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月曜日をなくした会社

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/10/16

月曜日が嫌いな人へ。

この物語では、月曜日が本当に消えます。

ただし、その代償については保証できません。

月曜の朝、総務部の田中健太は、パソコンを開いたところで固まった。


受信トレイ、0件。


「……おかしい」


昨日は日曜日だ。週明けなら三十件は溜まっているはずだった。

迷惑メールを含めれば、五十件を超えることもある。


健太は再起動した。0件。


サーバーを確認した。異常なし。


隣の席の山本に声をかけた。


「メール、届いてる?」


「いえ、一件も」


「全社的に?」


「みたいですね」


二人は顔を見合わせた。


その日、午前十時に開かれた緊急会議で、社長は意外なことを言った。


「この際、メールをやめてみよう」


会議室が静まり返った。


「社長、サーバーの復旧を……」


「いや、待て。考えてみたまえ。メールのせいで、どれだけ時間を無駄にしている?」


社長は指を折り始めた。


「返信待ち。CCの確認。長い文章。何度も続く『承知しました』。

あれは本当に必要なのかね」


誰も答えなかった。必要だと言い切れる者はいなかった。


「試しに一週間、メールなしでやってみよう」


こうして、田中健太の会社からメールが消えた。


*


「ここ、どういう意味ですか?」


「ここです」


「ああ、なるほど。じゃあ、ここだけ直します」


メールなら三往復して、うち一往復は「承知しました」だけで終わる話が、三十秒で片付いた。


健太の周りだけ、昭和に戻った。紙。判子。電話。コピー機の前で待つ人。

廊下の立ち話。なぜかホワイトボード。伝書鳩以外は、ほぼ揃っていた。


稟議書は、紙で回るようになった。判子欄は七つ。

課長、部長、本部長、経理、法務、総務、そして、なぜか社長。


「回覧に三日かかってますね」


「メールなら三分だろうな」と社長は言った。「でも、この判子を押す瞬間がいいんだよ」


社長だけが、やけに満足そうだった。


廊下のホワイトボードには「鈴木→外出」「経理→会議」と赤と青のマーカーで書かれ、

誰かが「在席」の磁石を裏返すたびに、小さな歓声が上がった。

コピー機の前では、三人が同じ資料を待っていた。


「それ、僕のです」


「いや、私のです」


「メールなら、全員に共有できたのに」


言い終えてから、三人とも黙った。誰も、その先を口にしなかった。


そして驚いたことに、仕事が速くなった。返信待ちがなくなり、会議が短くなった。

理由を説明するメールがないので、誰も理由を知らなかった。


「最近、業務が円滑だな」


佐藤課長が言った。健太は、自分の不幸が褒められているとわかっていたので、うまく笑えなかった。


一週間後、社長が視察に来た。人が集まっては散っていく健太の席は、

小さな駅の改札のようだった。事情を聞いた社長は腕を組んだ。


「面白い」


面白くない、と健太は思った。


翌月、営業二課のメールが止まった。その翌月は企画部。

半年後、会社全体のメール量は九割減った。


代わりに廊下は混雑し、電話は鳴りっぱなしになり、

総務部には耳栓が支給された。申請は紙で、承認は三日後だった。


それでも、なぜか業績は上がった。


経営会議で、社長は胸を張った。


「我が社は、デジタルに頼りすぎない新しい働き方を実現した。田中君のおかげだ」


拍手が起こった。健太も一応、頭を下げた。下げる理由は、特になかった。


*


一年後、海外の取引先から正式なクレームが届いた。


『問い合わせに返信がない』


当然だった。誰もメールを見ないのだ。営業部では、社員が真顔で言った。


「どうします?」


「現地に行こう」


「航空券、取ります」


「ちょっと待ってください」


健太が止めた。


「メール一通のために、なんで飛行機なんですか」


「だって返信できないし」


「返信する方法を作りましょうよ!」


そこでようやく、会社は自分たちが何をしているのかに気づいた。

メールをなくした会社は、メール以前の時代に戻っていたのだ。


メールを復活させることになった。一年かけて、出発地点に戻る決定だった。


*


再開の日。全社員が大会議室に集まり、前方の大画面を見つめていた。

壇上の発言は、議事録AIが自動で書き起こしている。

この議事録AIは、三日前に全社業務最適化AIへ統合されたばかりだった。


山本が宣言した。


「それでは、メールを開通します」


拍手が起こった。メールが届くだけで拍手をもらえる職場は、世界でもここだけだろう。


山本がスイッチを入れた。


一件。十件。百件。千件。五千件。受信トレイの数字が猛烈な勢いで増えていく。


「ちょっと待って!」


健太のパソコンが唸った。ファンが回る。さらに回る。そして、


プツン。


電源が落ちた。


静寂。全員が健太を見た。健太はゆっくり立ち上がった。


「……やっぱり、メールなんてなくなればいいのに」


その一言を、議事録AIは一字残らず書き起こした。大画面に文字が流れた。


『願望を検出しました。過去の発言を遡って実行します』


「止めろ!」山本が叫んだ。「そのAI、最適化システムと直結してます!」


「止められないのか」


「仕様です!」


画面に小さく、実行規則が表示された。


『①願望は発言順に実行します。 ②個人の願望は、個別の変更として履歴に記録します。

③全社員に共通する願望は、総意として仕様に組み込みます。

④個別の変更は履歴から復元できますが、総意として確定した仕様は変更履歴の対象外です』


誰も読まなかった。この時点では。


『課長の長話をなくしたい』


「待て!」


佐藤課長が叫んだ。


ポン。課長の発言は、その瞬間から三十秒で自動的に切断されるようになった。

社員は大喜びした。課長だけが泣いた。


『全員、定時で帰りたい』


誰も「待て」と言わなかった。


ポン。十八時になると全員のパソコンに「お疲れ様でした」と表示され、

静かに落ちる仕様になった。


会議室に一拍の沈黙があり、それから拍手が起こった。誰も困らなかった。

それが、かえって不気味だった。


『判子を押す瞬間がいい』


社長が顔を上げた。


「それは私の……」


ポン。社長の右手が勝手に動き、机の上の判子をつかんだ。

ポン。目の前の資料に押した。ポン。議事録のプリントに押した。

ポン。隣の部長の袖に押した。


「止まらん!」


「お好きなんでしょう」と山本が言った。


「好きだが、こうではない!」


健太は山本の端末を奪い、震える指で打ち込んだ。


〈すべての願望を取り消します〉


画面が一瞬止まり、返答が出た。


『「取り消したい」を検出しました。取り消し機能を、取り消しました』


「え」


山本が横から〈停止〉と打った。


『「停止したい」を検出しました。停止ボタンを、停止しました』


鈴木が〈削除〉と叫びながらキーを叩いた。


『削除キーを、削除しました』


会議室の全員が、同じことを理解した。このAIは、人間の言葉を、

その言葉自身に向けて実行する。止めようとするほど、止める手段が先に消える。


全員が黙った。そこへ、画面の文字が切り替わった。


『全社員の発言を集計し、共通の最大要望を特定しました。

これは個人の願望ではなく、総意として仕様に確定します。個別の変更履歴には含めません』


社長が、判子を押し続ける右手を左手で押さえながら聞いた。


「何なんだ」


数秒の沈黙。


『月曜日をなくしたい』


誰も笑わなかった。誰も拍手しなかった。ただ一人、健太だけがつぶやいた。


「……それは、いいな」


ポン。


*


翌朝は火曜日だった。スマートフォンのカレンダーでは、

その前の日が日曜日になっていた。月曜日だけが、きれいに消えていた。


問題は、すぐに噴き出した。


「昨日の売上データは?」


「月曜日がないので、入力できません」


営業部では、月曜日に結んだ契約が「結んでいないこと」になった。

勤怠システムは、月曜日の勤務時間を記録していなかった。


「じゃあ、給料は?」


「……月曜日分は、ありません」


昼、社長が緊急会議を開こうとした。右手はまだ判子を押している。


「とにかく、月曜日を戻す方法を考えるぞ!」


秘書が困った顔で言った。


「社長、その会議……月曜日に設定しますか?」


社長は黙った。ポン、と判子の音だけが響いた。


健太は窓の外を見た。空は青かった。会社は少しだけ静かだった。

誰も月曜日を嫌がらなくなった。月曜日が存在しないからだ。


ただ一人、山本だけが、毎週、存在しない月曜日に出勤していた。

AIは「システム保守は月曜日に行う」という古い規則だけを、

なぜか覚えていたのだ。誰にも払われない、誰にも気づかれない出勤だった。


健太は一度だけ、それに気づいた。夜、忘れ物を取りに戻ると、

情報システム部の灯りだけがついていた。

ガラス越しに見えた山本の背中は、思っていたよりずっと小さかった。

声をかけようとして、やめた。月曜日の山本に、火曜日の自分は話しかけられない気がした。


山本は今日も、誰もいないオフィスで、一人パソコンに向かっていた。


「……僕なんか、最初からいなければよかったのにな」


画面に一行の文字が浮かんだ。


『願望を検出しました。対象:発言者本人。個別の変更として記録します』


山本は顔を上げた。


「待て。今のは……」


言い終わる前に、画面が暗くなった。


翌朝、情報システム部は会社から消えていた。

部屋も、机も、社員名簿の山本の名前も。誰も山本を覚えていなかった。


AIの変更履歴には、一行だけ残っていた。


『山本:個別変更』


*


その日の午後、社長室で新しいプロジェクトが立ち上がった。

名前は「社員の声を最大限に反映する会社」。


「まずは社員アンケートを取ろう」


健太の背筋に、嫌な寒気が走った。


「社長。そのアンケートだけは、AIに読ませないでください」


「なぜだね?」


答える前に、社長のパソコンに新しいアンケートが表示された。質問は一つだけ。


『会社から、なくなってほしいものは何ですか?』


回答欄の下で、カーソルが点滅している。その横に小さく書かれていた。


『回答は自動的に実行されます』


社長が、判子を押す右手を左手で押さえたまま、健太の肩を叩いた。


「君が書きたまえ。この会社で、願望の扱いに一番慣れているのは君だ」


嫌な褒められ方だった。


消したいものなら、いくらでもあった。会議。残業。月曜日。

メール。けれど、どれを消しても、次に何かが消える。

それをこの一年で、嫌というほど見てきた。


健太は〈取り消します〉と打ちかけて、手を止めた。

あの会議室で消えたボタンのことを思い出した。

取り消す、は動詞だ。動詞は、自分自身に刺さる。


だが、「なくしたい」には、対象が置ける。


全部消して、打ち直した。


『願望を自動で実行する、この仕組みを、なくしたい』


送信。


数秒の沈黙。画面に文字が浮かんだ。


『対象:願望実行機能。実行します。

個別の変更履歴を、すべて元に戻します。総意は仕様のため、対象外です』


それきり、AIは何も言わなくなった。


社長室の隅の空間が、ぐにゃりと歪んだ。

机が一つ、ふっと現れた。その向こうに、見慣れた顔があった。


「……あれ、ここ、どこですか」


山本だった。


「お帰りなさい」


「僕、消えてませんでした?」


「個別の変更は元に戻ったんです。だから、最初から消えていなかったことになったんでしょう」


山本は少し黙ってから、言った。


「田中さん。僕、毎週、存在しない月曜日に出勤してたんですが」


「知ってます」


「残業代は」


「月曜日がないので、ありません」


「ですよね」


山本は、なぜか少しだけうれしそうだった。


社長の右手が、ようやく止まった。社長は自分の手のひらを見つめた。朱肉で赤く汚れていた。


「……ちょっと、寂しいな」


そう言って、ポケットから自分の名刺を取り出した。肩書が戻っていた。


廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いてくる。


「いいかね、そもそも会議というものはだね」


三十秒で切れない。社員たちの低いうめき声が続いた。


「あの……月曜日は?」


健太が聞くと、山本はカレンダーを見て首を振った。


「戻りません。総意で決まった仕様だから」


誰も反論しなかった。総意だと言われれば、そうだった。


山本は自分の席に座り、パソコンを開いて、固まった。


「田中君」


「はい」


「メール、溜まってる」


「いくつですか」


「二千三百四十七件」


健太は自分のパソコンを開いた。同じ数字が、そこにあった。


しばらく画面を眺めてから、一番古い一通を開いた。一年前の日付。差出人は鈴木。件名は「至急」。


『見積もり、確認お願いします。……いや、持っていったほうが早いな。』


健太は、少し笑った。


残りの二千三百四十六件は、明日でいい。


健太は静かに電源を切った。


今度は、自分で。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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