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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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四章:常闇ノ門

 巨大な高層建築の峰々が並ぶ新市街の本領が発揮され始める五十一区。

 赤い電光灯が明滅を繰り返し、無言の内に警告の叫びを上げる。野次馬の歓声は更に多くの人を呼び、好奇な視線の群れが環状に拡大していった。

 干支通りの交通規制をしていた一人の警備員は指示灯を振り回しながら大きく息を吐いた。

 今日は定時上がりのはずだったが、急遽白亜から交通規制の指示が下り、帰ろうとしていた彼は上司に名指しで仕事を任ぜられた。会社は道路交通局の委任事務所であり、道路整備や交通整理を担う部所に当たる。

 現在の会社に入社して一年。拒否権は未だなく、振り向きもしなかった上司の薄い頭にこっそり中指を立てるくらいは許されたはずだ。早めに規制が解除されることを願うが、無線は沈黙のままだった。

 真面目な彼は中指を立てることも職務を途中放棄することも結局出来なかった。


「……早く帰りたいなぁ」


 ぼやいたところで雑音ともつかない騒音にかき消され、聞く者は居ない。雑踏をよく見れば、京庵に数社ある報道機関の徒である録画機までもが好奇な視線を空に向けていた。

 目深に被った警備帽のつばを上げ、彼は恨みがましく空中に立体化した巨大な門を睨み付ける。だが扉の僅かな隙間から見えた二つの瞳に寒気すら覚え、早々に目を逸らした。そして眼前の現状を見つめる。

 人混みと余分なまでの好奇心に彼は内心辟易しつつあった。だが仕事は果たさなければならない。懸命に声を張り上げ、半ば投げやり気味に指示灯を振り回した。


「頼むからあたしの許可なしに仕事拾ってこないでくれませんか、敬さん。お願いします」

「棒読みじゃねえか」

「言ったところで無駄だしな。道端に落ちている物は無暗に拾って食べてはいけませんヨって習わなかったの?」

「二人とも、喧嘩はもうそこまでにして下さい。……ところで知砂、それは誰の口真似ですか」

「「ヒィィ……!」」


 通行規制の内側に居た男の横を、賑やかなやりとりを繰り広げる一団が通り過ぎた。男の表情が不自然に固まる。


「つうか人集まり過ぎだろ。そんな珍しいことでもねえのにさ」

「街の方々はお祭り騒ぎが大好きですからね」

「眠い。だるい。帰りたい」

「もう良いっつの、その三段活用はよ」

「ここから先は立ち入り禁止です!」


 警告を促す黄の紙紐に書かれた事実を復唱しつつ、男は不法侵入者を呼び止めるために慌てて背後を向いた。

 立っていたのは三者三様の少女達だった。

 赤銅髪の少女と黒髪の少女は男の言葉に揃って顔を見合わせる。よく見れば三人は名門と名高い常盤南高等学校の制服を着ていた。その内の一人、淡い胡桃色の長髪を靡かせた少女が代表して男の前に立った。


「何分急なことなので連絡が行き届いていないかと思いますが、私達は白亜の命で来ました」


 場にそぐわない丁寧な物言いと共に少女はシャツの襟に光る銀章を示した。後ろに居る小柄な少女はシャツの二の腕を、大人びた印象の少女は豊満な胸元を片手で広げてシャツの内側に付けた銀章を提示する。男はその胸元に釘付けになりそうな視線を必死の思いで逸らした。逸らすことは叶ったが、付き合い始めて六ヶ月になる彼女への罪悪感は早々に頭を擡げ始める。罪悪の匂いを知ってか知らずか、黒髪の少女は誘魔(ゆうま)めいた笑みを浮かべた。


「は、はぁ。では、どうぞ……」

「どーも」


 最早完全に俯いてしまった男の隣を、真っ先に黒髪の少女が抜ける。

 正しておけば、彼女は眼前の異性の気を引く気は毛頭なく、その笑みは口の端に咥えた煙草を食む癖からだ。

 本来ならば銀章を専用の証明器具に掛けて白亜所属隊員であるか否かの確認を取るべきだった。が、完全に思考が停止した彼は二つ返事で少女達を通してしまっていた。如何せん相手が予想外過ぎた。彼を責める権利は誰にもない。


「あれ? 遊が居ねえ」


 三人の少女は人混みを振り返る。男もつられて背後を見た。

 細い腕が人波に溺れるように宙を掻いている。周囲の人達は興味を空に向けているために腕が訴える緊急事態に気付かない。黒髪の少女は足早に駆け寄り、小柄な人物の引き揚げ作業に成功した。


「何やってんの」

「ふひぃ」


 引き上げた少女を抱き抱え、二人は危険を知らせる黄の境界を越える。黒髪の少女は苦笑混じりに乱れた銀髪を撫でていた。

 男はようやく我に返る。


「あ、あの! 一般人の立ち入りは禁止です!」


 職務を全うするべく男は反射的に教本の言葉を暗唱する。一年間で身についた習性だった。

 黒髪の少女は銀髪の少女の薄い胸元……ではなく、黒いネクタイの結び目を指差す。

 そこにもやはり四本の神刀を携えて吼え猛る龍が皓々と輝いていた。男は身を半身にし、無意識の内に道を譲った。広い通りなので別段道を開ける必要はない。


「は、はぁ。では、どうぞ……」

「どーも」

「ありがとです」


 二人で一つの感謝の言葉を述べる。抱えられた少女は顔を覗かせ、ぴこぴこと手を振った。

 男は、人の気配もなく闇に沈んだ大通りに消える四つの影をただ呆然と見送った。



【四章:常闇ノ門】



 街有数の交通量を誇る道路には車両はおろか人影すらなかった。このように大々的な交通規制が容易に出来るのも京庵ならではの光景と言える。

 建物の中には取り残された電気といくつかの常夜灯が朧げに揺らめいていた。悪鬼の内在世界を連想させる虚ろさと不気味さが漂っていた。


「ここら辺かな」


 亞門を視認出来る位置で四人が止まり、異なる色素の視線が光に霞んだ闇夜を仰ぐ。

 亞門を拘束する鎖は蠢きながら痙攣を繰り返し、一刻も早く解き放たれる時を望んでいる。


「出てくる前に対処出来れば一番楽なんだけどねぇ」

「封印も粗いですし、刑期は終えたばかり。もう数分もすれば符術の効能も切れるでしょう。なんだか隙を突かれたような感じですね」


 知砂は白亜の情報を立体化し、討伐対象の情報を探った。一足先に情報を得ていた花誉は自らの手帳にダウンロードした情報記憶素子を知砂に渡して情報を共有する。


「十二年前はこちらの会話に全く応じなかったそうですけれど」

「〈獄丁者(ごくていしゃ)〉第四十四蹄、蛮刻(ばんごく)。……嫌な数字が続くねぇ」

「それはどう言う……?」

己等(うぬら)が、(われ)良人(おっと)を狭間へ堕としめた輩でありましょうか」


 四人の居る通りの彼方。一定感覚で並ぶ常夜灯の下、交通規制によって一般人が侵入出来ないはずの場所に五つ目の人影が落ちていた。四人は反射的に声の方を向く。

 響いた声は僅かばかりの湿り気を帯びて低い。

 アスファルトに伸びた影は長く、肢体もまた同様だった。褐色の肌を包む白練の着物。豊満な二つの乳房が開放的な胸元から零れ落ちんとしていたが、辛うじて着物と同色の帯がそれを阻止している。地に付きそうな程に長い墨色の髪の間、こめかみから伸びているのは二本の長い牛角だった。闇に光るのは鬼族特有の黄金の瞳。

 四人はその姿に見覚えがあった。

 三日前の朝。白亜で知砂が立体化した、送還したはずの鬼だった。


「我は〈獄卒者〉四十四指、弩劫(どこう)。先日、貴女方、白亜の皆様に世話になった者に御座います」


 確かに四人は十三日前、眼前の弩劫と名乗る人物を故郷へ送り届けた。迷い出た者として白亜の書類にも形跡が残っている。

 甲名を持たぬ廻來天は非常に虚ろな存在だ。時折偶然が重なって、似た名前の元に他所へと導き出されることがある。地や人との結びつきがないほどこの確率は高くなり、現在では白亜と黒耀が無償で故郷へ送還する活動を行っている。

 十三日前と異なる空気の差を感じ取った知砂は電子眼鏡を押し上げた。高速回転する思考原野の大部分は疑問で満ちている。


「その節は丁寧な待遇、誠に嬉しく存じました」


 弩劫は深々と頭を下げる。

 四人には戸惑いがあった。

 柔らかな物腰はやはり数日前の姿と何も変わらない。しかし纏う気配は純然たる殺気に満ちており、視線を逸らすことが出来ない。穏やかな数日前の逢瀬とは異なり、肌には鑢で砥がれる緊張感が走っていた。

 鬼はやがて緩慢と頭を上げる。柔らかな曲線を描く頬を、蜜色の瞳から零れた一筋の涙が伝った。


「ですが同じく迷い出た我が良人――ラオウを狭間へ堕としめるとは一体どういう料簡で御座いましょうか」


 刹那、圧倒的な威圧が吹きすさぶ。それは地獄からの炎となって四人を強襲した。


「っ――!!」


 次に炎が晴れた時、四人は半透明の巨大な盾によって守られていた。分厚くも純度の高い氷の表面は焼け爛れ、アスファルトを濡らしていく。


「どういうことだ? なんでまた出てきたんだ」

「三日前に牛鬼を冥送しただろう。ラオウ、やっぱりその妻だったらしいな」


 腐卵臭を手の甲で防ぎながら知砂が目を細める。炎の扱いに長けたただ一人は目を瞬いた。微量の沈黙の後、自らを納得させるために重く首肯する。


「どうしますか?」

「白亜のサーバには情報がない。つまりは犯罪者じゃない」

「しかし、この場合」


 弩劫は既に獲物を抜いていた。巨大な丸太を鎖で繋ぎ合わせた三節棍を、か細い肢体が冗談のように振り回す。唸り声を上げて空を切る音が序章の如く響いた。

 鬼に戦いから退く意志はない。屈辱の撤退を選ばなければならないのなら、名誉の死で心臓を貫くだろう。


「公務執行妨害。……なんだけど、少し考えがある。時間もないし、お空の悪餓鬼もそろそろ頃合いだ」


 硝子の砕ける音と共に四散する氷の残骸を踏みしめて、遊が前に出た。


「っしゃあ。ここは任したぞ、遊」


 遊は正面を見たまま重々しく頷いた。言葉はなく、横顔には張り詰めた琴線の緊張感がある。


「では蛮刻は敬と私が」

「はい決定。では各自、お仕事開始ー」


 やる気のない掛け声と共に敬と花誉は踵を返し、駆け出した。

 知砂は消えた二人の後を辿るように歩を進める。通りの中心から外れ、常夜灯の一本に背中を預けた。通りには遊の姿だけが残る。その小さな背中を見つめることが出来る位置で、知砂は取り出した煙草に火を点した。一対一、公平(フェア)な戦いを好む鬼の矜持を悟った上での行動だった。

 弩劫は四人のやり取りに口を挟むでもなく沈黙を貫いていた。対峙する姿には余裕すら感じられる。


「話は以上で終わりましたでしょうか。その様子では我の求める解を教えて頂ける風でも御座いませんね」


 振り回していた三節棍を地に打ち付ける。三つの節は一本の柱となり、大地に蜘蛛の巣状の罅を走らせた。

 遊は両足を少し開き、身を低くする。両手には一切の武器がないが、感情の一切が消え失せた蒼の瞳は研ぎ澄まされ、鋭い。視線は揺らぐことなく相手を見据えていた。


「ならば力尽くで聞き出さねばなりませぬ。どうかご容赦下さいまし」


 鬼と武器の姿が宣言と共に掻き消えた。

 間合いは刹那に消費され、一つ柱となった木塊が平行に遊の腹腔へ打ち込まれる。しかしそれよりも早く、少女の姿は銀の残像を残して女の武器の上にあった。間近で瞳が交錯する。鬼の目が僅かに見開かれるがそれも一瞬のことだった。


「――ぬァっ」


 裂帛の掛け声と共に弩劫は武器を振るい、柱を三つに分離させる。遊は武器の上から離れ、地に舞い下りる。


[慰出火(いでび)]!」


 鬼が低く言弾を装填すると三つの棍に青白い光が絡みついた。途端に周囲には地獄の芳香が立ち込める。そこから彷徨し地上に舞い出た者は大通りの中心に立ち尽くしている。既に涙の余韻すらなく、無音の咆哮は街に反響する。


「武器を抜かないつもりで御座いましょうか」


 弩劫が三節棍を回す度に鬼火が揺らめく。硫黄によって燃焼する虚ろな燐光は全てを拒絶していた。街路樹から落ちた木の葉が彼女の領域に侵入する度、一瞬で灰となり消えていく。

 遊は緩やかに首を振った。そして先と同じく身構えると今度は僅かに半身を取った。右足を前に左足を後ろに配置して剣戯の姿勢を遵守する。


「本来ならば武器を持たぬ幼子にこのような戯れをすること事態、鬼の恥にて御座います。……ですが」


 交錯する銀の閃きと黒の轟き。

 大きく撓った二の腕の先、掠めれば一瞬で骨肉が破壊されるだろう一撃を遊は正面から出迎えた。右の掌底を女の右肩に打ち込む。すると鞭の曲線を描いていた三節棍が電流を流されたかのように不規則に跳ねた。弩劫の腕はそれ以上進まない。力の作用点を捉えられ、武器に行き届いていた力が分散された結果だった。

 遊はそのまま弩劫の懐に潜り、脇から背後へと抜ける。弩劫は肩越しに振り返り、少女を睥睨した。


「力は十二分。何故に武器を抜きませぬ。我は貴女を殺すつもりで御座いますよ」

「嘘です」


 殺気に満ちた視線から逃れもせず、あろうことか真っ直ぐに迎えた。鬼は鼻で哂うと身を翻し、なおも武器を奮い続ける。巨大な三つの塊が血を欲する百足を思わせる狡猾さで蠢いた。


「可笑しなことを言う。鬼をあまり嘗めるものでは御座いませぬ」


 燃え盛る鬼火を纏う木塊の間を遊は葉のように縫い、攻撃を躱し続けた。

 だが必殺の攻撃を幾度も躱し続けるのは容易ではなく、間合いを取るために大きく背後へ下がった。鬼は隙を見逃さず、平衡を崩した遊の体目掛けて重い追撃を繰り出す。それでも遊の姿を捉えることは叶わなかった。

 身軽な肢体は再び宙を舞い、またも鬼の背後へと着地した。


「一体どういうつもりで御座います。攻撃を避けてばかり、何故攻撃をしない」

「あんたが死ぬつもりだからだよ」


 常夜灯の下。遊に手を貸す訳でもなく、ただひたすらに黙守していた知砂が紫煙混じりにようやくの注釈を付け加えた。遊は人と鬼の境界に立っていた。

 知砂は指先に挟んだ煙草の灯火で鬼の胸元を指し示す。


「死に装束だよね、それ」


 鬼は武器からゆっくりと手を離した。

 言う通り、鬼の白い着物は左前に着用されている。地響きと共に落ちた三節棍はゆっくり芥へ帰し、姿を消していく。鬼火の名残が陽炎と踊る中で弩劫は諦念とも取れる笑みを浮かべていた。


「お見通しで御座いますか。……矢張り白亜の方々は達観で御座います。しかし」


 鬼は身を撓め、知砂目掛け高く飛んだ。生来から黒い爪は長く、例え人の姿をしていても硬度は猛牛の蹄に匹敵する。硬度と鬼の力を以ってすれば人間の細首など容易に持っていくことが可能だろう。五本の鉤爪は知砂の頚椎目掛け、黒い残像を描きながら伸ばされた。


「我は諦める訳には行きませぬ。我が良人の為にも、真実を知らねばなりませぬ!」


 掌は顔前で静止した。鬼の掌に再び力場が満ちるも、知砂は平静を崩さなかった。


「分からないのは、何故あんたが死ぬ覚悟でこの場所に再来したかってことだ。気高い鬼の信念を曲げてまで」


 弩劫の右手には躊躇う心を現すように薄い青炎が揺らめいている。

 必殺の毒牙は距離にして僅か数センチメートル。知砂は一歩もその場から動かず、鬼の背後に立つ遊も同様だった。


「言ったはずに御座います。白亜は我が良人、ラオウを狭間へ突き堕とした。その理由を聞く為に、我はこの地に馳せ参じた!」


 青火は頼りなく揺れ、やがて霧散した。弩劫は地面に膝を付き、(こうべ)を垂れる。


「あの心優しき良人を、何故……」


 語尾は涙に濡れていた。

 知砂は歩みを進め、項垂れる鬼の前にしゃがみ込む。いつも通りの気だるさの中に沈む紫暗の瞳には僅かながらの険が含まれていた。


「あんたの夫は人間を十四人も食ったんだよ。十分な大罪人だ」


 鬼は勢いよく顔を上げた。驚くほどに強い視線だった。鬼の目には力が宿るというが、成る程、知砂でさえ続けるはずだった言葉を失った。


「嘘に御座います! あの人はそのような凶行を、人間を手に掛けるなどと……、そのようなことは決して致しませぬ!」


 知砂は後頭部を掻く。見かねた遊は二人の元に走り寄った。弩劫の肩は小さく震え、瞼は零れ落ちそうになる涙を必死に閉じ込めていた。


「ちーちゃん」

「んん、まぁ人妻を苛めるのは性に合わないからね。……立てますか、弩劫さん。取り敢えずあたしはあなたとゆっくり話がしたいな。知りたいことは全部教えてあげる、だからあなたの話も聞かせて?」


 一転して柔和な声と共に知砂は震える肩に手を添える。

 おずおずと開かれた瞳を幾つもの涙雨が零れた。

 切々と溶ける闇の奥に、歪んだ歯車が見えた。知砂は弩劫の細肩に自らの長外套を掛けてから立ち上がる。

 知砂の視線の先、少女は天を仰いでいた。

 夜闇に浮かぶ巨大な門が開こうとしている。





 上空五〇〇メートル。夜に敷き詰められた星々は霞み、朧な月が街の光に迫害を受けていた。逃れる術とてない弾劾に、無常の涙となる月光を降らせて街の夜は続く。

 中空には重厚な鉄扉が異質な雰囲気を漂わせて浮遊していた。鉄扉に巻かれた多重の鎖が時折脈動するのは、内側から咎人によって乱打されているからだ。

 そして渾身の一撃で、遂に縛鎖は崩壊した。鈍色の鎖が星屑となって八方へ散り、亞門は軋む音を立てて開いていく。

 奥に輝くのは二つの禍星(まがぼし)。開け放たれると同時に罪人を産み出した扉は芥と化した。

 街の光が照らし上げる空、胎児のように身を丸めて落下してくる巨大な影がある。影の首に繋がっていた鎖が臍の緒の如く糸を引いて夜闇に煌いた。

 影はやがて破壊の音響と共に大通りに着地する。影が腕を振るうと最期の拘束たる臍帯が呆気なく千切り取られた。

 粘着質な音と共に口腔が開き、呪言めいた産声を上げる。


「おォ……、久方振りノ人界ヨ……」


 その生き物が、人間の手によって築き上げられた石の峡谷を見るのは実に十余年振りだった。影の胸中に追慕の感情は微塵もない。何より、腹の底に蟠るこの煮沸する感覚を何と名付けるべきか思案していた。濁った金の目を周囲に巡らせる。

 鬼の超視力はやがて無人の大通りの中心に立つ、たった一人の人影に気付いた。それが女であることに気付くのに時間は掛からない。赤銅髪が風に靡き、瞳は伏せられている。清冽ささえ感じる気配が鬼の腹底に根付く何かをぐつりと煮立てた。

 狂気に染まった鬼の口元は狂喜に歪む。

 十二年に亘る闇の中、気が狂いそうなほどの破壊衝動にひたすら耐え続けた。十二年の月日、渇望した血肉が眼前にある。鬼にはそれが十二年の苦行に耐えた自らへの供物のように思えてならなかった。

 異形の獣、〈馬頭鬼(ばずき)〉の口元からは熱の篭った息が蒸気として吐き出される。

 黒き獣は大地を悦びと共に駆けた。蹄を叩き返してくるものが草原でないことが残念だったが、それすら風と共に何処かへ流れていく。

 鬼と名の付く者の証として、その額からは炭化した骨にも似た一本角が生えている。黒い体毛で覆われた巨人の上半、下半は馬の四足を宛がった生命体。首から先は遺伝子を巻き戻したかのような黒馬の細面。紛れもない、廻來天の異形だった。

 鉄よりもなお固い蹄は大地を破砕する。三メートルに相当する巨体から繰り出される突進は、乗り捨てられた四人乗りの単車を容易に明後日の方向へと吹き飛ばした。車は夜闇に窓硝子を散らせ、街路樹の一本に衝突して爆炎を上げる。

 鬼はひたすらに眼前数百メートルの向こう、離れた場所に立ち尽くす生贄のもとへと突き進んだ。一匹と一人の距離はこの時点で半分までに狭まっている。

 準備運動の意を兼ねて疾駆していた馬頭鬼は、四足を踏みしめて更に加速した。胸中は黒々とした喜びに満ちていた。恋焦がれた感触を確かめるために鬼は鬣を振り乱す。狂喜が心を躍らせ、加速剤を燃焼させた。

 嘶きを上げ、黒い魔弾となって突進してくる駿馬(しゅんめ)


「否卑ィ異遺畏威意蔚依鋳射夷ィ陰胤!!」


 猛りの咆哮が空気を震わせる。

 距離は先より更に半分となったが人影は一歩も動かない。アスファルトの欠片が四方に飛び散り、ビル硝子に亀裂が生じた。

 少女は下ろした両の拳を握り込む。強く強く、不可視の何かを掌に宿すように。

 同時に両側の窓硝子が一斉に砕けた。甲高い音が闇に響き渡る。そして破砕音の余韻が途切れると同時に、少女は両拳を胸の前で叩き合わせた。

 響いたのは鐘と鉄具が交歓する明瞭な鐘声。全ての音を打ち消し、万物を祝福する讃美歌の合図が夜空へと放たれた。

 鬼は嘲笑を浮かべた。万力を屈する力を持つ鬼にすれば、少女がこれから何をしようと勝利は明らかだった。

 貫通の威力を以って頭を低く下げる。鋭利に輝く一本角は名槍の一撃など比較にもならない。突進の速さと鬼の筋力が合わされば人間の体など一瞬で塵と化す。残酷とも言える狂気で少女を串刺しにせんと、鬼は一層の加速を促した。

 広い領域を視覚することが出来る馬頭鬼の目には贄の姿がしっかりと映っている。

 少女もまた瞳を開けて鬼を見つめていた。

 鬼と少女の視線が一瞬だけ交錯する。

 少女の口元は犬歯を見せて深い笑みを刻んでいた。その笑みは馬頭鬼の口元に浮かぶものととても良く似ていた。

 鬼が寒気を覚えるより早く、距離は等しく零になる。

 同時に少女の姿は髪の毛一本の名残もなく、眼前から忽然と消えた。鬼の角は空しく宙を掻く。

 空振りだった。


「――ッ?!」


 鬼の体が少女の居た場所をそのまま通り抜けて一拍、その巨体には横薙ぎの力が加わり、馬頭鬼は不可視の力に大きく吹き飛ばされる。


「ゴがぁぁアァッ!!?」


 痛苦を含んだくぐもった声と左側の肋骨全てが砕ける乾いた音が合唱を奏でた。そして圧倒的な力に抵抗する術もなく、ビル壁の破壊音が最後に加わった。崩壊の交響曲が静寂を砕き切る。


 立ち込める煙の中、鬼は口から血反吐を零しながらも起き上がった。ビルの一階と二階を貫通した鬼の巨体は血の赤に彩られている。

 馬頭鬼は己の身に何が起こったのか理解することが出来なかった。あまりの激痛と衝撃に震える両前足を床に叩きつけながら苦心して起き上がる。洞と化したビルの中は月光によって照らし出されていた。

 混乱と痛みで明滅する濁った思考の中、鬼は周囲に視線を巡らせる。視線の端では非常口と書かれた緑色の光が明滅を繰り返していた。

 様々な紙片が床と言わず宙を舞う。その中で、床に一つだけ紙片とは異なる影が映っていた。

 鬼は両目を見開いて宙を見上げる。

 宙を駆ける人影、紛れもない先の少女だ。彼女の繰り出す突進が空中から齎された。笑みの残像を残して振り下ろされた右拳のストレートが鬼の横面を更に吹き飛ばす。鬼の巨体は重力を無視し、壁を再度破砕して、降臨した大通りへと転がり戻った。


 再び轟音。


「お、オノ、オのれェ……ェッ!!」


 肉体を持ち得た代償として物質界に繋ぎ止められた鬼の視界は脳震盪によって歪む。

 鬼の矜持は退くことを是としない。煮沸する憤りと怒りは鬼の四肢を再び大地へと突き立てた。

 少女は瓦礫と化したビルの片鱗に躓きながらも鬼と同じ経路を辿って大通りへと出る。


「吾が〈獄丁者〉と知っテの狼藉かァ、小娘ェ!!」


 足元に点々と血の軌跡が描かれる。憤怒に染まった大声は空気を振動させ、威圧の風を吹き散らした。

 鬼の瞳に狂気が蘇る。額から伸びた一本角に、胸中を焦がす憤怒をそのままに表した黒炎が灯った。火は鬼の体を包み込み黒煙が濛々と立ち込める。そこで初めて少女が意外そうに瞳を瞬かせた。


「吾は〈獄丁者〉第四十四指、蛮刻! たかガ人間の小娘一匹に、遅レをとる訳にハいかヌ!!」


 琥珀の目がゆっくりと細められる。

 鬼は大地に後ろ足を深くつくと両前足を持ち上げて高く嘶いた。すると、鈍色に輝く前足の蹄には四つの亀裂が入り、歪な五本指を生成していく。体の骨格が黒火と共に、鈍い音を立てながら変化しているのだ。後ろ足は人体を模した二足歩行へと変化を遂げた。

 生物の進化過程の理を踏み砕く肉体変化は、野生生物に近い姿を持つ高位獣においてはよく見られる現象である。

 鬼は現れた十指を開閉して感覚を確かめる。体を覆う黒炎は一層強まり、やがて合計四本となった手にも黒炎が灯された。

 熱によって揺らめく視界の中、馬頭鬼の両手にはそれぞれに巨大な鉈が握られていた。断頭台で輝く白刃をそのまま拝借してきたかのような二振りの凶器。真新しく派生した腕には黒火が握り込まれている。

 武具の表面を包む黒火ごと握り込み、鬼は再度突進を開始した。四足で走るより速度は落ちるものの、それでも武器が加わったことで攻撃力は格段に上昇する。

 少女は口元に笑みを象り、首の骨を一度だけ鳴らした。


「そうこなくっちゃな。もっと楽しませてみろ、馬面野郎」


 少女の両手は黒革の手袋で包容されていた。拳を打ち合わせた際に響いた音は両方の手套に埋め込まれた暗金色の鉄具が奏上した音だった。少女が二三度拳を打ち鳴らすと、澄んだ音と共に火花が散る。

 少女は両手に緋の焔を握り、鬼と同じく大地を蹴った。振りかぶる鬼の二閃が少女の左右から獣の顎として斬り込む。

 黒と緋の焔が激突する爆音が轟いた。だが鬼の斬撃は少女を切り裂くことなく、左右の刃は少女の手の内で止まっている。


「ヌぅぅ!?」

「どうした。こんなもんかよ」

「嘗メるなァ!!」


 鬼の連斬。アスファルト、ビル、歩道の木々を容易に切り裂く斬撃が繰り出される。それを追随するように炎を握り締めた鉄拳が相乗された。

 敬は振り注ぐ攻撃を的確に見抜き、金具で弾き返し続ける。圧倒的な鬼の力よりもなお威力を持った筋力と武神めいた反射神経。細い体の一体何処からそれほどの力が繰り出されるのか、鬼の焦燥は増すばかりだった。鬼の連続攻撃が続くも鉈は少しも少女を傷つけられない。


「飽きた。オレの番だ」


 渾身篭った鬼の横薙ぎを少女は体を逸らして回避する。大地に両手を付き、その力だけで後方へと飛び退き距離を取った。

 間合いを数秒で打ち消し、相手が体勢を崩したところに鬼と同じ連弾を食らわす。少女の腕は勿論二本しかないのだが、鬼の体は来た方向へと打ち戻され始めた。圧倒的な速さと一撃の重さが鬼から防御の術を奪う。肺から迫り上がる痛苦の二酸化炭素と、胃から湧き上がる酸と血の苦い味が鬼の口から漏れる。


「遅え! 遅え! 遅え! 遅え! 遅え! 遅え! 遅え! 遅え!!」


 不可視の巨人にでも殴られているかのような重圧な連弾に鬼の体は一歩、また一歩と後退する。

 遂には破壊されたビルの前にまで足が戻り、体は遂に限界を迎えて蛮刻はがっくりと片膝を付いた。だがそれを許すはずもない敬の右回し蹴りが、模範とも言える正確さで鬼の左頬に打ち込まれた。巨体は再度ビルの中に押し戻される。

 血霧と白煙が視界を塞ぐ中、敬はようやくそこで息を吐き出した。


「自分に甲名を与えるほどの野郎だからどんな強え奴かと思ったら。破壊衝動丸出しのとんだ雑魚だ。つまんねえ」


 口に入った砂利を唾棄しながらの声はひどく退屈そうだった。思い出したように、首にぶら下がった手帳を見遣る。


「なんか終わったっぽい」


 沈黙を挟んで電子手帳から声が届いた。冒頭に添付されたのは微かな嘆息だった。


『ご苦労様でした。しかしまた……随分と派手にやりましたね』


 声は花誉のものだった。丁寧に育てた薔薇の蕾を鋏で間引いた時にも彼女は似たような溜息をつく。つまるところ、逃れられぬ宿命に、あるいは改竄出来ない命題に突き当たった時だ。

 そして改竄不可能の題目たる少女は片足を上げ、片目を閉じ、自らの頭を軽く小突いた。


「てへっ」

『可愛く言っても駄目です。可愛いけれど駄目です』

「ぷえー」


 晴れ始めた煙霧の中、敬が肩を落とす。


『ですが、京庵の建物は九割方保険に入っていますから。事後処理は指揮官に任せましょう』

「止めなかったのはそういう理由かぁ」


 花誉の言葉を反せば、全責任は熨斗袋に入れて指揮官に贈呈しようと言っているのと同義である。

 敬は勿論言葉通りの意味合いしか理解していない。それどころか建物が損害保険に入っているというのも初耳だった。そう言えば今まで数多くの闘いをこの京庵の地で繰り広げてきたが、その際にうっかり破壊活動に加担してしまったことも少なくない。むしろ多い。苦情や損害賠償を訴える者が今まで一人も目の前に現れなかった理由を悟り、胸中で納得していた。

 敬は電子手帳の会話機能を切り、大きく伸びをする。


「ゆ…許サヌ……!!」


 大穴から溢れ出す闇に揺らめく二つの目は未だ狂気を失っていなかった。遠くから歩み寄る花誉を目で制した敬は、建物の闇の中へ躊躇いもなく分け入る。

 洞の最奥、鬼は真っ二つに折れた武器を手に起き上がろうと苦心していた。手は逆方向に折れ曲がり、幾度も地面に倒れ、額の角の力を借りてようやく上体を起こした。


「まだやろうってのか。退()けよ」


 馬頭鬼は少女を上目遣いに睨む。金色の瞳から血の涙が零れた。

 敬が眼前に辿り着くと、蛮刻は血の軌跡を描いて起き上がった。三階へ繋がる天井壁が鬼の背に押し上げられて軋む。


「愚かナ……! 吾等が人間ヲ前に退くト思うノカ……!」


 蛮刻黒い角の先に閃光が点った。退路すらない戦士の末路は誰の目にも明らかだった。黒い火花の散る音。安全装置が引き抜かれた擲弾が爆ぜるしかないように、閃光は球体となり爆散する。


「――ッ!」


 大通りを貫く黒の奔流。

 最早意味を成さぬ叫びと共に放たれた一撃は即死の威力を以って敬に向けられた。時間にして僅か数秒だったが、閃光は向かいのビル壁を完全に貫通し、アスファルトの所々は煮え釜のように泡を噴き出していた。

 骨すらも蒸発させる必殺の一撃を放ったことで、鬼は喘鳴と共に片膝を付く。全身全霊の一撃を、負傷による出血の中で放ったことで鬼は意識を失い掛けていた。


「お前も、損な性分だな」


 血に濡れる視界の中、鬼は自らの懐に視線を落とす。

 敬は両手の橈骨手根関節を合わせ、鬼の腹腔に宛がっていた。

 開かれた少女の両手から伝わる体温は人並みのはずだったが、蛮刻にはそれが絞首台の縄が齎す摩擦熱と同等にさえ思えた。


「?!」


狩派兜式練武(しゅうはとしきれんぶ)第五段、[彼岸艶華(ヒガンアデバナ)]」


 敬の押し殺された声は遂に誰にも届かず、紅い彼岸からの華が夜の帳に美しく咲き誇った。





「今日は白亜の宿舎に案内しますが、身の安全は保障します。詳しい話は後日伺うとして」


 身長一七二センチメートルの知砂より更に頭一つ分高い弩劫は体を縮こまらせながら素直に頷いた。


(従順な人妻、か。良質物件だな。)


 極めて淡々と職務をこなしていく知砂だったが、脳裏は割と雑念に満ちている。視線はちらとその体つきに向けられる。程よい肉付きと腰の曲線、なにより豊かな胸元が目を引いた。

 まるでそれを咎めるような頃合いで、背後から派手な爆音が轟く。

 弩劫は肩を揺らし、慌てて振り返った。知砂は首を傾げて弩劫の視線を辿る。


「……派手にやったな」


 立ち込める白煙の余韻を引きながら、敬が瓦礫の中から出てきた。

 四階建てのビルは一階と二階を貫徹されていたが、それでもなお崩れることがなかった。小柄な少女の足元には完全に気を失っている馬頭鬼が仰向けに倒れている。

 弩劫の表情が強張った。風に流れた白亜の悪評通りの姿が眼前に忠実に再現されている。知砂はその様を見て数秒後には思考を立て直していた。


「弩劫さん、誤解を解かせて下さい。彼は過去に数件の傷害事件を起こした犯罪者であって、屠署より捕縛命令が出ていました。それでですね、あのぅ」


 語尾が濁る。いかように言葉を取り繕ってみても現場を目撃されては注釈の入れようがなかった。煙草のフィルタを噛みながら、知砂はどうしたものかと思考を巡らす。

 誰よりも先に立ち直った弩劫は知砂に向き合うと意を決したように宣言した。


「いいえ、構いませぬ! 例え如何なる処罰を下されようと、我は!」

「しませんてば」


 如何せん真面目な相手過ぎた。手を出すのも憚られそうな気真面目さだ。

 取り敢えずとばかりに知砂は敬に駆け寄り、掌で赤銅色の頭を叩く。良い音が鳴った。とても良い音が鳴った。


「ってぇ! いきなり何すんだ!」

「うっさい!」


 再び始まった喧嘩を粛清することが出来るただ一人は、蛮刻の周囲に符術による四方結界を坦々と施していた。

 遊は背高な弩劫を見上げる。視線に気付いた弩劫は膝を折り、少女と平行に視線を合わせる。蒼の瞳には僅かな戸惑いが浮かんでいた。


「非を責められても我には返す言葉もありませぬが……。如何された?」

「う……、と。あ、あの……」


 落ち着かない両手を胸の前で組み、遊は蒼の瞳を彷徨わせる。

 重度の人見知りである遊が交渉に赴くことはないに等しい。頼りの綱は敬と一悶着あったようで互いの瞳の間で火花を散らしていた。だが花誉が歩み寄り、笑顔のまま人差し指で地面を指す。かくして争いは未然に防がれた。正座は怖い。

 先の戦いで垣間見た冷徹な雰囲気は完全に為りを潜めていた。

 遂には俯いてしまった少女の姿に弩劫は知らずのうちに柔和な笑みを浮かべている。

 良人を屠った者が眼前の少女である可能性を一時でさえ忘れていたことに、自身で驚き、弩劫は反射的に立ち上がった。

 遊は遠慮がちに弩劫を見上げる。澄み渡った色の瞳に鬼の姿が映っていた。


「死出の衣を纏った、亡者さながらの容貌で御座いますね……」


 我知らず、弩劫は自嘲の溜息を零した。

 何もかもを捨てて、真実から目を逸らし、逃れていることにようやく気が付いた。死は解放ではない。


「我も貴女方も、未だ全ての真相が見えてはおりませぬ」


 憎悪も敵愾心もない穏やかな泉に映る自らの姿を弩劫は不思議な気持ちで見つめ返した。

 全てを知らなければならない。そうでなくては良人の冤罪は晴れないのだ。今や良人の人となりを知るのは妻である自らしかいない。鬼はきつく拳を握る。諦めれば全てが終わってしまう。

 弩劫は自らに言い聞かせるように、一つ一つ言弾を紡いだ。言葉にしなければ何かに首を絞められてしまいそうで。最愛の者を喪失する恐怖が体から全ての熱を奪ってしまいそうで。


明日(みょうじつ)、我の知る全てをお話致します。ですから」


 自身の中にある克服すべき恐怖へ、せめてもの抗いにと言葉尻を強めた。ある者には、それが縋り訴えるようにも聞こえた。遊もまた真摯な面持ちで鬼の言葉を受け止める。


「約束なの」

「では、白亜までは私達がご案内します」


 遊の隣には経緯を見守っていた花誉が立つ。弩劫は一度だけ背後を顧み、同族の姿を捉えた。罪を犯した者は裁かれねばならない。夫の姿が脳裏を掠めたが懸命に堪えた。


「え、ちょい待て花誉。私達(・・)って?」

「仕事持ってきたのはあんただ、敬。職務は全うしろ」

「マジかよぅ!? だって始末書書くのはオレ等じゃねえし!」

「大事な証言者だ、手厚く御もてなししろ。それに、あの気絶してる容疑者を白亜まで引きずっていかなくていいだけマシだと思いな」


 知砂は弩劫に会釈をして遊の隣に立つ。煙草は既に真新しい物に転じている。


「じゃあ、あたしと遊は帰るけど」

「はい、お疲れ様でした」

「あ、ホントに帰るんだ。この薄情者!」


 知砂は躊躇いなく踵を返した。遊は後ろ髪を引かれる思いで現場から離れる。

 封鎖された夜道は緩やかに日常へと姿を戻していく。左右の高層ビルは徐々に電飾が点灯し、領地を取り戻したはずの夜闇は再び迫害されて空を瞬かせた。白亜の護送車が警鐘を吠え立てながら街に反響し始める。もう数分もすれば回収班が再び現場を封鎖するはずだ。


「ちーちゃ、あの……」

「あんたがあの鬼に対して罪悪感を感じてるなら、それは間違いだからね」


 遊は高い位置にある相手の顔を仰ぎ見た。解を求める沈黙だと直感的に思う。横顔に咎める様子は微塵もなく、ただ決して揺らぐことのない強い意志があった。


「違うの。ずらされてる感じがするの。言葉が歪んでる感じ。……分かる?」


 知砂が深く息を吸うと煙草の先に宿る火精が踊った。


「あんたが言いたいことはちゃんと分かってる。けどまぁ俗物的なあたしとしては言葉も欲しいから、一応ね。仮に羅王が犯罪者じゃなくても、あの時あいつは確実にあたし等を殺そうとした。あんたが鬼の腕を切り落としたとしてもあれは正当防衛だし、時間は掛かるけど腕は向こうの世界なら回復する」


 遊は少しだけ明るさを取り戻して知砂の手を握り返す。


「だから今日はお仕舞い。明日また考えよ?」

「……ん」


 舞い降りる穏やかな声に遊はようやく安堵の表情を浮かべた。

 二人は交通規制をしていた青年に規制解除の旨を告げ、野次馬で集まった人波に紛れた。俯いたままの彼は交通規制が終了した旨を控えめに周囲に告げ、黄色のテープを回収し始める。静寂に満ちていた通りには人の姿が蘇っていく。

 知砂は未だ言葉数の少ない遊の手を無言で引き寄せた。遊は目を閉じ、その歩みに身を委ねる。


「疲れた?」

「少しだけ」


 嫌な徒労感があった。人混みの不明瞭な囁きが小波となって木霊する。

 横を映像機や音声録音機を抱えた一団が、一夜限りの宴を収録すべく慌しく駆け抜けていった。肌に馴染んだ知砂の匂いが強張っていた体から緊張の糸を断つ。


『嗚呼、やれやれ。自らで血の華を咲かせたのか。だがまぁ良い。宴はこれからだ』


 雑踏の中、何故か明瞭に聞こえた声に、遊は瞼を開き背後を振り向いた。

 流れていく人と車、あまりの情報量の多さに眩暈がする。

 混沌の渦中から求める声を拾い上げることは不可能だった。


「遊? どうした?」


 遊の体から力が抜ける。何もかも曖昧な薄闇の中で、繋いだ知砂の体温だけが真実だった。


「この街に何か居るの」


 知砂は遊の言葉に紫の瞳を細め、肩越しに背後を見た。

 電飾と雑多な人混みに攪拌された生温い空気の中に、やけに薄ら寒い一迅の風を感じた。


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