七章:辻ノ別レ路
京庵の新市街――六十七区と六十八区の境界線上にその建物は在った。
周囲の高層ビルの間に埋もれながらも懸命に痩躯を伸ばす姿は、大樹の褥に落ちた一粒の種子を思わせる。企業街として超高層建築物が立ち並ぶ土地柄には不釣合いな建物だった。
白塀と正門は簡素であり質素。正門に嵌め込まれた銀板には《合資会社》茨生という控えめ過ぎるデザインの社名が彫り込まれていた。
違和感がある。
日が落ちて大分経つにも関わらず、労働基準法から外れた会社員が行来する日常。その中に高校指定の制服姿で立ち尽くす少女達も十分に違和感の塊だったが、それ以上の何かが門の向こうにあった。
目的の会社は名刺に印刷された通りの建物だった。正門から大分離れた所に本社があり、駐車場を兼ねた庭先は異常に広かった。四輪駆動車や二輪車は一台もない。
「変な感じがするの」
建物の規模に反して門だけが異常に大きい。ただ単に、遠距離にある建物の小ささが門の巨大さを助長しているだけかも知れないが。
だが非日常に繋がる扉は僅かな違和感を纏い、曖昧に日常と繋がっている。辻、坂の上、四つ目の扉、廃墟……。無数の扉は時折開閉を繰り返して虚を零す。
日常を歩く者は気付かない。しかし一度でも異世界を垣間見た者であれば、奇異な直感が何よりの確証になる。
遊の言葉に知砂が首肯して正解を告げた。
警備員の居ない無人の正門は鉄条製で、知砂は扉に手を翳す。微細に鉄の感覚とは異なる、形容し難い違和感が掌に宿った。視覚と触感が告げる「違和感」。
足を踏み出すべきなのに、何となく憚られる。そんな曖昧な感覚だ。
「だろうね。[不侵之呪]だ」
知砂は制服の内嚢から一枚の符を取り出し、社名が刻まれた銀板に貼る。直ぐに符と看板の間で微細な火花が散り始めた。
「随分古風な札を使っていますね。最近ではあまり見ない術印です」
「若く見えても千歳の大鬼だからな」
「素直にここに居れば良いけどな。誰も居なかったらどうすんだよ? 留守とか」
「居るよ。絶対」
懐疑的な敬の言葉は遊によって直ぐに否定された。
蒼の瞳は真っ直ぐ前を見つめている。敬は少女の肩に腕を回し、満足そうに顔を覗き込んだ。
「調子戻ってきたじゃねえか、遊」
「う……。だ、だってゆうが最初に行ったら、けいちゃん怒るでしょ?」
「あの時はあれだよ、お前いつもと調子違うのに無理して突っ込んでったろ? オレはそれが嫌なの。つまんねえ隠し事は嫌いだ」
銀糸をたっぷりと撫で回した後、敬は拳を遊の前に突き出す。遊はおずと拳を合わせ、許容と甘受の儀式にはにかんだ。
「ん、分かった」
「よし。じゃあもうこの話は終わりだ。オレの背中は任せたぜ、遊」
牙城を前にした四つの影は平等な友人、あるいは共犯者、もしくは同僚として線引かれている。ともすれば全ての項目に当て嵌まるのだろう。四人の関係図は簡単なようで複雑だ。
対して、鬼ヶ島で宴に明け暮れている鬼達の胸中も定かでない。伝説と御伽噺は常に一方の出来事しか語らない。
一際大きな音を立てて拮抗する符術が弾けた。
焼け焦げた異臭の発生源は知砂が貼り付けた符術だった。気味の悪い音を立てて、鉄扉が口を開く。
「先方さんの方が上か」
「入れねえのか?」
「いや、入ることは出来る。ただ、侵入すれば内側からもう一度[不侵之呪]が発動する」
「術者を倒さない限り出ることは叶わない、という訳ですね」
知砂が首肯し、四人の瞳が交わる。いずれの瞳にも恐怖の色はない。
「だったら倒せばいいだけじゃん」
不遜な物言いは殴り込み特攻隊長の名に相応しく、敬が扉を押し開いて第一歩を踏み出した。
三人もまた各々の胸中で鉄扉を潜る。
開かれた扉はいつも同じ場所に繋がるとは限らない。非日常を直視した者であれば大なり小なり、扉を潜る時にはそれなりの心構えが必要だ。
【七章:辻ノ別レ路】
扉の先に広がっていたのは、街の中心という現実からはおよそかけ離れた世界だった。
地面は土独特の柔らかい感触を靴底に伝えた。月のない新月、幸いにも周囲のビルが闇を照らす光明になっている。塀の向こうにはまだ現実の残存が見えるも、門の中には一切の光源がなかった。噎せ返るほどの湿った土の臭いもまた、門の外では一切感じ取ることが出来なかったものだ。
扉の内側は闇を内包する林になっていた。木の多さで森となるのならば正しく此処は林と言えた。多からず少なからず、木々が己の範囲を保って根を下ろしている。土は水捌けが悪いらしく、足を動かすたびに粘着質な音を立てた。
建物の姿は林の何処にも存在しなかった。先まで見ていた光景とは一転した状況に、遊はこてりと首を傾げる。疑問符が頭上に浮かんでいた。
知砂が背後を振り返ると、扉は緩やかな動作で閉じていった。
牙城の鉄扉が厳封されると同時に塀は消え失せ、周囲の光も消失した。湧き出した深淵と、這い出した純粋な闇に遊は姿勢を正す。
非日常に足を踏み入れた四人は顔を見合わせた。
「悩まなくても壁をさ? 探し出して飛び越えりゃあ外に出れんじゃねえの」
「さっきも言ったけど、白亜の符術が負けてるんだ。無理に出ようとすれば辻裏に迷うことになる」
辻裏。それは区切られた二つの世界のことだ。二次元と三次元、第二世界と第三世界、日常と非日常。何処の世界にも反則としての境が存在し、その全てが人間の力が及ばぬ闇の世界と銘打たれる。
そして人間界に存在する境はより暗い。四辻や井戸の底、人に忘れ去られた場所も似た所へと繋がっている。人間が考えるより世界はずっと多い。
敬は頭を掻く。手近な所に落ちていた木片を拾い、指を鳴らして先端に火を灯した。人工光とは違い、暖かみのある灯火が闇に半球を生み出す。
「このご時世に松明とか、どういうことだよ全く」
「敬ガ居テクレテ良カッタナー」
「棒読みで言うな! ホンットにやる気ねえな、オレ等の司式は。……てかおま、着火装置持ってんじゃねーかあああ!」
素知らぬ顔の知砂は文明の利器を用いて煙草に火を灯していた。花誉が「やれやれ」と嘆息をつく。
「煙草うめえ」
「っ……この火がなくなったら、お前のそれ全部松明にしてやるかんな……っ」
先陣を歩む敬は、早速木の根に躓いた遊の手を取って歩き出した。喉の奥で笑う知砂と苦笑を浮かべる花誉が後ろを付いていく。
「先程とは空気の質感までもが違う……。なんだか不思議な感じですね」
「古代式って言う強力な奴なんだよ。周囲にはこの場所に何の変哲もない建物があるように見えてるだろうね。勿論、動物や廻來天にも。一体いつから仕込んでたんだか」
昨夜、四人が茨生と一戦を交えた後に具現化した召喚術も同様に古めかしいものだった。
あの後、大量の小鬼が京庵の地に舞い降り、街は一時騒然となった。だが直ぐに白亜職員によって小鬼の群れは一匹残らず送還され、事なきを得た。あのような大々的な召喚術は失われた召喚技術――古代式しか当て嵌まらない。
「会社は偽装ですか?」
「多分ね。舗装もされてない道を毎回歩いて会社に通うとか、ないね。ないわ。ないない」
「ホンットやる気ない。調べろよ、実地に赴くとかさ。お前いつか絶対それが手ぇ引っ張るぞ」
「けーちゃん、足だよ?」
現状、手を引っ張られている遊は隣を仰ぎ見た。敬は数十秒の沈黙の後で明後日を向く。それきり沈黙した。
獣の気配がない林は葉を鳴らすばかりで生命の胎動が存在しない。模造された箱庭に投げ込まれた錯覚を与える。
「鬼は何故、人を嫌悪するに至ったと思いますか」
闇によって互いの表情は見えない。誰しもが前を向き、花誉の寂莫とした問いを聞いていた。敵の気配がないか意識を張り巡らせながら、口調だけは穏やかだった。粘着質な足音と草の音が間を駆けていく。
知砂は紫煙を吐き出す要領で深い息を吐き、沈黙を吹き清めた。
「ヤマトが神帝に統一されるよりずっと前、人と多種多様な廻來天が共存していたっていう話もあるけれど、まぁ昔々の御伽噺さ。信徒によって排斥されたのが全ての発端じゃないの」
遊はちらりと敬の横顔を見る。「あーあ、始まった」と言わんばかりの難しい顔だった。
「神帝とそれに敵対する廻來天、彼らと結託した円ノ衆による【界儡戦争】が発端だと?」
「他にも色々あるだろうが、あたし達が習うのは所詮歴史の基礎的なものでしかない。あるいはそれよりもっと純度の低いものだ。年号と勃発した事件を解答欄に書いてそれで終わりさ。……蓄積した憎しみが今に根付いて、別に可笑しい所は一つもないよ」
学業において一年の空白があったにも関わらず、白亜と黒耀が手練手管を弄してまで所望した逸材はいつも通りに退屈そうな欠伸を零す。
対する花誉の瞳は疑念に満ちていた。彼女は白亜と黒耀が長年広告塔に欲しいと交渉を続けてきた、京庵有数の名家たる出自を持つ。
白亜が経歴や血筋、学力といった社会的地位を大々的に求める組織でなくとも、自然、力のある者には相応の不自由が生じる。強大な力は所持しているだけで脅威となり得る。交渉という形で促される社会的拘束は、畏怖の対象と見なされないよう他者の視線から逃れる囲いを作るということだ。
「私達は歴史学者でも考古学者でも、まして断罪者でもありません。白亜と黒耀、犯罪を撲滅するために動く駒の一つ。しかし事件は決して文字で理解してはならない。……私が前指揮官より教わった幾つかの教訓の一つです」
「現指揮官の無能っぷりには驚かされるよ。あたしと遊はどうにも当たりが悪かった。昔から籤運が悪いのは知ってたけど、アレばかりはどうにもねぇ」
遊が悪口を咎めるために振り返る。知砂は苦笑を浮かべて手を振った。
「なんにせよ、だ。これ以上この街で暴れられると困るのは事実。例え募る憎しみがあろうとも、それ以上にどんな理由があろうともだ」
花誉は言葉を血脈に浸透させるように息を吸う。他者の身を血肉として、新しきを知るべく。
そして四人は正門の反対側へと到着した。門からは数百メートル程度の距離だったろうか。
林を抜けた先には蔦に侵食されつつある廃墟が一棟だけ、さながら無縁仏を弔う墓標の呈を晒して屹立していた。四階建ての廃墟は隙間から死霊の息吹を鳴らしている。窓硝子は全て割れ、明かりのないビルは亡者の住処となっていた。林の木々は廃墟を飲み込もうと太い根を伸ばし、途中で息絶えていた。
「あたしの愛すべき赤月が松明になる危険性はなくなったみたいだねえ」
敬は松明の火を吹き消し、用がなくなった枝を放り捨てた。花誉は周囲に視線を配る。
「夜闇に紛れて敵を討たんと欲す。定石かと思ったのですが」
知砂はビルに背を向けて空を仰いだ。街の夜灯を剥ぎ取った夜空に星は見えない。代わりに赤い煌きが見えた。
「定石も定石。期待通りだよ」
木々の遥か上、敷地の空を覆い尽くす巨大な円陣が具現化していた。複雑な方程式からは何本もの鎖が垂れ下がっている。鎖は踊り狂いながら伸び始め、遂には大地に触れた。
やがて林の至る所で赤い閃光が弾け始める。天上の召喚式は明滅を繰り返し、閃光と同調した。悪鬼の爪先が非日常の扉を叩く。
「鬼の行進か」
地面に映った方陣からは土を押し上げて幾つもの手が湧き出した。
手はどれも萎れたかのように細いが、垢に塗れた爪は長く鋭い。赤黒く、あるいは苔生した色の肌を持つ異形の生き物が筋肉の軋む音を立てながら、地面から生まれ這い出でる。
禿頭から伸びた角は総じて一本で、いずれも極端に短かった。殺意に染まって濁りきった金色は、それでも彼等が鬼に属する者であることを知らしめた。膨れ上がった腹とみすぼらしい外見、細く長い腕の先にある手に握られた骨根棒は赤錆に濡れている。体は平均して一メートルほどと比較的小さいが、鬼の持つ筋力と瞬発力は十分に危険視されるものだ。
鬼族の最も下層階、骸洗乃小路に住まうという〈餓鬼〉の群れだった。何匹もの鬼が呪わしい産声を上げる。
「ア汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚ン!」
硫黄と臓物の苦々しい腐臭を発する口からは粘つく唾液が糸を引く。
彼等は獲物を求めていた。だが世界に産まれ出ると同時に、首や手足を方陣から伸びた鎖が拘束している。そのために自由に動くことが出来ない。胎児を繋ぐ臍の緒は軋りを上げて甲高い声を鳴らす。
彼等に人間の言葉は通じない。動物的な規則に基づいて日々を生きている。弱肉強食という分かりやすい理の元に集う彼等を排除する術は実力を以って送り返す他にない。
敬が拳を固めて前に出た。大勢の敵を薙ぐのは彼女の得意とするものだ。敵への勧告を兼ねた、強大なまでの実力差を知らしめる意味を背負って彼女は最前線に立つ。
しかし敬の歩みを花誉の腕が止めた。
「私向きの領域です、敬。お願いします」
敬は首を傾げたが、直ぐに此処が都会の中心に浮かぶ森の孤島だということを思い出す。少しだけ名残惜しそうな姿に花誉は苦笑した。
「ここは一つ、私に任せて下さいな」
「ん、任せた。無理すんな?」
「はい。任されました」
拳を突き出した敬に自らのそれを重ねた花誉は微笑む。背後には黒々とした森と幾千の悪鬼しか居ない状況で、だ。
知砂の背後から顔を出した遊が花誉を見上げた。花誉は蒼の瞳を見つめ返しながら頷く。
「知砂の補佐を任せますね、遊」
司式の補佐は本来なら花誉の役目だ。遊が頷くと、得心した花誉は微笑の名残を残したまま踵を返す。優美さを示すように背中を隠した胡桃色の髪が弧を描く。
「それでは皆さん、ご武運を」
殺意が渦巻く中へ、花誉は行楽に赴くような軽い足取りで消えていく。森の各地で鎖が解き放たれる音が唱和された。
背を見送ることはせず、三人は建物の中へ足を踏み入れる。
廃墟独特の冷たさが蟠っていた。黴と腐敗した水の臭いが鼻を突く。
「まぁ花誉の一騎当籤だろうな」
「けーちゃん、当千」
再び沈黙。
知砂は後頭部を掻きながら背中にくっついて離れない少女を見遣った。
身の丈二メートルに及ぶ牛鬼を前にした時でさえ怯まなかった彼女は、どうにもこういった場所に弱い。
怪談や、いかにも魑魅魍魎が潜んでいそうな場所が怖いと言う。四つの漢字はいずれも鬼という漢字が入っている。おぞましいもの、畏ろしいものの代表が恐らくこれから相対するだろう彼等だ。言葉に含まれた妖の数もまた多く、彼等は言葉の中にも生きている。境のように隣り合わせで、それ故に人々は気付かない。
知砂はふと歩みを止めた。白と黒の正方形のタイルで構築された床は所々が罅割れている。同じ景色が果てしなく続いていた。
「歪んでるな」
門を潜った時を喚起させる違和感が生じていた。
明かりのない室内だが決して広はないはずだった。しかし今は何処まで歩いても終わりがない。入口は一向に遠のく気配がない。まるで同じ場所で足踏みを繰り返しているかのようだった。
知砂は電子眼鏡と電子手帳を繋ぎ、空中にいくつかの情報を立体化した。
しかし汎地球測位システム――所謂GPSが表示されない。電子手帳の左上には圏外という無機質な二文字が点滅していた。知砂は手帳を折り畳み、がっくりと肩を落とす。
「繋がりません圏外です京庵のど真ん中で全く有り得ない事態です。こうなってはあたしの出番もう無くないスか」
遊は爪先立ちをして、項垂れる知砂の頭を苦労しながら撫でた。
「よしよし、なの」
頭を下げて素直に撫でられている知砂を生暖かい目で眺めつつ、敬は大きく伸びをした。分かりにくい公式は苦手だ。全ては数日前の闘いのように単純明快なものが好ましい。
「ここもナントカって術の中かよ。……何が目的なんだっつの」
声の響き具合からして相当な広さだ。歪みは意外にも大きく、それらを操っている者は恐らくこの上階に居る。
入ってきた場所から出ることは叶わないだろう。正門を潜った時から此処は敵の領域だ。虎穴に入らずんば、虎の流儀に従わねばならない。
敬の演算式は天井を突き破るのが最も手っ取り早いと考えている。虎も驚く即決ぶりだった。既に身を低くして、手中には朱の干渉術式が火の粉として舞っている。
しかし敬の興味は火粉と共に霧散した。日常の色に染まる琥珀は砕かれ、中から古の獣が蘇る。好戦的な獣だ。
遊もまた知砂を守るように歩を踏み出した。廃墟の薄ら寒い空気は既に廃頽的なものではなく、生き物の体内のように刻々と変化していた。
そして再び天井に術印が灯る。
庭先で見たものより直径は小さいが複雑さが増している。知砂の瞳は描かれた構成式を精確に読み取った。
「未だ喚ぶのか……!」
暗闇に紅い閃光が雷鳴の如く弾けた。深淵を貫く光と共に、召喚陣をなぞって鬼火が灯される。照らし上げる光は青く輝く硫黄による焔だ。
三人の瞳が見開かれる。
閃光が馴染み、鬼火が照らし上げたのは浅黒い肌を持つ男だった。
絽で仕立てられた黒布に赤い元禄模様が入った麻着物を纏い、荒い作りの黒い小素襖を着用している。
瞳は金。何より左右のこめかみから伸びた五十センチにも及ぶ湾曲した角が鬼族であることを証明していた。束ねられた圧倒的な筋肉は鎧のように硬質だ。
年の頃は四十代も半ばに見えるが、鬼は長命であり、年齢はもしかしたら更に上かもしれない。若々しい芝生を思わせる短い黒髪と好戦的な瞳が鬼火に照らし上げられている。
高い位置にある金の瞳が三人を睥睨した。空気が質量を孕んで圧し掛かる。
「聞いてはいたが、随分と小せェ奴等だ」
声は酒に焼けて掠れた男の低音だった。
「仲間の仇でも討ちに来たのか?」
敬は右手右足を前に、半身の型を取りながら男に問うた。男は身を逸らして豪快に笑う。
「嗚呼、威勢の良い奴が居るなァ。やれ、同胞のラオウとドコウが世話になったみてェだ。一つ手合わせ願おうかァ」
靴を履いていない素足が前に出る。脆いタイルを容易に破砕して鬼の瞳に力が篭る。空気が質量と共に押し寄せた。
「行け、遊、知砂。こいつはオレと遊びてえらしい」
敬は正面を見据えたまま、両拳を叩き合わせる。
二人は踵を返し、鬼火に照らされて現れた回廊へと疾駆した。
それを見逃さない鬼の姿は、巨体にあるまじき速さで一瞬の内に掻き消える。五本の鎌指が遊の襟首を捉えんと伸ばされた。
「っ……!」
遊は回廊へ向かうことを止め、指先に干渉術印を生んだ。逃げるより攻撃を受け止めた方が良いと悟ったのだろう。実際にそれは懸命な判断と言えた。
両者の距離が零になるその時、鬼は再び掻き消えた。
鬼の向かう直線の先、遊の足元に一線の焦げ跡が残る。
鬼は緩慢と背後を振り返った。火炎を纏った敬が挑発するように笑む。
「誰が行かせるっつたよ。何処見てんだ、テメエ。相手はこのオレだろうが」
鬼は目を細め、敬へと向き直る。
「行け、遊」
遊は小さく頷き、闇に続く階段へ消えた。鬼は遠のいていく足音を肩越しに聞いている。
「追おうと思うなら追えた、って感じだな? オッサン」
鬼は眉間に溜めていた皺を指先で揉み解した。色の良い犬歯が剥き出しになる。
「嗚呼、人間慣れねェことはするもんじゃねェなァ。とまァ、俺は人間じゃねェんだが。……にしても、流儀っちゅうのを分かってんじゃねェか、小娘ェ」
人好きのする笑みだった。
口調や体つきこそ粗野な印象を与えるが瞳には殺意がない。先の追随も冗談半分という風だった。だが隙はない。敬もまた臨戦体勢を崩さなかった。
「何で行かしたんだ? お前、朱天っていう奴の手下だろ」
「あんな若造に興味はねェし、従ったつもりもねェよ。俺は俺の願いの為にだァ」
「願い?」
鬼は地に片膝をつくと、岩石を思わせる両拳を地面に叩き付ける。地が揺らいだ。
「無粋な話は此処までだ。闘いの勝者が敗者から真実を聞き出せる。悪くねェだろう?」
拳を何度も打ち付けながら、鬼は敬と視線を合わせる。琥珀と金の瞳が交錯する。
次に鬼が割れ窪んだ地の底から手を持ち上げた時、その手首には重々しい鉄製の手錠が嵌められていた。鎖のない拘束具は鬼火に照らし上げられて鈍い光を放つ。
「我、〈獄卒者〉第二十二指、拷炎。〈若頭〉の御座に立つ者として、一族の真実は知らねばならん」
敬は拷炎と似た笑みを浮かべた。手嚢と手首に纏う焔。鉄金は熱く、陽炎を纏っていた。
「特務適格者対犯罪取締機関本部《白亜》先鋒如儡師、兜我師敬。御霊のお相手仕る」
名を酌み交わし、二色の炎がぶつかる。
建物全体が大きく揺れた。
天井から落ちてくる埃を払いながら知砂と遊は階段を上る。踊り場に差し掛かるたびに「非常口」と書かれた緑光が道標となり、先を示した。
「けーちゃんとかよちゃん、大丈夫かな?」
見慣れた背に続きながら、先を行く知砂に問う。知砂は歩みを止めずに眼前を見据えていた。左目に掛かった電子眼鏡が人工光に反射して瞳を隠す。
「心配なのはむしろ建物の方でしょうよ。ここもまぁ随分弄られてる」
階段自体は建物本来の物らしく、狭く傾斜が激しい。だが肝心の三階から上階へはいくら階段を上っても辿り着かない。階と階の狭間にある階が何処までも続いていた。
知砂は三階と書かれた踊り場へ四度目に訪れた時、遂に足を止めた。緑色の光が朧に揺れる。この人工光さえ人を迷わす狐火だった。
知砂は踊り場の壁に背を預けて乱れた息を整える。遊は知砂と向き合う形で手摺りに背中を預けた。
「遊、ここから先はあんた一人で行きな」
知砂は胸元から小箱を取り出して、内一本の煙草を咥えた。遊の疑問を燃やすように着火装置で先端に火を灯す。暖かな緋の光に憧憬を感じながら、大きく息を吸い有害物質を肺の奥へ行き渡らせる。手摺りから背を浮かした遊を目で制した。
息を吸って吐くだけの短い沈黙が訪れる。遊は紫煙の向こうをじっと見ていた。
「鬼はなにより正当な戦いを望む。朱天がこれまで街でしてきたことはとても正当とは言い難いけれど、連中はここにあたし達が来ていることにはとっくに気付いてるはずだ。だからあたし達をわざと引き離すような真似をした」
「一対一で戦うために……?」
知砂は曖昧に頷く。
庭先での一件は小手先を調べるためだったのだろうが、そこには花誉が残った。そして上階に巣食う鬼の「正当な戦い」とやらが個々人の闘争である確証はない。全ては鬼としての矜持を持ち合わせていればの話だからだ。
知砂は指に煙草を挟むと壁から背を浮かせる。そして踊り場の鉄柵に両手をついて腕の籠に遊を囲った。
「いいね、遊。ここから先はあんた一人で行くんだ」
「で、でも、ちーちゃんは……っ」
知砂は遊の言葉の続きを唇で塞ぐ。
微量の甘さを含んだ知砂の煙草の味が、僅かに開いた唇の間から香った。重ねるだけの短い口付けは遊の瞬き一つ分で直ぐに離れる。
「あたしには奥の手があるから大丈夫」
「は、はぅぅ……」
焦るか恥じらうべきか、混乱の渦中に居る遊の耳元で知砂が囁いた。
「大鬼はあんたにしか倒せない。頼んだよ、遊」
細腰を引き寄せ、羽毛の柔らかさを持つ銀糸に口付けを落とす。
いつの間にか通例となった儀式に遊は自分達が置かれた状況すら忘れ、思わず目を細めた。底辺で繋がっていることが証明されなくても、なにより五感と体があなたを覚えている。これは別れの儀式なのだ。
遊が顔を上げると知砂は拘束を解き、遊の胸元を指先で軽く押した。
「ふわっ?」
同時に背後の手摺りが空気に溶けて消え失せる。危うく背後に倒れそうになり、遊はバランスを整えるために二三歩下がった。
疑問のままに顔を上げると、踊り場の壁は存在しなかった。向こう側は眩い蛍光灯の光に満ちている。
光の世界の中には唯一の影として漆黒の背広を纏った女性が立っていた。
般若面に背を向けたまま知砂は笑みを浮かべる。遊が好きな悪戯心に満ちた笑みだ、不意の口付けを喚起させるように煙草のフィルタで自身の唇を示す。
名前を呼ぶべく言の葉をかき集めた。
しかし一瞬だけ交わった般若面の視線は咎める意図を孕み、言葉は打ち消される。
遊の細い喉が鳴るより早く、知砂と般若面の姿は突如現れた灰色の壁面によって無慈悲にも閉ざされた。
世界は遮断され、遊は一瞬の内に漆黒と化した世界に取り残されている。
痛いほどの静寂があった。
階下で繰り広げられている戦いなど泡沫のように、夜の静謐が体を突き刺す。
ふと階段の先を見ると、非常灯に照らされた階層は次が四階であることを示していた。踊り場の壁は冷たく、白昼夢を闊歩する違和感が纏わりつく。
濁流の音が聞こえそうになり、遊は思わず頭を振った。
全てを奪われたあの日、記憶の最後で父と母は笑っていた。それが唯一の救いだった。残された数枚の電子写真だけが遊と両親を確かに繋いでいる。
奪われた日が雨と共にあるならば、何かを得た日にも確かに雨が降っていた。新しく得た力と大切な人が、今の彼女を此処に繋ぎ止める真実だ。この力を怖れずにいることが出来るのも同じく、そこに不動の真実があるからだ。
昼の書庫室で見た血塗れの写真を思い出す。あまりに相似した事実に愕然とした。遊の手元には泥に塗れた写真がある。
切り取られた過去は美しく愛しい、何処にでもあるような日常だった。残夢と消えた平穏な現実は血塗れた非日常へと姿を変えた。
掌と意志をきつく握り込んで凝結させる。
仲間は皆それぞれの場所に立っている。自分が居るのは未だ戦場の途中だ。
遊は最上階を目指し、駆け出した。