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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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五章:狂宴ノ予兆

「まぁた随分と。派手にやったもんやねえ」


 崩落しかけたビルの一階に、遊郭の庭に咲く柘榴の艶を実らせた声が響いた。

 反響を帯びた声の主は、月白の空に薄紅の桜をあしらった着物で肌を包み込んでいた。細腰を巻く綴織の袋帯は珊瑚色で鼈甲の帯留が通されている。素足が履きこなす朱塗りの下駄はコンクリートの空間に乾いた音を立てた。

 香油が塗られ、声と同等に艶めく長髪は傾いた日光の強弱で赤銅にも濃茶にも見える。容貌は名月の下で密やかに行われるという紅花の開花より美しい。


「ビルの持ち主が寛容であったことと、一般人の負傷者が出なかったことが幾らかの救いだな」


 隣には黒い背広姿の男が立っている。

 短く切られた白、茶、黒で構成される三色斑の髪。些か険のある顔立ちをしており、それは真面目な気性故と捉えられる方が多い。

 背格好も体格も一般男性の平均をいくものだったが、全ての常識を否定するように右目に古めかしい矢が突き刺さっていた。(やじり)は深く眼窩に突き刺さっているらしく、抜ける気配は一切ない。ただ、男が動く度に弓の先端に付いた鳥羽が風に揺れた。

 男の顔に苦痛はなく、共に居た女にも一切の戸惑いはなかった。

 建物の一階から二階までを突き抜けた大穴は荒城の呈を晒していた。

 昨晩、亞門の出現によって具現化した罪人を白亜の隊員達が実力を以って排除。二人はその調査と後始末を兼ねてこの地を訪れた。

 立入禁止と書かれた警戒色のテープが空しく風にはためく。先程まで慌しく現場検証をしていた職員達は職務に一区切りがついたらしく、機材を片付け始めていた。

 着物姿の女性は赤く塗られた爪先を手中の書類に滑らす。この建物の損害保険に関する書類の束だ。枚数を確認する前に、紅が注がれた唇から嘆息が零れる。


「諸悪の根源は確か、以前お前のところに居た娘だったな」

「うちのところにおった時はもぉ少し大人しかったはずなんやけど。気の所為やったんかしら」

刑部翁(おさかべのおう)は兎も角、猪笹王(いのざさのおう)の耳に入ったら説教ものだ。雷帝は相変わらず放任主義が過ぎる。本来ならば此処には奴が来るはずなのだが、何分気紛れな性分が災いしているな」


 男は腕を組み、天井を見上げた。

 ビルは一階と二階が強制的に吹き抜けの形となっており、鉄骨によって辛うじて繋ぎ止められている砕片が所々にぶら下がっていた。窓硝子は全て割られ、春風が空しく吹きすさんでいた。

 建物の前を通る車道には黒の一閃が残っている。このビルの向こう側の建物も一部が破壊され、それらの会議は明日に控えていた。男の眉間に皺が加算される。

 二人が居る建物は金融会社の物だったらしいが、今日の業務は当然休業。臨時として白亜が所有するビルを貸与し、明日からはいつも通りに仕事を始めるそうだ。廻來天や円ノ衆が多く、関連して様々な問題が発生するこの都市は住民にも相応の柔軟性が問われる。

 清めの儀としてビルの四方は結界で囲まれ、簡素な神棚が設置されて神酒が捧げられていた。工事が始まるのは早くても三日後。それまで土地神の機嫌を損ねる訳にはいかない。


「社長はんの円坐天(エンザテン)が此処の土地神やったんやよね」

「嗚呼。代々この地で企業を続けているのはそういう理由らしい。土地神というよりかは寧ろ氏神だな」


 二人は、先程まで白亜本部で損害のあらましを細やかに説明してのけた恵比須顔の中年社長を思い出す。

 生まれも育ちも群阪(むらさか)の彼は円ノ衆であったが、幼い頃から父に経済学の何たるかを教え込まれ、その通りに金利の道へ進んだ。今朝方、この高度文明の時代に算盤を片手に延々と修理費諸々の金額を述べられ、白亜の準指揮官達は揃って硬直したという。当初立ち会った事務員では力が足りず、先の二人が借り出された。

 幸い、金融会社社長の土地神を兼ねた円坐天が常識人であったため、大事に至らずに済んだ。西訛りの方言で商売交渉を続ける社長を止めたのは、意外にも彼を守護する者だったからだ。

 理由は、狸と名の付く者ならば誰しもが頭を下げずにはいられない人物がその場に居たからであるが、その人物は破壊された会社の現場検証には訪れなかった。持病の癪だと言っていたが、限りなく真実から離れた虚言であった。騙し事に関しては狐狸の類に勝る者はない。

 そして問題を起こした戦闘員達の担当者である準指揮官の執務室は蛻の空だった。雷帝とは成る程、瞬く間に消えるという意味合いなのかと誰しもが思ったことだろう。

 結果、準指揮官を束ねる《臘月ノ牽連(ろうげつのけんれん)》としての義務を果たすために二人は現場へと赴いた。


「この京庵という土地は木一本切るにも逐一土地神に報告しなければならない。でなければ何が起こるか分からんからな」


 男の言葉に女も頷いた。

 何も知らない転入者が土地神への報告なしに土地を引っくり返して七代先まで祟られたという噂は、良くある事実だ。土地にはその土地に応じたしきたりがある。仲介者たる白亜が様々な場面において協力を惜しまないのは、少しでもそういった問題を減らすためだ。

 女性は見晴らしの良くなった建物の中から空を仰ぐ。赤い空を烏が鳴きながら飛んでいった。


「今日の所はもういいだろう。帰るぞ、(くれない)。仕事は山積みだ」


 紅と呼ばれた女性は視線を戻す。既に踵を返している背広姿は殊更の苦笑を煽った。


「相変わらず仕事熱心やねえ、鳴可世(なるかせ)

「やれることはその場ででも行うべきだ。光陰矢の如し、急がねばこうして目を貫かれる」

「それはかなんわぁ」


 着物の袖で口元を隠しながら笑みを零し、男の背に続く。高下駄が軽やかに鳴る。

 建物を出た紅はふと歩を止めて街を振り返った。

 夜が滲んで藍色に染まり始めた旧市街とは対極に、人工光が照り輝く新市街の景色を瞳に映す。建物の前に通った干支通りは車を絶やすことがなかった。

 名前通りの色をした紅の瞳は、新市街の更なる奥へ続く道を見据える。


「……なんやろね。霞に混じって、なんや聞こえはる」

「何か言ったか?」


 声は絶え間なく光の軌跡を描く車の音にかき消された。

 濃藍へと色を変えた長髪を緩く靡かせ、紅は首を振る。男と共に白亜専属の運転士が待つ車へ乗り込み、軌跡の一つとなった。



【五章:狂宴ノ予兆】



「どう思いますか?」


 色濃く困惑を滲ませた声は花誉の唇から紡ぎ出されたものだ。


「あなたに言われた通り、今月白亜が取り扱った事件を溯って調べました。昨夜の二件を合計すると今月に入って二十七件、今週だけでも十二人の鬼が何かしらの事件に関与しています。……この数は、いくらなんでも多過ぎる」


 隣を歩く知砂も声には出さずとも似たような心中でいる。

 伏せがちだった瞳は緩慢と前を見据えた。口には火の点かない煙草が咥えられている。考え込むと顕著に表れる癖だった。


「どうもこうも。亞門がぶっ壊れたかな」


 喉の奥で低く笑ってみせるが目は笑っていない。広がる闇の奥に潜む何かを見つめている時の眼だ。月下にある獲物を見つめる狩人めいた瞳は十二分に鋭利さを伴っている。


「自己弁護を兼ねて言うけど、あたしが一週間前に解析作業をしなかったのは符術で十分に拘束出来ると踏んだからだ。敬の命令違反は兎も角、ラオウは確実に補足出来たはずだった」

「しかし牛鬼は自らの力で符術を破壊した」

「入れ知恵されたのかねぇ」


 花誉は、「誰に」とは問えなかった。知砂もその人物を探し求めているだろうからだ。

 別館である書庫室と白亜を繋ぐ回廊には蝋燭を模した灯火が一定の間隔で点っていた。

 四人は今日学校が終わって直ぐに、制服着のまま白亜を訪れた。昨夜指定した面会時間には未だ余裕があったので知砂と花誉は書庫館へ、遊と敬は修練部屋に向かった。

 時刻は既に夕刻から夜に差し掛かっている。

 書庫での解析が終わり、花誉は練武に励む二人に本館入口にある待合所に集まるよう連絡を入れた。だが返事は敬からだけだった。電子手帳のメールであれば五分以内に必ず返事を寄越すはずの遊からは終ぞ返事はなかった。

 蝋燭の灯は本館、つまり白亜本部に入ると蛍光灯の電飾へ変わる。光と壁の色彩が殆ど変わらぬ廊下を二つの足音が進んでいく。

 やがて辿り着くのは白亜本部の正面口だ。受付に座る双子の受付嬢は寸分違わぬ容貌と動作で知砂と花誉に頭を下げた。知砂は小さく手を振り、花誉は同じように頭を下げてその前を通り過ぎる。

 凹型をした正面口は吹き抜けになっており、受付口(フロントカウンター)の奥へ進むと待合所がある。落ち着いた色合いの椅子と控えめな音楽が待ち人に付き従うよう配置されている。大きな電子映像板もあったが終業時間間際ということもあって、黒い画面が白亜の夕暮れを反射させていた。

 数人の姿があったが、それぞれが込み入った話を続けており、二人を顧みる者は居なかった。


「あ、おーい! 花誉、知砂! こっちこっち!」


 居た。

 声と共に待合室に存在する全ての視線が知砂と花誉に向けられた。偶然か、監視用撮影機の無機質な瞳までもが二人を見た。

 待合所の視軸全てを受け止めた二人は足早に歩む。


「五月に飛ぶ蠅を何て言うか知ってるか、敬」

「敬、公共の場で大声を出してはいけません」

「だって遅かったじゃんかー」


 敬は悪びれる様子もなく、学生用鞄を手に立ち上がった。

 いつもより跳ねていない髪を見るに、シャワーを浴びたのだろう。首に通したスポーツタオルも濡れていた。空き缶を掌で押し潰し、待合所の隅にあった屑籠へ放る。無事に収まったはいいが籠の中で缶同士が盛大にぶつかり合い、再度視線を集めた。


「女が三人集まれば姦しいっていうけど、一人だけでも十分なこの騒がしさ。新しい漢字を考えなきゃねって、おいこらワンコ」

「ワンコって言うな。……いやまぁ、それは置いとく。遊がまだ来てねえんだよ」


 些か居心地の悪い空気の中、知砂は煙草を噛む。フィルタから押し出された莨の葉が白い床へ散った。


「先に弩劫さんの元へ向かったのだと思います。私達も行きましょう」


 見かねた敬は指を鳴らして知砂の煙草の先に火を点した。フィルタが傷ついている以上、煙草の味は格段に落ちる。

 知砂はそこでようやく気付いたらしく、名残惜しげに一度だけ息を吸った。火災報知機が反応する前に、長いままの一本を携帯灰皿に捨て去る。

 三人は背中に視線を感じつつ、待合所を後にすることにした。


 窓の向こうに区切られた森は既に光を失い、夜の気配を狭間に忍ばせていた。

 白亜の広大な私有森は京庵の周囲を囲む(ただす)の森とは異なり、人を迷わせる力はない。森には野生動物も多く居り、独自の生態系が形成されている。

 夜の森に潜む闇は歩を進めるごとに濃くなり、昼とは確実に空気の質感が異なる。

 自然の防壁とも言える森を越えてくる者は虫や獣以外ではあり得ない。例え侵入者が居たところで森の至る所には警備装置が硬質な目を光らせている。それらを突破するのは不可能に近い。

 殿廊の要所には一里塚の如く自販機が並んでいた。敬は肩に鞄を背負いながら数時間前の会話を想起している。


「で、調べ物ってのは終わったのか?」

「それなりに」

「状況はあまり良くないかもしれません」


 多くを語らない知砂に代わり、花誉が引き継いだ。先頭を歩く敬は歩みを止めることなく肩越しに振り返る。


「この半月の間で、鬼に関連した事件が確認される限りで二十七件発生しています。鬼の性格を考えるなら、例え人間に好意的な感情を抱いていなくとも非干渉の道を選ぶでしょう。半月以前の事件簿を溯ってみても、鬼族が関わった事件は半年に数件あるかないか。それらの統計から見てもこの数値は異常です。……更に」


 花誉は一度、躊躇いの刃で言葉を切った。知砂は変わらず無言を決め込んでいる。


「更に……、なんだよ?」


 敬に促されて花誉は意を決し、知り得る最後の情報を口にした。


「これは極秘とされる証言情報ですが、内一件の事件現場付近で仮面をつけた者が目撃されたそうです」


 あまり響かぬように潜められた声に、敬は自販機の前で立ち止まり二人と向き合った。


「……それって」

「【鬼狩(おにが)り】の連中と酷似した外見だな」


 同じく立ち止まり、ようやく口を開いた知砂の声は白い鍾乳洞を思わせる廊下に一滴の不和を齎した。眠る魄を揺り起こす、肌に刃物を滑らす緊張が生じる。

 【鬼狩り】。

 正しい組織名、所属人数、全てが謎に包まれた犯罪組織である。そしてその通称は人と鬼の共存を謳う現代に多大な不和を生み出している。

 元来、廻來天を殺すことは殺人と同列の重罪に処される。白亜と黒耀が大罪者として長年組織を追っているが状況は芳しくない。

 ただ分かっていることは、鬼狩りは手段を選ばない凶悪極まる者達の集まりであること。属する全員が象徴的な仮面を纏うこと。その二点だけだ。鬼の徹底排除を謳う傍ら、邪魔する者は例え人間であろうと何であろうと一切の躊躇なく排撃される。

 そしてこの場に居ないただ一人の少女は、過去に鬼狩りの無差別殺人事件に巻き込まれた被害者だった。


「遊には言ったのか」

「まだだよ。多分、感じ取ってのことだと思うけれど」


 硬質な光を発する自販機の前に立ち尽くす敬を追い越し、知砂が先頭を行く。

 既に空は黒へ落ちた。太陽は沈み、京庵の街にはいつもと変わらぬ夜が訪れていた。



 階段を上り、更に長い廊下を歩き続けた三人はようやく最後の一人と再会した。

 遊は二階最奥の会議室――四人の指揮官〈雷帝〉が使用する私室の前で三人を待っていた。その横顔は冷たく、いつもの和やかさは(ゆす)ぎ落とされていた。

 交わす言葉もなく、遊は一番に扉を潜る。

 知砂は部屋の明かりを付け、音声再生装置の電源を入れた。長い砂嵐の音が部屋に吹き荒ぶ。呼び出し中という赤文字が黒の画面に浮かび上がる。

 遮光幕のない部屋の中心、質素なパイプ椅子には弩劫が座っていた。

 やがて雑音は止む。指揮官にはあらかじめ連絡を入れて置いたため、いくらか正常な調子の指揮官の声が彼方から届いた。


『初めまして、弩劫さん。まず先に、こんな状態でお話しすることをどうか許してほしい。更に私は職務上気軽に名を名乗る権限を持っていない。そのことについても前以って謝罪しておきたいと思う』


 滅多に聞くことのない慇懃さだった。敬が意外そうな表情を浮かべているのも尤もだ。


「構いませぬ」


 弩劫は変声された機械音にも、名を名乗らぬことに関しても追及しなかった。俯きがちな表情は心の影をそのままに映す。


『ありがとう。私は故あってこの子達の仕事を仲介している者だ。話は既に伺っている。知砂、始めてくれ』


 知砂は壁に立て掛けられていた椅子を引き出し、向き合う形で座った。残り二つの椅子は折り畳まれ、部屋の隅で沈黙を守っている。花誉は窓枠に背を預け、敬は扉の前に、遊は知砂の隣に立った。


「不思議な所で御座いますね」


 知砂は眼鏡の位置を正して笑みを点す。親しい者ならばそれが社交場での仮面であることに気づくはずだが、彼女の纏う心の仮面は硬質且つ上級の品で創造されている。故に気付く者は少ない。


「白亜に来るのは初めてですか」

「我が一族が人里に下りることは先ずありませぬ」


 弩劫は緩慢と顔を上げた。

 昨日よりいくらか顔色は良く、今は白亜の宿舎が提供したであろう薄墨の着物を纏っている。長い髪は後ろで一つに結われ、簡素な檜の簪が挿されていた。窓から忍び込む弓月の光が白く輝く二本角を照らしている。膝上で重ねた手はきつく握り込まれていた。


「……昨夜は良人のことに気を取られ、物事を見据える目が曇っておりました」


 知砂は後頭部を掻きつつ、利き手で謝罪を静止する。聞きたいのは謝罪ではなく情報だ。


「伺いたいことが多くあります、弩劫さん。これはあなたの亭主――ラオウ氏の事件も深く絡んでくる事柄です。私から質問しても宜しいですか」


 こうしている今でさえ夫の境遇は悪くなるばかりだ。気が気ではないだろう。

 雷帝は口を挟むことなく知砂に全てを委任している。元より見届ける意味でこの場に立ち会っている。


「誰があなた方を京庵に呼び出したのですか」


 鬼は目を見開いた。驚きと戸惑い、焦燥が混沌となって鬼の仮面を取り払う。


「これはあくまで私個人の推測ですが、十四日前、あなた達は何者かの手によって京庵に召喚された。無論、召喚という旧い方法は滅多に行われないし、相応の力が求められます。誰にでもおいそれと出来ることじゃない」


 知砂は感情の読めない瞳を細め、鬼の背後に立つ何者かを見据え続ける。

 言う通り、離れた場所に居る廻來天を目的の場所に呼び出すことはかなり困難な事象である。


 召喚法の基礎は未だ世界が別たれていた時代に考案されたものだ。

 神々の徒である者との交信を夢見た実験は一部の賢人によって密やかに行われていたが、その実現には多くの媒介が必要であるという結論に至った。体を神的物質で構成する使徒を物理現実に呼び起こすには、代償として数多くの人間や動物の命を差し出さねばならなかったのだ。

 しかし、そもそも廻來天とは何であるのか。

 廻來天とはこの世に生きる人間以外の生物の総称である。彼らは人とは異なる生体組織を持っており、かつては人と異なる空間軸に生きていた。

 だが有史前、人は世界の秩序を揺るがす大罪を犯す。

 大地は砕け、海はうねり、空は裂け、二つの世界は総括された。同時に、かつて限られた者にしか見ることが出来なかった異形の生き物達が無秩序に具現化された。空想上の生物は人々の直ぐ傍に存在していたことを、皮肉にも世界の均衡を対価に世に知らしめたのだ。

 それが古に犯した原罪、【塵の年(Anno Pulvis)】だ。

 改変される世界の中で賢人達の行いは闇に葬られ、自然、関する書物の大半は失われてしまった。それでも口伝や現存する書物の中には、生贄を用いて廻來天を繋ぎとめる方法が今に伝えられている。

 しかし契約なしに召喚によって呼び出した廻來天を身近に繋ぎ止めることは極めて難しい。

 理由は未だ解明されていないが、召喚は契約とは異なり、媒介である人間の介入がないためである、というのが今のところ最も有力な説だ。加法減法より先に異能の扱いを覚える子供が大勢居る昨今、世界の常識に疑問を抱く者は極めて少ない。


「ラオウ氏を冥送する際、(こん)の排出を確認しました。魄とはつまり契約を持たない廻來天の体を構成する一時的な物質です。通常、物理世界で甲名(かぶとのな)を得た廻來天の肉体は完全に物質化されますが、魄はその際に置換されて無くなる。……だがラオウ氏の場合は体を構成する全てが魄だった。これは召喚によって呼び出された者の証明です」


 知砂は一呼吸置いて、胸元から煙草の箱を取り出す。視線で弩劫に承諾を得ると少しだけ嬉しそうに箱の底を叩いて真新しい一本を取り出す。愛用の着火装置で火を灯すと、焦げる音と共にほろ苦い芳香が立ち昇った。ゆっくりと酸素の分子を吸い込み、控えめに吐き出す。

 鬼は微小の篝火を遠い目で見つめていた。


「……あの日、我等は故郷の地にていつも通りに夕刻を迎えておりました。ですが」


 山羊の乳に春の山菜を入れて作った吸い物と五穀米は、夫であるラオウの好物だった。暖かな夕食を終え、器を片付けていた時、平穏な時は碗の割れる音と共に終末を迎えた。

 脳裏をよぎる魔の声。そう感ぜずにはいられなかった。背骨を突き刺した拘束の呪言と鎖。

 次に目を開けた時、そこは見慣れた居場所ではなかった。眩い光と共にけたたましい音が耳を犯す。空を見れば歪な月があった。これほどに明るい夜などあるのかと、そう思ったという。熱を帯びた生温い風は薄ら寒く、縋るように見た隣に夫の姿はなかった。


「……召喚された時、ラオウ氏と一緒ではなかったのですね?」


 鬼は神妙に頷く。


「あの時、故郷で最後に見た呪いの鎖は良人の体をも縛り付けておりました」

「しかし京庵に呼び出された時には傍に居なかった……」


 知砂は鬼の言葉を確かめるように呟く。煙草を口に挟みながら眉を寄せた。

 状況把握に困難な部分があった。

 召喚という行為自体、現在では公的に行われていない。人道に反するからだ。

 仮に召喚が成功したとして、繋ぎ止めるためには大量の贄を要する。

 だが成功すれば契約を結ばなくとも廻來天を絶対服従させることが可能だ。契約をしていない以上、召喚者は廻來天の恩恵たる異能を使うことは出来ない。だが召喚は足が付かない故に奴隷や愛玩、暗殺、呪殺といった様々な暗い事件に繋がる。裏社会には未だ呪殺者や壺毒師といった外法に根付く闇の職業がある。近代のビルが並ぶ路地裏では、会社の重役が敵対する役員を殺そうと足を運ぶことすらあるという。

 白亜と黒耀は召喚技術に関する書物を集め、世間に漏れないよう禁書目録へ封印した。それでも召喚による事件を完全に失くすことは出来ない。……それこそ今回のように。

 白亜が所有する禁書が封印されているのは別館の書庫室、更にその地下だ。生きる本や本の守護生物も多く居る。書庫とは名ばかりの魔窟から生きて戻れる保証はなく、地下書庫に赴く際は白亜の上級司書官に「我生死を問わず、訴えもせず」という公約書を書かされる。正に死人に口なし。訪れるのは気が重かった。

 どうしたものかと煙草のフィルタを噛む。


「召喚暴走、ですね」


 それまで沈黙を守っていた花誉が窓に背を預けたまま、ぽつりと呟いた。

 視線を感じた花誉は自らが言葉を発していたことに気付き、顔を上げた。少しの沈黙を挟んだ後、窓枠から背を浮かせる。


「家の蔵にある蔵書に幾つかそういった本があって、読んだことがあります。召喚者と召喚対象の力が吊り合っていない場合、あるいは偶発的に様々な弊害が生じることがあると。……それに鬼族を一度に二人も召喚するなんて、余程の力がないと無理ですよ」


 部屋の隅に蟠る影の中に立ったまま花誉は緻密な記憶を辿る。

 この際、禁書書物を花誉の実家が所有していることには一同目を瞑った。旧家には自然、闇に絡む事象も多い。


「二人が共に召喚されたのは間違いないとして、こちらの世界に現れた地点には大きな誤差が生じた。更にラオウ氏は弩劫さんの証言とはかけ離れた行動を起こした。暴走が過ちを呼び、贄として他者の命を欲したのかもしれません」

「食人、か」


 知砂の声音が弩劫の肩を揺らす。

 遊と敬は沈黙を守っていた。何時現れるとも知れない怨敵に、一層の速さを以って武器を振り抜けるよう心掛ける。


「あの人は、良人は決して人を殺めることは致しませぬ。この二本角に誓って、良人は無実に御座います!」

「一先ず、氏に関しての事情は分かりました。……あとはあなたのことです、弩劫さん」


 鬼はいつの間にか伏せていた顔を上げる。

 真摯な、何処までも沈着な瞳だった。情に流されない双眸は鬼の魔眼を正面から見据える。


「一度は私達が送り還したあなたが再度京庵に訪れた。調べてみましたが、牛鬼一族は能力制御能力が極めて拙い。それこそ召喚や契約なくしては存分な異能を駆使することは出来ないはずなんです。なのにあなたはここにいる。あなた個人の力が特化して高いという可能性も考えましたが、昨晩の戦いを見る限りではそうでもなさそうだった」


 研ぎ澄ました獣の爪を思わせる冷徹な分析だった。相手の心臓の場所を明確に探るが如く、年不相応の笑みを点して鬼と相対する獣。

 鬼の隠し事など当にお見通しだった。千里眼を持ちえているのか、と弩劫は自嘲気味に思う。


「……正しい解に御座います。異を唱えるべきことは、もうありませぬ」


 敬が扉から背を離した。鬼の纏う空気が変わったからだ。だがそれも一瞬だった。霧散した気迫は息と共に吐き出される。横顔には色濃い疲労の影があった。


「我が再びこの地に呼ばれたのは、良人が白亜によって狭間に堕とされたと聞いたからに御座います。我は良人よりかは力の扱いに長けております、二度目でも暴走はないという自負が御座いました」


 〈極卒者〉として名を馳せる牛鬼一族は極めて厳格な鬼神信仰を掲げている。命を賭して戦う姿は勇ましく、過ちを犯した亡者に正しい行いを説き、あるいは罪を逃れて地獄から脱げる者を義の信念で見逃さないという意を兼ねる。

 一族の傾向を見ても魄の扱いに長けた者は少なく、彼等は鬼本来の力技に長ける。例に漏れず彼等もそうだったのだろう。


「先の一件の通り、何処に飛ばされるかは分かったものでは御座いませんでした。しかし今度は我一人の召喚。ある種の賭けに御座いましたが」

「成功した」


 鬼は頷き、椅子に深く腰掛ける。解れた闇色の髪が肩を滑った。


「あなたを喚んだ者は」


 代表して知砂が言葉を欲した。あまねく万象を縛り付ける、鬼を喚んだ者の名を欲した。

 鬼は緩く首を振る。それは出来ないのだと瞳が告げた。名は丁寧に扱わねばならない。


「我は制約によって一時的に、この【弩劫】という仮初の甲名を与えられました。故に我の背後の闇について語ることは出来ませぬ。ですが我はその者に良人のことを聞きました。……人の為にと偽り、結局は嘘のことに御座いましたようです。良人は召喚の咎にて修羅道へ堕ちた、ただそれだけは真実に御座いましたか……」


 項垂れる鬼の体には未だ不可視の鎖が纏わりついている。それは召喚者の特権だ。制約で縛り、破れば命すら危うい猛毒の縛鎖。


 森羅万象に生きる全てのものは名前を持ちて異形となる。

 言い換えれば、廻來天とは名前自体が命を帯びていることに他ならない。生きた名前。生きた現象が彼等だ。様々な異能を駆使する、天から来訪せし者。言葉は異形となり、異形はこの世に息吹く。

 廻來天の根幹には真名(まことのな)と呼ばれる魂の(コア)があり、これが人で言うところの心臓に該当する。人が肉に包まれて存在し得るのと同じく、廻來天は真名を基軸に存在し得る。

 そして人は廻來天が存在する前より、生来からの名前を持ち、また与える力を持っていた。生誕した命に輝かしい名と祝福を、空から落ちる滴を『雨』と、燃え盛る灼熱を『火』と呼ぶように、物事を形作る鎧を錬金する力を備えていた。

 一般的な廻來天はその殆どが甲名を持たない。これはいわば、魂はあれど肉体を持たない状態だ。肉体がない以上、その存在は希薄になる。やがては言葉を失い、自我を忘却し、真名は崩落する。命は世界の礎に消えてゆく。これが廻來天の死の概念だ。

 万物の理すら捻じ曲げることが出来る彼らが人と手を組む最大の理由は此処にある。死は、何者も等しく恐ろしいものだ。

 通常、人と廻來天との間に確約が結ばれた場合、人は盟友である廻來天を円坐天(エンザテン)と呼ぶ。「傀儡殻(くぐつから)を捨て、自ら魂の座に付きし者」がその由来だ。

 円坐天は契約者に恒久的な異能を与え、契約者は円坐天に対して甲名を与える。一度契約を行えば契約者たる人間が死なぬ限り、円坐天の魂の器は絶対的なものとなる。

 名は即ち真名と甲名から成り、真名のみしか持たない廻來天に対して、人は体を現す字を当て嵌める。国によって文字は違うが行うことは同じだ。大陸では英文字、ヒノモトでは大和漢字の殻で揺らぐことなき鎧を作る。朧を現に、魂の殻として冠者を物理現実に留めることが出来る。

 言い換えれば、契約をしないままに世で生きる廻來天には殻がない。魂を包む肉体の名を持たない限り、体を長く保つことは出来ない。

 力ある者は己に鎧を与えることも出来るが、それはごく一部の話で、大半は人の力が必要となる。

「我が血により名を承るか、あるいは」。千年あるいは国の産土(うぶすな)が固まる以前から続く、契約の言葉。殻無き獣が首を縦に振れば、契約は了となる。


 人間の世界において名という概念は在って然るべきものだ。個としての独立と認識、他者との繋がりと識別。よって名は命と同等に扱わなくてはならない。


「あなたは現在召喚によって仮初の甲名を与えられ、強制的に留められている。つまりあなた本来の真名と召喚の力たる甲名が拮抗している状態です。どちらの鎖が先に砕けるかは分かりませんが、いずれにせよ時間はあまり残されていないでしょう」


 弩劫は顔を上げ、花誉の言葉を肯定する。全て分かっているのだと金の瞳は如実に語る。


「……劫波(ごうは)に大弓を結わう、か。随分と用心深いな」


 弩劫は四人の少女達を瞳に映し、何かを振り切る沈黙を挟んでから口を開いた。


「願う立場にないことは重々承知の上に御座います。我はどうなっても構いませぬ。ですが、ですがどうか我が良人の無念だけは……っ!」


 知砂は隣を仰ぎ見た。遊は首肯する。扉前の琥珀の瞳も、部屋の隅に立つ新緑の瞳も同じ答えだった。

 そうでなくては面白くない。戯れの賽は投げられている。闇の奥に、清廉な鬼の手綱を握る真の鬼が居る。


「正式な任務として承ります。我等白亜の名に賭けて」





「で、どうすんだよ? 結局あのねーちゃんから敵の情報は聞き出せねえんだろ?」


 風があった。消えかかった弓月が空にべたりと張り付いている。

 四人は事件の始まりの舞台である元通信塔の屋上に居た。通信塔は十日余りの僅かな間で建物を所有する会社がまた変わったらしい。破壊され罅割れた床を舗装することなく新しい持ち主を求める塔の屋上には、変わらず立入禁止のテープが張り巡らされていた。

 ビルの絶壁に立つ敬は隣にしゃがみ込む知砂を見た。

 知砂は紫煙混じりに明日を見ていた。著しいやる気の低迷が見られた。


「まぁね。さて、どうしたもんかなー……」


 白亜の城で見せた威厳など何処にもない。のらりくらりと捕食対象を探す、半惰眠中の黒豹を呈していた。電子眼鏡の前で目まぐるしく変化する情報も良い結末を導き出せそうにない。


「なぁ、知砂。お前、会議室で何か変な言葉使ったよな? あれって何だ?」

「ンあ? あたし、なんか言ったっけか」

「とぼけんな。言った、確かに言った。ゴーハって何だ」


 知砂は旧式の電子匣(パソコン)並みに鈍い反応で、敬の示した情報と己の記憶を合致させる。


「……嗚呼、あれか。彼女の名前だよ。召喚者(名付け親)の真意までは知らないけど、まぁ察するにだ。弩劫の〝劫〟の字は〈劫波〉って言って〈半端なく長い〉っていう、大昔にあった時間の単位。〝弩〟は(やっこ)の弓、即ち石弓や大弓。あとは〈並外れて〉っつう意味で〈弩級〉の字でもあるな。彼女に与えられた甲名はさしずめ〈長くとても長く〉って意味だろうさ」

「ふーん……?」

「まぁ未だ他の由縁もあるだろうねえ。なにぶん強い言葉だ」

「駄目ですね、証拠となるような物は何もありません。あったとしても回収班が持ち帰ったでしょう。遺骨も遺族の元へ戻されたそうですし、魄の名残もありません。……どうします? 回収班にあたってみますか?」


 扉付近を調べていた花誉が戻ってきた。知砂は彼方を見つめたまま、分かっているのかいないのか曖昧な返事を零す。

 遊は鬼が現れた向こうの建物を探っている。銀糸が彼岸で霞んで見えた。状況は芳しくない。


「彼女の証言を信じるならば、その仮面の奴が召喚者だと思う。……思うんだけど、なぁ」


 いまいち歯切れが悪い。

 白亜の執務室を出、弩劫を再び宿泊施設に案内する際、彼女はたった一つだけ敵の外見を明かした。契約の隙をついたのか、召喚者がわざと情報を開示したのかは分からない。

 「仮面を付けていた」。それだけ。あるいはそれだけで十分と踏んだのだろうか。

 導き出される答えは一つしかなかった。一同の脳裏に鬼狩りの名が過ぎる。


「簡単過ぎねぇかっつう」


 彼方で手を振る遊に手を振り返しながら知砂が呟く。

 利き手である左手は項の辺りをなぞっている。嫌な予感がすると産毛が総毛立つ。先程から敬も落ち着きがない。愛用の装具は白亜を出て直ぐに具現化していた。


「鬼狩り、ですか」

「殺す対象をわざわざ召喚したりするかね? 先の一件だけ言えば、世の悪評を煽る分には成功しただろうけど。にしたって効率が悪過ぎる」

「それは腑に落ちないね?」

「だよなぁ……って」


 やけに楽しそうな、聞き慣れぬ声が敬の言葉を継いだ。三人は揃って振り返る。

 扉の傍に立っていたのは二人の異様な影だった。

 一人は顔の上半分を隠すような翁面を被っている。青地に立縞が入ったシャツの上には白の背広を纏い、糊が効いている証明のように明確な陰影を落としていた。黒のネクタイに通された襟帯留は紅珊瑚が華を開かせている。恐らくは名工による上等品の部類だ。

 猩猩の血で染め抜かれた髪は肩まで伸び、ただ一つ、顔を見せる口元は空に浮かぶ月にも似た歪な笑みを描いている。

 もう一人は喪服を思わせる黒の背広姿だった。短い丈のスカートから覗く太腿と曲線から、性別が女性であることを悟る。顔の左半分を隠して、般若の面が牙を剥いていた。残る右目は一切の感情がなく、その瞳は腰ほどまで伸びる髪と同じ漆黒だった。


「今晩和。夜分遅くにも関わらず、お勤めご苦労様ですね。白亜の皆さんは意外にも堅実だ」


 知砂が立ち上がった。空気に緊張感が電流となって走り行く。

 声は四人と同じ年頃のものだが、青年とも少女ともとれない曖昧な音域に漂っていた。口調から察するに男のようでもあるが、華奢な体は女性的だ。しかしこの際、性別は些細なことだった。視界で捉える外見は現世においては曖昧模糊な物に相違ない。

 問題は何故、弩劫の証言通りの人物が此処に居るのか。


「仕事熱心なのは良いことだ、この国の美徳でもある。……だが同族がこうも容易に散っていく様を黙認しているのは艱難辛苦の極みだ」


 翁面は踊るように歩を進めたが、直ぐ立ち止まった。腕を組み、背後を振り返る。


(いや)、別に認めてはいないか。ねえ、イツギはどう思う?」

()に」

「うん、じゃあ認めてはいないな。前言は撤回」


 機械的な返答を気にする様子もなく、翁面は饒舌だった。三人に背を向け、僅かに身長が高いイツギという女性に話し掛けている。翁面で顔を隠す割に幼い言動を見せた。


「……なぁ、あいつじゃねえのか。そんなに居ねえぞ、『仮面を付けている』奴なんて」


 敬は仮面の者達から視線を逸らさずに、小声で二人に問うた。


「確かにそうそう無い風貌ですけれど……」

「重要参考人ってこんなに簡単に出てくるもんなの? 流行ってんの?」


 戸惑う視線の先、翁面は久し振りの外界を楽しむ隠者のそれだった。

 だが当初の目的を思い出したのか、はたまた眼前の三人に意識が向いたのか翁面は軽やかに振り返る。


「まぁ、そういう訳だね。苦渋と共に喚び起こした同胞達をこうも簡単に羅城門の先に放り込まれては立つ瀬がない。よって、だ」


 先の頑是(がんぜ)ない様子など木っ端と化した。翁面と同化しかけた瞳孔が弓月に輝く。


「ありがちな理由からだが、邪魔をする者は消さねばならぬ。御免ね」


 二面性の仮面を纏う翁が笑う。井戸の底を覗いた時に感じる、空虚で冷え冷えとした笑みだった。

 翁面の横に立っていた女の姿が即座に距離を縮める。

 空気が噛み合う音が響いた。武器同士が互いを殺し合わんとする、よしんば命を喰らい合おうとする叫びだ。三人に向けられたのは余計な感情をそぎ落とした純粋な殺意の音だった。

 般若面の繰り出した一撃は隣のビルに居たはずの遊が止めた。そこには日の庇護の下にある柔和さは一切ない。

 鋭利に変化した女の爪を受け止めた遊は、般若面ではなく奥に立つ翁面を見つめている。海の凪は万変し、万象を裁く神海の色へと辿り着く。


「下がってろ、花誉、知砂。こいつ等はやべえ」


 敬は背後の二人に言い放つ。翁面は笑みの余韻を残しながら踵を返した。


「待ちやがれ!」


 遊の横を抜けて敬が追い駆ける。だが遊の刀と鉤爪を交わせたままの状態で、女の撃蹴がそれを阻止した。


「通さぬ」

「っ……!」


 女の痩躯から放たれた一撃は敬の表情に苦痛を生んだ。般若面が街の光を反射して鈍く笑む。鉄具で蹴撃は阻止したはずだが、鉛のような痛みが敬の表情から余裕を削ぎ落とした。

 遊の斬撃と敬の腕を弾き返し、女は翁面の直ぐ隣に後退した。

 翁は般若のネクタイを掴んで引き寄せ、耳元に何事かを囁く。行儀の行き届かないビル風が声を掻き消し、密談が四人の耳に届くことはない。

 話し終わったのか、翁は四人に向かってひらりと手を振る。一瞬の平凡さが垣間見えた。


「健闘を祈るよ」


 誰に向けられた言葉なのかは定かでない。

 女は翁面の消えた扉を守るように四人の前に立ち塞がった。左手を体の前に翳し、表情もまた仮面の如く変化がない。

 敬は戦闘態勢に挑みながら、しかし怪訝そうに眉を潜める。


「これは公務執行妨害に入るよな? 知砂」

「ストライクど真ん中だ」


 後ろに下がった知砂の前には花誉が立つ。殿(しんがり)である知砂を守るのは補佐である花誉の役目だ。

 警告は必要なかった。相手は白亜の人間だと分かっていて闘争の刃を向けている。純度の高い殺意が全てを物語っていた。

 知砂が華奢な背に声を絡めるより早く、姿は夜を駆けた。


「遊……!」


 花誉の停止の声も届かず、銀の閃光は直線上の不穏分子を廃絶するために体を低くし、真っ直ぐに伸びた一線を以って敵へと斬りかかった。並々ならぬ攻撃の意思は、普段の遊からは絶対に考えられない行動だった。

 斬撃は再び女の手の内で止まる。

 人間の手が、具現化した異能の力を、左手の人差し指と中指の力だけで当たり前のように停止させていた。刀の切っ先は女の二本指に挟まれ、小刻みに震えている。

 女の片目が吟味するように細められた。切っ先から零れるのは血ではない。


「呼吸が乱れているな。恐れか畏れか。いずれにしても、それらを抱えていては我等を倒すことは出来まい」


 声は意外にも女性らしさを纏う高い乳白色の声だった。気質の所為か、喉の奥で抑制された音階は柔和さを凝結させて硬質な口調となり、相手を威圧するには十分だ。

 俯きがちだった遊が顔を上げる。虚無の黒と氾濫の蒼がようやく交わった。

 刀を封じられて身動きが取れない遊の首目掛け、女の右手が刀となって繰り出される。だが遊は体を大きく逸らせ、それどころか武器を手放して背後へと下がった。

 女は空を切った手を収め、左手にある少女の刀を見遣る。

 刹那、刀は溶けた。水そのものの如く、固体は液体に融解する。地を黒々と染めるのは紛うことなき水だった。

 女は濡れた手を振るい、雫を掃う。

 遊の周りに掌大の水滴が浮かぶ。無数の水滴達は球形を保ったまま、あたかも少女を守るかのように浮遊していた。遊が求めると、その内の一つが手中へ球体のまま落ちた。従順な意志あるもののように、穏やかな雫達は攻撃的な鋭利さへと姿を変える。

 凍てつく空気の中、女は優雅に踵を返した。

 遊は背中を即座に追おうとするが、敬が強い力でその細腕を掴んだ。


「ッ――!」


 遊は反射的に腕を振り払おうと背後を振り返る。

 だが真摯な眼差しに動きを止めざるを得なかった。

 敬はその腕を引き寄せ、扉の奥に消えようとしている般若面を見据える。


「逃げんのか、お前」


 女は錆びかけた扉の前で四人を無言で見つめ返した。


「自らより弱々しい生き物に背を向ける事を、お前は劣弱と呼ぶのか?」


 三種の異なる視線を向けられた女の黒瞳には初めて感情らしきものが浮かんだが、それを悟る前に重い鉄扉が全てを封じ込めた。

 女が去っていく。

 遠のく靴音の幻聴を振り払いながら、花誉はいつの間にか止めていた息を静かに吐いた。

 実力の差云々以前に、今夜は連携に不具合があった。

 最前線を歩むのは本来なら敬の役割だ。女の去った扉を見据えながら、握り込む拳に行き場のない怒りを押し込めている。


「しっかりしやがれ、遊! お前の役目はそうじゃねえだろ!」


 遊の細い肩が怒声によって揺れる。空の雫が破裂音すらなく霧散して消えた。

 折れかけた剣が痛苦となって突き刺さる。遊は罅割れた地にへたり込んだ。

 掛ける言葉は何処にも落ちておらず、立ち尽くす花誉の横を知砂が足早に通り過ぎる。


「遊」


 四散した彼女の名前をしゃがみ込んで拾い集める。

 遊は乱れた呼吸を抑えながら振り返った。蒼天に雨はない。青雲色の瞳に凝縮された悲哀の欠片を見て取り、知砂は緩慢と手を伸ばした。

 遊の肩が大きく跳ね、思わず目を閉じる。


「ごめ、なさ……」


 声を発することをようやく思い出した。

 知砂は全てを聞くより先に、皹の入った氷の肩を罪の左手で引き寄せた。遊はおずと肩に顔を埋める。

 遊の心の傷が開きかけていることは明白だった。

 精神的外傷(トラウマ)の一端――鬼狩りに酷似した外見。

 感情豊かな遊が恐怖や哀惜といった(思い)を殺し、攻撃による強制的な排除へと移行する不の引鉄(トリガー)――仮面。

 立ち尽くした四人の背中にのしかかる街の光は何処までも無感情だった。

 街には鬼の声が響き渡る。

 乱雑にかき混ぜられた夜の帳。振り返った上空には無数の門が具現化していた。空が世界を侵食する、さながら過去の災厄をなぞらえているかのような光景だった。

 無数の鎖が奏でる軋みを器とし、奥に潜んだ黒々とした闇が慟哭の唱和を奏でる。

 鬼の声には力が宿る。

 無数の禍歌は更けていく夜を殊更の奈落に飲み込もうと大口を開けていた。


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