二章:春ノ日和
彼の身の内に流れているのは他者への恨みつらみである。
泥土の如く黒ずんだ怨嗟は幾星霜の中で根本を成す事柄こそ薄れたものの、残酷なことに精神に刷り込まれた憎しみだけは消えることなく癒えることなく心の奥底に沈殿していた。
一族特有の金の瞳は遥か昔の気高さなどとうに忘れ、貴金属の輝き以下に成り果てた。
誇りは石に、憎しみだけが粘着性を以って心に張り付いている。
【二章:春ノ日和】
白墨が黒板を叩く規則的な音が響く。電子掲示板を利用すれば良いのに、と三年四組の生徒全員が考えていた。
紙媒体が環境保護法によって年々減少の一途を辿る昨今。学校の教材はインターネット上にあるテキストを購入、ダウンロードする方法に移り変わってきている。
一般家庭における普及率が九十八%を越えた電子手帳然り、学校や会社の机には必ず薄型電子匣が備え付けられている。高度な電子工学の恩恵によって齎された情報伝達媒体は生活に隙間なく溶け込んでおり、二分することは不可能と言えた。
教壇に立つ、顔に皺の年輪が深く刻まれた老人は機械文明に背を向ける最期の徒だった。
古き物を重んじるのは歴史学顧問の特徴だろうか。老人は色素の落ちた顎鬚を撫でながら、教室の生徒三十五名と向き合う。電子化のされていない丸眼鏡に生徒達の姿が薄く映った。
大量生産による学校用机の列は所々で歪み、学級という漠然とした集合体を形成している。
「以上が《神学》についての大まかな概要だ。試験に出る箇所ではないので、詳細に関しては各自教科書を読んでおくように」
私立常磐南高等学校二階、三年四組の教室は静寂に満ちていた。
教師の高説に感動して声を失っている訳ではない。歴史学は電子匣を使用しない数少ない授業の一つで、生徒の机に備え付けられた薄型電子匣には電子錠が掛かっており、文字入力の音は聞こえない。
頭の上がっている者は僅か数名しか居なかった。大半の者は睡魔の世界に誘われているか、机の下で電子手帳を弄っているか。勉強に勤しむ者は最も希少価値が高かった。
無駄話がない理由は電子手帳のチャット機能によるもので、文面に変換された日常会話が電子の世界で続けられている。
老教師が教科書を捲る音が妙な反響を帯びて部屋に染み渡った。定年間際の彼は自らの古びた教科書を開き、文字を声に置換する。読経のように、歴史という過去が述べられていく。
いつもと変わらぬ授業風景がそこにあった。
時は天暦二四五一年――国暦二〇五一年。近代化の寵児、高度電子学が溶け込んだ世界。
東の海の果てに浮かぶ《日出ずる国》ヒノモトは、世界の歴史を記した「天暦」と各国それぞれの歴史を記した「国暦」の年号の間に大きな空白が存在する。
一般に《神話時代》と称される空白の四百年間。人類永久の罪と類似性が見られるこの洞は、世界でも高い評価を誇るヒノモトの考古庁の実力を以ってしても埋めることが出来ずにいる。
結果、国が指定する歴史教科書、あるいはネット上に存在する教科書の冒頭部分は全くの白紙状態で作成されている。本に換算しておよそ一章分、いつ分かるとも知れない国の生い立ちを一刻でも早く世に知らしめたいと願うように。
「国暦一六二〇年、《千年帝国》が終わりを迎える」
教師は黒板に描かれた年表図、最も下に書かれた部分を枯れ枝のような指先で示した。
武力によって国を統一せしめた神帝の末裔は己を神の地上代行人として世に君臨した。数百年に及んだ神帝崇拝、歪曲した時が連ねた髑髏の数。ヒノモトと名を改める前、《日神国》ヤマトが繰り広げた戦いと血の歴史は近隣国を巻き込み、その悪名は世界中に知れ渡っていた。
だが神帝が信念に掲げた理想郷《千年皇国》は意図したかのように、名前通りの年月を経て打ち砕かれる。神の皇として崇め立てていた信奉者、国民達のその手によって。
神帝廃絶運動の影には列強諸外国の介入、白亜と黒耀の前身たる《灰燼》の暗躍、中には神話時代の亡霊の呪いなど神秘的なものを含めて諸説あり、僅かに残る歴史書はいずれも過去を滲ませていた。
過去に巨大な伽藍を開けながらも歴史は進み、年々教科書の頁は埋まり増えていく。だがこの国は出生と転換点に未だ深い霧が立ち込めていた。
そこまで読み上げた教師は顔を上げた。細腕に巻かれたアナログ時計を緩慢な動きで見遣る。
「では、今日はここまで」
そして間を置かず、終業を告げる鐘が鳴った。
「世界が神の胃袋っつったのは何処の哲学者だったかな……」
教師の丸まった背中が遠退いていくのを眺めながら、窓際の座席に座る知砂が低く呟いた。瞳に掛かっているのは電子眼鏡ではなく、赤縁の遠視兼乱視用の眼鏡になっていた。
珍しく午前の授業全てに出席したのは今朝の遅刻寸前の失態を埋め合わせるためだけなのだろう。彼女が学校に身を置く理由など一つしか存在しない。
教室内は目覚めの合図となった鐘の音で夢から覚めた生徒達がざわめき出し、彼女の言葉をかき消した。数多の言葉が雑音となり収縮。休み時間の組曲となる。
知砂は体を椅子ごと九十度回転させて窓枠に背を預けた。眼鏡を外してケースに収める。
その後ろ座席では遊がくわりと欠伸を零していた。机の上にはノート、教科書、白革に四葉と天道虫の刺繍が施された筆入れ。
勉学に勤しんでいた証拠に知砂は微苦笑を浮かべる。開かれたノート端の文字が一部解読不能の怪文書と化していたのには目を瞑った。
「……ちょっと寝そうだった」
「まぁ、ギリで許容範囲」
「えへへー、なのー」
知砂は正直に授業に取り組んでいた遊の頭を撫でる。ともすればこのまま眠ってしまいそうな雰囲気だ。空色の瞬きが緩い拍子を刻む。苦笑を微笑に変え、紫の瞳は優しい色を帯びる。
「こら。寝んな」
「ほにー……」
主人の愛撫に身を委ねる子猫宜しく遊は目を細めた。旅立つ先は睡魔の海。耳の後ろをなぞってやると擽ったいのか身を捩った。眠りの小波にはどうにも逆らえないらしく、ゆっくり瞼を下ろす。
もう少しで寝落ちる、そう思う。
しかし学生にとって昼休みは貴重な自由時間だ。四十五分という限られた時間の中で昼食やその他諸々の私事を終えなければならない。誘った矢先で罪悪感が湧くが、知砂は浅瀬に浸かった身体を現実世界に帰還させる。
「遊? 昼休みだよ、御飯食べに行こ」
睡魔の泡が割れる。間近で仄かな甘みが混じった煙草の匂いを嗅ぎ当てて瞼を開けた。
「ごはん……?」
二つの視線が交わる。瞬き数回、青の瞳はまだ睡眠の誘惑に勝てない。自らが発した言葉の意味を反芻すること数回と数秒、舟を現実に漕ぎ付ける。銀髪を撫でられ、ふうわりと笑いながら身を起こした。
「ごはん、食べる」
椅子から立ち上がり、さながら夢遊病患者のような覚束ない足取りで扉へ向かう。
知砂はその背中を見送りつつ、遊の手に何も握られていないことに気付いた。完全に寝惚けている。
二人分の弁当を持ち、知砂は足早に遊を追随した。
教室の扉を抜けると、廊下は休み時間特有の騒乱と共に生徒達が溢れ返っていた。
その中からあの小さな姿を探すのは意外にも難解な問題ではない。合間を縫いながら人目を引く銀髪が前を歩いている。時折、同級生に呼び止められて頭を撫でられていた。
この私立常磐南高等学校は校則の縛りが非常に緩い。あってないようなものだ。肌の色、髪の色、瞳の色、人種、宗教、性別、服装、全てにおいて一切の規制を設けていない。
元は規則という文字を体現した全時代的な女子高だったが、男女共学になった際に全校則を破棄したらしい。
当時からすれば最先端と言うより常識の斜め上をいった五十八代目校長は、現在では銅像に姿を変えて生徒用玄関前に立っている。夜な夜な校庭を走り出すというのは、よくある学校の怪談話だ。
良かったのは、彼女のような異質とも取れる外見の持ち主が無下に教師や生徒の目に止まらなくなったことだ。性差別、人種差別、能力者差別、異端の外見は廃絶し拒絶されるのが常だ。
京庵は古から続く風習と歴史が生きる街である。常盤南高校は切り捨てられる者に寛容な、非常に稀有な型と言えた。
白亜が機能し始めて千年余。
各国の主要都市には特務適格者対犯罪取締機関と特務審問機関の支部が置かれ、一般市民と街を守護する任が課せられている。白亜と黒耀の活動は市民を守ると同時に、迫害された者達を迎え入れ、活動の場を模索する一任も兼ねている。
過去、人間至上主義の名の下に多くの能力者達が命を落とし、幾千の廻來天が滅びた。
しかし白亜と黒耀の前身である灰燼に属する能力者達によって人民は解放される。
灰燼の長年に亘る努力が功を労し、気高い意志は白亜と黒耀に受け継がれた。廻來天や円ノ衆を廃絶する残虐行為は千年間、表立っては行われていない。
長い月日を掛けて、人と人外の間の隔たりは狭まってきていた。紙一重の平和は白亜と黒耀という、かつては異端者と罵られ続けた者達の末裔達によって齎されている。
数多の民を差別という咎で葬った傷跡は荒糸で縫われ、時に血を零す。歴史は無慈悲に、何事もなかったかのように進む。凄惨な過去は紙や電子上に綴られて磨耗していく。
知砂は歩調を早めて遊の隣に並んだ。
弁当箱の包みをちらつかせると、ようやく気付いたのか両手で申し訳なさそうに受け取る。微睡みに浸かっていた意識も完全に浮上したようだ。
「ごめん、ちーちゃん……」
きまりが悪そうに上目遣いで隣を見上げると、知砂は僅かに乱れた銀髪を整えてやった。
「まァ、今週一週間は全員の休み貰ったから。今日はゆっくり休みなね」
「ほんと?」
「ん。学生の身分を最大限に利用して直訴しといた」
浮かぶ欠伸を噛み殺しながら前方を見据え、苦労して獲得した己の偉業に頷く。
人の流れに従って、二人は意思の疎通もなく共に屋上へ続く階段を目指した。歩幅の狭い遊は高い背を目印に後ろに付いていく。
教室が並ぶ廊下を抜け、一階から屋上へ繋がる階段を上る。
学校の構造は三年生が二階、一年生は三階、二年生が一階となっている。
入学の際は生徒がこぞってこの順序に頭を傾げるが、進級すると疑問は得心に変わる。一、二年生は上級生の目があるためにあまり羽目は外し過ぎない。一番危ういのが受験や進学を控えた三年生だ。自由な校風に伴って青春を謳歌し始める生徒を引き締めておくために、全体を見渡せる位置である二階に職員室が配置されている。
乳白色だった床は三階の半ばから年季を経た苔色に変わる。四階の踊り場から先は、左右のポールを繋ぐ鎖が他者の進入を阻んでいた。屋上は立入禁止であるが、昼休みの混雑した時間帯の中で、まして上級生である二人を咎める者は居ない。
不可侵の任を担う鎖を跨いで、遊は屋上に続く鉄扉に手を掛けた知砂の背中を慌しく追った。だが知砂と同じようにとはいかず、やや苦戦しながら鎖を跨いで隣を仰ぐ。
「直訴って、指揮官さんに?」
知砂は僅かに怪訝そうな顔をして振り返った。だが俯く少女の姿に疑問は消える。
「今朝のこと?」
「ん……」
遊の脳裏に浮かぶのは指揮官の不明瞭な声だ。機械の中に本人が居るはずもないが、思い出すと初めに浮かぶのが黒の画面に浮かぶ赤の二文字だ。
遊はそれが苦手だった。遠隔から聞こえる声と彼岸に流れついた過去。こちらからは届かぬ場所から一方的に、気紛れな波に乗って還ってくる朧な欠片。待つのはいつも残された側だ。届かない場所に隠された真実は遠い。
喧騒が遠のき、耳元に小波の幻聴が流れ込む。緩く頭を振って知砂のシャツの裾に縋った。
「どうした?」
感情の機微に気付いたのか、知砂は身を屈めて蒼の瞳を覗き込む。視線を合わそうとしない遊の頬に右手を添え、強制的に視線を交えた。
「なんでも、ないの」
逸らすことが叶わなくなった真摯な視線を受け止めながら、遊は頬を染めて困惑気味に瞼を伏せる。知砂の指が長い銀の睫を、細心の注意を払って優しくなぞる。
「あ、あの、ち、ちぃちゃ……?」
遊の乱れた呼吸が知砂の前髪を揺らす。間近な吐息の奥、知砂が呼気だけで笑う。疑問符を浮かべている遊の眦をもう一度撫ぜてから顔を近づける。桜と薔薇の二色を交わらせようと、そっと目を細めた。
「そーゆーことは家でやれよ、お前等」
呆れを配分した声が響く。
遊は知砂の腕の中で大きく肩を揺らせた。知砂は声の発生源を一瞥してから、何の問題もなかったかのように遊の細腰を引き寄せる。形の良い耳殻を甘噛みすると子猫の鳴き声が上がった。
「存在全無視か。おい、コラ。校内で堂々と不純同性交遊をするなっていうか先ず今は昼時の飯時っつうか、って何より人の話を全く聞いてねぇだと?!」
声に重なって規則正しい靴音が階段を上ってくる。模範と言える正しい制服の着こなしの人物は最後の一段を丁寧と言えるほどの動作で踏みしめてから、項垂れる少女の傍らに立った。
「敬、駄目ですよ、昼過ぎの情事を邪魔しては。……あ、遊と知砂だったんですね」
「情事て。常時情事だろうが、この場合。はあ、もうオレお腹が減って倒れそうなので、そこ退いてくんねえ?」
敬の制服の上着釦は外され、下には橙の半袖シャツが覗いている。学校指定の赤いチェック柄のスカートの下には黒のジャージズボン。
階下から現れた二人の格好はあまりに対極過ぎた。共通項は弁当箱を持っていることくらいだが、敬の手に握られているのは年始に用いられる重箱の包みだった。
介入者達に紫の瞳が無言で弾劾の視線を向ける。花誉の姿は不良を叱る学級委員長のそれだ。
「昼休みは短いですよ?」
花誉と知砂の視線が交わる。微笑混じりの遠隔的な忠告に知砂の口から重い溜息が零れた。
「……無粋」
「事実です。遊もお腹空きましたよね?」
花誉は籠に囲われた子猫の髪に、花に触れる要領で指を滑らす。子猫はどうすべきか逡巡して知砂を見上げた。
「はうぅ……」
降参か諦念か、遊が知砂の胸に頭を預ける。小さくお腹が鳴った。
不承不承、捕食者は牙を収める。そのまま軽々と遊を抱きかかえ、開いた手で鉄扉を開いた。
扉の向こう。
真上に座した春の太陽が四人を包んだ。知砂の肩から顔を覗かせる遊が気持ち良さそうに目を細める。校庭脇に植えられた金木犀の香りが風に乗って仄かに漂っていた。
立入禁止の場所に人の姿があるはずもなく、代わりに屋上の中心には忘れ去られた木製の長椅子が一つだけあった。更に奥には凸型をしたボイラー室があり、壁面には校内外に時間を知らせる大きな歯車式時計がある。近代的な電子式時計の方が誤差もなく性能も良いのだが、無機質な電子時計は街の雰囲気を損ねるという事情で学校側が譲歩した結果らしい。時を刻む重厚な音が扉越しに響いていた。
三人は歩を進め、長椅子前の床に腰を下ろす。椅子の白い塗装は錆び果てているために座ることは叶わない。既に本来の目的を忘れた椅子は長年そこに佇んでいる。
知砂は抱えていた遊の両腋に手を差し入れて距離を作る。名残惜しむように遊の手が知砂の制服の一端を握っていた。
「御飯」
「ふに」
告げると、遊は頷いて知砂の左隣に大人しく座った。その隣に花誉、敬と続く。
鉄柵のない屋上は街の景観を遮らない。学校は都市区のおよそ中心にあり、隣接の建物は影が落ちないよう精密な計算の下に設立されている。街を吹抜ける春風をそのままに伝えた。
「んじゃ、いっただっきまーす!」
うららかな春の気配を両手で押し潰し、敬が重箱の紐を解く。それからは中に何が入っているのか第三者には確認出来ない早さで弁当の中身を空にしていった。
他の三人も控えめに手を合わせて包みに手を掛けた。箸を口に咥えて弁当の中身を確認しながら、知砂が思い出したように顔を上げる。
「あぁ、そういや一週間の休み貰ったから。今週は各自休養」
何気ない科白に遊と花誉は承諾の頷きを返すだけだったが、六つあった鳥の唐揚げをどれから食べるか真剣に考察していた敬だけは違った。反射的に顔を上げて知砂の方を見遣る。
「え、何、今週もう仕事なし?」
「聞いてろよ、人の話を。更には不服なのかよ」
知砂は弁当の隅にあったミニトマトを摘まみながら胡乱な返答をする。
「ったりめーだろ。今回はたまたま別の仕事が重なっただけで支障はねえよ」
「元気が有り余ってる一名を除いては、ね」
蔕をコンクリ床に放りつつ、トマトを口へ運ぶ。酸味と独特の甘味を表情一つ変えずに味わいながら、視線だけは抗議する人物に向ける。対抗するように敬も唐揚げを頬張った。溢れる肉汁に頬が緩むも、抗議の最中だったことを思い出してなんとか表情を固める。
「あたしは朝から全力疾走で登校なんてのは勘弁。どうせ遅れるくらいなら堂々とサボるわ」
今朝、白亜で登校時間を超過した四人は洗顔、着替え、朝食、その他諸々の身支度を機関の中で済ませた。今食べている昼食は食堂の料理人に作ってもらったものだ。弁当箱には控えめ且つ簡素化された白亜の紋章が入っている。
学校までは白亜の送迎車を使用。黒塗りの重厚な車は目立つため、学校からは死角になる路地裏で下車。大時計の鐘の音を聞きながら各自教室へ吶喊。以上が今朝の授業開始時刻までの慌しい三十分間の全容である。
あわよくば重役出勤を決め込もうと画策していた知砂と敬の考えは遊と花誉によって即刻否決された。無論、口で言った訳ではない。長年の付き合いで互いに譲歩出来ない事柄は熟知している。
ちなみに低血圧且つ夜型人間である一名は一連の行動全てに異を唱えていた。遊が知砂の手を引いて先導しなければ、恐らくは一人帰路についていたことだろう。
「なんか引っ掛かる言い方だな、知砂。オレの所為だって言いてーのかよ」
「遅刻だってのに定食を朝から三人前も食う奴が何処に居るんだよ。あのまま登校してりゃ間に合ったのに。ほぼっつうか、全部あんたの所為じゃねーか」
「んなのオレの勝手だろ。ちなみに食ったのは三人前じゃなくて四人前な!」
知砂は重い溜息を零し、会話という選択肢を放棄して箸を持った。敬は口を尖らせて隣に座る人物を横目に映す。
魔法瓶に入れた緑茶を杯に注ぎ、優美な動作で啜る人物は視線に気付くことなく充足の表情だ。反対側を見ると、遊もまた番茶の注がれた杯に口付けようとしている。ただしこちらは猫舌なために直ぐに飲むことが出来ず、念入りに息を吹き掛けている最中だった。
敬は肩で大きく息を吸い、腹底に蟠る不平不満を吐き出す。
「っちぇー……。んじゃあ今週はもうドンパチはなしかー……」
珍しく潔いのは四人全員の状況を見越した上で司式たる彼女が下した決断と知っているからだ。三個目の唐揚げに取り掛かりながら、それでも漏れる溜息は止められない。敬にとって戦いの高揚は日常の何にも勝る娯楽であり快楽であり遊戯だからだ。
遊はお茶を一先ず諦めて、少しだけ安心したようにチキンライスを口に運んだ。
「幸せそうに食うねぇ」
「おいひいよ?」
知砂は遊の頬に付いていた御飯粒を取って自らの口に運ぶ。知砂は食堂のオムライスは少しばかり塩加減が足りないと思っている。
「そう言えば」
それまで沈黙を守っていた花誉が弁当箱と箸を膝上に置いた。小物入れから薄型の電子手帳を取り出す。桜色の電子手帳の側面から筒状の記憶素子を取り出し、知砂に渡した。知砂は記憶素子に収められた情報内容を把握したらしく、開かずに直ぐ制服の内嚢に入れた。
「恙無く、っつう感じだねぇ」
「ええ、冥送はいつも通り無事に。あとは報告書を出せば無事に了、ですが」
「が」
「一昨日の解析作業の怠慢、書くつもりですか?」
「ないねぇ」
花誉は何処となく予想していたようでもあった。嘆息はない。しかし補佐として、あるいは友として、仲間に命の危険が伴う事態は忌避しなければならない。それを忠告する必要はないだろう。なにより知砂がその事実を軽んじている訳はないからだ。信頼はある。だが同時に納得出来ない一抹の疑問があった。青々と茂る柳の中に色を戻した黄色の葉が一枚ある。
空になった杯に緑茶を注ぎながら、白亜の入隊時に配られる電子教科書から一文をなぞった。
「『解析は対象の属性、攻撃の可能性、行動、目的を分析する。指揮官あるいは識(式)にとって、これは必要不可欠な事柄である』」
知砂は内嚢に手を伸ばしかけて止める。懐には先程入れた記憶素子。彼女が無意識のうちに求めた一本は今朝方白亜で燃焼されて灰となった。
食欲はあまりなかった。昼食に一人だけパンを所望した彼女の膝上には燻製鮭とレタス、トマト、軽く炒めた厚切りのベーコンがサンドされたベーグルが二つ乗っている。
食事も半ばに弁当箱をそっと閉じ、膝上のベーグルをどうしようかと首を傾ける。……無論、花誉の話は聞いている。正座は怖い。
「復習しておく」
「単純な怠惰、からですか?」
「ささやかな抵抗だよ」
知砂は悪びれる風もなく言い放つ。ベーグルを包んでいた透明フィルムを剥き、レタスを千切って咀嚼する。鮮度はやはり上々だと舌先で味を判定する。
「今週はもう働きたくない」
元々仕事に意欲的な方ではない。与えられた仕事はこなすが、突然舞い込んだ仕事は気乗りがしない。花誉は、ほぅと息をついた。枯れた胸中の木の葉が風に舞って霧散する。
「連絡がないとも限りませんから、一応手帳の電源は入れておいて下さいね。私の手帳は防壁やハッキング対策ソフトも通常通りの既成品ですし。白亜のメールにはそれ自体に防壁が展開されているから良いものの、重要書類が流出したら後が面倒ですよ?」
「了解」
どちらが司式なのか分かったものではなかった。
花誉は横開きの電子手帳を空いた手で畳む。双葉のストラップが風に揺れた。
電子手帳は一般普及率九十八%を誇る、多機能小型端末である。電話、メール、インターネット、写真、動画再生、録画、汎地球測位システム(GPS)、ノート機能を完全搭載。電子手帳は今世紀最大の発明として名高い。年々軽量化が進み、現在では掌に収まる大きさに落ち着いた。
外見は立方体で、側面に一から二つの記憶素子を挿入する部分がある。筒状の記憶素子を挿入することによって相手と電子空間を共有したり、より高度な情報交換が出来るようになっている。記憶素子は単体でも使用することが可能だ。また、電子手帳に記憶された情報は液晶画面に表示され、場合においては空中に立体的に表示することも可能である。
電子手帳の市場は激化が進み、会社の種類も付随して多くなってきていた。粗悪品も流布するなか、花誉の持っている端末は電話会社の筆頭のものだった。
知砂は自らの手帳を広げて電源を入れる。重厚な黒の電帳は、現在では衰退の一途を辿る通信会社のものだ。厚さを帯びた端末はかなり初期のもので、現在は販売されていない。慣れた手付きで記憶素子を挿入し、届いた新着メールをその場で全て開く。五秒後には全破棄。重要書類も再読不能になってしまえば電子の海から拾い上げることは不可能だ。
電源を入れたついでにネットへ接続してラジオサイトにアクセスする。世に溢れる幾千の番組を無作為に選別し、導き出された確率を再生した。
学校の放送部は不定期活動で、本日の校内には音がなかった。街の喧騒が遠くで聞こえる。何より花誉の小言を未然に防ぐ意図が見て取れた。
やがて黒の電子端末から流れたのは、名も知らぬ厳かな韻律だった。遊が思わず顔を上げる。
流布された歌は聞き手を何処かへ誘う、哀切の歌だった。歌詞は異国の言葉のようでもあり、遺物に刻まれた古代語のようでもあった。故に意味を悟ることが出来ない。
しかし声に込められた想いは呼吸を伝い、酸素の如く体に巡る。深い意図を読み解こうと考えても思考が指の間をすり抜けていく。
唯一明確なのは歌い手の声音。万衆に媚びることのない、透徹した剣の声だった。一つの物語を語り継ぐ、澄み渡った声が滔々と悲劇を告げていた。魔力に濡れた律が空中に刻まれていく。
知砂は無言で音量を上げ、手帳を長椅子へ置いた。
遊が空を見上げると、昼下がりの屋上に迷い込んだ桜の花弁が弧を描いて舞っていた。端末から零れ落ちる電子世界の迷い歌も、花びらを追いかけて鳥と共に蒼穹へ羽ばたいていく。
穏やかな日常が確かにそこにあった。
■
国暦二〇五一年四月十日、午後十二:十二
人が波涛となって流れる京庵中央駅前。
モダンな駅舎を出て直ぐの場所に設けられた広場には樹齢五百歳を超える大桜〈春姫〉が立っている。手入れの行き届いた桜の腕から零れた一片の花弁は人々の間を抜けて、偶然にも大通りの向こう側に辿り着いた。
大通りを挟んで向かい側の雑居ビルに埋め込まれた巨大な電子映像板を桜色の風が横切る。
画面上部を流れていく数字の羅列を、漆黒の背広で身を包んだ隻眼の少女が眺めていた。
短いスカートから覗く脚線美に注がれる無遠慮な視線を咎める風もない。朝焼けに蟠る夜の名残を宿した髪は背中を隠すまでに伸び、今は後頭部で一つに結ばれている。
少女は信号が変わるのを待つ者の一人だった。
ただ異質なことに、彼女の顔の左側には能で用いられる般若面が掛けられていた。耳元まで裂けた口は血潮に染まり、金の瞳は憤怒の相に歪んでいる。奥の瞳は窺い知れない。残った右目は虚無めいており、何の感情も浮かんでいない。
異形の風貌を象る少女に、周囲は一縷の感慨も抱いてはいなかった。京庵という土地はそういう街だからだ。
歩道の信号機は赤だった。数多くの四輪駆動車が、異なる色の軌跡を描きながら右往左往に行き交う。時折響く警鐘はひどく攻撃的だ。
少女の視線は逸され、右目は街の日常を映し込む。
額から一本角を生やした土木建築作業着の鬼族。藍色の美しい翼を腰に生やす妙齢の烏天狗。屈強な体つきをした唐獅子族の青年。手首に蛇鱗型の痣と切り傷を持つ、制服姿の蛟。首に注連縄を掛けた神事帰りの狛犬。眠そうに目を擦る獏の親子。
何処までが人間で何処からが廻來天なのか、一目で区別することは不可能に近い。中には円ノ衆や三魂の者も居るだろう。様々な人種、種族、髪の色、肌の色、瞳の色、背格好、服装の者達が坩堝の中で渦巻いている。対岸の歩行者道路も同じようなものだった。
少女の視線は流れる車の間に向けられる。
それまで感情を宿していなかった瞳に、僅かだが光が射した。それが少女の感情の機微なのか、雲の合間に隠れていた太陽が偶然姿を現したからかは分からない。
対岸の人波に紛れ、少女と同じく能に用いられる翁面を掛けた者が立っていた。
千年を生きた大樹から彫り起こした皺枯れた面は顔の大半を隠している。口元が覗く型の能面を纏う者の姿は、身を包む純白の高級背広と共に歪な雰囲気を放っていた。だが道行く人々はその姿に目もくれない。日常の谷間に巣食う闇に気付かぬことと同じく、皆が自己の世界しか見つめていないからだ。
口の端を僅かに上げ、彼岸の者は笑っていた。
『先達は羅生門に還ったようだね』
唯一見える仮面の口元が確かにそう呟く。
音が寄せては返すこの往来、声を捕らえることは至難の技だ。だが声は反響を帯びて少女にだけは届いているようだった。男女の境界に響く中性的な音域が少女の鼓膜を震わせる。含有された感情は粘着質な泥の滑りを帯びていた。
少女は顎を引いて声を肯定した。淡白な返答に翁面は気にする様子もなく嘆息をつく。
『いけないな、血の気の多い輩は一貫して貰いが少ない。奪う物も大して奪っていかず、彼は一体何をしに此の地へ舞い降りたのだろう』
徐々に車の流れが加速する。歩道の赤い灯火が点滅を繰り返し始めた。
『私の術に逆らったまでは順当な次第点だったというのに。……嗚呼、折角修羅道から目覚めたというのに此の地には血の華の一つも咲いていない。退屈だ、実に。欠伸が出る。血と闘争と仇敵の断末魔こそ、我等の本能であり願いであり残された未来、ということにしているはずなのだけれど』
雑踏の所々で、それぞれの会話に咲いた笑い声が上がる。客呼びの容赦のない声が張り上げられる。電子手帳を起動させ、電話の向こうへ謝罪を繰り返す会社員。電子映像板から流行の曲の甘ったるい声が流れる。何処かの学生がそれを小さく口ずさむ。遠心力を受けて軋む車輪。散歩中の野良猫又が欠伸を零す。春風。声、音、声、音。溢れ返る人と音。音の波濤。
共有された闇の秘匿。横断歩道の間で交わされる密談を聞く者は居ない。
翁面の前を背高の学生が通り抜け、二人の境界を跨いだ。
学生が通り過ぎた後、少女の瞳が捉えた翁面は俯いていた。笑みを浮かべた面は一転して鬼籍の哀しみに暮れる老者のそれだ。
光を源として表情とする能面は意外にも表情が豊かだ。仄暗い冷たさに包まれた面に秘められた、創作者の努力の結晶。
纏うのは異形の者達。
『我等の王は不在が長い。幾千の時、待っても待っても王は現れない。救済は我等にはないのだろうか』
般若は相変わらず怒りの面を表現している。今度は少女の眼前を若い恋人達が通り過ぎた。
次に翁面と対面した時、彼岸の者の口元に浮かんでいたのは、笑みだった。白髭の伸びる翁面の優しげな表情とは一切が異なる微笑みは狂気に染まっていた。染まりきった笑顔だった。
『だから』
翁面は声と共に車が行き交う横断歩道へ一歩踏み出す。その奇行に通りには硬い静寂が訪れた。
雑踏の各処で悲鳴が上がる。客呼びの男が息を飲む。会社員は一瞥し、他人事と踵を返す。電子映像板からは無表情な報道者が告げる自殺者の名前が配信される。学生達は電子手帳の記録保存機能を用いてフラッシュを焚く。笑い声が止む。車の警鐘が鳴り響く。散歩中の猫又が毛を欹てる。春風。声、音、声、音。溢れかえる悲鳴と恐怖。感情の波濤。
車とぶつかる寸前、翁面の姿は掻き消える。遅れて、数台の車が車輪の絶叫と共に止まった。
静寂に満ちた通りの信号が青に変わり、電子音に還元した童話が冷たく響く。間引く子供を選ぶ歌とも、遊廓で焦がれる男を待つ歌とも言われる、真実の霞んだかごめ歌。
声は少女の耳元で唐突に囁かれた。氷解した雪ぎ水よりなお寒気を覚える笑み交じりの声だ。
「代わりに戯れてみようと思うんだ」
少女が振り返った時、姿と声は掻き消えている。
色を変えた信号が波の進行を促す。白昼夢から覚めた日常が緩慢と還ってきていた。
少女は歩道を渡ることなく踵を返す。面で顔を完全に覆い、仮面越しに空を見上げた。
春にしては熱を帯びた空気に陽炎が揺らいでいた。空を飛ぶ一羽の鳥が齎した影が、偶然にも面に塗られた漆に反射して軌跡を描く。怒りを表す鬼面は泣いているようにも見えた。
■
「聞いたことない曲、だったね」
昼食を食べ終えた四人は残った時間をそれぞれの暇に宛がっていた。
知砂の腕に抱かれて微睡んでいた遊がいつの間にか曲が終わっていたことに気付き、ぽつりと零す。
端末から流れる曲は既に別のものに変わっていた。最近流行っている若い女性歌手の恋慕歌。配信数が百万件を超過し、今年最高値の興業売り上げを記録したらしい。
しかし四人の興味は先程まで旋律を紡いでいた歌い手に向けられている。
「誰が歌った曲なんでしょう」
「知砂なら調べられんじゃねーの」
歌に耳を傾けていた花誉の言葉を、大の字になって寝転ぶ敬が継ぐ。花誉の手元の文庫本は閉じられたままだった。二対の視線の先、知砂は長椅子から端末を拾い上げて指を滑らせる。
「さぁ……。ネットから適当に拾った曲だし」
長椅子に背を預け、知砂は言葉を濁した。右手で遊の髪を梳きながら空中に情報を提示する。遊は半透明の文字を反対側から苦労して読み取っていた。
「履歴は?」
最も機械の扱いに抜きん出た知砂が無理だというのなら他の三人にはどうしようもない。
「残ってない。……昔のでも拾ったかな」
立体化した情報越しに疑問符を浮かべた面々に、知砂は答えを明かす。
「あたしの手帳は結構手を加えてるから。まぁ簡単に言えば今は配信されてない、つまりは廃棄された情報を受信したってこと。このご時勢、履歴に残らない情報はないよ」
「電帳の違法改造は犯罪じゃねーの?」
「ばれなきゃ良いんだよ」
弾劾の言葉は悪者の笑みで呆気なく流された。敬は四肢を投げ出して大仰な溜息をつく。
「あー、なんだかなー、平和だなー」
白雲の合間を飛んでいく鳥に、敬は届かぬ掌を伸ばした。中天より僅かにずれた太陽が健康的な肌に黒い影を生む。地団駄を踏むように足だけは落ち着きがない。
「平和が一番ですよ」
「別に良いけど、なんか足りねーんだもん……」
今日は読まないつもりらしい文庫本を傍らに置き、花誉は敬の髪に指を通す。指先の体温と太陽の暖かさが日常として飽和した。口の中で呟くだけに終わった言葉は睡魔に沈み込んであまり意味を成さなかった。一週間に亘る不規則な睡眠時間の所為で皆が皆、本調子ではない。
知砂は端末の音量を下げた。決して敬を思いやっての行動ではない。流行りの甘ったるい音楽が気に入らなかったためだ。遊が身を捩って知砂と視線を交わす。
「また聞けるかな?」
未だ電子の迷い歌が名残惜しいらしい。遊の好みを熟知している知砂は遊の頭を撫でた。
「運がよければ、ね」
「ぷぅ」
口調だけは不満げに、知砂の肩に頤を乗せて遊は空を仰ぐ。
金木犀の匂いが漂う春の気配は暖かな光で満たされていた。麗らかな春の空気を吸うと知砂のシャンプーの匂いが混ざる。蕩けるように微笑んだのが互いの肩越しに伝わった。
知砂の首に両腕を回して、遊は桜色に滲む街並みを見つめる。
春は始まりの季節だ。動物も植物も皆一斉に目を覚ます。生の力が何にも勝っている。遠くに聞こえる、来訪者が奏でる獣じみた咆哮も春霞みに溺れていく。桜が誘う。
穏やかな昼過ぎを四人は味わっていた。
知砂の腕の中から聞こえる小さな歌、それは先の迷い歌だった。
歌詞はなく、響音を辿るだけの旋律だが、遊の声音によって消えかかった歌が完成に近い形で拾い上げられてゆく。
遊は哀しい歌だと感じていた。詞に込めた真意も、まして言葉すら分からない。にも関わらず、声に融和した哀惜が未だ体内に残っていた。
如何ほどの哀しみと愛しみを積み上げても万人に届く想いはない。この歌も、もしかしたら凡百の愛を歌っているだけなのかもしれない。
それでも、電子の迷い歌は今此処に居る四人の少女達に確かに届いた。
歌に秘められた物語は、何処にでもあるような学校の屋上で、一人の少女によって確かに紡がれていた。