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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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一章:鬼ノ哭ク町

 闇が在った。

 格子窓から見える曇天の空を、猛り狂った(いかずち)の龍が飛び交い、重々しい轟きを上げている。

 夕刻から夜へと姿を変える世界は幾日も続く豪雨によって暗い。木々はざわめきにも似た音を囁き続けている。

 森には一切の獣の声がなかった。皆何かを畏れて気配を押し殺していた。


 ――鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)――


 深い森の奥へ、雨の隙間を縫う音が一つ。

 闇の中から響くのは歌。歌だった。

 決して大きな声ではなかったが、歌声は忘れられた石坐(いしくら)の如く厳かに、時に生贄を撥ねる神刀の如く残酷に、あるいは処女の破瓜の如き哀惜を纏って、薄闇に傾斜する森へ響き渡る。

 雨音のみを響かせていた森はようやくの歌声を感受し、一斉に草葉を揺らし始めた。

 旋律を奏でているのは性の境界に彷徨(さまよ)う低声だった。

 まるでその空間だけが永劫続いているかのような寂寥とした声。それらは一つの透徹された思念となって暗闇を断ち切っていく。

 歌詞は古くて分からない。滲み出した闇は濃く深く、人の姿を捉えることは不可能だった。

 歌声は雨音と混ざり合い、透明になりながら続いていく。

 ただそこには歌だけがあった。



【一章:鬼ノ哭ク町】



 天を目指す無機物の群集に影が差す。空に高く伸ばされた灰色の長躯は幾重にも続き、巨人の卒塔婆を思わせる。

 眩い光沢は夜の帳を侵食し、互いの境界を曖昧にしていた。闇に浮かんだ月さえ朧にしか姿を確認することが出来ない。輪郭を失った月は(ひず)んだ円を描き、罪を犯した世界を見下ろしている。

 天空の星すら貪欲に飲み込もうとする此岸(しがん)の街――京庵(きょうあん)。此処は時が狂った魍魎達の街だ。

 そして、街の高層建築物の中でも一際の高さを誇る元・通信塔。それは電柱や電線による地上通信が行われていた際の遺物だ。現在は破産に破産を重ね、月一で建物内の会社がごっそり入れ替わる、いわく付きの巨塔と化している。

 不思議なことに近代化の象徴は塔の眼前で停止していた。……正しくは、隣接する建造物が通信塔に倣うように、街の中心を避けて緩やかな弧を描きながら肩を並べていた。

 街の中心地は時代の流れが途絶されて久しい。

 京庵は過去に、神の代行者たる神帝が居を構えていた都である。国の有り様を担う神帝は国民の崇拝対象として長年、神に近しき存在と謳われてきた。

 神帝の系譜は武将として始まり、始祖たる人物は世の太平を願って、国家統一の名の下に幾千の闘争を勝ち抜いてきた。かくして国は一つとなり、始祖は長きに亘って国の行く末を見守る座についた。だが民を守る剣はいつしか金によって装飾され、気高き魂は腐敗していった。

 やがて時の荒波と共に神帝が信仰者によって排斥され、千年余りが経過した現在。

 主の居なくなった都は築いた歴史と遺跡を引き継ぎ、歴史文化遺産保護都市として名を変えた。

 神帝の膝元だった中央地区を含める旧市街は全て国の保護下に入り、厳重に過去を守っている。道路はアスファルトではなく石畳が使用され、大型車は入ることが出来ない。電気や水道は多少譲歩されて街の地下に大動脈として通っているにしても、夜は景観に反するとして行灯や蝋燭の光、あるいはそれを模した物が推奨されている。

 それほどまでに生活の便が制限される一方、旧市街は戦国時代から続く名家や老舗が並ぶ一等地として箔が高いことも事実だった。住む者が居なくなった旧家の入居希望者は途切れることを知らない。この街の総人口は今や一国の首都に匹敵する数値を誇っている。

 過去と現在が生きる、善も悪も住みやすい街。


 そして闇に浮く行灯の光を背に、新市街を見据える三種三様の瞳が月下に集っていた。

「目標を肉眼で確認」

 三種の瞳の中、最も暗い雷電の瞳。切れ長の左目に掛かった特殊な型の電子眼鏡が空中に半透明の文字を描いていく。立体化した文字と数列、図形は絶えず変化していた。膨大な情報量を細い指先で操り、導き出された解に微かな笑みを浮かべる。

 声は艶やかな女の低音で、退屈に(すこぶ)る掠れていた。口の端に咥えられた煙草から立ち上る煙も何処となく覇気がない。だが朝露で濡れたかのような黒髪と美貌は、憂いを秘めた色を一層際立たせていた。

 ビルの間に蟠る澱んだ風に目を細め、胡乱な視線を彼方に向ける。

分類(カテゴリ)(こう)、識別種〈牛鬼(ぎゅうき)〉。名前の残存波長も一連のものと一致。どうやら間違いありませんね」

 先の人物の傍らに控えるのは常盤の緑を宿した瞳の子女。

 神泉の一滴が如く清涼とした声は瞳と等しく柔和な印象を与える。風が、その腰ほどまである胡桃色の髪を悪戯に乱した。

 背格好は先の少女と同じくらいだが、雰囲気は正反対の柔和さを纏っており、歩を進める一つの動作にさえ優美さが伴っていた。人工の光には決して馴染まない森色の瞳が鋭利な茨を絡めて彼方へ向けられている。

「一週間続いた鬼ごっこも今日で遂に終わり、か」

 三色目の瞳は古の輝きを秘めた琥珀。発せられた声は闇を掻き消すほどに溌剌としたものだった。

 先の二人と比べて身長は僅かに低く、容貌も何処かに幼さを残す。楽しげに弾む声と茜色の短髪が戯れの時を待つ子犬よろしく揺れていた。通信塔の屋上、その末端に腰を下ろし、喜々として明日の方向を見つめている。足下の大通りでは沢山の車が軌跡を描きながら往来している。

 彼女達はいずれも黒を基調とした同一の制服を着ており、襟元には四本の神刀と白龍が彫られた銀章が輝いていた。ある種の軍服を思わせる物々しい制服と銀章はそれだけで身分証明同等の役割を持つ。

 しかし彼女達が属する機関に、銀章はともかく常時制服着装の義務はない。しかし現在三人はそれに袖を通している。

 三人は早く仕事を終えて楽な恰好に戻りたいと、ほぼ同時に思っている。

「なぁ、何でアイツは今日に限って制服(これ)着ろっつったんだ? 別にいつもの格好でいいじゃんか」

 赤銅髪の少女が思い出したように、肌蹴た制服の上着を摘まみながら背後を振り向いた。

 上着の下には悪態(スラング)が印刷された半袖シャツ。下は脛の付近で裁断されたパンツ姿だ。履き慣らした運動靴が彼女の協調性のなさを一層際立たせている。上官によって注意される模範とも言える着崩し方だった。

「重いし暑いし、オレこの格好動きにくくて嫌なんだけどなぁ……」

 紫の瞳は攻撃的なシャツの色が目に痛いのか、煙草のフィルタを犬歯で甘噛みしつつ視線を逸らした。

「ンなに気崩しといて良く言うわな。……まぁ、さっさと仕事を終えやがれっていう遠まわしの催促でしょ。椅子に座って命令下すだけのお役職仕事は楽で良いねぇ、全く」

 少女の黒い外套(コート)が風にはためいて乱暴な音を立てる。覗くシャツの釦は第三というかなり際どい位置まで外されていた。素足に映える黒革の深靴(ブーツ)と短いスカートは狙い済ましたかのように足の曲線を際立たせている。風に煽られて太腿が覗くも、瞳は何処までも無感情だった。立体化した街の地図を折り畳み、空いた手で鎖骨を掻きながら欠伸を零す。その佇まいは、睡眠不足で狩りに赴く黒豹を連想させた。

 隣の人物は二人の様子に苦笑を浮かべながら制服の襟を立てている。少なからず先の言葉に同意する沈黙の保ち方だった。吹く風は相変わらず乱暴で、彼女が着こなすロングスカートの裾をはためかせる。こちらも深靴だが色は乳白色だった。正しく纏った制服は彼女こそが模範的だった。

 三つの視線は交錯し、各々の意志を無言で確認する。

 そして三対の珠玉は大通りを挟んで向こう側のビルに等しく向けられた。

 ……正しくは、そのビルの屋上に居る異形の生物に。

 吹きすさぶ風と放電管(ネオン)が織り成す色彩の演舞に浮かび上がる巨躯。

 異貌の者の腰には虎革が巻かれ、手には大木を手折ったかのような棍棒。左右のこめかみからは巨大な白い角が伸びていた。草食動物の温厚さなど何処にもない。口元から覗くのは肉食獣の犬歯だ。

 二メートルを有に超える巨体。それは全身が黒の剛毛で覆われた牛頭人身の怪物だった。地獄で亡者を責め苛む獄卒鬼の首領格を忠実に再現したかのような姿だった。

 甲名(かぶとのな)を持たぬ廻來天(カイライテン)――牛鬼。

 気性は荒く、十日間に亘って十四人もの人間を毒牙に掛けた。狂気を宿した鬼にとって人間は食料以外の何物でもなかった。(しがらみ)に囚われることなく自由を謳歌する生き物へ、管理と束縛による充足を得た人間が共生を強いることは困難極まる命題だと改めて認識させられる。

 鬼に限らず、廻來天の中には人類全てが罪人であり、場合によってはただの食物と考える者も決して少なくない。裁かれるべきは常に人間であり、家畜同等である人間如きに裁きを受ける理由はない。そう考えている者の代表格が、今目の前に立つ一柱の牛鬼だった。

 しかし此処は人間が営みを重ねてきた贖罪の世界である。彼女達が事件現場に赴き、調査を重ね、話の通じない容疑者に再三警告と罪状を並び立てるのは、この街を人の居場所と知らしめるため、和平的解決を望むため、そして咎人としての罪悪感も多少なり含まれている。

 結果、特務審問機関《黒耀(こくよう)》によって屠るべき罪人との判定が下りたのが七日前のことだ。

 それまで狂気を宿らせながら街を見下ろしていた牛鬼は、ふと顔を上げる。瞳は風の行方を追い、空を仰ぎ、大通りを挟んだ向こうの建物へ向けられた。

 そこに居たのは三人の少女達の姿。

 最強の生物と名高い鬼が三人の姿を捉えた瞬間、瞳には隠しきれない焦燥が走った。荒々しい呼吸を繰り返す口からは血に濡れた上下の犬歯が覗き、焦りの痙攣を起こす。音は常人にならば届かないが、目聡い琥珀色の瞳が細められた。

「オレが三日前に殴ってやったのがまだ効いてんのかな」

「次に命令違反したらあたしがあんたを殴るからな。もう少しで捕獲出来たっつうのによ」

「……過ぎたことですから、あれはもう忘れましょう」

 対し、五感が優れた鬼の耳には少女達の会話はしかと届いた。視界を憤怒に染め、それでも蹄は弧を描いて少女達に背を向けた。足の筋肉を撓めて闇を目指す。

 逃亡の意思表明を許さなかったのは紫暗の瞳だった。

「[包囲結界術式展開]」

 状況に反した刻薄な笑みが添付された言葉は半透明の大結界によって具現化した。

 四本の半透明な柱が互いを支え合い、計十二本の線によって結ばれた紫の立方体が、彼岸に立つ鬼と此岸に立つ少女達を閉じ込める。柱それぞれが火花の散る音を立てて鬼を威圧した。

「掛かりましたね、見事に」

 巨大な檻は廻來天を捕獲する際に用いられる包囲型の符術式――[獸囗(ケモノガコイ)]だった。基軸となる四方にそれぞれ四枚の札を置くのが絶対条件とされるが、如何せん限定された場所でのみ発動という扱いにくさのため、戦闘では滅多に使用されない。しかし一週間に亘って逃亡者の行動範囲を狭めていき、今宵現れる場所を特定したのが幸を成した。支柱は拘束の意味を宿す言弾(ことだま)によって構成されている。

陥穽(かんせい)が完成」

 紫煙に混じった言葉に緑の眼が瞬く。然る後、隣に立つ人物の横顔を真剣に見つめた。

「しっかりして下さい。なんだか人柄設定(キャラクタ)が崩れてますよ?」

「眠いんだもの」

 表情一つ変えない乾いた会話を背に、琥珀の瞳は真っ直ぐに異形の鬼を捉えている。

 撤退の道を塞がれた鬼の瞳は現状打破の答えを求めて揺らめいていた。

 三人は少なからず同じことを考えていた。

 「来る」。

 鬼の瞳からは戸惑いが消え失せ、蓄積された殺意が一気に膨張した。吹き荒ぶ圧倒的な威圧の風が街の生ぬるい風を薙ぎ払う。

 鬼は手にした棍棒を振り下ろす。鬼の足元にあったのは四方結界の支柱一つを成す護符だった。

 絶対条件である四方結界の護符の内一つを破壊されたことによって、檻は脆くも捻じ曲がり、[獸囗]は硝子細工が砕ける音を立てて崩れ落ちていった。

「あーあ」

「あーあ、ってお前」

 琥珀の瞳が隣を見上げると黒髪の残像を残して顔が逸らされた。立体化した、状況悪化を告げる警告が明滅を繰り返していた。

「向こうさんも中々やりますなぁ」

「おい、オレの目ェ見て話せ。なぁ、おいって」

 視覚化出来ていた檻の名残が空気に溶けていく。緑眼の人物はひっそりと溜息を零した。

 呪縛から解き放たれた牛鬼の胸郭が膨らみ、血塗れた口が星を喰らおうと天を仰ぐ。鬼の口が粘着質な音を立てて開いた。


「御汚、負雄烏汚オ悪大緒逐牡男嗚お乎追ォ応!」


 地を這う呪わしい咆哮。空気を振動させ全ての音を奪う、現世(うつしよ)にあらざる者の叫び。

 それが合図だった。太い足の筋肉が撓められ、牛鬼は重力を裏切り大通りを飛び越える。

 そして僅かな空白の後、三人が居る通信塔の屋上に轟音と共に着地した。付随した風圧と破砕したコンクリートの欠片が数秒遅れで宙に舞う。近辺のビルの窓硝子が振動によって嫌な悲鳴を上げた。

 近くで見ると鬼の大きさには拍車が掛かる。隆起した浅黒い筋肉が更なる圧迫感を生み、周囲の空気が歪んでさえ見えた。正に悪鬼の名が当て嵌まる、禍々しい姿だった。

 鬼の唸りに重なりながらも白煙の軌跡を描いて少女の一人が前に出る。表情は先ほどと何ら変わらない。だが少女の代わりに牛鬼の右足は無意識に後ろへと下がった。

「〈獄卒者(ごくそつしゃ)〉第四十四指の一人と御見受けします」

 高所独特の乱暴な風が一瞬、止んだ。鬼の凶悪な二つ名に恐れをなしたかのように。

 牛鬼の口元からは白濁した唾液が糸を引いて地面に垂れた。決意を秘めた瞳が少女を射抜く。

「いかニも。おデは〈獄卒者〉の内が一人、羅王だ」

 器用に人語を話す牛の口腔では人間の頭蓋骨が踊っていた。恐らくは被害者のものだろう。

 残虐な牛頭人身の怪物は眼前にある肢体を視線で以って嘗め回す。強靭な肉体と精神を持つ牛鬼からすれば、たかが女の一人など恐怖の対象ではない。殺すも犯すも全て意のままだ。

 しかし確かに今、鬼の心は怖れに満ちていた。狂牛の視線に気付いた当の人物は特に気に留める様子もなく話を続ける。

「十日間に亘るご自分の行いから考えて予想出来得る事態かとは思いますが、四月三日(十日前)の一六○○を以って特務審問機関《黒耀》からあなたに冥送(めいそう)の勅令が下りました。これにより我が特務適格者対犯罪取締機関本部《白亜(はくあ)》が犯人捜索を開始、今に至ります。罪状は、あー、面倒なので以下は省略します」

「黒耀、そレに白亜だト……ッ?!」

 鬼の左足が右足に続いて後退した。そのまま逃亡の意を訴える体を、鬼は意地で押し戻す。

「えぇ、そうです。まさかこの二つの機関を御存知ない?」

「知ってオる! 白亜ハ人間共にヨる鬼ノ屠殺機関デあるド! 我が片割レを屠り、あノ(たっと)き鬼神様でスら手に掛ケタと言ウ呪わレた者共! それラによっテ成り立つ、鬼畜共の巣窟ダ!」

 鬼の言葉に少女達は揃って苦虫が口内で暴れ出したような表情を浮かべた。

(ひで)え噂だ、まるっきり悪役じゃねえかそれ。……ってか殺人鬼に言われたくねえ。オレにも挽肉(メンチ)ってもんがある」

「あえて突っ込みますが、面子(めんつ)です」

「……」

「それにしても年々悪評が目立っていくような気がしますね……」

 少女の後ろで二人が嘆息を零す。苦味に慣れた一人だけは、正面を見据えて眉を僅かに上げるだけに留めた。

「随分酷い印象のようですが、現時刻を以ってあなたを拘束するという点では正しい答えだと思います」

 少女の口に咥えられた煙草が灰と煙に昇華して何処かへ消えてゆく。

 白亜、そして黒耀。二つの組織の名前が示す意味に鬼の胸中は揺れ動いていた。

 戦うか、屈するか。

 脳内には既に逃亡という第三の選択肢はない。〈獄卒者〉として名を馳せた者が、人間の女三人を相手に尾を巻いて逃げる。それだけは、振り起こされた牛鬼の自尊心が許さなかった。

 帰ったところで故郷の盟友達は愚行を嘲笑うだけだ。殺戮と争闘こそ鬼一族の掟であり、唯一の法。名を与えられたのも、契りに従って一人でも多くの人間を狩るためだった。

 片割れの存在が亡き今、結果は自らの手で導き出さねばならない。

 自尊心と命の天秤が揺れる。眼前に提示された選択肢は簡潔であり残酷だった。命より重い、誇り。

 奥歯を噛み締める音が空しく響く。

「なお、冥府送還の審判が不服ならば、審問機関《黒耀》に直接異議申し立てが可能です。その場合は白亜が一時的にあなたの身を拘束し、事情聴取を執り行ないます。その後は黒耀にて然るべき裁判を執り行ない、それ相応の刑罰が下されるでしょう。無論あなたにも弁護士がつきますが、黒耀により重罪犯に認定され冥送命令が出た場合、周知の通り九割がた逆転は不可能とされます。……手間も時間も金も掛かる極めて面倒くさい方法ですが、どうしますか」

 無味無臭の、まるで感情の篭らない、棒読みの台詞だった。会話の始まりの方でも確かに職務怠慢な発言をしたが、反論を返す余裕は牛鬼にはない。気付いてもいないようだった。

「……なぁおい、知砂(ちさ)

 言葉は背後からだった。それまで人と鬼の会話を静聴していた小柄な少女が頭を掻きながら口を挟む。

「お前さぁ、冥送符の警告文をそのまま読み上げる癖はいい加減直した方が良いぜ。あと仕事中に「面倒」とか、思ってても堂々と言うな」

 専ら沈黙が何よりの苦痛である目下の少女は、拳を打ち合わせて既に臨戦態勢をとっている。そうでなくともこの一週間、待ちに待った戦闘。言わせてみれば、無粋な交渉よりも拳を交えて実力差を知らしめた方が余程効率が良い。早い話が「早く喧嘩をさせろ」。

 知砂と呼ばれた人物は肺の底に蟠っていた有害な酸素を全て吐き出し、肩越しに振り返る。

「それがあたしの仕事。前衛は少し黙ってろ」

 礼儀を剥離した挑発的な赤の唇が微笑を象る。知砂にとっては友好の証、もとい時候の挨拶のつもりでも小柄な人物にとってはそうではない。もれなく安めの喧嘩を割引購入した人物は低い唸り声を上げた。

「こンの野郎。つうか、そもそもお前が一昨日の解析作業をサボらなかったらこの仕事は昨日でもうとっくに終わってるはずなんだよ! ……っなぁー、花誉(かよ)もなんか言ってやれよ!!」

 小犬が見上げる形で隣の人物の助言を乞う。名の通りに秀麗な人物は綻ぶ笑みを称えながら成り行きを見守っていたが、止むを得なくといった風にやんわり口を挟んだ。

(けい)、少し落ち着いて下さい。それに知砂へ一週間も続く単調作業を任せてしまった私達にも多少の非はあります」

「言うねぇ、あんたも」

 知砂は煙草の苦みを初体験した時の表情を浮かべる。苦さは三割り増しといったところだった。

「更に付け加えると今日は月曜日ですし、私生活にも支障が出ます。私達はまだしも、あなたが一番に信頼を置く人物に、その結果が、最も、如実に、表われると思いますが」

 穏やかな声だったが、ひと区切りひと区切りの弾劾によって知砂は言葉に詰まる結果になる。言霊の弾丸は目標を確実に撃ち抜いた。弾詰まりを起こした知砂は喉の奥で低く唸る。

「そーらみろ」

 珍しく丸めこまれた様子の知砂へ、敬が花誉の背後から顔を出して牙を剥く。知砂の足は半弧を描き、頭半分低い位置にある琥珀の瞳と火花を散らした。

「おい、敬。手前、三日前の自分の行いをまさか忘れた訳じゃねえだろうな?」

「べっつにー? あれは捕捉出来なかった誰かさんの所為じゃねえの?」

 額を擦り合わせ、二人は一気に剣呑極まる空気に陥り出す。この場を丸く治めることが出来る唯一の人物は、いつもの役割通りに二人の喧嘩を止めようとしていた。しかし敬の言葉に、木洩れ日色の瞳が季節外れの吹雪によって凍結する。

「……敬?」

 声だけは変わらず穏やかである。だが恐怖知らずの特攻隊長として名を知られる敬の双肩が大きく、小動物のように揺れた。

「は……、は、い」

 潤滑油が足りない機械人形の要領で、敬は時間を掛けて背後を振り向く。出来ることなら振り向かない方が有益であろうに、声が纏う逆らい難い言弾に体は素直に従じていた。

「反省が足りていないように思えますので、もう三時間ほどしましょうか。正座(せ・い・ざ)

 にこりと微笑む姿は万物を慈しむ聖女のそれだ。しかし微笑みの背後には、憤怒の表情で仁王立ちする閻魔王の姿が見えた。

「うわあああああ! ごめんなさいごめんなさい! もうしませんからごめんなさい!?」

 敬は尋常ではない恐怖に頭を抱えて蹲る。その姿は裁きを待つ罪人というより、躾に怯える小犬のそれだ。赤銅色の尾を両足の間に入れて震えている。

 最前線で敵と拳を交える戦士が一体どんな正座をすれば恐怖に身が竦むのか、知砂はなるべく考えないようにしている。

「どうせやるなら半日くらいやってやれな、花誉」

 苦労して笑みを浮かべると、足元の小犬が(かぶり)を振った。

「やだやだ! 正座怖いよぅ!」

「やるならあなたも一緒にです、知砂。私達の中で一番の頑張り屋さんが今回一番苦労しているのはどう考えても不平等です」

 その一言に二人が同時に押し黙った。煙草のフィルタを噛み締めるのは知砂。頭を抱え、怯える瞳で花誉を見上げるのは敬だ。

 ……どうにも趣旨がずれていた。証拠に、殺戮の使徒たる牛鬼でさえ胸中の恐怖を一時(いっとき)忘れ、しばし繰り広げられる女達の会話を呆然と聞いていた。完全に蚊帳の外である。

 だが牛鬼は鋼の精神を揺り起こし、苦心しつつも我に返った。

 濁りを帯びた金の両目で、喧々囂々と口喧嘩を再開した女達を見下ろす。

 無防備な女の背中を捉えた目が策略に輝いた。口元には歪んだ笑み。大木を削り落として作った鈍器が握り直される。

 これから繰り出す一撃は、容易に黒髪の下にある頭蓋と脳球を砕くだろう。機関の追っ手三人を纏めて相手にするのは厳しい事態だが、内一人を潰せば必ず連携に隙が生まれる。 鬼が狙うのはその僅かな隙だ。早さと力を兼ね備えた鬼にとっては微々たる隙さえあれば良い。

 牛鬼は弱者の方程式を教科書通りに脳内で組み立てていく。

 そして鬼は勢い良く腕を振り上げた。風を切り跳ね上げた棍棒は断頭台の冷たい刃に似ていた。


「死ネァ!!」


 愉悦に浸った声。

 惨劇の開幕合図として、その場に鈍い音が響いた。

「?!」

 鬼の瞳が驚愕によって限界まで見開かれる。

「不意打ちとは、また。随分と卑怯な方法だな」

 声は鬼が殺す予定だった女の口から紡がれた。戯れの時とは異なる、冷徹な牙を研ぐ声。

 知砂は先と変わらず鬼に背を向けたままである。しかし振り下ろしたはずの棍棒は柄の部分から先が消失していた。音は、切られた棍棒の先端がコンクリ床を破砕して鬼の背後に落ちたことによるものだった。

 鬼は木の年輪がはっきりと分かる断絶部と黒髪の後頭部を交互に見比べる。

「馬鹿ナ?! 貴様、一体何ヲッ……?!」

 言葉は途中で不自然に止まった。鬼はそれまでこの場に存在しなかった、ある気配に気付き、金の視線を己の真下に平行移動させる。

 眼前に立っていたのは、深い海と空の境界を瞳に宿した少女だった。風に靡く髪は目が覚めるほどの真銀。薄闇の中で僅かに光っているようにさえ見える、白に傾いた肌。

 先の三人の誰よりも幼い容貌と小さな体。拙い体の線を強調するように大きめの制服が風に煽られていた。

 手にはおよそ不釣合いな抜き身の刀が握られており、切っ先は音もなく鬼の喉元に宛がわれている。

 鬼が生唾を飲み込むと、動いた喉仏が刃に触れ一閃の赤を生み出す。軽くなった棍棒を掴んだ指が震えた。冷たい刀身に少女と鬼の姿が映る。

 いつから居たのか。あるいはいつ現れたのか。数々の死線を乗り越えてきた鬼でさえ、少女の気配を感じることは出来なかった。

「動かないでください」

 薄い口唇から紡ぎ出されたのは微睡みの中で聞く五月雨の声明。

 多くの血と死によって今が成り立つ牛鬼は我知らず息を呑んだ。さながら神を畏怖する信者の如く、分子全てが凍りついて呼吸が困難になる。

「貴様モ、白亜ノ、人間、か」

 搾り出した声に少女は頷くこともせず、鬼の瞳を見つめ返した。金と蒼が無音で交錯する。

「鬼ヲ……、我等ヲ嘗メるナァ!!」

 鬼は既に武器の本分を失った棍棒を振り上げ、少女の頭蓋へ振り下ろす。それは命を懸けた末期の一撃だった。

「--?!」

 だが銀の残像を捉えるより早く、少女の手に握られた刀は鬼の腕を武器ごと後方へ吹き飛ばした。固い皮膚筋肉と腱、骨で構築されているはずの鬼の体があっさりと切断される。

 棍棒を握ったまま硬直した鬼の右腕は車の往来するビルの狭間を緩慢と落ちていった。

 一瞬のうちに決まった勝敗に牛鬼は苦悶の表情を浮かべ、大地に両膝をつく。戦意を削ぐには十分過ぎる早さだった。脂汗が浮く横顔に、何事もなかったかのように刀が添えられる。

 腕の断絶部から溢れ出るのは赤黒い血液ではなく灰色の(あくた)だった。砂のようでもあったが、地に触れると同時に透明になって消えてゆく。季節外れの穢れた粉雪が音もなく舞い散った。

 体内に流れている血の代用物は刻一刻と体から溢れ出す。苦痛に項垂れる鬼は死を覚悟した。

 少女の刀が高く掲げられる。遙か昔に存在した、介錯という文化を連想させる光景だった。

 街の彼方で覚醒した太陽が銀の刀身に鋭く反射する。頭上に掲げられた刀は微動だにせず、姿に一切の隙はない。

 動くことすら躊躇われる緊迫した空気の中、一つの影が間を横切った。少女の背後に立ち、細腰を引き寄せる影。

(ゆう)

 柔らかな銀髪に隠れた耳に唇を寄せ、穏やかな感情を宿したアルトが少女の名を紡ぐ。それまで凍えていた青い双眸に広がる感情の波紋。

「遊」

 今度は銀糸に指を絡め、感情を込めた声で少女の意識を手繰り寄せる。

 腕中の少女は二三度瞬きを繰り返すと、ゆっくり刀を下ろした。

 呼ばれた名前が自らの題号(インデックス)であることを確認するように首を傾げ、背後を振り向く。二人の身長は頭一つ分違い、遊と呼ばれた少女が知砂を見上げる形になった。

 張り詰めた空気は霧散し、代わりに純粋無垢な感情が宿る。

「ちーちゃん」

 許された愛称でその名を呼ぶ者は一人しかいない。知砂は笑みを浮かべて少女の隣に立った。

「ん。ご苦労様」

 蒼穹の瞳がいつもの色に戻ったのを確認し終えると、知砂は歩を進める。遊は下ろした刀の切っ先だけは鬼に向けて道を譲った。知砂は志の折れた戦士を見上げ、右手を長外套の胸元に差し入れる。

「〈獄卒者〉第四十四指、羅王。あなたを特務適格者対犯罪取締機関《白亜》の名において、刑執行機関《屠署(としょ)》へ強制送還します」

 指に挟まれていたのは幾何学的な法陣が描かれた一枚の書類だった。護符のようでもあったが、紙片を見た瞬間に罪人の目が見開かれる。

「ッソれは……!」

「廻來天の上級犯罪者、この場合は殺戮行為を犯した者に贈呈される冥送符です。あなたには可及的速やかに狭間の虜囚になってもらう」

 鬼は突きつけられた刀の存在すら忘れ、大地に手を付き項垂れた。遊が慌てて刀を逸らせたことで鬼の首は落ちずにすんだが、金の瞳は恐怖しか映していなかった。

「狭間へ……、おデはあノ迷宮牢に行クのカ……ッ」

 抵抗すら忘れ、絶望に塗り潰された鬼の様子を見ても少女達の表情は微塵も崩れなかった。

 知砂が紙片を翳すと冥送符は淡い光を放ち始める。そして符に描かれた法陣と同一のものが鬼の足元に広がった。輝く円陣から齎される光は忽ち牛鬼の体を拘束する縛鎖となり、体を拘束する。鎖は光り輝く円陣の中へ鬼を引き摺り込もうと軋む声を上げた。

「ッくォ……、オ、オノれェェェエ!!」

 牛鬼は残った左腕の五指をコンクリートの床に突き立てて光の沼に沈む体を支えようとする。だが方陣から生じた鎖は五指さえも冷酷に拘束し、飲み込んでゆく。

 鬼の絶叫はゆっくりと汚泥の煮立つ笑いに変わっていった。目には再び殺意が灯る。既に下半身は沈んで上半だけの姿となったが、鬼の体はなお大きく、眼前の四人を見下ろした。

「良イだロウ! 罪人にヨって裁かれた先の光景ヲ、お前達の代わリに見てきてヤろウ! おデ一人葬ったダけで全てガ終わルト思うナ! 我等鬼族、未ダ貴様等人間なドにハ……!」

 光は鎖となり、罪は罰になる。牛鬼はこれから長い時を無窮の牢獄で過ごすことになるだろう。だが鬼はひたすらに哄笑を続けていた。自らか、眼前の少女達のことなのか。光の中へもう音は届かない。白の渦に鬼の巨体は沈んでいく。

 それと同時に光が街を包み込んでいった。夜明け。

 新しい一日の始まりを齎す陽光が、罪人を包む光と交わる。


「御汚、負雄烏汚オ悪大緒逐牡男嗚お乎追ォ応!」


 京庵の街に朝を知らせたのは鬼の慟哭。怨嗟に染まった地獄からの声だった。

 声とも知れない咆哮は長い余韻をひきながら、ゆっくりと朝の神聖な空気に溶けていく。

 後には沈黙と冥送符、白く輝く幾つかの人骨が残った。紙が風にたなびいて渇いた音を立て、やがて飛び去る前に知砂が拾い上げる。

 符には送還証明として牛鬼の爪痕が刻まれていた。

「……お仕事終了、だな。回収班は?」

「直ぐ来るとさ」

 知砂は短くなった煙草を足裏で揉み消し、骸を携帯灰皿に弔った。眼鏡の通信を絶ち、耳殻に訪れた沈黙にようやく肩から力が抜ける。

「では私達も戻りましょう」

 敬の隣に花誉が並ぶ。残された一人は三人の影の中にしゃがんでいた。握られた刀は何処に消えたのだろう。朝の冷えた光の下、蒼穹の青は白骨を見つめる。

 名も知らぬ死者は黙して語らず、四人は口を閉ざしたまま悼みを伴う沈黙を見守った。

 やがて遊は立ち上がる。そして今度こそ四人は踵を返した。背後から射す朝日は暖かく影を伸ばしていく。

「あー、腹減ったなぁ」

「だるい。風呂に入って寝たい」

「はいはい、二人とも現実を直視して下さいね。今日は月曜日ですよ」

 がっくりと肩を落とす知砂と敬の様子に、遊と花誉が顔を見合わせて微笑む。

「     」

 扉を潜る直前、最後尾を歩いていた遊が振り返った。

 振り向いた先には誰も居ない。鬼に消化されずに残った白骨が無造作に散らばっているだけだった。

 その中で奇跡的に完全な形を保った頭蓋骨が空虚な眼窩に少女を映している。

 カタカタと軽やかな音。頭蓋骨の顎が、動く。

『 あ、リ  が   、ウ  』

 空洞の奥で響く不思議な声。否、声と呼ぶべきか音と呼ぶべきか。

 少女は小さく微笑む。悲哀に満ちた表情で。

 そしてそれきり骨が動くことはなく。

 少女達の姿は鉄扉の奥へゆっくりと消えた。





 高層ビルに類する二階建て以上の建物が存在しない京庵の中央地区旧市街。更にその中心は第一等区に分類される。

 過去に神帝の居城があった土地だが、城は神帝王廃絶運動による一連の事件で焼失。その後、土地が均され、神の代行者が居た場所には今や広大な森と二つの建物しか存在しなかった。

 無論、神帝王廃絶後の京庵は世界政府によって歴史的な保護を受けた街である。よって無断で土地を売り買いしたり、建物を新築・増築することは違法であり処罰の対象となる。

 だが神帝王支配の影で密やかに創設計画が進められていた、とある国家機関が神聖な第一区を獲得するに至る。

 街、しいては国の歴史を守護するための【歴史文化保護法】が京庵の地にて罷り通る四日前。世界で初となる、廻來天および異能を駆使する円ノ衆(エンノオズ)に対抗する機関がこの国で産声を上げた。

 一つは特務適格者対犯罪取締機関本部――通称《白亜》。周囲を森に囲まれ緑に浮かぶ城砦のような外観はその実、街を守るという意味で他者に威圧感を与える役目を一役買っている。

 《白亜》という名の由来は、建物が大理石で構成されており付いた俗称だったが、いつの間にか自他共に認める通称になってしまった。

 社会生活を脅かす者達を拘束、あるいは直接逮捕出来る権限を持つ唯一の機関。盾となり市民を守護する任を担う、戦士達によって成り立つ機関である。

 やや離れた場所には色だけが異なる双子の建物が白亜と向き合っている。特務審問機関本部――通称《黒耀》。白亜と対をなす機関であり、俗称もまた構成物を揶揄したものだ。

 異法を用いる廻來天や能力者を監視し、断罪の権利を持つ影の組織。彼等によって罪人と銘打たれた者は白亜の手で法の下に晒される。白亜が守護の盾ならば、黒耀は罪人を裁く矛に値するだろう。律と情報の扱いに長ける者達で構成された、法を操る賢者達の機関である。

 《白亜》、実に二三三,七七五平方メートルの面積を有するこの機関は三階建て、地下を合わせれば七階建てに相当する。地上に出ている部分は外来者用の応接室、会議室や指揮官達の執務室、食堂といった仕事便宜の部屋を兼ねている。地下は戦闘訓練場や遊泳場が設けられ、実際は地上に出ている部分より遥かに広大な面積を誇る施設となっている。別館には医療室、書庫室、解析室などといった後衛施設が存在する。

 そして地上二階、指揮官達が利用する会議室兼私室が設けられた区画(エリア)。その一室、《白亜》入り口より最も遠い末端の会議室に四人の姿があった。



 室内は簡素に統一され、四つのパイプ椅子と旧式の音声再生装置しかない。

 無論全ての部屋がこういう残念な状況なのではなく、四人の指揮官である人物がたまたまこの会議室を気に入っているというだけの理由だ。

 指揮官が言うには、元は物置部屋だったそうだ。一応は掃除もされており清潔なものの、元物置部屋を会議室として使う行為は四人からすれば理解の範疇外である。一週間に及んだ激務の後、わざわざ朝一で会議室に呼び出された事実を含めてしても、だ。

 遊が睡魔を三回出迎え、知砂が本日二本目の煙草をもみ消し、敬が五回目の欠伸を零し、花誉が手元の文庫本を十五頁ほど捲った頃、四人と向き合った音声拡張機の電源が入る。

 それぞれがそれぞれに佇まいを正して、室内には存在しない人物の声を待った。

『お早う、諸君』

 響いたのは機械で変調された耳障りな声だった。しかし少女達は特に驚いた様子もない。

「おはようです」

「ちース」

「お早う御座います」

 遊、敬、花誉が各々の返事を返す。知砂に至っては言葉すら発しなかった。それこそいつものように。

 機械の向こうにいる人物は『うんうん』と満足げに頷いた、ようだ。

『一週間に亘る任務、ご苦労様。急な仕事だったからね、色々と手間取ったことだろう。なに、気にすることはないんだ! 事後処理や厄介事は全て僕に任せてくれたまえ! それこそ君達の上司である僕の仕事だ! 嗚呼、(ぼか)ァなんて優しいんだろうか!』

 よく話す人物だった。テンションの幅が早朝から振り切れ、規格外の領域に達したような声だった。一人称からすれば男だと四人は思っているが、実際のところは不明である。

 一般に指揮官と称される役柄は正確には準指揮官と言う。緩い拘束で動く白亜の戦闘員に情報を伝え、実力に見合った任務を与えるのが主な仕事だ。

 顔を明かす明かさないは個々の自由だが、四人の指揮官は後者に該当した。秘匿を好む人格の持ち主でもなさそうだが、特に気になる訳でもない。情報は常に一方通行だ。そんな関係がもう三年間続いている。

 饒舌な上司の声は早朝に適したものではない。知砂は案の定、不機嫌な表情を浮かべていた。筒型の小型着火装置(ライター)の蓋をしきりに開閉する硬質な音が響く。

『時に知砂、そこに居るね』

「はい」

 声だけは丁寧に返答する。長い足は組み直され、視線は窓の外に向けられていた。

『報告書にも書いてもらうつもりだが、今回冥送した牛鬼の詳細を早めに聞いておきたい。司式(ししき)としての君の見識も含めて』

 変声機越しの声は一転し、思索する学者の雰囲気を漂わせていた。知砂は窓の方を向いたまま口を開く。敬は体内に蓄積していく退屈を欠伸として送り出した。

「体長二,五メートル、体重二〇〇キログラム相当。双角属、牛鬼種。〈獄卒者〉四十四指の内の一人――羅王と名乗りました。拘束の際に抵抗されたので、やむなく右腕を切断。その際、肉体構成物質の変化と排出を視認。人と盟約を交わした者ではなく、何者かに召喚された者と推定されます。甲名の濃度と色素、一族の背負う名から見て、十日前に現れた同じく〈獄卒者〉四十四指――ドコウと血族関係、あるいは近しい関係にある鬼と思われます」

 私想を排除した事務的な声だった。遊と花誉は静かに耳を傾けている。

 知砂の眼鏡と配線によって繋がった電子手帳によって、中空にはドコウの姿が立体的に投影された。羅王より体は小さく肉体は曲線を描いていた。瞳は穏やかな金色を宿している。無論指揮官には見えないが、知砂は半透明の情報と共に記憶を辿る。

『となると仇討ちの線かね?』

 指揮官の声は試すような間を兼ねていた。心なしか楽しそうでもある。

「九日前に送還した牛鬼――ドコウは一切人間に手を掛けず、素直に会話に応じました。私達が迷い出た者として送還するに至ります。しかし三日前に羅王を取り逃がした際には会話を拒否され、今回は抵抗された為に確証となる動機を突き止めることは出来ませんでした」

『一応用心して屠署に問い合わせておこう』

「あるいは鬼神(きしん)信仰による人間排除の動きか」

 何気ない風を装った言葉に空気が凍りついた。隣に座る遊が心配そうに知砂の裾を握る。知砂は視線だけで遊に答え、指揮官は沈黙を守り話の続きを促した。

「〈獄卒者〉の共同社会(コミュニティ)は実力主義の骨頂ですが、敬虔な鬼らしく信仰心は篤い。そして仲間の命を何より尊びます。これは私個人の仮説ですが、彼が京庵新市街に現れたのも」

『ふむ。同時期に現れた〈獄卒者〉四十四指を追って、よしんば連れ戻そうとした可能性か』

「はい。ですが牛鬼族は元々が名の扱いに長けた種族ではありません。彼等は甲名を持たず、自由を知り得るからこそ存分に力を奮うことが出来る。また、鬼神信仰の側から見ても彼等は私達人間を何より厭う。そのため進んで人間と契約を結ぶ者は少ない。しかし現に彼はこうして人間が溢れる京庵に舞い降りた。被害者を捕食したのは、恐らく」

『己の名を繋ぎ止めるため、か。やはり鬼達は我等を肉として考えているのかねぇ』

 指揮官の声は生徒が満足のいく答えを導き出した教師のそれに近い。いつもの軽薄な音量が拡張機を振るわせる。知砂の眉間に嫌悪という微量の皺が寄った。部屋に居ない指揮官はどうしてか、その様子を克明に見ているかのように言葉を訂正する。

『無論全員がそうでないのは理解しているさ。彼等はこの世界に多い種族であり、我等の隣人でもある。だがどうしてか鬼神信仰を掲げる者は我等を敵対視している傾向が強い。宗教学的に見てもこの動きは他種族にも多々あるし、民俗学的に見てもある一定の期を境に……』

 知砂は配線を抜き、電子手帳を畳んで胸元に入れた。遊の髪を撫で上げて不安を拭う。

「先日の牛鬼、今回の牛鬼。角の形状、瞳の色から見ても鬼神ではありません。やはり三週間前の目撃情報は虚偽と断定すべきかと」

 己の思考に耽り始めた指揮官の様子に知砂が早々と先手を打った。指揮官は未だ話し足りないらしく論議を続けようとするが、四人が起立したことによって生じた椅子の音でかき消された。

「冥送符はいつも通り、椅子に置いていきます」

 中には牛鬼の冥送符が入っている、赤い文字で呪が書かれた筒を椅子に置く。

『え、あ、うん、はい、分かりました』

 心なしか萎れた声が機械越しに伝わった。四人は特に気にした様子もなかった。

「では、私達はこれで」

 司式に倣い、三人も無言で後に続く。

『ハッ……!』

 指揮官は何かに気付き、息を飲んだ。

 知砂と敬はうんざり顔で振り返る。遊は立ち止まった知砂の背中に軽くぶつかり、花誉は窓辺に止まった小鳥を遠い目で眺めていた。

『そうか! 今日は平日だった! 君達は学校か! ……良いなぁ、懐かしくも甘い痛みを伴う単語だなぁ』

 指揮官は辟易する二名の視線に気付く様子もなく、既に別のことに気を取られている。

「失礼します」

 退出というより退却といった方が正しい。後にも指揮官は何かを呟いていたが、四人は全て聞き流して部屋を出た。礼節にそぐわないことだが、正直に話を聞いていると簡単に時計の長針が一回転する。そしてまた彼女達の指揮官もいちいち礼節に沿った行動をとる人物ではない。

 最後尾を歩く花誉が扉を閉める寸前に聞いた指揮官の言葉は『そう言えば焼きそばパンってのは最近の購買でも売ってるものなのかなぁ』という謎めいた独り言だった。



 厚めの扉を抜けた先は今まで居た部屋と変わらぬ色合いの廊下だった。

 両面の壁に埋め込まれた巨大な窓と白い通路が遠くまで続いている。窓枠を緑が這い、塵一つない床に美しい森の陰影を描いていた。朝の光も加わって一層の眩しさを与える。

 知砂は長い間椅子に座っていたことで固まった関節を伸ばしながら、長い、それは長い嘆息を吐き出した。電子眼鏡を外し、疲労による鈍痛を訴える目頭を揉む。掌を幾度も開閉するその姿は、獣が長い間狭い檻の中に閉じ込められた時のような苛立ちを如実に表していた。

「『任務が終わり次第、報告に来い』とか言いながら人を待たせるのって人道的にどうなの」

 右隣に並んだ花誉の表情にも同じく微量の苦味が混じっていた。

「一応は指揮官ですからね。人間的に駄目でも、実力は私達の上をいくのかもしれません」

「ぅえ、あのアホっぽい指揮官ってオレ等より強いの?!」

 知砂と花誉の会話と歩みを止めるように敬が前に出た。

 敬にとって他人を評価する際に「力」は大きな意味合いを持つ。それまで弱肉強食制度の三角形(ヒエラルヒー)、その底辺に位置していたであろう指揮官が一気に高位へのし上がることは、彼女の脳内裁判では由々しき事態であるようだ。

 何気なしに呟いた言葉を受け止める真摯な瞳に、察した二人は微苦笑を浮かべる。

「可能性の話ですよ、敬。それにあなたの強さは私が保証します」

「つうか見えもしない相手に張り合うなよ。それとも阿呆っぽいっていう部分への対抗? それならアンタがぶっちぎりで一位だから安心しな。こっちはあたしが保障する」

「っ、お前なぁ!」

「喧嘩はダメなのー!」

 軽口の応酬に敬が噛み付く。そして知砂の背に遊が抱きつき、喧嘩を停止せんと身を挺した。苦笑交じりの花誉は穏やかに三人を眺めている。

 それは四人のいつもの調子だった。戦いの中で忘れかけた日常を取り戻す、これが彼女達なりの方法なのかもしれない。

 窓の外は既に日が昇り、暖かな光が世界を包んでいる。白亜の城塞から望む朝。遠いビルの群れの数だけ日常がある。四人は遠くの彼岸を見つめ続けた。

 何処までも透き通った青空を鳩の群れが飛び交い、次の瞬間には巨鳥〈骨鳥(スカルクライ)〉の大口に飲み込まれた。肉の全てが削ぎ落ち、骨と薄皮で構成された巨鳥の腹部には飲み込まれたばかりの鳥達が忙しげに羽ばたいていた。運の良い者は肋骨の間からすり抜けて逃げてゆく。満たされることのない巨鳥は乾いた鳴き声を上げながら、獲物を探して空を徘徊する。足を持たない骨鳥は地に降りることもなく、永久に飛び続けることを義務付けられた鳥だ。

 世界には生命の営みから逸脱した者達が犇めき合っている。

 自ずと進化を遂げたもの、過去の大戦によって生み出されたもの、名を欲する人外の者達――廻來天。三本の系統樹の根はこの世界で複雑に絡み合っている。

 四色の異なる瞳が変わらぬ日常風景を見つめていた。

 巨鳥は口を大きく開けて軋んだ咆哮を上げる。大きな両翼を羽ばたかせ、ビルの谷間へと消えていった。

 手の届かない日常、暗い非日常の境に少女達は立っていた。


「業の深き四人の罪人がおるな」


 唐突に、聞き慣れぬ声が回廊に響き渡った。四人は反射的に声の方を向く。

 居たのは、影。

 他には「黒」と形容するしかない。漆黒の外套に付随したフードを目深に被っている所為で表情は窺えない。体の九割を黒で構成する中でただ一つ、口元だけは三日月の赤い笑みを浮かべていた。背負った柩にあしらわれた赤い複眼が少女達を無機質に見つめている。

九十九(つくも)……」

 敬の低い声が皆の胸中を代弁していた。

 この者が何処から現れたのか、それを知る人物はいない。《白亜》は京庵随一の警備体制を誇っている。だが天井にある警報装置は一切の反応を示していなかった。監視の瞳にすら映らない人物。闇からの使者が確かに眼前に居た。

 九十九と呼ばれた人物は肩を揺らして笑った。振動によって、長躯を封印するように巻かれた鎖と柩が甲高い悲鳴を上げる。笑い声なのか鎖の鳴く音なのか判別することは難しい。ただ純粋なまでの狂気を孕んだ音が白い廊下に拒絶されて響いていた。

「真に愉快、愉快! 四人の(いくさ)巫女(みこ)今日(けふ)も鬼を弔った! 地獄の狂い鬼にさえ手を掛けるとは、いやはや殊勝、殊勝なことぞ。輪廻に縛られた咎人共よ、見事であった。実に見事であったぞ!」

「っ、ちーちゃん……」

 遊が知砂の裾を掴む。震える少女を庇うように知砂が前に出た。

「失せろ、九十九」

 嫌悪感を顕わにした声音に、闇は体を反らせて笑い続ける。

 〈柩を背負う者〉として名を知られた九十九は名前以外の詳細が一切不明(アンノウン)となっている。影より生まれ影より消える、何処の世界にも属さない狭間の住人ではないかと、まことしやかに噂されていた。災いの前触れを告げる預言者として遭遇した者に恐怖を植えつける。嫌な相手に出会ったものだ。

「あな恐ろしや恐ろしや。そう睨むでない、知の番人。我のか細き肉体など、其の爪が如き眼光に容易く射殺されてしまうわ」

「そう思うなら消えろ」

「だがそうもいくまい。罪重ね、穢れた思い積み重ね、賽の河原で乞い歌う。我は過ちを犯した者を等しく正しいものだと思うのだ。お主達も、この白き巨城に囚われし幾多の罪人も等しく。無辜の罪こそ万人が孕むものであり、それこそ我の愛すべきただ一つのものだ。そしてこれから齎されるであろう血の予感を、お主達にも伝えておこうと思うてな」

 九十九は笑いながら、舞台に立つ指揮者のように、あるいは不吉な預言を告げる隠者のように言葉を紡ぎ続ける。左右の腕を広げると足元に張り付いた闇が一層広がった。黒の呪言が白の光に浮遊して闇を生み出す。

「良く聞け、戦巫女。宴はもう始まっている。()く、()く向かわれよ。舞え、美しく舞ってみせろ。(かんばせ)を血の(あけ)に染め、赤の宴のその果てに、嘲笑うのは果たしてどちらの咎人か!」

 管と機械に冒された青白い手がゆっくりと持ち上がり、四人の背後を指差す。

 四人は背後に疑念を向ける。そこには何もなく、あるとすれば今まで居た部屋と真白の回廊だけだった。

「何もねえじゃねえか」

 敬の言葉は空に消える。

 再び向き直ったそこに九十九の姿はなかった。沈黙の光が白の輝きを殊更強調する。闇はなく、透明な薄影が床に張り付いているだけだった。

「クソ、からかいやがって」

「暇なんだろ」

 行き場の失った両拳を打ち合わせる敬の悪態を否定するでもなく、知砂が火の付かない煙草を咥える。敬が空気を指先で弾くと煙草の先端に火が灯った。

「嫌な言弾を残していきましたね、何かの前触れでなければ良いのですが……」

「ヤだな……」

 知砂の後ろに隠れていた遊が小さく俯いていた。黒は純粋な恐怖を孕んでいる。

「気にすんなって、遊。相っ変わらず、怖がりだなぁお前」

 敬はそれまでの苛立ちから手を離し、代わりに友の肩に腕を回す。不安げに揺れていた蒼が念を押す笑顔につられて笑みを取り戻した。それだけで残された不安や恐怖は身を潜める。

「では気を取り直して、朝食でも食べに行きしょうか」

 残った蟠りを祓うように花誉も前に出る。小さな頭が二つ同時に頷き、歩を進めた。何を食べようかと無邪気に話し合う二人を見守る知砂と花誉は後続として歩みを進める。

「あれ?」

 しかし急に敬が立ち止まった。その背中に遊がぶつかり、「きゅう」と鳴き声を上げる。

 敬が見据えるのは窓の向こうだった。他の三人も同じように歩を止めて視線を窓の外に向ける。嫌な沈黙が数秒間続いた。

「どしたの、けーちゃん?」

「なぁ、オレ思うんだけどさ」

 知砂が思い当たったように生気の篭らない溜息を、花誉は同時に微苦笑を零す。

 遊は疑問を感じながらも制服の懐から電子手帳を取り出し、時刻を確認した。軽い電子音と共に知砂の裾を引っ張る。

「ねぇねぇ、ちーちゃん」

「みなまで言うな、遊」

「はぅ……」

 逡巡する。場の空気を読まない敬が話の帰結を言い放った。

「遅刻じゃね?」

 それと同時に遊の手中にある手帳が電子音を上げ、空中に時刻を大きく表示する。

 9:00。


 四人の、学生としての一日が始まる。

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