ける、か。……同い年だからまぁ勝手に呼び捨てにするけど、随分刹那的だねぇ偉継」


 眼鏡の弦を押し上げて低く呟く。

 耳の良い鬼はそれを聞き逃すことは出来なかった。無遠慮な、礼節を纏わない調子。空須來以外とこんな話をしたのは偉継自身初めてだった。


「私自身を何と罵られようと動じぬ」

「別に罵倒してはないさ。割にあたしとあんたの考え方は酷く似てる」


 左手だけで器用に煙草を取り出して火を灯す。口元に咥えて美味そうに息を吸う姿に危機感はない。


「何を、言っている?」


 知砂は左手で頭を掻く。口の端を僅かに上げて無意識の内に煙草を食む。それは彼女特有の癖だったが、鬼人にとっては酷く酷薄な笑みを浮かべているようにも見えた。


「あんたは朱天童子の足元に自分の死に場所を求めてるだけだろう」


 鬼の白い喉元が小さく動いて否定の言葉を探す。知砂の中では全ての話に決着が付いたらしく、御符を指に挟み攻撃態勢を取った。


「あたしは否定も肯定もしないし、する義務もない。ただまぁ理解はしたよ」

「理解……。理解、だと……?」


 鬼の掌が電撃を流されたように開く。鬼は顔を上げ、怒声に空気が振動する。


「貴様に、私の、何が分かる!!」


 火の灯った煙草の先端が切断されていた。同時に指に挟んだ御符も一瞬の内に切り裂かれている。知砂は煙草を吐き捨てて、鬼と向き合ったまま大きく背後に下がった。


「……なんつうか、逆鱗撫でちゃったかな?」


 知砂の頬を冷たい汗が流れる。偉継は力のままに手刀を振るい、壁や瓦礫、大地や天井に傷跡を残した。大振りな攻撃のために躱すことは容易だったが、僅かに触れれば肉ごと持っていかれるだろう攻撃に恐怖は乗法されていく。


「実の母親に鬼子と蔑まれ、父は一度も私の名を呼んではくれなかった! 幼馴染の友も、血族さえも誰一人、私を私としては見てくれなかった!」


(あんたは何も分かってない! あたしが、……あたしがどういう意味で、あんたを。)


 何年も封じ込めていたはずの心の封印が解ける。

 懐柔し、納得し、強固に封じ込めたものの牙が光っていた。視線が交わる。喉を乾かせた獣が唸っていた。どんなに取り繕っても、鎧を纏うが故に脆弱なのだと誰しもが気付かない。施錠出来る部分を残したのは互いに同列の弱さだ。

 暗く粘性を持った少女と獣の絶叫に知砂は目を細める。自らの内嚢に手を滑らし、止めた。不自然な動きをしたことで、突き出した瓦礫に足を取られ「しまった」と思うのと同時に転倒する。

 頭を打たなかったのは幸いだが背中を強か打ち、一瞬呼吸と思考が乱れた。電子眼鏡が衝撃で床に落ちる。

 知砂は自らの不運を呪った。「あーあ死ぬかも」という雑感が脳裏を過ぎる。

 鬼は仰向けの体勢で天井を見遣る知砂の上にのしかかると、鋭い鉤爪を高く掲げた。振り下ろせば知砂の命は十八年の終末を迎える。


「私を私と認めてくれたただ一人のあの方に、あの方の為に……! この無意味な命を捧げられるなら、それこそ本望じゃないか……!」


 逆光になり、知砂から偉継の表情を捉えることは出来ない。

 だが確かに紫と二色の瞳は交わっていた。雷を宿す瞳は万人を貫き殺す。そこには一分の感情も浮かんでいなかった。状況を静かに見据え、検分する冷徹な(しゅ)(がん)だった。


「……じゃあ聞くけど。何であんたは泣いてるんだろうね」


 知砂の頬に純度の高い雨が降る。

 鬼が僅かに顔を上げると、顔を覆っていた影が晴れた。自らの頬を伝い落ちる雫を何処か他人事めいた様子で偉継は見つめていた。


「半端者だの無意味だのと他人の言い草で自分を決め付けてるのはあんた自身じゃないのか」

「黙、れ……」

「言えよ。本当は嫌なんだろ、朱天に加担するのが。あんたの大切な人が悪いことをしてるのが」

「黙れ……っ」

「求めている者を止めることも振り払うことも、まして手を伸ばすことも出来ない。全てを拒絶して、檻の中で一人っきりだ」


 知砂は振り上げられた必殺の手刀には目もくれず、静かに一人の少女を見つめ返す。

 開錠の音がする。


(出てくんな。)


 大量の弾丸をばら撒いた音にも似た、重々しい鍵の束が瞼の奥で揺れている。


「今あんたの存在価値を決めてるのは他人じゃない。勝手に決め付けてるのは他ならないあんた自身だ、偉継」

「黙れ、黙れ、黙れぇ!!」


 鬼の手刀が振り下ろされる。

 断刀は知砂の左肩を掠めて床に突き立てられた。円錐上の穴を地面に生むが、知砂はまるで気付かぬように涙雨に打たれていた。

 偉継は手を再び振り上げることをせず、咽頭の奥から嗚咽が溢れるのを懸命に堪えていた。


「あんたは未だ泣けるんだ。言わなきゃ何も伝わらない。……何も変わらなくても変えられなくても、言葉があるなら言えば良かったんだよ。そういう素直な気持ちを、あんたの神様にさ」


 偉継は地に打ち付けた自らの手を見つめる。

 誰も握り締めてくれなかった孤独な掌。光の世界から差し伸べられた手。前を向いたままの少し低い背中。あの方は、もう泣けないのだろうか。


「……空須來様……」


 偉継はゆるゆると手を持ち上げる。

 滲む世界の中、非対称の瞳には何気なく知砂の左肩が映り込んだ。シャツの布地が切れ、僅かに血が滲む皮膚。

 そこには偉継が齎した傷とは全く異なる古い傷跡があった。傷と言うよりか、むしろ肉を獣爪で抉り取ったような痕だった。滑らかな肌に走った三本の爪痕は皮膚が寄って赤黒く変色している。傷口は塞がっているものの、腕が接着しているのが不思議なほどの傷跡だった。

 知砂は偉継に動揺を齎した元凶に気付き、体から全ての力を抜いた。

 喉元で低く笑う。鍵を噛み砕き、癒えることのない慟哭を嗤う。


「檻に閉じ込め損ねたケダモノの証だよ。あんたもこうならないように気をつけな」


 感情を漂白した声に偉継は息を止めた。瞳に射抜かれた獲物の如く、身動きが取れなくなる。戦いの中で見た飄々とした風来坊の声とは全く異なる、暗雲に潜む獣の声だった。

 しかし鋭い空気は直ぐに霧散する。


「何より。それにあたし、人の下でよがるのは嫌いなんだよねぇ」


 知砂は自由の利かない右腕の指先で最後の一文字を刻み込んだ。


「符術伍式、[()(シャ)(コツ)]」

「なっ……?!」


 艶めかしい宣言と共に、鬼の四肢を八方から伸びた赤の糸が捕縛した。

 糸は注視すれば細かな(まじな)いの文字によって構成されており、一つ一つが目標を拘束する。八つ首の骸を(なぞら)えて付けられた符術は知砂の独創型(オリジナル)である。

 偉継の痩躯が傾ぎ、床に倒れた。隣をかい抜けて知砂が立ち上がる。


「貴様、何、を……? 符術、は全て……」


 知砂の指先からは血が滴った。全てを察知した偉継の瞳が見開かれる。


「まさか、血で……?」

「ご名答。あたしの血にしか反応しない飢えた符術だ。あんたにはたっぷり切られたからね、返り血が付いてるだろ。それに緊縛術も覚えておいて損はない。亀甲縛りじゃないだけ多分あなたは幸せだよ」


 知砂はようやくゆっくりと呼吸を行った。

 肺腑に酸素を吸うと体が軋む。体中が痛みに焼かれている。火傷とも異なる痛みという熱は存外に重苦しさを覚えるものだ。あるいは疲労と結合して新しい物質へと変わるのかもしれない。そもそも肺が毒に侵されているため内からの熱には強いはずだが、何分慣れないことをし過ぎている。

 思わず左肩を押さえた。上階を仰ぐ紫暗は深い思念に満ちている。





 震える手に力を込めると、呼び戻された刀が空中で回転しながら手中へと戻った。

 刀を構える際の重要な役割は左手にあるが、左肩に負った傷の所為で力が入らない。右手一本で刀を構え、遊は切っ先の向こうに相手を見た。

 暗い瓦礫の塔で見た時よりも真白い姿は変わらず穢れを知らない。金の瞳は射殺す意味を含んで遊を映す。

 ともすれば激痛に嗚咽を漏らしそうになるのを奥歯を噛み締めて懸命に耐えた。痛みすら薄く、傷口はただ焼けるように熱い。


(何故。)


 濁音。水の流れる音。


「[序段・座突]!」


 鬼の黒炎が刀身を離れ、一閃の魔断となって遊に斬り掛かる。

 遊は大振りの一撃を横に逸れてかわした。軌跡に赤が咲き散る。刃は床を破砕し、壁を深く切りつけた。

 鬼は僅かに目を細め、再び刀を振るう。しかしその攻撃もまた空しく壁を切った。銀糸の残像を描き、遊は鬼の背後に着地する。


((何故。))


 鬼は横薙ぎに刀を振るう。遊も同時に刀を振るった。

 二対の刀が鍔迫り合いを繰り広げる。交じり合った切っ先は焦げ付く音を立てて、それぞれの顔を刀身に映し込んだ。

 濁らない清流の瞳と、濁流に流されることのない重金の瞳が交錯する。

 鬼は犬歯を軋ませて力任せに少女を押し遣り、強引に距離を取った。少女は柳の如く軽やかに後ろへ下がる。音のない世界に鬼の呼吸音と噴水の音が地を這って反響していた。


(((何故!)))


 鬼は顔を歪めて、少女の背後にあった噴水に斬撃を放った。水瓶を抱えた美女の首が空を飛ぶ。偶像の中に埋め込まれていた水を循環させるポンプが血液の代わりに迸る。手と首が傾ぎ、像は水瓶を噴水の中へ落とした。


「何故諦めない」

「何故助けてあげないの」


 重ねられた二つの問いは反響を帯びてビルを抜ける。鬼は首を傾げた。


「……助ける?」

「あなたは三日前、仲間の無念を晴らすと言った。これほどの力があるならそれは難しくなかった。ラオウさんが召喚暴走した時だって、召喚者(あなた)ならきっと助けられた……!」


 鬼は二三度頷く。大剣――〈(おお)()(ほふり)〉のものうちを地面に埋め、柄頭に腕を乗せた。


「確かに彼に関しては失敗だった。古代式を用いたは良いが如何せん扱いが難しい。彼等の前に練習を兼ねて、拘束が容易な餓鬼を喚び出すことには何度か成功したんだが、矢張り強い意思を持つ同族は難しかった。二人の同胞を喚び出したまでは良かったが召喚軸が歪み、手元に召喚出来た一人は「人を殺すのは嫌だ」とのたまった。体が大きい分、贄がなくては魄と精神は崩れやすい。そして私の手の内を離れて暴走してしまったんだ」


 遊の刀が震える。


「……「失敗」」

「内一人も白亜の手で送還されてしまった。……まあ彼女は再度の召喚に成功したのだけど、これも直ぐに手元を離れてしまってね」


 弩劫のことだ。彼女は空須來によって偽りの情報を吹き込まれ、四人の前に立ち塞がった。今の空須來の言葉が確かなら、それを信じた彼女の胸中は如何なるものか。

 鬼は身を正すと自らの角へ指を滑らす。やがて手は頼りなく下げられた。


「彼等はいずれも鬼神を信仰してやまない。日々の平和を感謝し、明日の平穏を祈る。……たかだが角一本増えただけだ、何がそれほどに偉いものか。鬼神なぞを信奉していても、この地は地獄で充ち満ちている。末期の瞬間に同族がその御名を呼んでも、神は助けに来なかった」


 刀が地面から抜かれる。その姿には微かな寂寞が垣間見えた。


「鬼神は選ばれて決まるものではない。例え私が鬼神の素質である異形の角を持つ者であっても、同族は私を鬼神とは認めなかった。鬼神はその神妙なる力で我等鬼族を一瞬のうちに平伏させると言う」


 救いを求める迷妄者は天上を仰いだ。光明はなく、人工の光が華美なまでに輝いていた。


「あなたは鬼神が嫌いなの……?」


 鬼は世の全てを厭う、孤独の砂漠に立つ笑みを浮かべた。痛々しいまでの狂気があった。


「嫌いなどという部類ではない、私は鬼神が憎くて堪らないのだ。王だ神だのと崇拝されている、たかが虚像だ。なのに我等一族は最後の最期まで鬼神を敬い、その教えの通りに人を殺めなかった。仲間だと思っていた里の者に刀を向けられてもだ! ……貴様に分かるか、信じていた者に裏切られる絶望が! 願いを打ち砕かれるあの絶望が!」


 血の滴る声だった。怨嗟に染まり切った声に、もう誇り高い鬼の姿はなかった。


「私は黒の同族に人間の首を差し出すことを条件に鬼神へ成り代わると約束した。平和を望む戦神など愚かしい。我等鬼族は故郷を奪い、仲間を奪い、信仰を奪った貴様等人間を決して許してはならぬのだ!」


 鬼の歩みは疾駆となり、黒い刀が少女を噛む。

 だが遊もまた銀刀で鬼の攻撃を受け止めた。


「彼等を救えなかったのは悔やむべきことだが、目的の為には幾らかの犠牲が必要だ。彼等は確かに私の目指すものへの力になってくれた。そしてお前はこの血飲み子たる我が(つるぎ)の糧となれ!」


 力が拮抗していた。

 鬼の片腕と少女の片腕の力は決して同等ではない。だが少女の細腕は鬼の剛力を確かに静止させていた。

 鬼は少女の瞳を正面から捉える。

 永久凍土を貫く青の瞳は鬼から笑みを奪い去った。海に突き立つ氷山のそれは、静かな怒りを称えていた。時雨から滴る雫は蒸発することなく鬼の剣に霜を生む。

 鬼は異変に気付き、距離を取った。


「何だ……?」


 刀が触れ合った部分が凍えている。力を込めると白は黒に呑まれ、一瞬で消えた。確かめるように一度素振りを行う。空を焼く黒い大剣は脈打ちながら血を欲していた。

 少女は空須來の後を追うことをせず、その場に立ち尽くしていた。俯いているために表情は分からない。ただ肺を凍らせる青の視線を思い出し、空須來は知らずの内に小さく息を呑んだ。

 鬼は大御葬を構え直す。刀身が生贄を欲する蛭の如く蠢いた。黒火は巨大な刀身に絡みつき、命を欲しているようにも見える。変貌した刀を鬼は両手で構え、ゆっくりと振り被る。黒い大蛇となった斬撃は刹那の間に少女の体を飲み込んだ。


「さらばだ、白亜の徒よ」


 地獄への葬送を示す鉤爪、その更に二倍となった斬撃が遊へと襲い掛かった。

 それは絶命の一撃として少女の剣を半ばから折り砕き、痩躯を宙に跳ね上げた。

 血の軌跡を描き、少女の体は噴水の褥へと墜落する。



 偉継は緩慢と瞼を持ち上げた。

 廃墟の裂け目から見える仮初の空を見上げて裁きを待つも、安息の時は一分待っても、更に一分待っても訪れなかった。

 偉継は拘束の及ばない首を動かし、隣に立ち尽くす少女を見上げる。


「何故私を殺さない……?」


 知砂の口元にはいつの間にか真新しい煙草が添えられていた。紫煙の嘆息を付きながら、知砂は手頃な瓦礫の上に腰を下ろす。手には符術が握られていたが攻撃の意志は見て取れない。肺に有害な物質を吸い込み、空に吹きかけた。


「あたしの目的はあくまで連行なの。特に今回、あたしは司式として白亜の命令に背いてる。まぁいつもだけど。……にしても、現場に放り出されて鬼退治なんて全く笑い話にもなんない」


 血に濡れた手で頭を掻くと小さな石礫が引っかかったらしく、紫の瞳が忌々しげに細められた。礫を摘んで彼方に放り、今度は爪先に挟まった砂の名残を同じく爪を用いて擦った。納得のいく状態になったらしく、知砂は再び偉継を見つめる。


「口の減らない女だ……」

「お返しするよ、そのまんま」


 刑死者と名高い白亜の隊員が欠伸を零す。受刑者と賭博をして、掛け金代わりの執行猶予を与えている怠惰な看守のようだ。

 偉継の口元には自然と微笑が浮かんでいた。

 末期の際に浮かべる苦笑に近いそれを見て、知砂は目を細める。死は解放なのだ、この半鬼にとっては。かつて自らがそうだったように。


「私は人に負けたのか」


 体を拘束する符術は未だ生きている。幾つかは関節の上に走り、鬼の剛力を封じていた。


「だが、あの方は負けぬ。亡き鬼王に代わり、我等鬼人を必ず導いてくれるだろう」


 左右非対称の瞳に宿っているのは異端の神を崇拝する狂信の願いだ。自らを鬼と名乗る自傷行為を咎める者は居ない。

 知砂も暗い天井を見上げる。喪失した四階に立っていた少女を思う。

 彼女が生きていることは五感が告げている。だが不安が首を絞めた。

 祈りを込めて彼女の名を紡ぐ。



「遊」



 沈んでいく体を声が抱き締める。

 口から赤い気泡を吐き出し、遊は瞳を開けた。

 誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 噴水の池は存外に深い。土地に宿る魄の夢ならば、この泉の底に宿る夢は白中の下に続いているのだろう。

 水底は遠く、遥か上空に水面が輝いていた。地下水の営みは京庵の遥か東の湖に隷属した水だ。澄み渡り、神水として名高い恵水。そして水面を長い影が遮った。


()しているのか」


 境界に響く声だった。

 遊は緩く首を振り、発言を否定する。口から零れるのは声でなく、頼りない気泡だけだった。

 遠い水面へ手を伸ばす。折れた時雨が遊の隣を緩慢と落ちていく。


(ぬし)が選んだのは不殺(ころさず)の道。例え敵が泣いて死を乞うたとしても、それが生より安らかな死だったとしても」


 声は直ぐ耳元で聞こえた。遊は首を引いて小さく頷く。



「わたしは、誰も、殺さない」



 空須來は納刀することもせず、踵を返した。切っ先に付着して燻る音を立てていた黒火の名残を払うと、今度こそ辻裏に静寂が訪れる。

 人は多いのに、声はない。電話に向かって何かを話している背広姿の男が空須來の歩みを遮った。鬼は彼の首を払う。だが残像を切るばかりで、泡影は小脇に鞄を抱えて昇降口へと駆けていった。

 鬼は魄の見る夢の残滓に立ち尽くしていた。

 ふと、水の滴る音が響く。鬼は僅かに首を傾げて音の発生源を手繰り、背後を振り向いた。


「……貴様……」


 水に沈んだはずの少女が水面に立っていた。

 靴底はさも当たり前のように水面に立ち、銀糸を幾重もの水弾が滴る。制服は水を吸って白い肌を透けさせ、体に残った赤だけが鮮明に現象を形作る。

 噴水の受容量は既に溢れ、漣は鬼の足元まで及んだ。月に引かれては返す単調な動きが空須來の表情から余裕を奪う。

 少女の背後に立っていた、手と首を切断された石像が無言の弾劾を羽ばたかせる。時の悪戯で首と片翼を落とした勝利の御使いの声は雨滴と漣の総和だった。


「本当に悲しいのなら、失敗や犠牲なんて言葉、絶対に使わないで」


 紡がれた言葉に宿る冷冽な憤怒。鬼が刀に火を灯すと空気に満ち始めた湿気に黒炎が煙る。


「わたしはあなたを止めなければならない。あなたは多くの人を傷つけ過ぎる」

「止める? この私を、貴様がか?」


 遊は自らに言い聞かすように言の葉を紡いだ。

 彼女の胸中はただ一つ。眼前の、信仰すべき対象を見失った喪失者を止めなくてはならないという、たった一つの思いだけだった。

 か細い五指を前に伸ばすと、水中から愛刀が呼び起こされる。砕けたはずの刀身は蘇り、一層の硬度を称えて鬼を映し込んだ。冷たい氷刀は命を守り、同時に傷つける武器だ。

 空須來は少女へと向き直り、大剣を背に構えた。少女の細刃など一振りを以ってすれば容易に砕くことが可能だろう。圧倒的な力量の差はこれまでに十分証明している。

 少女の足元の水が僅かに波立った。時雨の切っ先は水面に突き立ったまま静止している。

 遊の立つ世界は静かだった。だが水面下は清流が渦となり、水泡が連なっている。

 流れ出でる清水は一本の柱となり、少女の背からは二対の翼が生えた。水が滴る翼は空を叩いて露雫を振り払う。

 計四枚の羽はゆっくりと伸ばされ、空須來はそれが少女の足元に潜む何者かの翼であると理解するのに数秒を要した。

 やがて水面は波紋を生み、少女の足元から巨大な影が姿を現す。小波が踊る水音に混じり、雷雲の如き轟きが響き渡った。

 全長は悠に五十メートルはあろうか。長い尾の先端は未だ水面下に沈んでいる。

 全身は美しい銀青の鱗で装甲され、首から尾の先端までは初雪で染まった銀毛が真っ直ぐと伸びている。持ち上げられた頭は蛇を思わせるが、それを否定するように長い犬牙とたなびく二本の髭、そして枝分かれした真銀の長角が空を掴むように生えていた。首の周りを浮遊する四つの水弾はその中に幾何学的な文字を明滅させる。

 遊と同じように水面を踏み締める前足と、尾の近くに付いている後ろ足が前に出た。光の加減によって蒼い海原に白雪を覗かせる双眸が開かれる。より濃い色となった瞳孔が細まる。


「まさか」


 空須來は息を呑んだ。

 千年を生き、それらの種と相対した数は片手の指の数に満たない。それほどまでに希少な生き物だからだ。

 水底から現れたのは紛れもなく、古代生物たる〈龍〉の姿だった。

 世に生きる者として、古くは有史前から存在した伝説を持つ存在。数ある廻來天の中でも屈指の叡智を誇り、神にすら近しいと謳われる種族。住む場所によって七つに区切られる龍種の内、遊と契約を結んだのは水底の白砂(シルト)から生まれた海竜の流れを汲む。

 遊は龍を見上げる。龍の銀青の瞳は真っ直ぐに正面へと向けられていた。


「我、百六十二代目御秡如神社神主たる御秡如遊の名を以って、此処に(おん)()の盟友、御身の眷属、御身の(つるぎ)として推参した。礼に則り此の名を交わさん。我は遥か昔に沈みし海竜王が末裔、()()()(オオ)龍主(タツガヌシ)と申す」


 中性を持つ龍の声にふさわしい、森厳な声明文だった。春雨の細く細やかな水滴が大地を濡らす、寂寞ながらも耳に残る声音。

 一般に、契約を結んだ円坐天は術者の意に関わらず、自由に彼岸と此岸を行き来出来る。そして彼方に居る円坐天を呼び起こす場合、掛かる時間は体の大きさに比例する。契約した以上、円ノ衆は円坐天の力を自由に扱うことが出来るが、力の根源たる円坐天が傍に居れば居るほど力は増す。呼び出すにはそれなりと手順と力が必要であり、制約もある。円ノ衆の真価は此処で問われるのだ。

 鬼は地面に刻まれた巨大な影を踏みにじり、前に出る。


「私は朱天、名を空須來という」


 構えは解かない。口元に笑みを浮かべて鬼は龍を見返す。互いに眼前の姿の本質を見極める視線だった。


「〈朱天悪童子〉とは其のことだったか」

「嗚呼、真に不本意だがそういう悪名もあるようだ。しかし呼び起こされて早々悪いのだけれど、貴女方には可及的速やかに消えてもらいたいのだ」


 鬼の刀は再び魄を隷従させ、己の黒火として置換する。大刀となった刀身は先の二乗に等しい大きさだった。鬼は難なく左手を振るい、毒蛇の一撃を少女と龍へ放った。

 遊は刀に手を翳したまま動かない。

 水気を払った龍の鬣が草原の若草の如く優しく靡く。


「「[戯式・匣――水淼璧]」」


 遊と龍の声が重なり、巨大な絶壁が具現化した。それは先に遊が用いた氷壁の更に数倍の巨大さと分厚さを兼ねている。空須來の斬撃は氷の表面で水蒸気と共に消失した。

 龍が翼をゆるりと羽ばたかせると氷壁は一瞬にして水に姿を戻す。大量の水が瀑布となり、雨となって降り注いだ。恵雨は魄の夢が織り成す人の姿を蜃気楼の如く揺らめかせる。此処は蜃の夢の中ではない。現実と世界の狭間、魄の見る白昼夢だ。龍と少女が立ち尽くす噴水からは止め処なく水が溢れていた。


「他者の話は最後まで聞くべきだ、鬼子よ。あまり急くものではない」


 鬼は一瞬にして無効化された攻撃に目を見開く。

 先の闘いに於ける戦況の分は確かに空須來に傾いていた。少女が円ノ衆であることは分かっていたが、円坐天がこれほどまでに強大な龍とは想像していなかった。鬼の瞳に僅かな焦りが灯され始める。

 龍は何事かに気付いたらしく地に首を滑らせる。遊は紺碧の鱗に手を辿らせ、長い銀羽の鬣に顔を埋めた。龍は目を細めて掌の体温を手繰る。追懐するように低くも甘い唸り声を上げた。


「然し、遊。随分と血を流し過ぎている」

「へ、き」


 龍は少女の頬を鼻先で軽く撫でた。少女が擽ったそうに小さな笑みを零す。龍は得心がいったように再び前を向いた。


「長引けば我の愛し子が苦しむ。矢張りそなたの趣向通り、急いた方が良さそうだ」

「鬼を見下すのも大概にするが良い。人の眷属に成り果てた辰の落とし子よ」


 空気が硬質化していく。頭上で繰り広げられる敵愾心の刃に、遊もまた柄を握る。

 鬼は剣を構え、黒火を纏う。足元の水は鬼が歩を進める度に蒸発していく。

 龍は長い尾で少女を囲った。遊は強力な鬼を前にしてなお正面を見据えていた。か細い体に不釣合いなほどの一徹した芯を備えた姿に、龍は少女の旋毛を見下ろしながら喉の奥で莞爾と笑む。

 神とさえ謳われる龍が人の子を景仰していることに疑問を抱いたことはない。契約を結び十二年、龍は少女と寄り添って命を重ねてきた。


「疾く表に還らねばな。(ぬし)の片割れが心配しているようだ」


 沈黙を挟んで遊は頭を縦に振る。覗く耳が赤い。龍はやはり喉奥で笑いながら顔を上げる。

 緩慢と開かれた上顎と下顎には、賢人の振る舞いを否定する鋭利な牙が生え揃っていた。上顎の犬歯二本だけは異様に長く、二振りの細剣(レイピア)を思わせる。

 そして龍の咆哮が泡沫に轟く。

 夢魘(むえん)を貫く秋水の一薙ぎに、室内を満たす水が細波立ち、王に跪いた。

 部屋に行き渡った水面から幾つもの滴が浮遊する。龍の声と共にそれは鋭利な針となって鬼を強襲した。

 鬼は僅かに余裕が剥離した、温度のない微笑を口に挟んで間合いを図る。鬼の歩みは疾走となり大地を蹴った。氷の剣を退けながら、龍の(あぎと)目掛けて大剣を振り立てる。

 だが龍の姿は咆哮の余韻と共に掻き消え、空須來の剣は宙を切った。

 空中で刀を半回転させて刀身の壁に付き立てる。刀を足場にして鬼は周囲を見回した。少女の背中が視界に入る。

 辻裏は土地の魄で満ちている。

 切られた噴水は魄の夢と現実を繋ぐ天の橋立になっている。夢と現実とを繋ぐ干渉物が、まさか龍の眠る褥に続いているとは予想出来なかった。

 鬼は奥歯を噛み締める。場の魄が少女に傾いている気がしてならなかった。先とは全く異なる空気と魄の質感に、我知らず舌打ちをする。

 少女の体から零れる液体は自らの足元を赤く汚していく。だが小波が穢れを祓い、血を何処かへと流していった。


「空須來さん、投降してください」


 金の瞳に憤怒の火が燃え盛る。刀をそのままに、空須來は地へ着地した。

 翳した右手を握ると、壁に付き立てられた剣が忠実に手中へと納まる。黒い獣皮で結われた柄を音がするまで握り込む。


「ふざけるな。……私は誰の命令にも従わない」


 鬼は爪先を濡らす水を踏み締め、気化させながら間合いを詰める。

 牛鬼の吶喊が如く水平に構えられた打突の構えは恐ろしい速さが加えられ、少女の心臓を冷酷無比に貫いた。


「見誤るな、人間如きが」


 刀は背中に抜け、心臓を施錠するように柄をねじって止めを刺す。大量の血液が鬼の体を染めた。遊は未だ何かを告げようとしたが、器官から溢れた大量の血液によって阻害された。

 鬼は、命の糸が切れてしな垂れる体から刀身を抜き払おうとした。だが刀が動かない。事切れた少女の骸は俯いたままだ。

 鬼が渾身の力で剣を引き抜こうとすると、か細い体は一瞬にして色を失った。血の赤は既になく、体を構成している色神の一切が喪失された。


「何、だ?」


 少女の体がどろりと形を失い、大量の水と共に爆散した。

 唖然とする鬼の体を雨が打つ。水風船を思わせる呆気ない結末は未だ続いていた。

 視線を巡らせると入口の前に少女が立っている。体の傷はそのままに、鬼を見据えて時雨を構えた。


「最早説得は無意味。ならば絶対的な力を以って捻じ伏せ、抵抗の意を削がねばならぬ」


 虚空から響いたのは龍の声だった。


「……、愚かなことを言う。貴様の(あるじ)は死んだ」

「あまり我等を甘く見ないほうが良い」


 声は鬼の背後から明確に届いた。咄嗟に剣を振るうが、鬼の剣は時雨によって弾かれた。


「な……」


 鬼の斬撃を止めたのは扉付近に立っていたはずの少女だった。告げられた言葉もまた遊のものだ。

 辻裏には今や二人の遊が立っていた。表情は幼さを剥離して穏やかな瞳をしていた。その瞳の色が蒼でなく銀であることに、焦燥した鬼は気付かない。


「何なのだ、お前は……?!」


 剣を交える銀目の遊は薄く微笑む。少女らしからぬ艶やかな微笑に背を氷塊が滑り落ちた。


不信(しんじず)の目で水面を見つめるお前には永遠に分からぬだろう。鬼族の誇りを失くしたお前は既に亡霊と成り果てた」

「貴様等に分かるものか……、知ったような口を聞くな!」


 鬼は刀を握らぬ左手を、銀目をした少女の腹腔へ押し付ける。


「消え果てろ。[翁段(おうのだん)千歳(ちとせ)(つゆ)(ばらい)]!」


 黒火の一閃が建物を抜けた。水と高温の炎が合わさり、水蒸気爆発を齎す。

 剣を交えていた少女の姿は一瞬にして気化した。地面に沸騰した傷跡を残す黒炎は建物の一階を突き抜けて外にまで及んでいた。その向こうは暗闇となり、やがて陽炎のように揺らぎ始める。

 殺意で構築された一撃に鬼は自らの右手を見た。肌と同化した符術が火花を上げている。


「……そろそろ此処も限界だな」


 鬼の手中に貼られ肌と同化した符術が火花を上げている。辻裏の世界が揺らぎ、全ての形が朧になりつつある。

 周囲を見渡した。歩を進めれば足元の水が音を立て、場所を把握されるだろう。

 だがこの場に居るもう一人は、それを承知で水面を駆けていた。

 鬼は咄嗟に剣を盾に斬撃を防御する。触れる面積が圧倒的に大きいはずの大御葬は細身の時雨によって弾かれた。鬼は目を見開く。

 少女は体勢を崩した鬼の懐を潜り、肘で鬼の角の真下、こめかみを打つ。脳を揺さぶられ鬼の思考が一瞬濁った。遊の刀が一際強く握られ、風を切る。振り上げられた刀は鬼の左肩から二の腕に掛けてを深く斬りつける。白の背広に赤が散った。

 空須來は激痛に奥歯を噛みながら右手に持つ刀を真一文字に振り翳す。しかし刀は空しく宙を切った。遊は水の軌跡を描いて、首のない石像の上に舞い降りる。

 鬼は地面を這う下段の構えのままに少女へ斬りかかる。痛みによって空須來の動きが鈍ると考えていた遊の予想を裏切り、鬼の速さは変わらなかった。

 石像ごと少女の上半身と下半身を分かつ一撃。だが鬼は舌打ちをする。


「軽い……!」


 予想通り、斬ったものは鏡像となり水へ戻った。空須來は矢継ぎ早にその場から離れ、消えた少女を探す。その右手を霧の中から伸びた時雨の刃先が斬りつけた。


「っ……ぐ!」


 傷は存外に深く、鬼の動きは不自然に止まった。符術が手もろとも斬ち切られている。

 硝子の砕ける音と共に辻裏が崩壊した。鬼の手から刀が滑り落ち、地面に突き刺さった。刀身は周囲の水を蒸発させてくぐもった音を上げる。鬼は激痛に呻いて地に膝を付いた。


[戯式(ぎしき)(こう)――(みず)(ひつぎ)]」


 宣言と共に、鬼は周囲二十平方メートルの巨大な氷檻の中に捕らえられた。水が一挙に凍り、頚椎の折れるような異音を響かせる。

 水蒸気を払い、霧の中から銀糸の少女が現れた。


「今度は、本物のようだな」


 柩の中で鬼は忌々しげに呟いた。少女は檻の中へ侵入を果たし、分厚い氷膜の向こうには檻を囲うように龍が蜷局(とぐろ)を巻いていた。分厚い氷は熱を遮断し、徐々に体温を奪っていく。

 鬼は咄嗟に地に刺さった剣に手を伸ばした。

 だが突如天上から伸びた氷柱が左手の甲に突き刺さる。鬼の絶叫が響いた。

 手を完全に貫通して掌に抜けた透明な氷塊は地面に深く突き刺さり、更に大御葬をも射抜いていた。

 淼柩の中は空気に含まれる水分の欠片さえ遊の思い通りに働く。現に吐息が白いのは鬼だけだった。龍は遊と水を介し、箱庭の中へ言葉を零す。


「辻裏の扉を開いたのがそもそもの間違いだった。この地に流れる水は我の褥だ」


 空須來は切られた右手を握り締める。視線の先、地獄の業火と揶揄される炎の剣、その刀身にさえ霜が降っていた。

 万物の根源を捻じ曲げる異能の力は、魄の扱いに長けた者が理の全てを掌握する。辻裏は今や完全に龍と遊の支配下にあった。

 内在世界にも似た絶対的な権力差。手を射抜かれている以上、鬼は身動きが取れない。蹲る鬼の首に時雨の冷たい刀身が宛がわれた。


 白の世界は徐々に黒が滲み出す。

 そして世界が完全に黒に支配されると、そこは現実の世界へと姿を戻していた。空須來が用いた辻裏を繋ぐ符術が破壊されたのだ。

 氷の世界の向こうは、干上がった噴水の中に立つ五体満足の美女が空ろな表情を浮かべて二人を見つめている。建物に配置された全ての符術が崩壊し、周囲は本来の姿に戻っていた。

 ビルは崩落しかけ、一階から上階の内観は殆ど存在しなかった。

 二人が立つ場所は丁度一階の中心。見上げれば朧な夜空がある。符術によって捻じ曲げられていた世界は全て無に帰し、京庵の眩い光が空を照らし上げていた。


「私は決して投降などしないぞ、娘」


 鬼が遊の意図を読み、嘲笑する。


「お前の攻撃には殺意がない。だから私を倒せない」


 鬼は右手を振り抜き、氷柱へと触れる。業火を帯びた掌によって氷柱は瞬時に溶解し、鬼は拘束から解き放たれた。血糊を纏う左手を振るうと、手には蘇った大御葬が握られている。

 鬼は刀を振り、檻を内側から二分した。断たれた氷が崩壊していく。鬼は氷檻を蹴り上げて空へ跳躍した。

 火炎の軌跡を描き、仇敵の首目掛けて振り下ろされた刀の切っ先。

 蒼の瞳が金の瞳を悲しげに見上げていた。錯綜する視線。

 空須來が銀糸に包まれた頭蓋を砕くより早く、龍の顎が開かれる。龍は鬼の左腕を食らい、空へ飛んだ。同時に時雨の刃が袈裟懸けに鬼の胸部を斬りつける。


「殺すなんて言ってない。……わたしはあなたを止めたかった」


 片膝を付き、鬼は頬を血に染めてなお遊を睨み付ける。

 数百年の間に彼の体を焼き尽くした復讐の業火は、消えることも癒えることもない。傷つけられた痛みは当人にしか分からない。

 鬼の腹腔に斬られた痕はなく、刃は鬼の肋骨を折るだけに力を抑制されていた。

 斬られた場所は血ではなく、白い霜が降りていた。峰打ちと同時に切った部分を氷結させる、[戯式・(しゅう)――霜走(しもばしり)]。血液を一時的に凍結させる一撃は身を引き絞るような痛みを与え、相手に紅蓮地獄の抱擁を連起させる。

 二分された氷を割り砕き、龍は風と共に遊の背後に舞い降りた。遊の傍らに鬼の片腕を静かに置く。

 鬼は穴の開いた左手で断絶部を抑えながら、一人と一柱の勝者を仰いだ。


「ならばどうする。私は絶対にこの坐からは引かない。投降するつもりもない。私はお前達人間を、決して、許しはしない」

「絶対律を復讐へと曲げたか」


 龍は憐憫の声を響かせる。鬼は口元を歪め、なおも美しく嗤ってみせた。


「ならば鬼の私は千歳(ちとせ)の向こうで死に滅んだ。今此処に居るのは過去に捕えられた亡霊以外の何者でもない。人間は変わらず力を振るい、驕り、弱きを貶め、栄華に浸り切っている。虐げられた者のことなぞ終ぞ考えずにな……。ならば私は怨霊となって貴様等人間の首を同族の前に差し出そう。そして私は鬼神に成り代わってみせる」

「あなたは……」


 遊は言葉を紡ごうとした。重力を持った鉛の言弾を体の奥へ戻す。


(あなた自身がこんなにも助けを願っているのに。)


 絶対律を曲げた空須來は復讐鬼へと身を落とした。身を同族と怨敵の赤に染め、血塗れた姿で嗤っている。声はもう届かない。何が苦しいのかも、何が悲しいのかも分からずに、全てが残酷な赤に包まれて。


「空須來様!!」


 遊は振り上げた刀を下ろし、緩慢と鬼の背後を見た。

 廃墟の向こうに、仮面を外した茨生偉継が立っていた。符術による手枷は両腕を背中に縛っている。面のない姿は遊に偉継の真実を知らせた。

 後ろには遊の仲間達が立っていた。だが誰一人としてそれ以上、歩を進めることは出来なかった。不可視の領域が世界を分かつ。


「偉継か……」


 鬼は背後を振り向くことなく、片膝をついたまま地を見つめていた。罅割れた床に残る焦げ痕に、空須來は呼び起こした牛鬼が負けたことを悟る。

 名を呼ばれた偉継はその場に立ち尽くした。


「是に……。偉継に御座います」

「首尾はどうだった」


 鬼は血臭が混じる錆の息を吐き出し、空を見上げる。

 上空にあった符術と召喚陣は砕かれ、何よりこの静寂が餓鬼と王餓の敗北を知らせた。手駒が静寂と共に打ち砕かれていく。

 偉継は言葉に詰まる。自らを拘束する鎖を空須來は見ていない。全てが終わったのだと告げることが偉継には出来なかった。敗北は互いの存在理由の消失と直結する。


「私は……」


 闘いの中で告げられた容赦のない言葉は鬼人である偉継を殺した。徹底的に殺し尽くした。そしてその先に涙があった。忘れることの出来なかった痛みと悲しみを突きつけられ、偉継に残された方法は肯定しかなかった。


「……負けました。あなたの矛である私は、完全に死にました」


 震える声に鬼は静かに目を閉じた。

 手管の最後の駒が重い音を立てて倒れる。王手を意味する敵の騎士が自らの切り札たる女王の杖を無言で奪い去る。

 いっそ名高い聖剣で法衣を纏う司祭も平伏する兵士達も、全ての首を刈り取れば良いのだ。だがそれは空須來自身が選び取った方法だ、眼前の少女は違う。


「……そうか」


 声は穏やかだった。赤鬼と揶揄される姿が払拭されていた。

 偉継は両手を握る。血が溢れて大地を赤に染める。数日もすれば雨の一つで払拭される悲しみの名残。あの日と同じだ。


「ならば最期だ、偉継。……私を救ってくれ」


 言葉に偉継は顔を上げた。小さな背中が黒と金の瞳に映る。

 命令を前に、偉継の体は考えるより先に動いてしまっていた。何より染みついた言葉の呪縛に、少女は鬼神の元へ駆ける。

 知砂の手が鬼の鎖を掴むより早く、偉継の姿が掻き消える。鈍色の鎖が彼女の腕を締め上げた。だが強度を鬼の剛力が上回り、偉継は両腕の骨を砕きながらも符術の拘束を振り切った。

 龍が偉継の向かう先を長い尾で防ぐ。


「邪魔をするな!」

「お主の神は死んだのだ。矛であるお主が死を迎えた時と同じように」


 銀の瞳には悲痛の色があった。遊だけは龍の胸中に気付いている。

 龍はせめてもと、尾を引き寄せて鬼の背中を偉継に開示した。空須來は笑みを払拭して遊を見上げる。


「遊と言ったな。問おう。貴様は何故私の前に立つのだ」


 静寂。

 遊は血を零しながら時雨を地に突き立てる。空須來と同様に出血は多い。それでも苦痛に呻くこともなく、遊は鬼の問いに耳を傾けていた。


「それは白亜の人間としての義務か? それとも正義か。名誉か、矜持か否か」

「わたしは」


 遊は喉に絡む血痰を飲み込み、鬼と同じように片膝を付いた。


「わたしはずっと昔、理由も分からないまま父と母を殺された。だからあの時、全てを知るために剣を握った。……きっかけはもしかしたらあなたと似ていたのかも知れない、でも今はもう違う」


 道を違えた鬼を、嫌悪も悔恨もない穏やかな青の瞳で見つめる。贖罪の儀にも似た静謐に血の滴る音が響く。


「わたしはわたしでしかない、だからここにいるの。……本当はあなたを助けたかった。でもわたしは自分の見える範囲しか守れない。全部は絶対に守れない。だからあなたをここで止めるの、わたしの見える範囲()で絶対に」


 遊はふと視線を上げる。自分を見下ろす龍と三人の仲間を見た、それから遠い街の光を。幾多の縁が絡まる場所だ。


「私の後ろには――あの街には絶対に行かせない」


 少女の解は短く幼稚な夢想以外の何物でもなかった。故に明快だった。

 鬼の眼前に立つ少女が振りかざすのは全てが清廉とした、鬼にとっては遠い過去の夢だ。子供が英雄を夢見、年を経るごとに磨耗していく心の刀。現実という名の拘束と己の無力。狭まる希望に打ちのめされ、肥大していく絶望に夢と言う言葉すら黒ずんでいく。

 赤に滲んだ写真が脳裏を過ぎり、鬼は頭を垂れた。聞き覚えのある声が頬を撫でた。

 歪な角を持つ者として、遠い昔に言われたことがあった。父だったか母だったか、憎しみに染まる過去の映像は既に曖昧になってしまったが。

 「お前は神ではない」と。「故に背負う必要もないのだ」と。言葉と共に夕日の中で誰かが肩を叩いた。優しく、撫でるように。振り返った先には誰も居なかった。畏怖の瞳に怯える毎日の中、その言葉が唯一の救いだった。もしかしたら彼の声が鬼神のものではないのかと、幼い頃は思っていた。

 そして同族が殺されたのは、それから直ぐのことだった。


「……私は何処で(たが)えたのだろうか」


 神になれなかった蛭児(ひるこ)として、空須來は鬼神の存在を長く忌み嫌ってきた。星の数ほど居る同族をどうすれば守護することが出来るのか、あるいは神ならそれが出来るのか。

 角が生え揃っても答えは出なかった。そして今も。己の手は血塗れだった。誰一人救えずにいる。何が正しいのかも分からずに。

 眼前の少女の解に偽りはないのだろう。空須來が一度諦め、絶望と憤怒の沼に捨てた信念。それを捨てることなく、青に宿した強い瞳がそう語っていた。強い。遥かに強かった。

 鬼は少女の解に首肯した。

 過去の幻影を振り払い、広がっていく血溜りに映る自らの姿を見つめた。退路はない。自らの希望も夢も全て捨てた。失ったものはもう戻らない。暖かい家族も、人間の友も、あの美しい山桜も。


「まるで赤鬼のようだな」


 呟いた声はあまりに低く、遊には届かなかった。

 鬼は血液が断続的に噴き出す腕から手を離し、手刀を遊の腹腔に叩き付けた。あまりの速さに誰も鬼を静止することが出来なかった。


「ぁ……ぐ…っ」


 遊の痩躯が地に倒れる。主に従う時雨が悲しい音を奏で、地に伏した。

 敬は条件反射で装具を具現化し、鬼の背中に殴りかかる。だがそれも空しく宙を掻くばかりだった。鬼は遊の傍らにあった自らの腕を掴み、建物の二階へ軽々と跳躍する。


「どういうつもりだ、空須來ァ!」

「こうなっては強制執行も止むを得えません」


 敬の背後に臨戦態勢の花誉が立つ。鬼は階下を見下ろしていた。

 駆け寄った知砂が遊の肩を抱き、傷の有無を確認する。手刀は鳩尾に浅く触れただけのようで、骨折も内臓破壊もなかった。空須來を見上げる紫の瞳は冷たい憤怒が宿っている。

 龍もまた湖面の如き静かな怒りを宿らせて鬼を見ていた。空気が氷結していく。


「朱天童子よ」

「みなまで言わずとも良い、自らの愚かさは分かっている。故に私はもう戻れないのだ」


 吹き零れる血液が夜風に煽られ空を染める。血の雨がはたはたと廃墟を濡らす。

 鬼は立ち尽くす少女を見下ろした。

 少女は祈りを乞い、鬼を見上げた。


「偉継。お前には最後の最後で迷惑を掛けた。すまなかったな」


 主君の二の句を怖れ、偉継は(ぬめ)る舌で必死に言葉を紡いだ。


「嫌です空須來様! お願いです! 私を……!」


 鬼は静かに首を振った。

 そして朱の写真に残された、最期の微笑を浮かべた。氷の彫像が解けて垣間見せた美貌に誰しもが息を呑む。


「分かっているだろう、偉継。お前は人だ。もうこんな恐ろしい鬼になってはいけないよ。鬼ごっこは此処で終いだ」

「空須來様!!」


 鬼は困ったように笑う。そしてその微笑を業火が遮り、鬼は京庵の闇へと消えた。

 敬は鬼を追随して二階へ跳躍するも、既に咎人の姿はなかった。血溜まりに浮かぶ二分された翁面の片方、その右側。敬は鬼の消えた闇を睨みつけていた。

 白み始めた街に警鐘が響き始める。花誉は会話機能を断ち、電子手帳を閉じた。


「十五分前、白亜の増援を呼びました。……まさかこんな形になるとは思いもしませんでしたが」


 花誉は踵を返し、立ち尽くす少女の腕に再び符術による拘束を行う。偉継は声もなく、なすがままに拘束を甘受した。花誉は努めてその白い頬を伝う涙を見ないよう心がける。


「知砂」

「……分かってる」


 促す声に知砂は背後を振り向ことなく、長い夜の終わりを締め括った。


「茨生偉継。四月十六日、〇三五〇の時刻を以って現行犯逮捕」


 法の番人が罪を掌握する、重苦しい施錠の音が響き渡った。

 知砂は溜息を堪えて少女を見つめる。随分久しい気がして、銀髪に指を辿らせた。


「ちぃち、ゃ……」

「喋んな。彼方此方(あちこち)折れてる」

「でも、空須來さん、が…。止めない、と……!」


 知砂は血に塗れた左手で青い瞳の視界を遮った。遊の動きがぎこちなく止まる。


「仕事は終わった。もう良いの」

「でも……!」

「もう良い」


 遊の喉が引き攣った感情を吐露する。知砂が胸に抱き寄せると、遊はそれでも起き上がろうとした。

 狂える鬼となった空須來の悪夢はもう覚めない。煉獄に堕ちた鬼を止める術はもうない。言葉の届かない領域に鬼は達してしまっていた。

 最期の微笑みが遊の心臓を突き刺している。


「っ……助けられたかもしれない」


 なのに体が動かない。悲痛を含んだ声に遊は血に塗れた手で知砂のシャツをきつく握り締めた。救えない事実が涙を枯渇させて感情を抉る。焼け爛れる痛みを凌駕する苦痛だった。

 龍は翼の盾で守護した二人を見下ろしていた。

 神龍の意図を察した知砂は目礼をし、遊の無事を視線だけで告げた。龍は緩やかに首肯し、四枚羽を羽ばたかせて空高く舞い上がる。巨大な影は白み始めた空にゆっくりと溶けていった。

 耳を刺す寂寞とした夜が終わっていく。

 一人の鬼を煉獄の微睡に沈ませて、四人の長い悪夢が明けようとしていた。





 足元に散り咲く赤の花。錆の腐臭を漂わせながら鬼は膝をついた。ビルの屋上には血の軌跡が描かれていた。呪いの種子が零れ、死の花弁が咲く。

 口に咥えた自らの腕を足元に放り捨てて不規則な呼吸を整えた。背広は赤に染まっていた。足は重く、流れ出る血液と精製される血が拒絶反応を起こしているかのようだった。

 街の彼処では獲物を追随する警鐘が鳴り喚いている。


「無様なものだ……」


 白み始めた世界で声だけが心臓に届いている。

 同族には「鬼にも神にもなれず、虚ろな境界に彷徨う亡霊」と下卑された。それでも千年、己の信念を疑うことはなかった。

 故知は去り、遠ざけ、忌むべき黒の眷族と手を組んだ。彼等にとっては己の行幸など小さきものなのだろう。敗北は死であり、失敗は無価値だ。白亜と黒耀の追手は元よりそうだが、更に黒の眷属が追跡者に加われば逃れる自信はなかった。


「偉継」


 置いてきた片割れの存在が唯一の心残りだった。全ては自らが鬼神になるためとそう言い聞かせていたが、いつも傍らに居た者の不在がこれほどまでに心を乱すとは思わなかった。

 連れてくることは出来なかった。見上げてくる彼女の表情はもう戦鬼ではなかった。年相応の少女の姿だった。彼女は未だ人として歩める可能性が残っていた。だから決別を告げた。

 あの時彼女は何と言おうとしたのだろう。

 死を望んだだろうか、あるいは共に来ることを望んだだろうか、それとも狂気からの解放だったろうか。

 分からなかった。片時も離れず傍に居た存在のことなのに、何一つ。

 傷の痛みとは異なる心臓の痛みに鬼は首を傾げる。


「……愚かしいことだ」


 何かを振り払い、鬼は腕を拾い上げて足を引き摺りながら更なる跳躍を図る。だが鉄柵に足を掛けたところで鬼の五感は微細な気配を感じ取った。

 緩慢と振り返ると、早朝の空の下で生じた三つの影が空須來を捉えていた。

 鬼の流す血液を踏み締めた影達は無言でこちらを見つめている。逆光によって、相対した者達が浮かべる表情は一切分からなかった。


「誰、だ……?」

「朱天空須來とお見受けする。御名(みな)に間違いはないだろうか」


 初めに響いたのは、風に撫ぜられる晩秋の楓めいた温和な声音だった。


「違いあるまい。これでも千歳を超える大鬼だ、あまり油断をせぬことだ」


 次に響いた声は極めて淡白だった。潔癖めいた緻密さで紡がれる声主の影は僅かに低い。


「あっかんなぁ、自分等。怖がらせてどないすんねん」


 空須來の体内で急激に高まっていく敵愾心を霧散させんと三つ目の声が響いた。だが相手の目論みとは異なり、明朗且つ軽薄な西訛りの声に空須來は一層の嫌悪感を深めるに至った。場の空気など読む以前に存在しないと考えている類の言弾だ。


「貴様は甘過ぎる。同族を駒に戦争遊戯を繰り広げたに過ぎぬ者に同情をする価値はない」

「あんたはいっつも真面目で正しい解答すぎんねや、面白ぉない。お堅い石頭やからそらまぁしゃあないことやけど、もうちょい柔軟性っちゅうもんを覚えた方がええて」


 瀕死の状態と言えど、鬼の神経を逆撫でするには十分だった。

 穴の開いた左手を握り締め、剣を呼び出そうと血を零した。歪な召喚陣を強制的に励起させ、空須來は魄を手繰り寄せる。


「止めろ、三人とも」


 四つめの声は空須來の直ぐ後ろから粛然と響いた。

 空須來は頚椎に触れた形容し難い感覚に勢い良く振り返る。

 鬼は声の主の瞳を正面から見つめてしまった。声に、心臓を握られた。


「お前は」

「暫し微睡むが良い、幼き鬼の王よ」


 空須來を映す瞳からは一切の感情が読み取れなかった。湖面に浮かぶ虚像なら掌握出来ようものの、瞳に宿るのは新月の大海より深く全ての色と(じつ)を飲み込んで、反映することも叶わなかった。

 空須來の手中に滲んだ幾何学的な召喚陣は一瞬で無効化されて暗闇に爆ぜた。


「なぜ。何故だ、何故もっと早く」

「暫し泡沫に眠れ、朱天一族最期の末裔――名を空須來。伏して願わくば、其の空が須らく安らかに成らしめんことを」


 荒ぶる御霊を鎮める言祝ぎと共に、空須來の足元には巨大な召喚陣が具現化した。

 召喚陣から生い茂る幾重もの白銀の鎖は鬼の体を這い、捕捉していく。文字で構成された鎖は鬼の口を塞ぎ、円陣の奥へと引きずり込んでいった。

 鬼の喉は力の源を唱えることも出来ない。

 鈍金の瞳が訴える呪言と共に召喚陣は収縮し、やがて一枚の護符へと姿を変えた。静寂の中には既に空須來の姿は何処にもなかった。

 護符を使役した人物は封符に刻まれた朱の手形を見下ろしていた。

 拙い手が握ろうとした最後の言葉は封印者には届いている。悼みに耐えるように目が細められた。

 痛みを血液に循環させ、術者は白み始めた世界を見つめる。

 京庵の街にはいつもと変わらない日常が差し込んでいた。黒を侵食する白。一日の始まりが訪れる。


「罪の形は千古と変わらずか。……()は目覚めさせてはいけないものを目覚めさせたのだ」


 声は街の何処かに居る誰かに向けて紡がれた。それと同時に世界は日輪の光に満たされる。

 声が余韻を纏って消える頃には、ビルの屋上には誰の影も残ってはいなかった。

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