三章:逢ウ魔ガ刻
斜陽が津波となって高層建築群を飲み込んでゆく。老いた烏の皺嗄れ声が小波の残響を伴って街に木霊する。時刻を知らせる重厚な鐘鳴が汽笛の如く重く鳴り響いていく。
旧市街では行灯に油が注がれ、新市街では常夜灯が点灯し始めていた。
道行く人々の表情は茜に染まり、現と虚が曖昧になる時刻。同時に亞門が最も開きやすい時間帯。
新市街、通称〈干支通り〉――車道が交差に交差を重ねた結果、一年を司る獣王の数になったためについた俗称である。
元は旧市街から新市街を抜けて街を貫徹する大通りの一本だったが、街を旧市街と新市街に二分した際に新市街管理委員会が歴史的且つ文化的である大路の末端を有効利用。結果、新市街でも有数の交通量を誇る道路へと変貌した。
干支通りの脇道へ逸れると、途端に時間を溯ったような古めかしい商店街がいくつも現れる。街を知らない者が迷い込むと目的の場所に戻ることは難しく、惑わしの呪が未だ残っているのではないかとも言われている。そして無数の小道にはそれぞれ独自の渾名が付いている。
そんな干支通り小路の内の一つ、通称〈猫坂〉。
街の道路に沿って点在する常夜灯の一本に、沈む太陽を背負う少女が立っていた。常夜灯は建物の二階に相当する高さだが横顔は微塵も恐怖を宿していない。寧ろ真逆だった。高所を流れる風が太陽の光に染まった髪を靡かせる。
幾分の間そうしていたが、少女は瞳を隠していた飛行用眼鏡を下げて首に落とした。古を秘める琥珀の瞳は夕日に照らされ、復元される時を待ち侘びている。
少女は身体を四足獣の如く撓め両足の筋肉と全身を使い、数十メートル離れた位置にある街灯に難なく着地した。
人間の限界を超えた跳躍は全て廻來天との契約から齎されるものだ。公約によって得る力は個々によって異なるが、その大半が人の領域から逸脱した身体能力を得ることになる。
「目標を確認した」
会議機能を起動した電子手帳は首元にかかるストラップの先に結わえられている。手綱は既に切られ、双眸は獲物を映していた。着地態勢のまま茜色の茂みに隠れる猟犬の瞳。これもまた契約による超視覚だ。
報告と共に少女は路地裏へと音もなく舞い降りる。通常ならば物にするのさえ困難な身体能力は身長一六〇センチメートルの体内に余すことなく収められている。
煉獄色の空に、遠く吼える鬼の声。
【三章:逢ウ魔ガ刻】
か細くもしなやかさを持ち得た眼前の肢体は真白の衣装によって包まれていた。手足の部分を弁柄で染めた優美な姿は春の夕暮れ、些か肌寒い空気の中にあっても未だ暖かな昼の温度を纏っている。
美しい横顔からは彼女が何を思い、何を見つめるのかを悟ることは出来ない。
『逃がすなよ、敬』
降り立った路地裏、目標の死角になる壁から顔の三分の一を出して敬は電子手帳の会話音量を下げた。
その服装は学校帰りと言って相違ない。首元に下げた小型端末から響いたのは手綱を握る前に所有権を放棄したような声だ。手帳を閉じているためにどんな表情をしているかは分からないが、恐らくは煙草でも燻らせながら告げているに違いない。
「わーってるよ。そっちこそ、本当にあいつで合ってるんだろうな」
その様子を確認する必要はなかったが、牽制を兼ねて敬は自らの電子手帳を開く。使いやすさとゲームの対応数が人気の赤い機種だ。ゲームセンターで手に入れたキーホルダーやストラップが、手帳本体の重量を凌駕してぶら下がっている。
立体視共有化された情報は黒の画面に浮かぶ赤の二文字。
「……そういう奴よな、お前って」
『何がだよ』
「別に。……それで? 合ってんだよな?」
開閉する手には指先が出る型の手套が嵌められている。
黒革で構成される手套は一見して市販の物と変わらない。手の甲に宛がわれた鈍色の鉄金、それを打ち合わせる度に火花が散ることを除いては。緋色の小さな蛇が空気に牙を立てる音を響かせ、直ぐに消えてゆく。
『現場に残った足跡と容疑者の足跡が一致。状況証拠としては弱いけど、まぁ常習犯だから。間違いないな』
敬は手帳を閉じて再び目標を視認する。
気付かれてはいないようだった。商店街の通りを挟んで向こう側、敬の居る路地裏と似通った日常に彼女は立っている。時折その美貌目当てに話しかけられても彼女は一向に動じる気配がない。それどころか、くわりと欠伸を零した。
午後十八時を知らせる時計塔の鐘が鳴り始めた。一つ目の鐘が街に時を刻み込む。
一際強く拳を握り込んだ。
「行くぜ」
第一の鐘が鳴り終わり、宣言と同時に路地裏から敬の姿が掻き消えた。
路地裏のくすんだ壁を蹴り上げて、全身の筋肉を利用し空を目指す。高さ三メートルのブロック塀は彼女にとって何の障害にもならない。
目標を視界から外すことなく、塀の頂から彼岸の常夜灯へ無音で飛び移る。母親に連れられて夕飯の買い物にでも来たのだろう園服姿の少女が、口を真円にして夕暮れに飛ぶ人影を指差した。母親が少女の指が示す先を見つめてもそこにはもう人影はない。
緩やかに風が流れて向かう明日、風下から目標に狙いを定める。意図せず狩りの図となったことに自然と笑みが浮かんでいた。まだ気付かれてはいない、敬はそう思った。
しかし目標の優れた五感は敵愾心に敏感だった。それまで微睡みに細められていた双眸が見開かれる。
僅かに舌打ちをし、敬は街灯を蹴りつけて目標を拘束しようと一気に間合いを詰めた。重力の軛から解放された視界は契約の恩恵に与り、黒に染まることはない。掻き消えようとしていた肢体を、僅かに早かった敬の両手が捕縛した。
「捕ったりゃぁぁあー!!」
勢いのまま二人は、……正確には一人と一匹は路地裏へ雪崩れ込んだ。
手の中に捉えた容疑者は小さな体が持つ全力を行使して抵抗を示す。欹てた尻尾が敬の頬を叩いた。
一連の捕獲作業を見ていた者は誰も居なかった。時刻も然ることながら緋色に滲む世界は異に寛容だった、この街のように。時刻を告げる最後の鐘が重く響いて街の騒音に溶けていく。
「あぁっと、だ。罪状は知砂に聞いてくれ。長くてオレは覚えらんね……痛ぇ! 噛むな!」
「ニャア!!」
敬の手中、猫は敬の手に鋭く輝く牙を突き立てている。幸い、手套によって皮膚は切り裂かれなかったが、生来の武器である鉤爪は胸元と二の腕にじわじわと食い込んでいる。血が滲み出すのも時間の問題だった。
「このやろ、人が下手に出てりゃあいい気になりやが……っ?!」
猫は身を翻し、双眸で敬の瞳を睨み返す。目標の吟味が終わったのか、猫は一拍の沈黙の後、敬の頬目掛けて三本爪を一切の容赦なく振り下ろした。
「っ痛ぇ!!?」
不意打ちの攻撃に敬は思わず両手を離す。
優れた平衡感覚によって、猫は足音もなくアスファルトに着地した。身を翻すことはせず、果敢にも敬と対峙して長い尾を立てる。口から零れるのは敵対と威嚇の唸り声だ。研がれた両前足の爪が斜陽に光っていた。
「お前……、良いのか。抵抗の意思がある相手ってのはな、実力行使が可能なんだぜ」
頬に見事な三本傷を作った敬が不敵に笑う。相対する猫は逃げもせずに殊更身を低くした。両者共に完全な臨戦態勢だった。
「覚悟はあるみてぇだな、上等だぜ! ……って」
「ミャウ?」
夕暮れの向こう、殺気立つ猫は背後から優しく抱き上げられた。
落ちゆく太陽を背負い、三本の長い影が路地裏を区切る。最も長い影を靴底に張り付かせた人物は、一連の会話で覚えた頭痛を紫煙と共に吐き出そうと努めた。
「良くない構図だ。絵的に見て問題があり過ぎる」
「遅ぇ! あと、先に手出したのはそっちな!」
傷を負ったことなど全く気にしていない敬の言葉は反響を伴って路地裏に響いた。花誉が足早に知砂の隣を離れ、敬の頬に指を滑らす。
「ともかく。敬、傷が」
「良いよ、花誉。直ぐ治る」
頬に当てられた霞色の手布を丁寧に手の甲で停止する。既に手套はなく、滑らかな肌に一滴の血が垂れていた。ただそれだけだった。確かに肉に達したはずの爪痕からはもう血は滲んでいない。
敬が人差し指で示した先には遊の腕に抱かれた猫が居る。先程の殺気は霧散し、猫は目を閉じて喉を鳴らしていた。遊は猫の殺気を指先で拭い去っている。暫くの間そうしていたが、敬の咎めを含んだ指摘に気付き、遊は柔らかな毛並みを抱えて青の視線を合わせた。
「め、です、郭美さん。けーちゃんは注意しようとしただけなの」
カクビと名を呼ばれた猫は青い瞳をゆっくりと開いた。文字通りの猫撫で声で、甘えるように遊の首筋に頬を擦りつける。
「顔は女の子の命だって、そう言ってたのは郭美さんです」
遊は猫の腋に手を差し入れて距離を取った。青と蒼の二色が交差する。
先に目を逸らしたのは猫の方だ。猫同士にとっては全面降伏の仕草だった。くてりと尻尾を垂らして大仰な嘆息をつく。
しなやかな体と僅かな予知能力を備える眼前の猫にとっては珍しい行動だった。
「全く、遊には適わないねぇ。……悪かったわ。ごめんなさい用心棒さん」
猫の喉から発せられたのは妙齢の女性の声だった。遊は対話の意志を悟り、再び猫を抱え直す。猫は宙に浮いた四つ足を小さく動かして遊に甘えるように抱き付いた。遊が手を離すとその細い肩に器用に乗り、ようやく安心したようだった。
「その呼び方やめろ」
「豪く気が立ってるねぇ、郭美」
「それで、今回は何さ?」
郭美は遊の肩から知砂を仰ぐ。
知砂は問いに答えなかったことは追求せず、胸元から電子手帳を取り出して幾つかの電子写真を立体化した。
四つの楕円で構成された猫特有の足跡、僅かに開いた窓、広い調理場。似たような写真が空中に浮遊する。猫の瞳孔が殊更細くなった。
「本日四月十三日、午後十四時から午後十七時にかけて、四十八地区の高級料亭〈桜御紋〉、同地区東屋旅館、四十九地区七乃家の夕飯になる予定だった魚が盗難。種類はそれぞれ鰆、鯛、鮭、鰹。開け放たれた窓際から採取された足跡と体毛を照合、更に四十七から五十二地区まではあんたの縄張りだから行動範囲とも合致。……あたし達がここに居る理由はそのくらいかな。早い話、これ以上盗みを働くと首輪付けて座敷猫にするよってこと」
「それは嫌だわ。私達は犬や人と違うもの。一つ所に拘束されるのは嫌よ」
「魚泥棒の常習犯〈猫又〉郭美には他に良い手立てがなくてね。あたしとしてもあの駄菓子屋まで訪ねて、そのようにしてくれっていうのは嫌なんだけど。面倒くさいし」
「姉様は関係ないわよ」
知砂がにやりと笑うと、猫は長い髭を僅かに揺らした。
「……いかにも。私が四匹、しかと頂いたわ」
満足げに首肯した知砂は胸元から一枚の書類と小箱を取り出す。朱肉の蓋を無言で開いて猫の前に差し出した。
「……毎回思うのだけど、これは私自慢の肉球が汚れるからあまり好きじゃないわ」
「罪の色だと思いますよ。懲りたらもうしないことです」
「茨のお姫様も相変わらずのようだわねぇ」
花誉の言葉に含まれる微細な棘に郭美は不満げに右前足を差し出し、二三度朱肉を叩いた。嘆息交じりに書類の端に足跡を付ける。郭美としても今回ばかりは僅かな落ち度があった。
書類に愛らしい肉球の印が押される。知砂が満足げに頷いた。
四人と猫は旧知の仲だ。腐れ縁とも言う。
京庵で生きる野良猫又には美食家が多い。その筆頭が彼女だ。かつては、隣の都市へと流れた姉と共に京庵の猫又全てを統括していたという噂がある。
眼前の猫の尾は確かに一本だがそれは日常に紛れている間だけに過ぎず、自らの意志次第で尾を刺又の如く増やすことが可能だ。
言葉を操り、予知能力に長ける猫又は人間の営みに寄り添って生きている。中には素性を家猫と偽り、率先して飼育されている者も居る。素性を隠す理由は猫又特有の気まぐれに過ぎない。時折人語を話して飼い主を驚かす者も居れば、そのショックで気絶した飼い主を思うあまり、自ら病院に電話をかけた者も居る。
「郭美さん、どうしたの? 今日の郭美さん変だよ?」
猫は遊の肩を離れるとアスファルトに着地した。体全体を使って伸びをしてから渋々と言った風に口を開く。二股に分かれた尾は僅かに毛が欹っていた。
「何処ぞの女子高生の言葉を借りれば気が立っているのよ。三日前、駅の方で白昼夢を見たわ」
冷え始めてきた地面を睥睨し、猫は身近なダンボール箱の上に飛び移って四人と向き合う。知砂は無言で手中の書類を筒に収めていた。代わりに敬が口を挟む。
「白昼夢って何だよ」
「良い兆しではないわね、私の見る夢はあまり良いものには繋がらないの」
遊が手を伸ばして猫を撫でる。猫はその時ばかりは気持ち良さそうに目を閉じた。
「さて。もう行くわね」
「おい、郭美」
猫は二本の尾を揺らして呼び止める敬の声を掃う。二股に分かれていた尾は一瞬で元の一本に戻った。
「もうしないわよ。今回は魔が差したの」
猫はお返しとばかりに遊の指先を小さく舐めると、塀に飛び移る。
「それと敬? これは忠告よ。淑女を扱う時に背後からいきなりはまずいわね」
「遊は良いのかよ」
「背後から月光の如く優しく抱き締められたら抵抗する気も失くすわ。あんたは淑女に対してそういう気遣いがないの」
「淑女ってのは人を無闇やたらに引っ掻かねぇよ」
「破傷風になるような軟な手入れはしていないから安心なさいな」
「さっさと帰れ、化け猫。もう悪ぃことすんじゃねえぞ」
猫は空を仰いで可愛らしくニャアと一鳴きすると、身を撓めて塀の向こうへと去っていった。主を持たない郭美にとってはこの街全てが帰るべき場所だった。
「猫、嫌い?」
猫の去った空間を眺めていた花誉は声の方を見る。
視線の先、知砂はそ知らぬ顔で携帯灰皿に煙草を弔っていた。
その口元が僅かに笑みを含んでいるのを花誉は見逃さない。良くも悪くも冷静な状況把握に長けた彼女の性格は、意外にも自らの感情を悟るのが苦手だ。それは眼前の少女も同じ。似た者同士、互いの感情を解答欄に記されることは好きではない。ただ今回ばかりは、暗に「冷静になれ」と告げられた気がして花誉は蟠る心中を空に溶かした。
「分かってる癖に。意地悪ですね」
知砂は今度こそ確信的に笑う。自覚があった分、花誉はきまりが悪そうに明日を向いた。視線の先には小柄な二人が居る。
「けーちゃん、だいじょぶ?」
遊は敬の顔を覗き込む。当の本人はけろりとしながら頬に指を滑らせた。傷はもうない。
小さな傷とはいえ、驚異的な回復能力だった。身体能力の向上や驚異的な体力、そして回復能力は決して特異な力ではなく、異能者の殆どが無意識下に同一の力を発揮する。
「ん、あぁ。治った治った。こんなの怪我のうちに入らねえよ」
未だ心配顔の遊の髪を敬は両手で撫でる。きゃらきゃらと笑いじゃれ合う二人に花誉はようやくの微笑みを取り戻した。
四人の休暇は結局のところ三日で終わった。本日学校からの帰路途中に鳴り響いた電話から届いたのは、紙片より軽い謝罪の一言と仕事の依頼だった。拒否する前に切られた電話は指揮官から直接任された仕事だが、内容としては危険度の低い物件だった。
「しっかし、これってどう考えても新人の業務だよなぁ。嫌がらせ?」
触り心地の良い遊の髪を撫でながら、思い出したように敬が呟いた。遊はその腕の中で首を傾げている。
知砂は新しい煙草を吸うべきか否か思案していた。箱の底を叩いて煙草を取り出し、名残惜しげに戻した。
「放っておくと知砂が仕事を取らないからでしょうね」
正しく花誉の言う通りだった。知砂は反射的に顔を逸らす。
白亜と黒耀は入隊に一切の規定がない。無論、相応の力量と必要最低限の社会的学力が求められるが、種族や年齢、性別といった区別はない。入隊の扉は等しく開かれており、故に幅広く多様な廻來天や能力者が黒白の牙城に勤めている。
二つの巨城が求めるものは一つ、『市民の矛と盾としての精神』。白亜と黒耀は名前に特務と付く通り、国属ではなく、各国から如何なる干渉も受けずに独立する特殊な機関である。
神帝廃絶運動の際、ヤマトの影で産声を上げたのが両機関の前身たる灰燼だ。世界政府直下の協力があったとの噂もあるが、結果として神は廃絶され、灰燼は白亜と黒耀の双子を生み落として朽ちた。
ヤマトは世界政府に対して事実上の降伏を宣言し、憲法、国営、文化、その他諸々の国としての臓器を細部まで解剖された。荒縄で結われた傷跡と共に、国は民主制への革新を促される。復興の要となったのが白亜と黒耀の運営であった。
白亜と黒耀は先進的且つ革命的な組織を目標にされており、邏卒庁や国軍とは異なって組織に対しての忠誠や大義という気風がなく、拘束力はないに等しい。時に、両機関の存在を好ましく思っていない邏卒庁総監や軍上層部が「公僕の放し飼い」とさえ揶揄するこの方針は、ある種の私営会社とさえ思わせる自由さと気軽さをもって市民に扉を開いている。
では放し飼いたる軍犬を如何様にして従属させしめるのか。
白亜の拘束の鎖は単純な実力差と言い換えて相違ない。強き者が弱き者を拘束し、鎖を握る権限を持つ。無骨な生存競争の根幹が強かに残る、それが白亜の内情だ。
無論、人権、職務規定、雇用法、その他諸々の現代に於ける人権擁護は白亜にも適応される。なので、自由気ままな戦闘員達に「お願い」をする役目を持つのが、実力と権力を兼ね備えた準指揮官ということになる。時に強大な強制力となり得る権限を行使してこそ、白亜における軍犬達の放し飼いが可能なのだ。
準指揮官の主な職務は白亜に所属する戦闘員――如儡師に見合った仕事を仲介、あるいは直接依頼することだ。白亜の肩書きだけで充足し職務を怠る愚か者が出ないよう、日々目を光らせている。
また如儡師全員に多忙な準指揮官が付く訳ではなく、本来ならば準指揮官が永続的に担当する方が珍しい。そして準指揮官の下で働く者の大半が四人のような未成年者だ。
準指揮官は一般に二人から四人ほどの人数で構成される小隊を担当する。白亜に属する者としての矜持と如儡師としての精神を日々育み、街と市民を守護しているという認識を根付かせるため、未成年者や機関に属して日の浅い如儡師には危険度の低い職務が割り当てられる。市民の生活に根付いた、――例えば件の泥棒猫を捕まえる――任務がそうと言えた。
給与は仕事の数と危険度に応じて順次指定口座に振り込まれる形式で、仕事の有無と任務遂行度の度合いが直接懐に影響する。未成年者でも仕事の遂行度によっては国家公務員と同等、あるいはそれ以上の給与を得ることが可能だ。
四人もまた未成年の隊員として準指揮官〈雷帝〉の指示下で公務を行っている。
ただ四人が不運だったのは担当指揮官が絶望的に察しが悪いということだ。三日前に出した休暇届は屑籠の中か、他の書類の中に紛れ込んだに違いない。
知砂の横顔を眺めていた花誉だったが、諦念気味に視線を逸らした。親友の仕事に対する怠慢は三年間の交流の中で既に慣れ、諦めてしまっている。
敬の腕の中で未だもぞもぞと動いている少女が目につき、花誉は小さく笑った。手を伸ばして銀の毛並みを持つ猫を撫でる。成程こういう小猫なら愛らしいものだと、先程の誤解を解きたいと思っていた。
「まぁ取り敢えず本日の業務終了。報告書は四日後に出すし、あたしが書くよ」
「それはまた珍しい。どうしてです?」
「その四日分休める。元々一週間の休暇予定だったんだし」
花誉は思案する沈黙を挟み、ゆっくりと頷いた。
「では、報告書はお任せします。……以前のように録画記録だけをそのまま送り付けるのはなしですからね」
「あれはあれで楽なんだって。それに稀に見る好成績、小犬の命令違反もなかったしね」
悪びれる風のない司式の言葉に花誉は何度目かの溜息を零した。
今後の予定を話し始めた知砂と花誉に、取り残された二人は表通りを眺めている。小犬と示唆された人物は気付いた様子もなく、遊の頭に顎を乗せて同じ方角を見ていた。
左右の高い壁に阻止されて斜陽はあまり射さないが、近所の夕飯の匂いが漂ってきている。混ざり合った遊と敬の影を踏んで、使いの豆腐小僧が滑らかな豆腐を盆に載せ、何処かへ駆けていく。
「腹減ったなー、遊」
「ん、お腹減った」
二人は揃って背後を振り返る。知砂と花誉の話は早急に終わったようだった。
「じゃあ帰るか。あたし等はこっち。つうかいい加減返せ」
「けちー」
知砂が敬の腕から遊を軽々と抱き上げる。遊はくすぐったかったのか笑いながら知砂の肩から顔を覗かせた。
路地裏から出て、遊と知砂、敬と花誉の向かう先は真逆だった。
短く簡潔な別れの挨拶を交わし、再会を夜の向こうに託す。地面に下りた遊は知砂の手を取って少し先を歩き始めた。知砂の横顔はとても優しい。
小さくなっていく後ろ姿を眺めている敬の隣に花誉が並んだ。
「では私達も帰りましょうか」
「ん、おう」
花誉は今気付いたとばかりに、持っていた敬の学校用鞄を渡した。一切の装飾品が付いておらず新品にさえ見える花誉の鞄に対して、敬の鞄はステッカーやシール、キーホルダーで多目的にコーティングされている。使っている年月は花誉と変わらない年月のはずだ。持ち主が違うだけでこうも違いが出る場合も珍しい。
「ところで今日の夕飯、何にします?」
敬は僅かに思案した後、少し高い位置にある隣を仰ぎ見た。
「魚、食いてえかも」
笑みを含んだその言葉に花誉もまた笑う。いつの間にか世界は日常に戻っていた。
「ではそうしましょう。確か冷蔵庫に鯛があったと思います」
「焼けるまでちゃんと見張ってねえとな」
「ふふ、そうですね」
二人は踵を返し、太陽の沈む方へ歩き出す。逢う魔が時、互いの表情だけは確かめることが出来る位置で。
■
冷え始めた夜の空気を背中に感じ、花誉は畳から立ち上がって縁側の硝子戸を閉めた。
硝子戸の向こうにある庭の草花は皆眠りについている。その中でも軒先に植えられた彼女と同い年の枝垂れ桜の蕾は未だ固く、開花の時期を遅らせていた。心配ではあるが毎年のことである。街の桜が散り始めてようやく花を開くのんびり者の桜は、未だ冬の名残に身を固めている。夜は庭に浮かぶ深淵の鯉達も皆静かだった。水の流れる音を区切る鹿威しの明瞭な音は厚い硝子によって微かにしか届かない。
庭に突き出した造りになっている居間から望む光景は昼夜で異なる。朝になれば露に濡れる木々が綺羅と輝き、葉の滴に眩い光を凝縮させる。夜は夜で違う趣があり、御影石をくり貫いて電飾加工を施した足明かりの灯が幽玄へと誘う。その風景を見るのが花誉は好きだった。
花誉の生家は旧市街二十一区にあり、いずれも一等地として地価が沸騰し蒸発しかけた区画に建てられている。街の光も塀と草木に阻止されて、都会ならではの喧騒もまた遠い。
硝子に映る庭主の姿は、上半身は乳白色のブラウスと薄桜色のカーディガン、下は桜散るミストグリーンのロングスカートという私服姿だった。硝子鏡に反射した表情は穏やかで、心なしか楽しそうでもある。
花が綻ぶこの季節は花々を愛する彼女にとって嬉しいものだ。名残惜しげに鍵を掛け、襖を閉めて冷気を遮断する。
「なんかまた冷えてきたな。この前までは結構暑かったのに」
「春未だ浅し、冬冴え返ると言いますし」
花誉が再び座卓に戻ると、向かいに座る敬が両手を合わせたところだった。
楕円の座卓には食器が多く載っているが皿は全て空になっていた。全体の四割が花誉の陣地だったが、花誉は料理を食べ終えてから席を立った。その時、残り六割の皿には確かに料理が載っていたはずだが既に何の痕跡もない。
今夜の夕食もまた満面の笑みに昇華したらしく、花誉も満足げに頷いた。
「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
花誉もまた両手を合わせる。
敬の格好も既に制服姿ではなく、菜の花色のパーカーにブルージーンズという楽な格好になっていた。ベルボトムの裾から覗くのは健康的な素足だ。
「今日も美味かった、幸せ。……あ。ところでこれ、何て言うんだ?」
専用の湯飲み茶碗に梅昆布茶を注ぎながら花誉は顔を上げる。
敬が指で示す先は何も載っていない瀬戸物の皿だった。せめて食べる前に聞けば良いものの、美味礼賛を信条とする彼女は、馳走は食べ終わってから改めて胸中で味を反芻するものであった。
花誉は空になった皿を見つめ、持ち前の記憶力で夕食前の様子を思い出す。その間、僅かに五秒余り。
「あぁ、湯葉ですか?」
「んん、なのか? 初めて食ったかも」
「湯葉というのは大豆の加工品の一種なんですが、今回は清酒と味醂、薄口醤油のお出汁にちりめんじゃこと梅肉を加えてみました。山椒が入ってますから少し癖があるかと思ったんですが、どうでした?」
湯飲み茶碗を差し出すと敬は料理人に敬意を払って両手で受け取った。
「いや、美味かったよ。また食いたい」
「椎茸や豚肉を包んで蒸してみても美味しいんです。湯葉巻きもシンプルで良いですし、今度作ってみますね」
「やった」
敬は首肯し、嬉しそうに茶碗を傾けた。
今夜の食卓には若芽と筍の若筍煮、湯葉の縮緬山椒和え、鯛の塩焼き、若芽の混ぜご飯といった旬の食材をふんだんに使った料理が並んだが、鯛の骨以外の物は残っていない。
好き嫌いのないのは良いことだと、花誉も茶を啜る。ふと湖面に目をやると一本の茶柱が立っていた。
「何か良いことでもあるんでしょうか」
これ以上の幸福もないだろうと膜の張った思考に耽る。完璧な角度で碗を傾け、梅の仄かな香りに満足の吐息を零した。
敬は早くも茶を飲み干したらしく、意識は電子映像機に向けられていた。壁に掛かった薄型の映像機は掛け軸のようでもある。手元の遠隔操作装置で次々に番組を変えると部屋に雑多な音が満ちた。
特に目ぼしい番組もなかったようで最後は無難な報道番組に固定された。
画面では女性報道者と評論家らしき男が難しい顔を突き合わせていた。背後の映像機には円表と折れ線表が映り、不規則に変化している。だがいつまで経っても肝心の話題に移行しない。証明が下手な男らしく、後退しつつある髪を掻きながら難しい顔で手元の書類を睨んでいた。
表示された図表から察するに能力者と一般人の雇用差についての話題らしかった。
「コヨー問題……」
敬が僅かに前のめりになって小さく呻く。授業で難問に指名された時の顔だ。花誉は茶碗を持ったまま画面を見つめる。瞳は思案する学術生のものとなっていた。
「二〇五一年現在、地球上における総人口はおよそ七十八億人。その中で確認が取れている能力者――つまり円ノ衆の数は約四十八億人と言われています。白亜と黒耀の創立以前は円ノ衆の統計は各国の義務ではありませんでしたから過去はおよそ推測するしかありませんが、文献によればこの数は昔から変わらず一定の値で発生しているとも言われています。単純に考えて二人に一人が円ノ衆であるにも拘らず、迫害や弾劾といった諸問題は昔から根強く、なくならないのは何故なのか」
脳の情報処理が追いついていない敬は口を真円に開けながら小首を傾げる。
花誉は茶碗を持つ指の間で言葉の破片と記憶の言語化を図っていた。
「現代に於ける円ノ衆が行使する力は動体視力や肉体強化、超電子匣並みの記憶力など種類は千差万別ですが、そのいずれもが人知を超えた力を発揮します。一般人の根幹にあるのは異能への恐怖、そして強大な力を持ち得た円ノ衆の間違った優性思想による隔絶と排斥。やはり一般人から見れば、未だ私達は廻來天と同様、畏怖の対象なんでしょう」
敬は言葉を咀嚼して問題文の真意を反芻する。試験問題は苦手だが、苦手というだけで諦めるのは自身好きなことではない。喉の奥で低く唸り、さしあたっての考えを述べた。
「でも街を守ったり災害地域に派遣されて現場の人間助けてるのだって円ノ衆や廻來天だろ? それに一般人にしか出来ねえ仕事だってあるさ。オレなんかは馬鹿力の所為で針に糸は通せねえし体育の測定は規格外で撥ねられるし、出来ないことだって色々あるぞ」
敬は自らの掌に視線を落とす。握られた掌の中には悲哀や嘆きはなく、ただ淡々と特長を強化し伸張し、饉瑾を砕き割った戦士の横顔がある。
花誉は敬の横顔を穏やかな瞳で見つめていた。
次いで自らの右手に視線を落とす。彼女に敬のような超身体能力はない。それこそ多種多様な能力の中、同じ力が出会う方が珍しい。花誉は何かを振り払うように顔を上げた。
「両者の一長一短を簡単に補えるほど、簡単な問題ではないということですね」
仄暗い考えは止めた。折角の穏やかな夜に、これ以上の世相問題を論ずることは避けるべきだと判断した。
評論家より先に結末に辿り着いた二人の視線の先では、ようやく本題に入り始めた男が冷や汗を垂らしていた。
だが男の背後にある映像機は一転し、京庵の町並みに変わった。俄かに画面内が騒然とする。
どうやら緊急速報が入ったらしく、慌しい撮影室の雰囲気が画面越しでも感じられた。製作関係者に渡された書類に報道者が目を通して評論家との話題が強引に収束される。
報道者が口を開くより早く、花誉は自らの電子手帳を開いた。
白亜のサーバにパスワードを入力して情報を引き出す。八段階に分別された依頼項目には目もくれず、赤字で至急と書かれた任務を空中に表示した。その一番上、報道者が現在進行形で伝える速報と同一のものがあった。
「敬」
「どんな奴だ」
花誉に背中を向けたまま、立ち上がった敬は制服に手を掛けていた。花誉は座ったまま情報を朗読する。
「二十分前に新市街五十一区、上空五〇〇メートル付近で亞門の出現を確認。多重に拘束された鎖と符術を適合した結果、十二年前、屠署に冥送された者であることが判明」
「随分と昔だな。理由は?」
「建物五棟の建造物破壊行為、及び殺人未遂。一般人の負傷者を多数出し、黒耀に冥送命令が下され、白亜が逮捕を試みたようです」
敬は上着を脱ぎ捨てる。薄い胸は黒のスポーツブラによって簡素に拘束されている。鍛え上げられた腹筋と二の腕は余分な脂肪が一切ない。体や背中には多くの生傷や青痣が残っていたが気にした様子もない敬は、先程まで着ていた半袖シャツを着た。上には高校指定のシャツを羽織り、スカートの下にジャージズボンを履くと素早い着替えは終わった。
「要は暴れん坊ってことか」
「屠署に問い合わせた結果、刑期を終えたばかりの者のようです。冥送の際によほど抵抗したのでしょう、白亜が符術を用いて第三世界から封印してようやく屠署職員が捕らえたそうです。門を拘束する鎖がその名残ですね」
「こっちに出てきたがってんだな」
敬は電子映像機に拡大表示された黒い門を見つめる。
屠署と世界が繋がる時に具現化する門――俗に亞門、古くは羅生門とも呼ばれた重々しい城門には幾重にも鎖が巻かれ、扉の中央部分には小さな札が貼ってあった。古めかしい封印の鎖は今にも切れそうで、奥からは凶悪な感情を滾らせる瞳がこちらをじっと見ている。時折扉を叩いては封印を剛力で破壊しようとしていた。
「白亜と黒耀は何て?」
「来訪した場合、実力を以って排除。その後は屠署が再封印の儀を行うようです」
「もうこっちには遊びに来れねえな」
敬は横顔に鮮烈な笑みを浮かべる。
花誉は机の上に置いた湯飲み茶碗に視線を向けた。茶柱は沈み、水底で無言のまま横たわっていた。
■
隣接する建物が未だ淑やかな高さを保つ京庵五十地区。
旧市街の末端である四十番台の地区は徐々に建物を減らし、その形を近代的な姿に変えていく。旧市街と新市街の境に立地するが故に五十地区はさほど高い建物がなく、その役割は両市街の緩和地区とも受け取れる。更に言えば、五十地区は京庵の中で最も広い区画割りを誇り、末尾には高層建築群が控えている。
知砂と遊の住む家は四十九地区と五十地区の境に建つ、築十年を迎えたばかりの三階建てマンションだ。その最上階の角部屋には人の居る証として電燈の光が朧に揺らめいている。
僅かに開いた硝子戸から忍び込む夜風は乳白色の窓幕を緩やかに踊らせる。隙間の向こう、ベランダ越しに暗闇に浮かぶ旧市街の灯火が見えた。深遠に咲く蛍火の数だけ日常が存在する。雑然とした新市街の光は何処もかしこも眩く、人の数を曖昧にさせる。
室内の照明は抑えられ、フローリングの床には薄い影が寄り添っていた。映像機の音源もまた同様に微かにしか聞こえない。明滅する画面の光が広いリビングを脈動させた。
「ちーちゃん」
「んー?」
映像機の前にある低い卓上には空になった食器が載っていた。
コの字型の黒いソファの上には混じり掛けた二つの影がある。知砂の膝上に、向き合う形で遊が座っていた。二人の姿は私服に戻り、遊は柔らかな白いパーカーに蒼のハーフパンツを纏う。対する知砂は調理後ということもあって、黒の半袖シャツとオリーブグリーンのカーゴパンツを着ていた。
「ご馳走様でしたなの」
満足げに微笑む唇にトマトケチャップが付いていたので知砂は親指の腹で拭ってやる。夕食の名残が室内に未だ残っていた。
「本日のオムライスは如何でしたでしょうか?」
「おいしかったです!」
「何位?」
「一位!」
「毎回順位が変動するねぇ」
満面の笑みに言葉に疑いの念など湧くはずもなく、知砂の料理は本日も満点だったらしい。遊たっての希望で本日の献立は彼女の好物であるオムライス。確か三日前の昼食の際も食べた気もしたが、毎日の如く出しても飽きないのだから別段問題はない。
今回はホワイトソースと乾酪を混ぜて半熟卵焼きの上に掛けてみた。色々な種類を試したくなるのは眼前の少女の喜ぶ顔が見たいからだ。この家の料理長は三ツ星判定に満足げだ。
「でもおいしいの。ホントだよ?」
「知ってる」
前菜のポテトサラダは遊が担当した。人参とゆで卵、トッピングにはレタスという簡素なものだ。
帰路の途中で購入した素材に申し分はない。ただ一つの問題点は塩加減だった。僅かに過多なような気もしたが、上目遣いに味を尋ねられれば是としか答えようがない。唯一の助手には寛大且つ寛容な料理長だった。少女の頭を撫でてやると目を閉じて胸元に身を預けてくる。次回に作る時は塩を投入する際は見守っていようと思った。
自らの喉元に頬を擦り付けて目を閉じる姿は愛猫めいて僅かな悪戯心を擽る。向ける下心と真心の意図は気付いていても遊にはそれに答えるだけの知識がない。それでも本能的に気付いてはいるのだろう。二人の相関図は鎖と血、そして幾許かの呪で構成されている。
知砂の記憶の奥に沈む数年前の逢瀬から、遊との間に横たわる海は何一つ変わらない安穏な静寂だ。華奢な肩、消え入りそうな肌、空と海を混ぜ合わせた瞳。過去を綴る記録と変わらず、より一層の鮮明さを以って今もなお掌の中にある。
両手で白磁の頬を包み込んで視線を合わせた。擽ったそうに身を捩りながら零れる笑い声に知砂は目を細める。逃げられないように後頭部に手を回して、唇を近づけた。
「ちーちゃん……?」
許された愛称。
名前が何より重要な意味を持つ此の世の理の下において、愛称や略称で他者を呼ぶことは暗黙の禁忌とされる。そして名前を与えることで異形との契約が結ばれる通式は人間同士には通常ならば適応されない。……通常では。
何時の世も何時の時代にも枠外、あるいは論外というものは存在する。知砂自身は外界者を気取る気は毛頭ないが、黒耀に未だ残っているのは法破りとしての一面だ。
蘇りそうになる諸々の淵戯を知砂は努めて思考から排除する。
「遊」
艶に低く掠れた声で名を呼び返せば許容の微笑がある。
僅かに早まった鼓動を鼓膜の奥で確かめながら知砂はその頬に唇を落とす。頤を指先で固定し、ようやくの唇を交わらせようと浅く息を吸う。
瞬間。
冷たい電子音が吐息を霧散させた。遊の肩を掻き寄せるも変質した空気はもう掴めない。
遊は肩越しに音の発生源を辿る。答えは卓上にある知砂の電子手帳だった。
「ちーちゃ、電話」
「やだ」
「あのでも」
「や、です」
電話は依然としてけたたましく鳴り続けている。持ち主はと言えば、遊の慎ましい胸に顔を埋めて徹底抗戦の構えだった。境界に座る遊はどうしたものかと思案する。
数十秒間鳴り続けた電話は留守番機能へ移行し、電話先の人物の声が電子音の名残を引き継いだ。中空に立体化された電話先の名前が遊の瞳に映る。
『出ろよ!? 仕事だっつーの!』
今度は知砂の肩が小さく震え出した。震駭ではなく、どちらかと言えば心外の類だった。
遊は黒髪に指を滑らせて丁寧に撫でる。知砂はまだ顔を上げない。旋毛に唇を落としてようやく知砂は遊の胸元から名残惜しげに顔を離した。
「既視感がある」
「三日前、かな?」
その拗ねた声に遊は思わず苦笑する。
知砂はと言えば、遊を膝上に載せたまま、投げやり気味に手帳を取った。なおも何事かを喚き立てている手帳を開いて会話ボタンを押すと、最大音量かと思うほどの声が飛んだ。知砂は電話を摘んで自身の耳から遠ざける。
『やぁっと出たか。仕事だぜ、知砂』
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」
事務的な声に一瞬だけ電話先の声が停止した。
「わーい、騙されたー」
『手前ェ!』
遊は知砂の頭を撫でつつ、知砂の手帳を取った。
「もしもし、けーちゃん? どしたの?」
再び怒鳴ろうと思っていたのだろう、大きく息を吸っていた敬だったが遊の声によって空気が抜けた。小さく咳払いをして我に返る。
『おぅ、遊。悪ぃな、寝てたか?』
「うーんとね、ご飯食べ終わったところ。……かな?」
『何で疑問系?』
「うーんと、ね」
知砂は手帳を会議機能へと変える。これで複数との会話が可能になった。
「詮索は野暮だねぇ、敬。そんでお前、何回あたしの邪魔すんの」
『知らねー。超知らねー』
向こうも会議機能にしたらしい。賑やかな雑音から察するに新市街に居るらしかった。電話越しに四人は数時間振りの再会を果たす。
『今晩和、お二人とも。どうやらお仕事みたいですよ』
「かよちゃ、今晩和ー」
『えぇ遊、今晩和。夜分遅くに申し訳ありませんが、報道番組見てますか?』
遊は知砂の膝から下りると映像機の音量を大きくした。つけっ放しにしていた番組は丁度話題に上がった報道番組で、知砂は己の不運を呪う。ソファの背凭れに頭を預けて上を仰いだ。
「見てなーい」
『嘘つけよ。聞こえてっぞ』
報道番組は混乱の渦中だった。慌しい声は恐怖ではなく、久方振りの報道対象に浮き足立っているのだろう。収録中だと言うのに報道者の背後を慌しく制作関係者が駆け回っている。
亞門は円ノ衆でなくても視認出来る。
刑期を終えた彼等は原則として門を潜ってこちらの世界に具象化される。亞門は何者かが備え付けたという訳ではなく、ただ「門のように見える」という理由だ。亞門は名を持たぬ廻來天と同じ物質で構成されており、潜った者へ物質化現象を引き起こす。
完全に取り残された評論家らしき中年の男は虚空を見上げて呆然としていた。
『先程三十分前、新市街五十一区の上空で亞門の出現が確認されました。多重に拘束された鎖と符術の一枚を照合した結果、十二年前に白亜によって封じられた者であることが判明。両機関からは「来訪した場合、実力を以って排除せよ」との命が下されました』
「いつも通り早い者勝ちでしょ? だったら他所にお任せするよ」
『……それがですね』
言い淀んだ花誉の言葉を殊更嬉しそうな敬が引き継ぐ。
『厳選なる電子籤引きで、大当たりを引き当てたのがこのオレ様な!』
知砂がゆらりと顔を上げた。
「……あ?」
『希望者二十人で当たり一本。オレは八番目に引いたんだけど、これがまた華麗な一抜け。外れ籤が同じく一本あったんだけど、それは鵺兄ちゃんのトコの奴が当てた。報告書はソイツがやるってさ』
知砂の嘆息。架空の頭痛を訴えるこめかみに指を辿らす。遊戯が好きな白亜職員が考えそうなことだ。遊は静かに報道番組の画面を見つめていた。
「どうする、遊」
「行こう」
電子光が少女の白い肌を明白に照らし上げ、蒼の瞳は冷たい燐光を纏う。
予想の範囲内だった回答にそれでも溜息は止められない。残りの休暇も取れるかどうか怪しいものだった。机の上に転がった煙草の箱に手を伸ばしかけて、着替えるのが先か吸うのが先か逡巡した。
知砂はソファから背中を引き剥がして立ち上がり、遊を背後から抱き締める。
「……で? 今何処に居んの」
『あなた方のマンション前、一階入り口です』
早急に着替えなければならないらしかった。
遊の頭に顎を乗せて、報道番組を横目で見る。女性の報道者は評論家の男に間に合わせの会話を振っている。脂汗を滲ませて無理に話を合わせている男の姿は何だかいたたまれなかった。知砂の胸中に同情の余地は一切ない。あるとすれば休日を返上して働かなければならない自分達に、だ。
「遊」
電話先に聞き取られないよう、抑えられた声が遊だけに届く。見上げてくる瞳は束の間、柔和な色に戻っている。
「ちゅー」
背後から、真上を向いた額へ口付けを落として日常の名残を惜しむ。
突然の口付けに初々しく硬直する肢体に胸中で微笑んだ。命を賭して戦うことに迷いがなくとも、口付け一つに身を硬直させるとは何とも奇矯な話だった。
唇を落とすだけの口付けは直ぐに終わる。額を両手で押さえて上目遣いに見上げてくる瞳は僅かに潤み、無意識の内に獣を呼ぶ。高揚した頬と銀の鬢を撫で上げて、知砂は一時の間日常から離れることを決めた。
深淵の交わりは海水に混ぜた一滴の真水の如く侵食された。体の一部となった異業に気付くのは掌から落ちる瞬間だけだ。交わっている限り一人分しかない恐怖は緩和される。
あるいは二人分存在したとしても盃の許容量は大きい。それこそ溢れることのない海のように。
「じゃ、深夜の鬼ごっこに行こうか」