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リンとフレディ

エディット・ピアフの子守唄

「見つからないなら、いいよ」

 古びたチェストの上で足を揺するジャッキーの口調が、あまりにもその父親そっくりで、リンは思わず顔を上げた。目を凝らすときの眉間の皺。息子を見るたびに妻を思い出すと辛気臭いため息を吐くフレディの嘆き。心配しなくても、二人の血が入っているのだから。片方だけにしか似てないなんてこと、ありえない。

 天井からぶら下がった袋入りのたまねぎを押しのけたリンは、汚れた手で額に滲んだ汗をこすった。トタン屋根の納屋は狭く暗く、おまけに蒸し暑い。壁のあちらこちらに開いた穴は、野良猫の侵入は許せど、土臭い建物の中の換気するには余りにも小さかった。

「子供の癖に、余計な気を使うんじゃない」

 降りてきた半袖のTシャツを肩まで捲り上げ、腰をかがめる。

「どっかにあるはずだって。この前電話したとき、婆ちゃんが、しまってあるって言ってたんだ」

 黙って頷いたジャッキーは、再び黒いつぶらな目で薄暗い内部を興味深げに見回し始めた。おとなしい外見の癖に、意外と肝が据わっている。リンは昔から、この納屋が嫌いだった。特に、ジャッキーくらいの年の頃は、庭の片隅でどんよりと佇んでいる壊れかけた建物に、近づこうともしなかったのだ。幼い幻想が、薄いトタンの扉の影に幽霊の姿を見せた事は幾たびであろうか。夕食用のタマネギやジャガイモを取りに行くようにとの母親の命令は、一つの試練であり、自らの勇気を試す酷い刑罰にすら思え、家の外に出る前から鼓動を激しくさせたものだった。嫌々ながら庭に回り、夕暮れの紫掛かった空へ大きく深呼吸を放つ。庭の隅で待ち受けるちっぽけな建物を強くにらみ、決心をつけたら最後、全速力でドアを突き破り、棚の上の目標をひったくっては同じ速度で逃げ去るという動作を、滞りなく行わなければならない。時々荷物に阻まれ顔を地面にぶつけたり、扉がスムーズに開かなくて泣きそうになる事もあったが、たいていの場合、彼は恐怖の叫びを上げることなく、見事獲物を捕らえる事に成功していた。



 今彼が居座る小屋は、昔頭の中で描いていたよりもはるかに小さく、みすぼらしい。流石に恐怖は感じなかった。しかし、過去の思い出が発酵した末の気まずさに、ちくりと胸を刺される事も確かだった。隙間風が作る幽霊の誘い、隅に佇む鍬の化け物の影。

「親父もお袋も、もう少し片付けろよな」

 伸ばした腕に引っかかり、積み上げた新聞紙の束が大きく揺れる。慌てて反対の掌で支え、リンはため息をついた。

「きっと、あそこらへんにあるんだ」

 顔を向けて後悔した。手作りの戸棚には、木箱や空き瓶が山と積まれている。

「すぐ見つかるさ」

 半ズボンから突き出した脛が、所狭しと並べられた何かの箱にぶつかる。やはり、ここは嫌いだ。

「昼飯までには」

「お昼までには?」

 小首を傾げて、暗い中でもはっきり分かる大きな瞬きをする。家を出る前に見た、食卓の上のチェリーパイを思い出したらしい。

「そう。早く帰らないと、全部食われちまうぞ」

「パパはそんなことしないよ。リンじゃないんだから」

「生意気な言いやがって」

 床に転がる小指ほどのジャガイモを投げつければ、きゃーと子供らしい歓声が上がる。満足して、リンは頭上で待ち構える大荷物の一つを掴んだ。




 大人が気付いてやらなければ、子供の才能は育たない。優秀な伯父としての使命感に胸を膨らませながら、リンはあきれ返るフレディへ可愛い甥の可能性を力説した。

『ジャッキーは絶対音感を持ってる』

 右手のコーヒーが、語調につられカップの中で揺れる。

『あいつ、let it beをハーモニカで吹いてたんだ。全部じゃなかったけど、楽譜も見ないで』

『学校でやってたんじゃないのか』

 テーブルに頬杖をつき、フレディは気のない声で答えた。

『どの部分を』

『イントロのタータタタータタターターターのところ。耳で聞いただけで』

 うんざりと首を振ったフレディへ、やっきになって言葉を畳み掛ける。

『ポーリーンもピアノを習ってたし、お前だって昔カート・コバーンの追っかけみたいなことやってたじゃないか』

『あれは過去の話だ』

 眉根に縦線を刻み、フレディは強く目を瞑った。

『若気の至りだよ』

『どうだか。髪をブロンドに染めて、ギター振り回してたあの情熱が、そう簡単に消えると思わないね。ホームレスみたいな格好で近所を徘徊してた写真、まだ残ってるんじゃないか』

『グランジは死んだんだ』

 せわしなくテーブルを叩く指が、我慢の限界を警告する。

『カートの死と共に』

『まぁ、どちらに似ても音楽の素養があるのに変わりない』

 長い前髪の下から涅槃の彼方に思いをめぐらしていた少年の面影を、真面目この上ない教師崩れの男にはめ込んだ結果が余りにも滑稽『習いに行かせたらいい。鉄は熱いうちに打て、だ』

『それは、ポーリーンとも言ってたんだが』

 立ち上がり、パソコンの後ろを覗き込む。かさばる紙の中から、毒々しい色使いのちらしを探し出すと、待ち構えるリンに差し出す。

『バスケのクラブは一回だけ見学に行った。それほど乗り気じゃなさそうだった』

『お前に似たら、運動神経だってそんな悪くないはずだろう』

『駄目だな。足は早いが、センスが今一つ』

 ハイスクールの栄光。地区大会で贈られた銀色の盾に、フレディは寂しげな目を向けた。

『興味がないものを無理にやらせる訳に行かない』

『そりゃそうだな』

 手の中の広告には、ピアノを弾くカエルと、辺りを飛び交う音符の絵。

『良さそうじゃないか』

『月謝を見ろ』

 可愛らしい兎にくっついた吹き出しの中で誇示される、シビアな現実。

『詐欺だな。たかだかピアノくらいで』

『それに、ピアノを買う金なんか、正直』

『なんだ、そんな事』

 屈辱を噛み締めているフレディへ、リンはこの上なく温かい顔つきを見せた。

『心当たりがある。貰ってきてやるよ』

『お前にはあっても、相手には無いんだろう』

 目を閉じる事で、次の台詞を遮断する。

『盗品なんかお断りだ。大体、家に置けない』

『ポーリーンのピアノ、売らなきゃ良かったな』

 2LDKの間取り。背後で叩かれる鍵盤にフレディが発狂するか、一心不乱に執筆を続ける父親に遠慮したジャッキーが部屋に近寄らなくなり、せっかくのピアノが埃を被るか、どちらにしろあまり良い結末ではない。

『ギターなんかどうだ』

『ギタリストはLSDをやりだすって決まってるんだ』

 フレディは勢いよく手を振った。

『もっとも、僕はやってないけれど』

 暫く間を置いてから、思い出したように付け足す。

『あれも駄目、これも駄目』

 ちらしを丸めてゴミ箱に投げつける。狙いは外れ、身を屈めて拾うフレディの背中に、リンはなじるような視線を浴びせかけた。

『才能を潰すな』

『僕だって、やらせたいよ』

 不機嫌さを露にしてフレディは唇を引き結んだ。

『この原稿料が入ったら、真剣に考える』

『金はいつ入る』

 完全に口を噤んでしまったフレディの瞳に、ジャッキーの駄々を見つける。もっとも、息子の方が父親に比べてはるかに物分りは良かったが。

 煩悶の原因が彼一人のせいでないことは重々承知している。良すぎる物分りが幸いして、あまり自己主張を行わないジャッキーに近所一番の秀才が手をこまねいている様は、みている側としては滑稽極まりない。しかし、一度首を突っ込んだ途端、少年の東洋的無表情と父親のヨーロッパ的精神葛藤の対立は、とてもじゃないが笑えるものではないことが分かる。母は偉大だった。そんなことを言えば、この場の空気が元に戻る見込みは無くなるので、代わりにリンは、全てに折り合いをつける都合の良い代替案を必死で探していた。

『ピアノ、ピアノ』

 額の間を指先で叩くポーズで、思考しているふりをする。

『ジャッキーは、やりたがってるんだからな』

『どうだか』

 冷めたコーヒーを啜りながら、フレディは疑り深い上目遣いを見せる。

『本人の口から聞いたのか』

『ああ。ビートルズはお気に召したらしい』

 けろりとした顔で嘘をつく。無論、相手も信用せず、陰鬱な目つきは変わらない。

『ピアノ。そうだ、ポーリーンが昔使ってたおもちゃ』

『おもちゃ?』

 口調こそ訝しげだが、明らかな興味を持ち合わせて片眉を吊り上げる。

『そう。赤い、小さなピアノ。あれならおもちゃ箱に突っ込んでおけるし、音もそんなにデカくない』

『そんな子供だまし』

『しょうがないだろ、本物が無いんだから。ギターはまだ早い』

 フレディは満足げに顔から指を離した。

『でも、もう少し大きくなったら教えてやればいいんだ。ジミー・ペイジみたいな』

『ツェッペリンなんて』

『何言ってるんだ、ペイジ程上手い奴はいない』

『分かった。とりあえず、ピアノだ』

 お気に入りの椅子に身を沈め、小さく唸る。

『家にあるのか』

『今度の週末にでも、探してみるよ。なぁ、どうする。ジャッキーがエルトン・ジョンみたいな格好しだしたら』

『よしてくれ』

 にやついた顔など見るのもおぞましいと言わんばかりに、フレディは天を仰いだ。

『ジャッキーは、あんなにセンスが悪くない』




「音楽好きか」

「うん。好きだよ」

 棚の上の登山靴に気を奪われながら、ジャッキーは頷く。

「この前音楽の時間に、イネス先生に褒められた、ママも、そのうちピアノを習わせてくれるって言ってたし」

 正視することができず、こっそりと横目で窺う。無感動な瞳。見ているこちらの方が、苦しくなる。リンは手元の木箱を見据える事で、噛み締めようとする奥歯を緩めた。

で、肩を竦めることで笑いをごまかす。

「凄いな。何やったんだ?」

「いろいろと。ピアノもギターも、ドラムもやりたい。けど」

 ジャッキーは抑えたように小ぶりな笑顔を作る。

「ギターは、今お小遣いを貯めてるんだ」

「買ってやろうか」

「いい」

 見上げた顔には、確固たる意志が刻まれている。

「自分で買うって決めたんだから」

 真面目腐った顔に思わず笑みがこぼれる。抱いていた違和感が、溶解した。

「感心だ」

「この前、中古で売ってた」

「幾らだ」

「98ドル32セント。青色の奴」

 両腕を広げてみせる。

「どれくらい溜まった」

「12ドル24セント」

 ひらひらと振り回されていた薄い手が、膝へ落ちる。

「去年の12月から溜めてるんだけど」

 8歳児が5ヶ月かけて集めた金としては、それなりのものかもしれない。

「だから、あと……」

 突き破られた天井の穴から降ってくる空の下、たどたどしく指を折る。俯いたとき降りる前髪を辿った先にある頭は丸く、大きく、あどけなさが際立った。

「あと、38ヶ月で買える」

「よく出来ました。気の長いこった」

 思わず目を閉じ、長息を漏らす。

「それにな、ギターを弾こうと思ったら、アンプも買わなきゃならないんだぞ」

「何それ」

 途端に表情を曇らせたジャッキーへ、リンは急いで言葉を付け足す。

「38ヶ月って言ったら、あと3年とちょっとか。まぁ、それくらいにならないと、ギターなんて弾けないか」

「弾けるよ。学校でやったんだ」

「お前が言ってるのって、子供用だろ。普段売ってる奴とは全然大きさが違うからな。手がもっと大きくならないと」

「僕、手、大きいよ」

 言葉尻に混ぜた不機嫌さをそのままぶつけるように、自らの小さな掌をにらみつける。

「大きい方だって、パパが言ってたもん」

「まだまだ。Fコードに届きゃしない」

 広げて見せたリンの手に、自らのものを重ね合わせる。汗でべたついた華奢なつくりの指はリンの半分ほどの長さしかなく、差し込む太陽の光に薄く透き通っていた。その事実を確認した唇が、つんと上を向く。すぐに離された細い手は、体の脇で自尊心を強く握り締めていた。

「3年したら、大きくなるよ」

「中古で3年って、流されちまうぞ」

「でも、買うって決めたんだ」

 終いに腕を組み、眉根に父親そっくりの縦皺を浮かべてしまう。

「決めたんだから」

 幼い頃のフレディはめったに駄々を捏ねない優等生だったが、その分一度決意してしまった物事に対するこだわりは、並々ならぬものがあった。息子はどうか。尖った唇が物語っている。どうしてこう、余計なところばかり似てしまうのか。

「なぁ、こういうことにしないか」

 本人から見えない位置で苦く笑いながら、リンは奥のほうで眠っていた箱を引き降ろした。中に入っていたのはしぼんだボール、バトミントンのセット、自転車の補助輪。目標はすぐ近くで待ち構えている。

「質流れする前に、俺がそのギターを買い上げてやるよ。で、あと3年間頑張って金を貯めればいい。それで、俺からギターを買うんだ。アンプは誕生祝だ」

「いいの?」

 喜ぶと言うよりは当惑した目つきで、リンを見つめる。

「ああ。近いうちに買ってきてやる。どこの店だ」

「ロキシィって、公園の近くにある。緑色の看板が掛かってるんだ」

「よーし、分かった」

 目当てのものを見つけ、リンはにっこり笑った。引っ張り出した見慣れた箱。可愛らしい絵はすっかり色褪せ、埃を被っていたが、確かな重さが存在を示している。

「これで練習して、楽譜読めるようになれよ」

 書いてある文字がぼやけるほどの塵を一息で吹き飛ばす。舞い散る白い粉が一直線に差す光の中を踊り狂い、反対側ではジャッキーが細めた瞳の中で期待の色を盛大に輝かせていた。

「これ、ママが使ってたんでしょ」

 受け取った箱を膝の上に乗せ、ジャッキーはいとおしむ様に箱の絵を指先で撫でた。

「ママも、ピアノが好きだったんだね」

 揺れ続けていた踵が、最後に一度だけチェストを蹴飛ばした。抱き上げて降ろしてやると、服が汚れる事などお構い無しで、ジャッキーはおもちゃのピアノを強く胸に押し付けた。光の中に立ったまま見上げてきた瞳の黒さと、崩れ落ちそうなところで上手くバランスを取っている無表情をこれ以上見たくなくて、リンはそっと少年の背中を押した。

「これ以上こんな湿っぽいところにいたら、結核になる」

 触れている部分から伝わる硬直だけで、発散される痛みは十分理解する事が出来た。

「音、狂ってなきゃいいんだけどな」

「ちょっとくらい、おかしくても大丈夫だよ」

 日曜日の昼前は光までがしらけて、無慈悲だった。リンが急に明るくなった世界に対応できず、瞬きをしている間に、彼の手から離れたジャッキーは、もう既に数歩前へ飛び出している。

 白くはじけそうな視界の中、数歩土を蹴った後姿は漠然としている分、悪夢よりもたちが悪かった。温かい風に体当たりされた掌が熱をなくす。陽はわざとらしいほど快活に照り続け、剥き出しの肩を焦がしているのに、何故か現実感が希薄だった。離れていくジャッキー、蹴り上げられたふくらはぎ。庭を駆け回るポーリーンのスカートが、風で膨らむ。本当に、つまらないところばかり似てくる。

 胸のうちを読んだかのように、黄色と紫のグラジオラスが交互に植えられた花壇の前で、ジャッキーは体ごとこちらに振り向いた。

「ねぇ、ママは」

 ためらうように一度だけ下を向き、その後は確固たる視線がこちらを貫く。

「どんな曲弾いてた? ずっとピアノ弾いてた?」

 射抜く視線から逃げてはならない。リンは緩んだ口の端を軽く引いて、言葉を探した。気の利いた台詞の代わりに浮かぶ、居間に座り込んでピアノを叩くポーリーンの姿。幼い声で紡がれる拙い歌が、昼の暑さを柔らかく変える。カーペンターズを好んでいた妹は、カレンよりもずっと愛らしかった。

「どうだっけな」

 すぐに砂埃を飛ばす地面を擦るように歩き、リンは空を見上げた。

「Top of the Worldがお気に入りだったな」

「知らない」

「有名な曲だぞ、知らないか、ほら、『such a Feeling’s comin’over me』って」

「へたくそ」

 ゆっくりと身を翻し、玄関へ向かって足を振り上げる。

「それ、料理作りながらよく歌ってた」

 Mを発する時、取り澄ました顔の中へ微かに浮かぶ感情。

「すごく、いい曲」

 前かがみになった背中に、ジミー・ペイジを勧めることは、流石のリンにも出来なかった。



 両親の留守を狙い、忍び込むようにして納屋を探したのは、自らの母の辛辣さをよく理解しているため。少年というものは、いつの時代でも父親を尊敬する気持ちを持っておくべきなのだ。自らのような例外はあるとしても、姑に唆された一人息子から絶縁状を突きつけられるなんて、傷心の作家が背負う運命としては余りにも重過ぎる。

「婆ちゃんの言うことは真に受けちゃ駄目だぞ」

 赤い小さなグランドピアノは足が一本ぐらつき、エナメルの塗装が幾分か剥げていたものの、調律したてのようにきっちりと音階が揃っている。助手席に座るジャッキーは待ちきれずに膝の上へ乗せ、既に十八番となったlet it beのメロディを人差し指で奏でていた。

「その……何だ。ちょっと大げさだからな」

「知ってる」

 鍵盤に目を落としたまま、ジャッキーは頷いた。

「パパとママ、駆け落ちしたんでしょ」

「それもまた大袈裟だな」

 賛成していなかった事は事実だが、母も一応は二人の仲を祝福していたはずだ。フレディが仕事を辞める日までは。

「ママは、僕が生まれたから仕方なく結婚したんだって」

 口ごもった言葉に思わず振り向く。

「婆ちゃんが言ったのか」

「うん」

 目で縋られる。

「嘘だよね」

「嘘だよ」

 正面を向いたリンは、力強く頷いた。

「おまえのパパはクソ真面目な男だ。そんな無責任なことするもんか」

 一度、言っておかなければならない。幾らなんでも、婿いじめが過ぎる。小さい頃は秀才だ何だと、あれほど可愛がっていたくせに。

 腹立ちと共に見下ろしたデジタル時計は、12時を回っていた。

「ちょっと寄るところがあるんだ。腹、減ってないか」

「うん」

「すぐに済むからな」

 ハンドルを切り、車線変更。揺られた身体と共に、ピアノも不協和音で横滑りする。

「あのな。パパとママが結婚するとき……聞いたことあるか」

「ううん」

「じゃあ覚えとけよ。パパはまだ学生で、ママもハイスクールを卒業して一年しか経ってなかったんだ」

「何でそんなに早く結婚したの」

 上下に振られながら、小首をかしげる。

「待ちきれなかったんだ。本当に、愛し合ってたからな」

 白鍵を撫でていた指はいつの間にか膝の上で大人しくなっている。リンは取り澄ました笑みを幼い甥に投げかけた。

「おまえもいつかは分かる」

 よく分からないと瞬きを使って答えることで、ジャッキーは話の続きをせがんだ。

「そのとき、まだ金が無かったから、結婚式の費用もやっとで……最初は行かないって言ってたんだが、そんなのあんまり可哀相じゃないか。だから、俺や友だちが掛け合って、カンパしたんだな」

「カンパ?」

「金を集めたんだよ」

 4,5回の事務所荒らしで、3週間に及ぶヨーロッパ旅行諸経費は十分まかなうことが出来た。

「それで、二人はめでたくヨーロッパへ行ったんだ。フランス、イタリア、ドイツ、スイス、それこそ色々なところへ」

「オーストリアも?」

「どうだっけか。何だ、そんな変なところ」

「この前音楽の時間、ベートーベンを習った」

「ベートーベンはドイツ生まれだぞ」

「オーストリアだよ。先生が言ってた」

「先生の言うことなんか信じ込んでたら、ろくな大人になれないぞ」

 余りにも自信たっぷりな言い草に困り果て、ジャッキーは再びピアノを見下ろした。ぽん、と高く安っぽい音が、エンジンに溶け込む。

「ま、とにかくあっちこっちへ行って、3週間後に帰ってきた」

 あの時貰った土産のカウベルは、まだ家にあるはずだった。

「ちょっとしてから、ポーリーンが……お前のママが、うちに遊びに来たときにだな。子供が出来たって言ったんだよ。つまり、お前だ」

 旅行から帰って以来、メンスが来ない。フレディに話すよりも前に、彼女は兄と両親へ報告に来た。抱いた優越感は、今でも忘れていない。すっかり母性を湛えた妹に対する、小さな寂しさも。

「あの時ママは、本当に幸せそうだったな。ママは子供が大好きで、昔は幼稚園の先生になりたいって言ってた事も」

 横を窺えば、ジャッキーの真剣な顔とぶつかる。ピアノの下にもぐりこませることで、握り締めた両手を隠しているつもりだろうか。痛ましさが、ハンドルに乗った掌に力を与える。

「妊娠してる間も、服を作ったり、名前を考えたり、そりゃあ楽しみに待ってたんだ」

「ママが」

 柔らかい唇を噛みながら、ジャッキーは俯いた。

「世界にたった一人の子供だからって」

「そうさ」

 リンはしみじみと頷いた。

「たった一人の大切な子供だ」

「でも、僕」

 消え入るような声をエンジンの中からより分けようと、耳を澄ます。

「弟が欲しいって言ったんだ。1人でいいから」

 1人といわず何人でも、ポーリーンなら欲しがったに違いない。家計の苦しさは、彼女にその機会を与えてはくれなかったが。

「ママが駄目だって怒って」

 訥々と繋げられる言葉から、抑揚が消えていく。

「それをこの前パパに言ったら、パパ、泣き出しちゃうんだもん」

 泣くかと思ったが、ジャッキーは顎を喉元に押し付けただけで、悲しいとさえ言わなかった。

「おまえは泣かなかったのか」

「うん」

「そうか。偉いな」

 子供らしく熱の篭った髪の毛をかき混ぜる。ふっと吐き出した息すら恥じたのか、小さな手は乱暴にピアノを叩いた。

「ママ、僕やパパがあんまり我侭言うから、疲れたんだね」

 不協和音にあわせて歌われる、無感動な声。

「仕方ないよ」

「馬鹿言うな」

 燻り続ける謎。残される1人息子の背中を、ポーリーンが忘れるわけがない。

「ママはお前のことを連れて行きたかったに決まってる」

 気付けば自分のほうが涙を零しそうになっていることに気付き、リンは慌てて目元を拭った。

「うん、そうだ。ママが1人で行ったのは」

 ジャッキーは何も言わず、おとなしく首を振った。

「パパを一人ぼっちにしておけないからだ」

「パパを?」

 青く血管が透けている瞼の下で、ジャッキーは静かに瞳を動かした。

「ああ。すぐ泣くし、銀行にも1人で行けないし、パパは1人じゃ生きていけない」

「料理もへた」

 大きな掌の下でぎこちなく笑う。

「ピーナツサンドだけ上手」

「だろ? ママは、お前がパパの面倒を見てくれると思って、信頼してたから」

 言った自分自身が一番納得している事に気付く。この考え方だと、全て上手く行くのではないか。兄に部外者のレッテルを貼り、相談すらせず消えたポーリーン。兄妹なのだ。兄の直情が、目の前で泣くフレディへ傾く事など百も承知だったに違いない。

 そこまで考えたとき、リンは今まで抱いていた憎悪が、脆くも崩れたことを知った。さすが我が妹。知恵が回る。

 同時に浮かんだ憐憫の方は、しかし、身を竦ませるジャッキーの頭が手の中で揺れた途端、すぐさま凍結された。学芸会に来て欲しくて泣く癖に、本当に傷ついている事は絶対に見せようとしない。不器用なところは父親譲りだということを、ポーリーンは本当に知っていたのだろうか。

 目には見えないが、今も華奢な両肩には、とんでもない重量がのしかかっている。

「ママは帰ってくる。なぜなら、パパを愛してるからだ」

 胸に沈む苦さをどうする事もできず、リンは深い声で言い放った。

「本当だぞ」

 言葉尻に疑問視をつけないためには、物凄い労力を要した。




 窓の外は既に市外、潮風に吹かれ錆びついた倉庫街の間を、ポンティアックは身軽にすり抜けていく。少し窓を開ければ、べたつく海の匂いが車の中にまで流れ込んできただろう。さざなみの気配を感じたのか、ジャッキーはガラスへ鼻をくっつけるようにして、きちんと整列した倉庫の向こうを見やっていた。

「テトラポッド」

 春の光を小さく織り込んだ海は、コンクリートの護岸と防波堤に挟まれ僅かしか見えないにも関わらず、濃く、青く、眩しかった。山と積まれたブロックを指差し、ほんの少し表情を緩める。

「この前社会科でやった」

「スペルは?」

「t, e, t, r, a, p, o, d」

「合ってる」

 頷いたリンが目を凝らしたのは、穏やかな波が打ちつける消波ブロックではなく、その手前、みすぼらしい倉庫の下に止まっているトヨタの中身だった。確認できたのは黒い人影が二つ。念のため、銃を持っていくべきかもしれない

 出来るだけ日のあたらない場所へ車を止める。シートの狭間に隠してあったインフィニティをパンツに押し込みながら、リンはまだテトラポッドへ誇らしげな目を向けているジャッキーの頬を抓る。

「すぐ戻ってくる。チェリーパイがなくなる前に、帰るぞ」

 気楽に笑えば、ジャッキーは何も疑うことなく、頭を縦に振った。




 はちきれそうな腹をシャツの中に無理やり詰め込んだ男は、捲り上げたズボンにTシャツという軽すぎる格好のリンを見た途端、落ち窪んだ目を嫌悪で引き攣らせた。

「頭の悪いチンピラみたいな格好するなよ」

「悪いな。ちょっと急いでるんだ」

 男の視線がズボンの中の銃に向けられている事を十分意識し、リンは悪びれずに肩を竦めた。カッターシャツの脇に汗染みを作る男の背後、トヨタの中にいるやくざもの。物騒なものを持っているのはその男のみだろうと見て取る。

「そうか。こっちも暇じゃない」

 垂れ下がるほどの頬肉を揺らしながら、男も退屈そうに首を振った。短く刈り込んだ頭髪から、汗が流れ落ちる。肥え太りすぎた体格のせいばかりではない。日差しのきつい港湾は、市街地の平均気温を軽く上回り、暑い。脆いコンクリートで出来た倉庫の屋根はトタン製で、照りつける太陽を吸い込んでは、上空で蒸れるような熱気の幕を広げている。自らの額にも滲み始めた汗を感じながら、リンは一歩前へ足を踏み出した。

「わざわざこんなところに呼ぶほどのことって何なんだ、ワインバーグ」

「大した用じゃないんだが」

 ポケットから取り出したハンカチで顔を拭いながら、金融業を営むその男は申し訳なさそうな声色を作って見せた。

「最近、金融庁の連中に目をつけられてな。家の電話が使えないんだよ」

「だからって、呼び出すこともないだろうに」

 リンの言葉に、入港の警笛が遠く引き伸ばされながら相槌を打つ。

「ま、いい。あんたには世話になってる。それにしても、幾ら追い回されてるからって、ビビり過ぎじゃないか」

 車の中へ不遜な目つきを投げかけても、運転席の男は窓に腕を引っ掛けたまま微動だにしなかった。男が見つめるサイドミラー越しに、更なるからかいの表情を浮かべてみせる。

「こいつは前からつけてる。親戚の男でな」

 頭の悪いチンピラの姿を更に具現化するリンへ動ずることもなく、ワインバーグは苦しそうに息を吐いた。

「お前みたいに、この金融ショックの原因は全部シオニストにあるって思い込んでる連中が、最近はやたらと多いからな」

「俺は博愛主義者だぜ」

 大仰な仕草で手を振ってみせる。

「うん、クロだろうがキイロだろうが、いい女なら関係ない」

 自らの感傷に浸っているワインバーグは、返事をかえすことなくポケットから小さな紙を引っ張り出した。丸い指が、不器用な動きでメモ用紙を広げる。

「本題に入っていいかな」

「どうぞ」

 ふざけた丁寧さで首を振った後、リンは潰れたポールモールを一本取り出し自らの唇に差し込んだ。音が鳴るほど尻ポケットを叩くが、嫌な予感は当たり、ライターは行方不明。

「火、持ってないか」

「やめたよ。身体に悪いぞ」

「知ってるよ」

 ワインバーグが顎でしゃくると、運転席の男は使い込まれたジッポーを放ってよこした。確かに、よく見れば肉のついた顔の造作が目の前の男にどこか似付いている。

 一気に噴出した紫煙に目を細めながら、リンは小さな紙切れを入念に読み返すワインバーグを気長に待ち構えた。鳥の声。熱気が雨のように降ってきて、顔を包む。動く事をやめてしまった空気が、口元で立ち上る煙に扇動されて、ほんのわずかに身を揺らした。焼けつつある頬を叩く、微かな潮の匂い。

「トロツキナ通りの店だ。6万ドル」

「デカいな」

「ああ。4万から、利子が膨らんで」

 差し出されたメモに目を通さず、リンはポケットにしまった。

「それすらも、2ヶ月滞納してる」

「相変わらずの暴利だな」

 唇の先で煙草を振り動かすことで、笑みの形に筋肉を動かす。

「次は心臓の肉を1ポンドってか」

 表情のない目をじろりと向けたワインバーグへ、リンは内心慌てながら片目を瞑って見せた。

「悪い、別にあんたがシオニストだって言いたいわけじゃないんだ」

「なんにせよ、もう我慢の限界だ。甘く見られちゃ困る」

 ハンカチを分厚い掌の中で丸め、深い眼窩の中で何度か瞼を上下させる。

「このご時勢だ。右に倣うのは好きじゃないが、締め付けんと」

「でも、あー」

 リンは頭をかいた。

「そういうのはもっと、他の奴に頼んだ方が良いんじゃないか。荒っぽいことに慣れてる奴」

「最初はジェムのところに行こうと思ったんだが、やめた」

 ベルトを掴む事で、身体ごと跳ね上がりそうになる心臓を押さえ込む。

 一ヶ月ほど前の夜。四発の弾丸に吹き飛ばされたジェムの長身。眠りに落ちる寸前の如く、緩やかな瞬きで、リンは男を視界から遮った。相手が何も知っているわけはないと分かりきっているにも関わらず。乾いた口腔内は痛いくらいだった。鼓動は大きくなり、背中の汗もシャツに染みを作る程噴き出す。

「それに彼は行方不明らしい」

 顔の筋肉を殆ど動かすことなく、ワインバーグは言った。瞳を眇めたのが不審な怯えのためではなく、舌先を辛く刺すアンモニアによるものだと、目の前の男は思い込んでくれるだろうか。

「なんでも、ヤクに手を出し過ぎてシカゴの組織に消されたって話だ。知らなかったのか」

「最近会ってないからな」

 閉じた瞼の中で白目を剥きながら、リンは引き伸ばした声を出した。

「あんまり組織の人間に近づいたら、後々ややこしい事になりそうだろ」

「言えてるな」

 緩慢な動作で頷く。

「それに、今回は別に金を取り立てる必要はない」

「泣かせればいいのか?」

「そういうことだ」

 ワインバーグは手を大儀そうに車のルーフへ乗せた。

「俺は腹を立てているんだ。金がないのは皆一緒さ。だが、借りたものはきちんと返すっていうのが、社会の常識じゃないか。それをオバマはぶち壊してる。だから、他の連中も真似をして、なかなか金を持ってこようとしない」

 綺麗に剃り上げたピンク色の肌をてからせ、浮かべる静かな憤慨が、この場の熱に更なる温度を加える。

「6万ドルも踏み倒すなんて、人間のすることじゃない。そんな腐った奴が、今更のこのこへつらいながら金を返しにきたところで、余計に気分が悪くなる」

 シャイロックだって尻尾を巻きそうな理論。薄笑いを煙と共に海へ流すと、リンは軽く顎を反らして交渉用の醒めた表情を浮かべた。

「うん? それこそチンピラに任せりゃいいだろ」

「ジェムがいなくなった後に、ここらのガキどもを束ねる奴はまだいない」

 ワインバーグは強い口調で言葉を発した。

「あいつがいたから信用してたんだ。今のガキは、抑えがなけりゃみんなネオナチもどきになる」

「被害妄想にも程があるな」

 咥えたオレンジ色の火の先を上下させても、男は長年染み込んだ疑い深さを手放そうとはしなかった。

「事実だ。ホロコーストは」

「俺、歴史は嫌いだったんだ」

 手を振りながら、リンはわざと力ないため息をついた。

「それで、店に火でもつけてこればいいのか」

「そんなことをしたら、金目のものがなくなるだろう」

 ルーフを押すように叩けば、車ごと揺らぐ。それでも中の男は動かない。

「商品と商売道具を含めたら、どうだ。少し足りないが、まぁ、悪くない値になる」

「個人経営の店?」

 蒼い目に好奇心をいれ、リンはワインバーグを見つめた。

「ああ、こじんまりした。あんな金、何に使うんだか」

 汗を吸い、皺くちゃになったハンカチを、丁重な手つきでたたむ。

「防犯装置もろくにないような店だ」

「方法は、任せるんだな」

「ああ。あんまり大騒ぎはよしてくれ」

 蜆のような瞳が、静かな光を放つ。

「持ってきてくれたら、現物支給で渡す」

「仲間がいるな」

 短くなった煙草を、指二本で挟みなおす。

「それに、トラック」

 ぼけた白煙の先から良い返事を期待するリンに、ワインバーグは大仰な仕草で肩を動かした。鏡と対面し続けている男へ振り向き、ポロシャツに食い込む毛むくじゃらの腕を叩く。

「お前のところの配送車、使えるな」

「日によるさ」

 ぶっきらぼうに言い返した男へ、リンは口角を上げて見せた。

「近いうちに。安息日を選ぶよ」

 相手が何か反応を返す前に、舞う灰を掴むように左手を振る。

「嘘だよ。夜中だ。日取りは連絡する」

「出来るだけ早くしてくれ」

 気分を害した様子もなく、ワインバーグは指先で熱くなったルーフを鳴らした。

「今年の夏の旅行、計画をそろそろ立てたいんでね」

「結構だな。どこに行くんだ」

「まだ決めていない」

「エルサレム?」

 今度こそ、運転席の男が勢いよくドアを開け放った。身軽というよりは、明らかな怯懦の姿勢でリンは一歩後ろへ飛び下がった。

「いちいち怒るんじゃない。馬鹿にみえる」

 うんざりした顔でワインバーグは言った。

「口が悪いんだ。イタ公だから」

新品の軽車両に無理やり収めていた体躯は今、全体を目にすればワインバーグに輪をかけた威圧感を以ってこちらをにらみ付けている。自らより頭半分大きな男を片腕で制し、うんざりとした顔でワインバーグは言った。

「もっとも、度胸の方はな。シシリアンの風上にも置けない腰抜けだが」

 じろりと見下ろし、今まで立っていた場所からわざとゆっくりした動作で視線を向けていく。

「言いやがる」

 自らでも驚くほど素早く動いた足に、気まずげな表情で笑う。

「それに、イタリア出身なのはうちの爺さんだけだ」

 そのまま数歩後ずさりし、合図さえあればすぐにでも飛び掛る準備をしている男へ作り笑いを浮かべる。

「電話を」

「俺のところには掛けてくるな。こいつに」

 明らかに嫌そうな表情を浮かべる男にも、ワインバーグは慈悲を示さない。さすが商人、物事の損得をよく理解している。そんな事をいえば、今度こそ拳骨の雨が降って来るのは分かりきったことなので、リンはあまり閉まりの良くない唇を軽く結んだ。

「番号は」

 後ろ向きに歩きながら努めて明るい声を出した。長電話をして楽しめるような男ではないが、仕方ない。

「618-×××-××××」

 男が何か言う前に、ワインバーグは一息で番号を告げた。

「頼んだぞ」

「分かってる」

 爪先に引っ掛けたクロックスサンダルを揺らしながら、リンは片手を上げた。

「現物支給?」

「より取り見取りだ。好きなものを持っていけばいい」

 ワインバーグは気楽な口調で言う。既に視線は、完璧に整えられた自らの両手の爪に注がれていた。

「何でもあるからな」

 二つの巨体は、背後に控える海とテトラポッドに引き寄せられるようにして背景と化していく。眩しさを増す太陽が頭頂部を焦がし、頭蓋骨を突き通して差し入れられる熱波のおかげで記憶中枢まで茹だりそうだった。後ろに撫で付けただけで誤魔化した髪の間を、風が重たそうに通っていくのが唯一の救いだった。砕ける波、小さくなる男。今まで対峙していた全てが一つの絵として視界に収まったとき、ようやくリンは身体をポンティアックへ向ける決心をつけた。



 半分ほど開いた窓から、たどたどしい旋律。フランス語は分からないが、甘く切ないメロディは誰だって知っている。

「なんで『愛の讃歌』なんか」

 がさつな勢いでシートに腰を落としたリンに、ジャッキーは非難するような視線を浴びせた。ブルドッグみたいな先ほどの男より、百倍はリンを怖気づかせる、剥き出しの傷を伴って。

「ママのオルゴールの曲」

 人差し指で奏でられる調べは、意識を外した途端音を外す。中ほどはオルゴールのプログラムに組み込まれていなかったのか、幾分適当に奏でられた、それでも。

「くまのぬいぐるみの。寝る前に、よく聞かせてくれた」

 父親に似てほんの少し垂れ気味の目元が赤くなっているのは、どう考えても気のせいではない。

「フランスの歌だ」

 胸の奥からせりあがってくる塊を無理に飲み下し、リンは乱暴にギアを入れた。

「どんな歌なの?」

「甘ったるい恋の話」

 既に平坦さを取り戻しているジャッキーの口調に疎ましさすら感じ、前を見たまま吐き捨てる。

「貴方がいれば世界がどうなってもいいって泣き喚く女の歌だよ、女々しい」

 急発進した車の慣性どおりにシートへ身を押し付けると、それ以降ジャッキーはピアノから手を離し、口を噤んだ。



 車が市街地に戻るにつれ、沈黙に耐えられなくなったのはリンのほうだった。指でハンドルを叩きながら、助手席を横目で窺う。フロントガラスに映る光の輪をぼんやりと見つめているジャッキーは、偽ピアノの代わりに自らの膝を小さな指で押さえ続けていた。形だけの曲は勿論、少年1人が頭の中で味わっている。自分でも理不尽だと分かる寂しさを発散させるタイミングを掴み損ねながら、リンはすぐに色を変える信号を凶悪な目つきでにらみ続けていた。

「女の人は、男さえいれば世界がどうなってもいいって思うのかな」

 情けないことに、先に機会を手にしたのはジャッキーだった。

「そういう女もいるのさ」

 照れ隠しの幾分ぶっきらぼうな口調は、車のエンジンよりも低く響く。

「彼女、いないのか」

「いないけど」

 目をそらし、ジャッキーは親指で鍵盤の淵を叩く。

「今年のバレンタインデーに、手紙をもらった」

「女ってのは、独占欲が強いからな」

 取り澄ました横顔に滲む誇らしさ。隠し切れない自尊心に対する笑みは、赤信号を凝視する事でかみ殺す。

「怖いぞ。だけど、その分自分の愛は全部ささげてくる。それこそ、自分のことなんかどうでもいいって位に」

「じゃ、ママは」

 狙いの外れた指が、剥げたエナメルからミの音にずり落ちる。高い音に縮こまり、ジャッキーは首を竦めた体勢のまま目を閉じた。

「違うんだね」

「なにが」

「だって、本当に好きなら」

 動き出した車。縺れる口ぶり。薄い舌はひらめこうとして、すぐに引っ込む。伏せられた目が見せる沈痛な面持ちは大人顔負けで、恐らく父親の表情がうつってしまったのに違いない。

「そんな事ないのかな」

 先ほど納屋でして見せた動作とは違い、今度は踏ん切りのつかない、圧迫感を与える手つきでピアノのエナメルを撫でる。

「話すなら最後まで言え」

 耐え切れなくなり、リンは思わず苛立った声をあげた。

「女が腐ったみたいにウジウジするんじゃない」

「ママは僕もパパもどうでも良くなったんだ。だから、どっかいっちゃったんだ」

 早口で言い切り、火照った額を窓にくっつける。磨き上げたガラスも、めまぐるしく動き続ける世間に晒されては、身を寄せた少年の表情を映してはくれなかった。

「別に平気だよ。僕、強いもん」

 興奮を抑え込んだ息が、ガラスを白く曇らせていた。

「それに、女の人は腐らないよ」

「強い強いって、なぁ」

 クーラーの風は一応車内を循環しているものの、正面から立ち向かってくる陽光から皮膚を守ってはくれない。身も心も押さえつけられるような光のせいで、感情が変形していく。

「強いっていうのは、ごまかしが効かないんだ」

「ごまかしてなんかない」

 背けた顔を動かしもせずジャッキーは呟いた。

「嘘だとは言ってない。おまえはそこらの8歳児の10倍は強いよ。けどな、自分で一度言ったら、取り返しが付かなくなる。周りもみんなそう思い込むからな」

 徐々に座席の方へ移行してくる日脚がつつき出し、決壊させた感情から溢れ出したのは、いつもの皮肉ではなく正義感だった。馬鹿らしいとは分かりきっていたが、もともと緩い口元からは、言葉が勝手に流れ落ちていく。

「誰も頼らせてくれなくなるぞ。弱い部分もあるって認めなくちゃあ。それこそ27歳で死んじまったらどうする」

「27?」

「何でもない。完璧な人間なんて、スーパーマンだけで十分だ。おまえの悪い癖だよ、親父に似たんだな」

 動かなくなったジャッキーを見る代わりに、前をのろのろと走り続けるビュイックへクラクションを鳴らす。

「ちょっとは気を抜け」

「僕が気を抜いたら」

 悉くイントネーションの剥がれ落ちた声は、冷風に乗ってかろうじて耳元までたどり着く。

「パパが泣いちゃうよ」

 飽き飽きしたといわんばかりに、リンは首を振った。

「人のせいにするんじゃない」

 鳴ってもいないピアノの音色が、鼓膜の奥で響く。いまだ耳に残る、テトラポッドへぶつかるさざなみの上で、エディット・ピアフが波乗りをしている。共鳴はやがて一つになり、優しさを称えた残響が警告だったと知るのは、全てが重なりあった後。それでも、どれほど後ろめたさが備わっていたとしても、正義は死なない。アメリカ人ならみんな知っている。

「それと、もう少し親父を信用してやれ」

黙りこくったジャッキーは、ガラスにめい一杯頬を押し付け、本格的に拗ねだした。窓が汚れようが、構いはしない。指紋一つ無いガラスの上を流れる透明な塩水。噴き出す息で作られたくもりの上を滑り、どこまでも降りていく。くすんと鳴らされた鼻を合図にして、リンは小さな頭に手を伸ばした。役割はもう、分かっている。無理やりに頭を引き寄せると、シャツに生ぬるい湿り気が広がる。ちっぽけな涙。一人が泣いても、世界は変わらない。だから別に、8歳の少年が幾ら泣き喚いたところで、誰かが怒る道理など一つも無いのだ。




 渋滞の流れに沿って進む車は、なかなか目的地までたどり着きそうに無かった。時間は1時を回り、もうそろそろメレディスの癇癪が爆発することも覚悟しなければならない。だが、お互い満足した状態をこのまま維持し、同盟を崩すことがなければ、荒れ狂う罵詈雑言にも立ち向かえるに違いない。楽観の姿勢を崩さないリンは、腫れた眼を閉じたまま聞いたことのない童謡を口ずさんでいる盟友の少年を見下ろした。

「チェリーパイ」

「リンが食べたいんでしょ」

「メレディスおばさんのは美味いからな」

 上機嫌に言葉を唇の端へ乗せる。

「食いすぎて太った」

「パパも太ったよ、最近」

 薄目を開き、ジャッキーは赤くなった鼻を啜った。

「お菓子ばっかり食べるんだもん。こんな大きさの」

両手で、大きな輪を作ってみせる。

「ピーナツバターの瓶にスプーン突っ込んで、一人で食べちゃうんだ」

「糖尿病になるぞ」

 昔からとりわけ細いわけではなかったが、それを差し引いても、近頃友人の腹周りはますます大きく、年齢を重ねた貫禄が付いてきている。好意的な言い方をすればの話だが。

「昔から、甘いものが好きだったからな。」

 ストレス性の過食という言葉を乱暴に拭い去る。

「昔、誕生会のとき『自分の誕生日だから、これは僕のものだ』とか言って、一人でケーキを1ホール食おうとしやがったんだ。周りに止められなかったら、絶対に平らげてたぞ、あれは」

「1ホールも?」

「そう、青とピンクとオレンジの強烈に甘い奴」

「信じられない」

 背伸びしたため息、模倣した微笑。

「そういえば、昨日もアイスクリーム勝手に持ってっちゃったし」

「本当か? そりゃ、止めさせないとな」

 こちらは素のまま、子供っぽくいたずらな笑顔をリンは浮かべた。

「パイは何カット?」

「8つかな」

「あいつには1切れで十分だ。それ以上食ったらメタボになるぞ」

 おどろおどろしい声で脅かせば、ジャッキーも鼻の上に皺を寄せて笑う。

「お前は何切れ食べる」

「え、と……2つ?」

 恥じ入るような照れ具合で、ジャッキーは首をかしげる。

「お昼は、少し減らすよ、ね?」

「子供はそんなこと気にしなくていいんだ」

 ペーストのチェリー、大きな切れ端。メレディスは、自分の周りにいる男たちは皆、お手製のパイが大好物だと思っている素敵な女。

「じゃ、俺が3切れで、メレディスは2切れくらい平気で食うだろ」

「そんなことしたら、今度はリンが太るんじゃない?」

「大丈夫だって。今度wiiを買う」

「いいなあ」

 ないていたカラスは笑いだし、熱を持った瞼から覗く輝きは現金だからこそ心地よい。ブレーキを踏みながら、リンは今にも本当に指を咥えてしまいそうなジャッキーへ気軽な笑みを見せた。

「ヨガで痩せるからいい」

「友達の家でやったけど、テニスが出来るのが面白いよ」

「テニス? へぇ」

「高いって」

「金の心配なんかしなくていいんだ、大人は」

 その瞬間、ひらめく閃光。ばらばらのまま浮遊していたイメージが、確かなジョイントで繋がる。ニュートラルで振動し続けるギアに急かされるまま、相変わらず目の前でのさばり続けているビュイックを追い越そうと決意する。

「もしかしたら、格安で手に入るかも知れないし」

 ポケットからちぎれたメモ用紙を引っ張り出し、反対の手で携帯電話を探す。

「あるかどうかは分からんが」

「おもちゃ屋?」

「いや、そうじゃなくて」

「予約しないと買えないって言ってたよ」

「だろうな」

 そぞろな右手はようやく折り畳まれた紙を開くことに成功する。ブルーインクで走り書きされた文字を目にしたとき、リンは思考を整理するため3秒の間で5回も瞬きをしなければならなかった。

「なぁ、ジャッキー」

 首を捻り、読みにくい筆記体を視線でもう一度なぞる。

「お前がさっき、ギターを売ってるって言ってた店の名前って」

「ロキシィ。緑の看板の」

「うん」

 携帯電話はダッシュボードの中に。いつ入れたのか、記憶には全くなかった。

「公園って、いっつもキャッチボールする」

「トロツキナ通りだよ」

 あどけない瞬きに促されたおかげで、信号が変わる前に、掌の中へ納まった携帯電話をプッシュする事ができた。すぐさま青くなる標識とは違い、相手は普段なかなか電話に出ようとしないことを、リンはよく知っていた。メモ用紙を再びポケットにしまいこんでから、いぶかしげに見つめるジャッキーへ緩やかな視線を投げる。

「そこへ、行ったことあるんだな」

「毎日通るよ」

「どんな店だった」

「どんなって?」

 握った小さな拳を顎に当てる。

「小さくて、暗い店。ショーウィンドゥに、ギターが立てかけてある」

「店の主人は? どんな奴だ」

「見たことない。通るだけだから」

「小さくて、暗い店で」

 横断歩道の前、くたびれた顔で信号を待つ人々は、昼の光に薄められて嫌になるほど存在感が希薄だった。赤く立ちすくむ男から去ったスポットライトは、生き急ぐ青に移る。

「その店にwiiは置いてあったか」

「多分」

 かなりの自信を抱きすくめながら、ジャッキーは頷いた。

「テニスのソフト、あそこで買ったって言ってたよ。普通の店では高いから」

 ビュイックのブレーキランプが消える。一気にアクセルを踏み、青い車体を行き過ぎる。覇気のない運転席の老人はただハンドルを握っているだけで、文句も言おうとしない。

「あそこで買うの」

「出来たら」

 どれほどしっかりした子供でも、曖昧な口調の真意を汲み取るほど悪賢くはない。一そろいの瞳は、言葉を額面どおりに受け止める、神妙な色を濃くする。

 車線に戻ったとき、やっとのことで相手は受話器を持ち上げた。ピアノの鍵盤にそっと10本の指を乗せたジャッキーは、湧き上がる好奇心を押し殺す事に失敗し、まっすぐに左の運転席へ顔を向けている。甥へ唇を吊り上げて見せながら、リンは寝ぼけた声を増幅させる電話の向こうへ声を張り上げた。

「何寝てるんだ、起きろ、さぁ起きろ、くそったれ」

 最後の単語に、ジャッキーが首をすくめる。薄い唇に人差し指を押し当ててから、リンは見えない相手をにらみつけた。

「それでいい、仕事の話だ。今度の金曜日。カブスの試合? そんなの録画しとけ」

 先ほどまでの渋滞が嘘のように、ポンティアックは道を行く。信号までもが味方をし、熱せられたアスファルトの上をスムーズに走り続けていた。

「うん、現物で。好きなものを……ジェイクとテリーにも話をつけとく」

 このままいけば、家まではあと10分も掛からない。ひびでも踏ん付けたのか、一度車は大きく揺れ、少年の膝の上で勝手にピアノが鳴る。間の抜けた、脈絡など一切ないリズム。だが、あまりに軽やかなその音色を、リンはどこかで聞いたような気がしてならなかった。とてつもなく、心地よく、まるで……




「どうしたの、そんな真っ黒になって。泥遊びした小雀みたいじゃない」

 玄関。リンへ顔を向ける前に、メレディスはジャッキーのシャツを指差した。

「あぁ、埃だな。納屋でピアノの箱に触ってたから」

 困り果てた顔でシャツを引っ張るジャッキーの頭を撫でながら笑った所までで運は尽きる。今までなんとも思わない顔をしていたメレディスは、途端に細い眉を吊り上げた。

「ちゃんと注意して見てあげないと駄目じゃない、もう……ジャッキー、それ、取れなくなっちゃいそうだから、早く脱いで」

 足元に置かれたピアノの音にあわせて、メレディスの身体において唯一美しい亜麻色の髪が揺れる。荒れた肌、スタイルも平均的、睫毛の長すぎる緑の目。シャツを脱がせているうちに、地黒の首筋が流れる髪の間から覗く。太陽の光に忍び込んだ、幻滅よりも遥かに根本的な空白が反射した。余りにも手馴れ、呆れながらも楽しげな手つき。既視感は勿論、登場人物が片方違うだけの過去の話。

「替えはないから、私の服、着る?」

「やだぁ」

「女の子の服しかないものね。リン、あなたのTシャツか何か」

「ああ」

 ジャッキーの手を引いて部屋の奥へ連れて行く妻のうしろ姿を見送った後、リンは残された子供用のピアノを手にとった。古臭い木の匂いが鼻をついた途端、目にしたものと記憶の全てが重なり合う。腕の中に納まった、手垢だらけの鍵盤に崩れ落ちそうな笑みを向ける。少し乱暴に扱えばすぐ外れてしまいそうな脚を、そっと手で押さえながら、リンはリヴィングで爪先を揺らし続けているフレディのほうへ歩み寄った。




「あったぞ、これ」

 ガラスのコーヒーテーブルへ荷物をそっと着地させると、フレディは文学的感傷をめいいっぱい湛えた瞳を静かに細めた。

「本当にあると思わなかった」

「結構高かったんだぞ、これ。もう少し大きくなったら、本物を買ってもらってたが」

 ソファへ身を投げ出し、息子とそれほど変わらない動作でピアノを手に取るフレディへ、偽悪的な笑みを向ける。

「やっぱりいい奴は違うな」

「だろ?」

 男にしては端正な作りの手がピアノを撫でるように動けば、おもちゃにも関わらず流暢な音階が刻まれる。

「ジャッキーは気に入ってたか」

「ああ。帰りの車の中でもずっと弾いてた」

「好きなんだな」

 心の底で凝り固まった力を抜くための深い吐息と、付随する優しげな笑顔で、フレディは頷く。

「良かった」

「なんで、自分の子供にそこまで気、遣うかなぁ」

 嘆息を漏らせば、さっき火をつけたばかりの煙草から灰が零れる。これ以上メレディスを怒らせるのも面倒なので、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。

「ジャッキーは、お前のこと怒っちゃいないぞ」

「そんなこと、言われなくても」

 ドから1オクターブ高いレに。大人の手ならば、無理に指を広げなくても十分届く。

「人間を憎むのは、他人だけだと思うのか」

「鬱陶しい奴」

 言葉を続ける前に、ジャッキーがドアのところに姿を見せた。先週メレディスが2枚9ドル98セントで買ってきたタンクトップの中で細い身体が泳いでいる。

「もうご飯だって。炒め物を作ったら」

 膝の上まできているシャツの裾を引っ張るべきかたくし上げるべきか、あまり日に焼けていない手が悩み続けている。デジャヴ。母が作った新しいワンピースを身に纏い、親戚のパーティーへ出たポーリーンの照れ。

「もう来いって」

「良かったな、見つかって」

 穏やかに首を傾け、フレディは膝の上のピアノを軽く叩いた。

「おじさんにお礼は?」

「ありがと」

 決まり悪そうな表情を浮かべる少年に、わざと澄ました顔を見せる。

「パパ」

 青い瞳から逃げるように、ジャッキーは父親に目だけで縋りついた。

「うん?」

「あのさ、ピアノ」

 言葉は途切れ、とうとう指先が裾を捕まえる。

「教えてよ。また」

 俯いた顔には、強張ったはにかみが張り付いている。

「忙しくなかったらでいいけど」

 裾を引っ張り続ける息子へ静かな視線を浴びせかけた後、フレディは膝を掴んでいた手をゆっくりと離した。

「ああ。じゃあ、ご飯を食べ終わってから」

 ジャッキーの口角から、緊張が取れる。

「うん」

 大きく首を振り、踵を返す。一瞬、黒い瞳がふんぞり返ったリンに向けられる。フレディに見えない位置で親指を上げてやると、長いシャツを掴んでいた指が充足感により伸びる。

「どう足掻こうと、ガキはやっぱりガキだな」

 足音が遠ざかったのを確認してから、リンは背凭れに頭をつけた。

「子供か」

 メレディスの優しげな手つき、嬉しそうな表情。二人でいるときとは、存在そのものが異質に感じる。悪い気はしていないが、しかし。

「そろそろ作るべきかな」

「ああ」

 上の空の口調を、フレディは真剣に受け止める。気まずさに視線をそらし、声色を少し落とす。思わぬところで発生する沈黙。戸惑ったのは、リンのほうだった。

「あいつ、思ったより音楽が好きで」

 眉根を軽く寄せてしまったフレディに苦く笑いながら、身を乗り出す事で話をかき消す。

「ギター買うために、貯金してるんだってよ。知ってたか」

「まだ続けてたなんて」

 見つめ返す虹彩から知性が消える。

「もう飽きたのかと」

「いーや、あいつは粘り強い。どっちに似たのかな」

「さぁ。お前じゃないことは確かだな」

 ピアノをテーブルの上に戻し、フレディは伏せた目で笑う。

「ギターか。フェンダー? ムスタング?」

「そんないい奴かな。ていうか、それこそお前の奴を」

「カート・コバーンが死んだ2週間後に」

 ソファへ深々と腰を落とし、天井を仰ぐ。

「僕はギターを売り払って、髪を切りに行った」

 見下ろす目つきはどんよりと曇っている。不良の悪名高かった自らよりもずっと、精神安定剤に精通していた14歳の少年の姿を思い出す。目の前の男とあまりに上手く重なり合ったので驚いたが、何のことはない。元々同じ人間だった。

「それで、売った金でグラスを買って、それ以来僕はマリファナとLSDに手を出してない。これで満足か?」

「拗ねるなよ」

 思いもよらない真剣さに辟易し、頭を冷やしてやろうと紫煙を吐きかける。手で振り払いながら、フレディはわざとらしい咳をする。

「真剣だった。最初はシアトルに行こうと思って」

「ああ、ついてきてくれって言ってたよな。泣きながら」


 すぐに思い出せる。色素の落ちかけたブロンド。赤くなった鼻。

『僕も死ぬ』

 父親の机から持ち出した銃を見せ、ぽろぽろと涙を零すフレディを見ても、リンは驚かなかった。呆れかえることに忙し過ぎて、怒りすらわいてこなかった。

『ヴィレッタ公園のベンチで頭を撃ち抜いて、後を追いかける』

『馬鹿だろ、おまえ』

 力なく垂れ下がった手からは、少し引っ張るだけで簡単に銃を取り上げる事が出来た。

『女みたいにメソメソしてさ』

 項垂れた頭頂部は黒色に戻りかけており、余計に気が萎える。泣いている本人だって知っているに違いない。ここから先は現実だ。

『カートは確かに上手かったけど、ジミー・ペイジの方が絶対いいって』



「ロキシィって、あの店か」

「そう。近いうちに手に入る」

「何度も言うが」

 渋い表情が復活し、背凭れを撫でていた指先が動く。

「僕は盗品なんかいらない」

「盗まない、取立てだからな。金貸しが取り上げた差押え品を、俺が受け取って、それをジャッキーが買うんだ」

 あっけらかんと言い放っても、フレディは疑惑の眼差しを引っ込めようとはしなかった。

「物凄く、ごまかされたような気がするな」

「気のせいだ」

 肩を竦める。スリッパの足音が響き、今度はメレディスが顔を出した。明らかに滲んでいる怒りに、リンは思わずソファの中で後ずさりした。

「早くしないと、食べさせてあげないからね」

「了解了解」

 口調だけは軽くできた。腰を上げたリンは、首を捻るフレディの肩を軽く叩いた。

「大丈夫だって。ジャッキーは筋がいい」

「知ってる」

 向けられた表情は、腹が立つほど澄み切っている。

「何せ、どっちも才能があったから」

 ただし、今日見た中で一番すがすがしく気分の良くなる部類なので、これ以上文句は言わない事とした。

「これであともう少し」

 腹回りに視線を落としたリンへ、怪訝な表情を浮かべてみせる。

「何だ」

「いや、なんでもない」

 よく考えなくても、これ以上もてられるのは、可愛い妹のためにも良くないわけで。

「今日はチェリーパイ」

「知ってる。こっちまで匂いが」

 真面目腐った顔へほんのりと浮かんだ期待に、思わず笑う。

「ほんと、好きだな」

 心の中でジャッキーに謝りながら、リンは乱暴に肩を叩いた。

「いいさ。少々太っても。シド・ヴィシャスみたいにぴったりしたパンツは履かないんだろ?」



 ―了―

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