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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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六章:朱ノ邂逅

 はたして声はいつのものだったろうか。

 長い間闇に支配された世界に差し込む一条の光。

 それは神との対峙に相違なかった。


「おいで」


 声は万象の狭間にある。男か女か、敵か味方か、人か否か。

 差し延べられた手は赤に染まり、それが何であるか即座に理解した。鉄錆の臭いがする。

 その白い背広に散りばめられた朱は、生物の体内を巡る水だ。影に傷はない。誰かを傷つけたことによって浴びた返り血であった。


「こんな所で永遠を生きるつもりかい?」


 暗闇の中に居たことで、光明に満ちた世界は朧にしか見えない。

 人影は中間点に立ったまま微動だにしなかった。土蔵の敷居を跨ぐことなく、闖入者は闇とその中に佇む者を見つめている。

 黴臭い室内は久方振りの外気に晒されてざわめき立っていた。そこかしこに積まれた古文書、皿、甲冑などが圧迫感を伴って扉の向こうを睨んでいた。

 その中心、蔵に眠る遺物の中で唯一生命活動を行っている者は呆けたように座り込んでいた。唖然と言い換えた方が良いだろうか。

 纏う着物は泥と排泄物に汚れた白装束。帯はなく、肌蹴られた体には痣や切り傷が浮かび、凝固した血液が赤黒く咲き爛れていた。八方に伸びた黒髪から覗く顔に嵌め込まれた目は、怯えと焦りと怒りの三つを敵意として混合させている。

 這うように少女は身を低くした。伸びた十の爪が土床に食い込む。それは威嚇だった。日の下の不適合者として、月の下を歩むことを意味も分からぬままに強要された。社会の営みから意図的に外され、獣に成り下がるしか彼女に残された道はなかったのだ。あるいはそれが自己防衛の意を兼ねているのなら、彼女を責める権利は誰にもない。罅割れた唇から覗く牙は左の糸切り歯だけが不自然に伸びていた。


「未だ魂はあるか」


 侵入者は左右の重々しい鉄扉を開く。軋む音を立てて、蔵は完全に開け放たれた。扉は鎖と鍵、呪符によって多重封印されていたはずだったが、それらは侵入者の足元で踏み付けられていた。白い呪符が侵入者の零す他者の血で染まっていく。


「ッ……!!」


 暴力的なまでの光が少女を包み込んだ。

 彼女にとっては、数ヶ月振りに見る外だった。怯えを示すように少女は部屋の隅へと身を翻す。

 希望の光は今や恐怖の象徴でしかなかった。

 蔵の壁にあるたった一つの窓は日輪と月を僅かに見せるばかりで、日々の時間軸を殊更に鈍らせた。今日の日付も最早曖昧である。季節は梅雨時であるはずだ。毎日のように続く曇天と雨滴を、変わらぬ絵画のように眺めていた。今日は夕刻から久方振りの晴天に恵まれたようだ。

 研ぎ澄まされた五感が空気の質感や風、木の囁きを明白に捉える。茜に染まる世界には透明な水溜りと共に緋色の海が生まれていた。

 畏怖と恐怖、傷つける物しかない光の世界。刃物で構築された外界に存在する全てのものが少女は恐ろしかった。

 侵入者は敷居の向こうで静かに蔵の中を見つめている。

 築有百年を誇る蔵は所々が朽ち、それでも名匠が作った証として崩れることは決してなかった。内側から叫ぼうとも、扉を叩こうとも、土壁を指で掘り返そうとしても。残酷なまでに頑なな、まるで牢獄だった。

 その牢屋を踏み砕いた侵入者は蔵の中へは入ってこない。そこが彼女の内在領域と認識しているかのように。その気になれば手にした刀で薙ぐことも可能であろうに。

 刀の切っ先から血が滴り落ちる。


「見事な一本角だ。誉れ高き鬼族の系譜、その末裔よ」


 声の言う通り、少女の長髪の間、左のこめかみの辺りからは一本の角が伸びていた。

 少女は息を呑み、慌てて両手で頭を抱える。


「何を隠すことがある。折角良い色をしているのに。骨より白く、象牙より高貴な色だ。それに形も良い。五寸程か、美麗なものだ」


 侵入者は笑ったようだった。口元が綺麗な弧を描く。その笑顔は、少女に未だ世界の全てが見えていないことを知らしめた。目を瞬かせて首を傾げる。

 少女にとってこの白角は全ての元凶だった。

 力の扱いが巧くない以上、少女にとってこの角は何にも勝る嫌悪の対象だった。

 少女は幼稚園も小学校も碌に通っていない。それでも体に突き刺さる視線は全てを物語っていた。


(異端。異能。異形。)


 耳を塞ぐ。

 血を分けた両親ですら少女を持て余した。村外れの古寺に少女を預け、もう三年も会っていない。きっとこれからも来ないだろう。

 五歳を迎えた冬の日、少女は鬼として覚醒した。

 きっかけは些細なことだった。喧嘩っ早い同級生に絡まれたのだ。振り上げられた拳を防ごうとした。そのつもりだった。

 初めに覚えたのは、左のこめかみに焼き(ごて)を当てたような、度を超す灼熱の感覚だった。

 赤く滲む視界と熱の感覚が凍えていき、そこで初めて自分の身に起こった異変に気付いた。

 血と涙を垂れ流す同級生の瞳に映った自らの姿。あの時叫んだ声は本当に人のものだっただろうか。

 人としての生活は一変し、強大な力を持ち得た体を抱き締める者はもう居なかった。

 預けられた寺の和尚が唱える説法は鬼には適用されない。一日に一回だった食事は三日に一回になった。

 このまま暗闇に飲み込まれ、願いすら消化されて死んでいくのかと、そう思っていた。


「名は何と言うんだい。白角(しらづの)の同胞よ」


 土壁に背を擦りつけたまま、おずと顔を上げた。

 武器は既にない。だが眼前の人物は今さっき誰かを殺めてきたのだ。

 噎せ返るような血の中、何故か恐怖心はなかった。彼女にとって、恐怖とは人間の方だった。例え眼前の人物が死神でも鬼でも、怖くはなかった。


「イツギ……。茨生偉継(しりゅう いつぎ)

「イツギ。良い名前だ」


 名前を明け渡したところで微塵も戸惑いはなかった。それが当然なのだと、心の何処かで納得していた。

 影は名前を舌先で吟味するように何度も小さく呟く。誰かに名を呼ばれる幸福。


「あなた、の名前、は……?」


 長い間、声を発することのなかった器官が久方振りの音階を必死に奏でた。

 引き攣り、枯れた声に、影は瞳の奥で痛みを堪えて自らの名を明かす。


「私の名前は」



【六章:朱ノ邂逅】



「〈朱天童子(しゅてんどうじ)〉?」


 白亜書庫室の片隅。ブラインドの合間からは木漏れ日が降り注いでいる。

 春の午後という麗らかな日差しの中、書物と書籍、情報と資料が溢れ返る書庫室に居る者は僅か数名だった。

 白亜専属の史書官が居る受付口から最も離れた本棚の谷間で密談は続く。

 聞き手を代表して花誉が問うた。土曜の昼時、学校も休みだと言うのに四人は変わらず学校の制服姿だった。

 立体化した情報を表示する知砂は、空いた手で火の付かない煙草を銜える。重度喫煙者(ヘビースモーカー)の悲しい(さが)だ。思考を巡らす際は必ず肌と肺に馴染んだ毒がなくてはならない。

 火気厳禁である書庫室には電子に変換された情報源や古めかしい古文書、民俗学書、論文といった歴史的価値が高い物が同時に存在する。


「ああ。他には〈酒呑悪童子(しゅてんあくどうじ)〉、〈酒天童子(しゅてんどうじ)〉という通り名もあるけれど。独角鬼や双角鬼とも違う、正真正銘の〈鬼〉だ。……やれやれ全く、随分と厄介な仕事を請け負ったもんだ」


 眼鏡の奥の瞳は口調に反して険しい。徹夜で情報分析を行っていたのだ、眩し過ぎる晴天の光に背を向けて言葉を続ける。それを差し置いても、対峙した者の存在は険を含ませるには十分だった。

 続きを促す意図の沈黙に、知砂は銜えた煙草を上下に揺らせて肯定の意を示した。念を押すように立体化した情報が明滅する。


「何分、数百年前の資料だから情報の質が悪い。それが正しければ、千年以上前に侵潟(しがた)大枝(たいし)という農村で妖狩りが行われた」

「千年前……。白亜と黒耀が設立される前か?」


 休憩用のソファに座り、膝の上に頬杖を付く敬の声は微量の鋭利さを持っていた。


「そう、灰燼が国の影で躍起になってる頃だ。長年続いた大陸戦争も負けが続き、国民の間にも不穏な空気が流れ始めた。他人ですら信用出来なくなるご時世に、種族の異なる者と上手くやっていける器用さは人間にはないわな」


 拡大表示された映像は大和杉の森に囲われた小さな村だった。遠くから撮った写真には白と黒、灰色しかない。現代の技術によって白黒写真に色を与えることは可能だが、それでも損傷が激しく、写真の四方を虫に食われながらも辛うじて形を保っていた。彼らの祖先が一体何を思って彼の地に至ったのか、そして何故このような地に住み続けたのかはもう分からない。


「難癖だけは多い。土着の信仰も神帝に掻っ攫われて、それでも大きな力を持った鬼は人間にとって畏怖の対象だった。それがある日、爆発しちまったんだな」

「不可侵の掟を破ったのは」

「人間だよ。鬼は掟を絶対に破らない」


 花誉の問いにも知砂は簡易に答える。二人は、自らを含めた人間という識別(カテゴリ)に対する嫌悪の念が篭った溜息を零した。

 平穏の間に巣食う過去の傷は膿んだまま癒えることがない。国が隣国との和平を取り戻すことだけに死力を注いだ代償(ツケ)だ。その賠償人として特務適格者対犯罪取締機関と特務審問機関が国中を駆け回っている。尤も支部があるために、本部である白亜や黒耀の人間が他県に赴くことは少ないにせよ。

 それでも情報は共有され、知り得る限りの忌まわしい事柄は情報局に収めてある。業の数だけで言うなら、人間と情報局はその重さで地面に陥没するだろう。時代が時代ならば、白亜や黒耀に所属する人間は畏怖の対象として妖狩りにあっていたのだ。現に過去には謂れのない理由を元に多くの人間が虐殺された。

 希望と絶望は表裏一体だ。英雄の行う殺人が歴史に肯定されるように、その時その場所では過ちではなかったのかもしれない。だが悲しみは残る。誇り高き鬼でさえ悲愴の痛苦は耐え難いのだ。


「十六人の鬼が老若男女問わず殺された。地方史には【赤鬼谷の虐殺】と名があったけれど、いずれも古くて損傷が激しい。屈強な鬼達をどうやって殺したのかは分からない。敗戦の混乱の中、当時の資料は殆ど失われてしまった」

「しかし、知砂。その妖狩りと朱天童子、一体なんの関係が?」


 知砂は数枚の写真の内一枚を拡大表示する。敬と花誉が揃って息を呑んだ。


「これは……」


 それは血に塗れた一枚の写真だった。



『失敗は許されぬぞ、朱天童子。祭壇に差し出す髑髏(されこうべ)の数を違えるな』


 空中には巨大な闇の塊が浮遊していた。

 それは歪みのない完璧な球体だった。何処から音が発せられているのか、それこそ風雨に晒された人骨の口から零れるような声だった。

 装飾も突起もない、ぬらりとした黒はそれだけを告げるとすぐさま空気に溶けていく。横目に黒い太陽を映す前に、既にそこには何もなくなっていた。

 球体と相対していた人物は長らく宙を睨んでいたが、やがて諦念するように視線を逸らした。手に握られた紙片に僅かだが皺が寄っていた。


「『如何程の命や希望が殺害されようとも、歴史書には一行でこと足りる』――か」


 京庵の新市街。何処にでもあるようなビルの一室にその姿はあった。

 黒のソファに腰掛け、椅子を回転させて背後の摩天楼を睨む。地上四階建ての最上階から望む景色はその瞳に如何なる感情をも隆起させない。

 遮光幕のない、部屋の一辺が硝子張りになった向こうには切り取られた日常がある。

 そしてその手中にある物もまた過去を切り取ったものだった。写真は電子媒体ではなかった。

 所々に赤黒い染みが落ちた写真は白と黒と灰の色が構成する、過去にあった景色だ。映っているのはかなりの大人数だったが当時にすれば良い機材を使ったのだろう、一人一人の顔は鮮明に捉えられている。大きな山桜の下、花祭りと称した一年に四度ある宴の席だった。半纏を着た人間と角の生えた鬼達が入り乱れ、肩を並べて笑っている。

 鈍金の目が細められる。過去を偲ぶのか、あるいは忍ぶのか。恣意は深く暗い。

 顔を覆っていた翁面は無造作に卓上に置かれていた。

 やや癖のある緋色の髪の下にある顔立ちは彫像のように端正だった。しかし精緻な設計をもとに創作された彫像の如く、完璧なまでの危うさがあった。皎白の肌が更に冷たさを強調している。


「偉継」

「ここに」


 扉の前に音もなく、じっと立つ姿は黒い番犬を思わせた。現に彼女の着ている服は容赦のない闇の色だ。腰まで伸びた髪は椿油によって艶を帯びて同一の黒であるはずなのに、纏う服とは異なる印象を覚える黒だった。座した人物にはそれが不思議だった。

 不快な闇との再会を鬼は一時忘れて、目を細めた。


「お前の髪は変わらず綺麗だな」


 写真を背広の懐に戻しながら呟いた言葉は偉継の頬に赤を生む。

 呟いた本人は俯く女の様子をじっくり愉しんだ後、視界に入る自らの髪を一房摘み、空ろな目で色を確かめた。


「私の髪はどうにもね。一族が皆そうであったように、(あか)いんだ」


 懐に入れた写真を背広越しに撫でる。

 あの村で角を持つ者は全て同族であり血族だった。鬼族ならば誰しもが持ち合わせる金の目、朱天一族ならば猩猩緋の髪を併せ持つ。例え違ったとしても麓の村の者達は朱天一族にとっては家族同然だった。

 ……そう思っていた。忌まわしい、あの日が来るまでは。


「……血の色だ」

「いいえ!」


 否定の声が疾風と飛んだ。

 僅かに目を見開いて、扉の前を見つめる。偉継は自らの声に驚いたとでも言うように口元に手を翳し、きまりが悪そうに頭を下げた。


「申し訳、ありません」

「いや、良いよ。ただの感傷だ、気にするな」


 苦笑を浮かべて、椅子に深く腰掛ける。黒革が小さく悲鳴を上げた。

 窓の向こうに広がる街の喧騒は防音硝子に阻まれて届かない。鳥の囀りも、川のせせらぎも、森の朗唱も。ビルの合間を抜ける無感情な風の音だけが耳にこびり付く。街は息をしない。この京庵という街は自然と共存を果たした数少ない例だが、馴染んだ森の息吹に較べれば間際のそれだ。

 鬼は頭を振り、亡霊と過去の遺物を振り払う。鈍く痛むこめかみに触れた。

 偉継は相手の、何かを名残惜しむ瞳を疑問に思うより早く、直感的に背筋を正した。


「何故」


 柔らかな金目は一転して冷たい金属へと変貌していた。空気が硬化する幻聴を聞く。


「何故あの四人を殺さなかった?」


 問いは昨夜の出来事を指していた。

 細い月の下で告げられたのは命令と言うより課題に近い。あるいは定期試験か。偉継に学術の経歴はないが、師でもある眼前の人物には多くの知識を与えられた。誤った解を導き出せばどうなるのか。考えることすら憚られた。模範的な態度で向き合い続けた付き合いは、あの出会いの日から一度として道を違えたことがない。誤謬の解を導き出したことがない関係は可能性としての未来がない。ただ行動一つで示し続けてきた。


「求める贄には相応しくないと思いました」


 無駄な語句など必要ない、端的に簡潔に述べる。


「確かに素質があるか否かを検分しろとは言ったけれど」


 解答用紙に三角印あるいはバツ印をつけようか悩んでいるような声だった。手には赤ペンでなく翁面を持ちながら、卓上に頬杖を付き思案する。


「何か、そう、違和感のようなものだ。感じなかったか?」


 厳密に誰が、何がとは言わない。二人の間に限って言うなら意思疎通能力は存分に高い。

 偉継は緩く首を振る。

 金色の瞳は遠い目をしていた。数百年以上を生きて分かるものもあるのだろうか。人間である部分が存在する以上、偉継にはそれが分からない。

 やがて、得心の頷きが加えられた。答案に歪な丸が描かれている情景が浮かぶ。三角形のような縦長の楕円。推し量れない理由があるのだと、二人ともほぼ同時に考えていた。


「分かるとすれば今夜だろうな」


 疑問に思うより早く、翁面を懐にしまった。無意識の内か、写真と同じ場所へと。

 そして話はそれきり途切れる。もう昨夜の話はしないのだろう。句点の付いた話はそこで終わりだ。

 偉継はいつの間にか俯いていた顔を上げる。唐突に名前を呼びたいと思った。机の上で優しい金の目をしている、彼女にとって無二の存在を表現する鋼鉄の名を。

 名前は丁寧に扱わなくてはならない。契約の名の下に廻來天と契る際にも必要なものだ。

 同時に、対等の証として自らが名乗るべき固有名詞。あの夕焼けの中で名乗った名前。告げられた命の題名。


「全ては空須來様の為に」



朱天(しゅてん)空須來(あすら)。その時の唯一の生き残りだ」


 声は質量のある書庫室の空気に響いた。物を構成する分子一つ一つが名を畏れて身を強張らせる。

 拡大表示した電子画像は過去の写真を取り込んだものだ。中央には屈強な体をした鬼の男が胡坐を組んで座っていた。現代の服装ではなく、複雑に編み込まれた民族衣装を纏っている。首や手足には獣の牙が勇ましくも美しい装飾具となって下がっていた。腰まで伸びた朱い髪、森の王者たる羆を思わせる堂々とした風貌と双眸。立派な二本角と写真越しに伝わる強い意志が、彼が族長であると知らしめた。

 その隣には似たような服を着て座っている子鬼が居た。小さな角と幼い顔付き、族長の大きな手はその頭を守るように撫でていた。恐らくは族長である彼の子なのだろう。

 幼い鬼は純粋な笑顔を浮かべていた。

 千年前、何かがこの小さな鬼から笑みを奪い、歯車を狂わせた。


「写真は古いものだし、何より確証がない。物的証拠にこれは不十分だ。一応は顔を照合したけれど確率は低い。けれど証言者はもう居ない。村の人間は妖狩りを行ったその年の冬、雪崩に飲み込まれて全員が死亡したそうだよ」


 祟りだと、ある者は言った。

 脳死が人の死として認められた現在。遥か遠方とも数秒の誤差なく繋がることの出来る世界。だがこの国の憲法に、呪殺は殺人罪の項目に未だひっそりと残っている。

 この記事を拾い上げていたのは古い公民館が所有していたデータベースだった。機械の扱いが苦手な者が打ち込んだのだろう、所々は文字化けしていた。

 急速な電子学の発達が国の末端に届いていなかった過去の名残がそこにあった。更新履歴は数十年前で停止している。奇跡的に第三者に荒らされることなく存在していたサイトは電子空間の海底に沈み掛けていた。

 問題の記事は欠けた地方史の写しと共に存在した。ことの顛末を締め括るように、村人の死を告げる記事も記載されている。

 感想(コメント)欄には短い文章が添えられていた。そして【赤鬼谷の虐殺】と書かれたその下には、『鬼殺しの祟り』と端的に書かれていた。

 信じていた者を殺す、神殺しの所業。

 現代では鬼も人間と同じ知性豊かな生き物として歩むべき道は同じであると公言されている。龍や竜、天狗や大蛇。この地に遥か昔から存在した太古の神々は人と同じ存在へと貶められ、しかしそれ故に守られていくことを宣言された。誇り高い彼らは公約の場に一人として現れなかったという。広い会議場には人間が一人、当時の内閣総理大臣が署名に判を押して契約は終了した。それが今から九百年前の出来事。


「どうすれば良い?」


 知砂は椅子に座る敬と、本棚に背中を預ける花誉を交互に見た。敬と花誉は顔を見合わせる。敬が代表して口を開いた。


「珍しいじゃんか、お前がそんなこと言うの」


 歯に衣着せぬ物言いに、花誉は暗に代表者としての権利を剥奪する溜息を零す。

 知砂は緩く首を振って眼鏡を押し上げる。声は一転していつもの艶がかったものに戻っていた。


「……いや、今のは代弁しただけ。あたしはさっさと終わらせるつもりだけど」


 写真を元の大きさに戻してから煙草を咥え直す。頭上の監視装置が咎めるように知砂を見つめたが、知砂は何食わぬ顔で撮影機の向こうに手を振った。


「「終わらせる」と言うことは、断らないのですか? この依頼」


 花誉は知砂の判断に対して意外性を感じたらしい。言わなくとも、昨夜の一件を思うが故だ。四の調和が乱れた先にあるのは死の凶話だ。文字は真を捻れば事象の結末と同義である。

 知砂は銜えた煙草を上下させて肯定の意を示した。


「言ったところであの指揮官は「やれ」と言うだろうさ。それに一旦承った仕事、なにより美人の人妻を困らせてるってのはいただけないね」


 花誉は知砂の結論に否定的だ。知砂の根幹は命令に対して従順的でも、他者に対して博愛的でもない。むしろ真逆だ。彼女の操る言葉は(たばこ)の葉だ。揺らぎ(くゆ)り、捕える術とてない。


「ですが身元が分からない以上はどうすることも」


 一先ず私情は捨てて任務に関しての問題点を挙げた。相変わらず葉の捕捉は出来ない。

 主犯が廻來天ないしは円ノ衆である以上、法的手段を逃れる術は無数にある。それこそ力を駆使して自在に姿を変えることも、人の記憶を捻じ曲げることも可能だからだ。

 相手が異能を持ち得ぬ人間ならば人界にて追跡も出来ようが、持ち得る力の可能性が未知数な存在ならば話は別だ。裁く場に被告が居なくてはどうしようもない。廻來天や円ノ衆が罪人である場合、通常なら白亜と黒耀、屠署を合わせての審議の末に決定が下される。

 花誉の言葉は概ねそのような意を込めての発言であった。つまり、やるにしてもやらないにしても面倒なことになる。

 知砂は煙草の箱を取り出すと、その中に入れていた一枚の紙片を取り出した。


「《合資会社》茨生……?」


 難読苗字をこともなげに読むと花誉は首を傾げた。

 外交向けの名刺らしく硬質な紙には会社名と電話番号、そしてそれらの背景には四階建てビルの全体図が印刷されていた。


「元は浸潟にあったらしい小さな酒造会社だよ。合資会社は資本も手続きも楽だからね」


 解には未だ不十分な情報だ、知砂は電子情報を取り出す。

 埃が光に反射して舞う空気に映し出されたのは一枚の会社名簿だった。一番上の項目を開くと背広姿の人物が表示される。

 若獅子を思わせる整った顔と金色の瞳、猩猩緋の髪。仮面が見せなかった素顔。なにより纏う雰囲気は間違いなく朱天その人だ。だが苗字は茨生となっている。会社名もそうだった。

 一同に濃度の高い疑問が浮かぶ前に、知砂は名簿から秘書官の項目を指先でクリックする。


「茨生偉継。性別は、まぁ昨日見た通りに女性。国暦二〇三二年四月十日生まれの十八才。地方の出身で現在は会社近くの高層アパートに住んでる。一人暮らしか」


 表示された顔は般若の(おもて)ではなかったが、白塗りの無表情だった。長雨に打たれて項垂れる白百合の芳香を漂わせ、一縷の物悲しい印象を与える。片方の目は長い髪に隠されていた。

 敬は身を乗り出して仔細に顔写真を眺める。分かりにくい旧漢字や比喩表現で表される記事を提示した時は首を傾げて難しげな顔をしていた。現に難しかったのだろう。彼女にとっては色のある電子写真や分かりやすい図形の方が情報を得やすい。


「なんで仮面してねーんだ?」


 数十秒間眺めて導き出された答えに知砂は肩を落とす。非生産的な会話はこの際避けるべきだと華麗に聞き流した。花誉は得心半分、疑問半分と言った表情だ。

 花誉の目は偉継の出身地である住所に向けられた。


「この旧住所……。この地は鬼の間では人間ありきの土地です。だからか、無意識的にせよ鬼の排他意識がとても強い。変じゃありませんか?」


 知砂は優等生の回答に少しだけ満足そうに首肯した。


「そこだ」

「どこだ」


 敬の胡乱な目が知砂を睨む。勿論これも流された。

 島国ヒノモトは『巨大な地龍の横たわる姿』と表現される形をしている。そして龍の胸郭付近に偉継の出身地は存在する。

 神話時代、龍の頭部から発起した神帝は龍の体内に身を投じて支配圏を伸ばしていった。そして龍の胸元に差し掛かった時、その地は鬼の統治下にあった。生贄や人身御供、統治とは名ばかりの、それは支配だった。悪鬼は和解には応じず、神帝と戦いを繰り広げてからようやく地位を明け渡した。公約として自らの角を一本残し、末代に亘ってこの土地を訪れないことを武神に誓った。昔々の御伽噺だ。

 血に塗れた大地と共に人の傷跡は残り、排他意識だけが根強く残った。遡ってもその地方の鬼にまつわる話は血腥い伝説その一つしかない。

 国は「差別は低劣なことである、隣人とは手を取り合い共に未来を探るべきである」と公言している。万人を愛し、困難に苦しむ者あらば共に手を取り解決の糸口を探し出そう。

 現に《歴史文化基準都市》京庵はその事柄を律儀に守っている。いや、守らざるを得なかったのだ。

 国の統率者を失い、ヒノモトで初めに復興されたのは神帝の拠点地であるこの都だった。模範となるべく、新時代に相応しい形となるために幾万の人々が汗を流した。近現代の波が緩やかに大地を削り、京庵は旧きと新しきが融合した都市となって生まれ変わったのだ。

 だが新古は水と油のようなものだ。疎水性のある新しい文化は未だ人々の間に根付いていない。善し悪しといった単純な問題ではないのだ。支配者である悪鬼を人間が怖れるように、鬼が人を忌避するように。


「簡単じゃねえなぁ……」

「鬼である朱天、人間である茨生。朱天にいたっては人間を確実に憎んでいる。なのに何故」

「なんで人間の茨生と一緒に居るんだろうってことか。なぁる」


 花誉が敬の疑問点に訂正を入れるより早く、得心した回答が提出された。白紙の答案が宙をひらりと舞う。


「……まぁそういう感じで」


 訂正も面倒くさくなったらしい。

 知砂が立体化した情報を片付けていると、花誉はその中の一つ、茨生の顔写真を手に取った。


「鬼狩りではないのですね」

「そう。……嗚呼全く、紛らわしい格好しやがってな」


 仮面は言うなれば、白亜の目が鬼狩りに向くための擬態だ。仮面の上に仮面を重ね、あの鬼は笑っているのだ。

 敬が取りこぼした結末を花誉が呟くと知砂の目は細められた。知砂のそれはいつもの何気ない口調だったが、微量の憤りが込められていることに花誉は気づいていた。

 敬は知砂の手から受け取った名刺を日の光に翳して暫く眺めている。


「どうすんだ」


 声は花誉と知砂に向けられたものではない。

 知砂は少し考え込んだ後、本棚を挟んで向こう側に移動した。


「遊」


 本棚を支えにして闇に立つ姿は小さい。蒼い目は伏せられ、横顔には悲愴が藍となって色を落としている。長い銀色の睫が白い目元に、より濃厚な群青を作る。夜の海に沈んだ月の銀箔が溶けて星屑と共に散る。

 彼女の心的外傷は彼女にしか分からない。

 引鉄は仮面だった。

 齢六歳の少女が一夜にして両親を失った。耐え切れるものではない。通常ならば心を守るために脳が制御をかけるはずだ。だが少女はあの刹那を、まるで刻み込んだかのように覚えている。父を斬った刀の残像を、母の悲鳴を。

 大切なものの喪失を感受することが出来る者は少ない。何故、誰が、何の権限をもって略奪に及ぶのか。

 連日続いた大雨によって氾濫した濁流に呑まれ、彼女は鬼狩りの魔手から逃れた。そして行方不明の日数を合わせれば六日間、彼女は生死の境をさ迷った。目覚めた朝、優しい父と母はもうこの世には居なかった。悲しみと共に彼女は力を覚醒させたという。

 敬は紙片を掌で弄びながら本棚越しに会話を続ける。花誉は遊と同じく本棚に背を預けながら沈黙と共に答えを待っていた。天井の監視用の撮影機は明日の方を向いている。プライバシーの問題から音声は録音されないのが白亜の原則だ。


「嫌なら嫌ってはっきり言え。ンな(ザマ)で行ったら今度こそやられるぞ」


 敬の言葉は容赦がなかった。彼女の戦闘形式のように正拳一つで相手と向き合う。故に嘘がない。彼女がこんなことを言うのは決まって四人の中の誰かがいつもの様子と異なる時だ。裏を返せば深憂の表れでもある。

 蒼い瞳の奥に打ち寄せる波は意外にも穏やかな凪の風だった。知砂だけがその横顔を見つめている。知砂の瞳に閃くのは暗雲に迷い込んだ一条の雷だ。

 遊は顔を上げた。底の見えない、何処までも蒼く透き通った水面に映る決意。


「わたしには全てを知る義務がある」


 言い聞かせるようにそれだけを呟いた。

 遊の持ち合わせる感情には欠落した部分がある。三人はそれぞれの受け止め方でそれに気付いている。確信的に、あるいは反射的に。

 欠落というには少し語弊があるのかもしれない。削ぎ落としたのではなく最初から存在しないのだ。絶無の感情。濁流の底に置いてきたのか、あるいは母の胎内に置いてきたのか、卵になる前からなかったのかもしれない。その気質と血脈ゆえに、彼女は異例として白亜本部から直接入隊を勧誘された過去を持つ。

 小さな掌は薄い胸、心臓の真上に添えられている。痛みを堪えるように握られた、振り下ろす場所のない、振り下ろす術を知らない掌。暗闇の中に彼女は立っている。仮に行くなと止めても彼女は中堅として敬の後ろに立つのを望むだろうことは分かっていた。

 知砂は光の中に、遊は影の中に、二人は白と黒の境界に立っている。

 知砂にとっては既視感のある光景だった。呼吸一つ分で境界線を跨ぐ。手を伸ばして銀の鬢をかき上げた。


「ふぇ……?」


 知砂を見上げるが、逆光でその表情を完全に把握することは出来なかった。

 心の模擬器官、心臓の上にあった手を知砂のそれに重ねる。見えなくとも繋がっている。痛みは二分されず、等しく訪れる。失語した感情の代償に、痛みとして糸を結ぶ術を知った。流れ出でた感情に慣れる時はきっと来ないだろう。


「ちーちゃ……?」

「次に勝手なことしたら本気で怒るからね」


 声は静かだった。だが遊は眉を下げて小さく頷く。


「ん……。ご、ごめんなさい……」


 上から舞い降りる苦笑と許容の吐息に遊は影の中から出る。知砂の胸に抱き着くと、肌に馴染んだ煙草の匂いに肩から力が抜けた。髪に指を通されて今度こそ笑う。


「もう大丈夫」


 意思の通った強い言葉だった。鋼鉄の名。言葉は力だ。折れた刃は炎に穿たれ、再びの鋭さを取り戻す。

 花誉は安堵の微笑を浮かべて瞳を閉じた。敬は名刺を握り潰し、未だ見えぬ夜月に向けて不適に笑う。


「今夜は鬼退治か。面白くなりそうだ」





 自社として買い取った建物の屋上に二つの人影は立っていた。

 烏が一日の終わりを歌い、青を赤が侵食して藍となる。幾千も繰り返される終日の行事。万物はゆっくりと結末への黒へと転じていく。末期の瞬間に見る色は恐らく漆黒なのだろうと思っている。

 立ち尽くした影――空須來の手には複雑な印が施された符が何枚も握られていた。


「恐らく彼女達は此処に来るだろう」


 夕暮れに沈む街を眺める口元は笑っていた。服は純白の背広、真意と表情を隠すのは隠者の翁面。

 落日に染まっていく姿に偉継は郷愁を辿っていた。繰り返される日常の中に、何故同じ日は二度と訪れないのか。考えて直ぐに止めた。偉継は僅かに低い背中に問う。


「来なかった場合は」

「否、必ずだ。私が感じる違和感が確かならば必ず。そして来たのならば、それは贄として相応しい魂ということ。礼節を以って我等が迎えよう」


 符術を施された紙片は赤い文字で描かれている。滴るような赤。これは空須來の髪の色ではない。記憶に沈むのは血の色だ。


「私は、夕日の色だと思います」


 太陽を背負う鬼は背後を振り向いた。

 偉継は顔に血が集まるのを感じていた。斜陽の所為にして、そ知らぬ顔で胸を張る。彼女の解が先の会話の続きであったと、空須來は遅く気づいた。


「どうした、偉継。風邪か」


 笑み交じりに揶揄する声にやはり耐え切れず、偉継は顔の半分を覆っていた仮面を手にする。遂には面を動かして顔を完全に隠してしまった。再度聞きたい言葉だったが、あまりからかうと完全に臍を曲げてしまうことを知っている。それだけの時間を共に過ごしたのだ。


「もう少し可愛い面にすれば良かったかな」


 空須來は呪符を持たぬ手で漆黒の髪を撫で上げ、面越しに偉継の頬を撫でる。

 今度は偉継が後悔する番だった。小さく俯いて、温度のない愛撫を感受する。

 口の中で呟くだけに努めた言葉は五感の鋭い偉継にはしっかり届いている。顔に収まった面の位置を確認するように触れると、今度こそ空須來の指先に触れた。

 万年雪の冷たさに凍えてしまった手の温度。偉継が己の無力を感じるのはこんな時だ。

 心臓を突き刺す痛みに耐えて、偉継は努めて強く意志を保つ。


「私の宝です。これが無ければ、私は」


 触れ合っていた手を離して空須來は言葉の続きを静止した。

 本当は分かっている。二人とも、分かっているのだ。寄る辺なき者同士、この儀式が破滅に向かっていることも。歩んでいる道が何処に向かっているのかも。戻る術はもうない。

 空須來が街へ向き直ると口元には色濃い狂気が蘇っている。

 鉄柵のない屋上の断壁に立つと、手中の符に呪言を注ぎ込んで宙に解き放った。赤に舞う白の魔鳥は不規則に宙を飛び、広大な敷地へ散らばっていった。着地した札に描かれた呪言に応じた言弾は半透明の赤線を生じさせる。やがて呪札それぞれが赤で結ばれたことによって、新たに生じた巨大な召喚陣は緩慢に、再び空へと羽ばたいた。

 鎖が擦れ合う産声が響き渡り、術印はビル全体を飲み込んだ。


「さぁ、腐臭滴る地獄の悪鬼共よ。先ずはお前達の慟哭で、この地の何処かに居る鬼神とやらを呼び起こしてみせるがいい!」


 赤鬼の哄笑を引き継ぎ、術印からは雨の如く幾重もの鎖が降り注いだ。

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