月曜日をなくした会社
月曜日が嫌いな人へ。
この物語では、月曜日が本当に消えます。
ただし、その代償については保証できません。
月曜の朝、総務部の田中健太は、パソコンを開いたところで固まった。
受信トレイ、0件。
「……おかしい」
昨日は日曜日だ。週明けなら三十件は溜まっているはずだった。
迷惑メールを含めれば、五十件を超えることもある。
健太は再起動した。0件。
サーバーを確認した。異常なし。
隣の席の山本に声をかけた。
「メール、届いてる?」
「いえ、一件も」
「全社的に?」
「みたいですね」
二人は顔を見合わせた。
その日、午前十時に開かれた緊急会議で、社長は意外なことを言った。
「この際、メールをやめてみよう」
会議室が静まり返った。
「社長、サーバーの復旧を……」
「いや、待て。考えてみたまえ。メールのせいで、どれだけ時間を無駄にしている?」
社長は指を折り始めた。
「返信待ち。CCの確認。長い文章。何度も続く『承知しました』。
あれは本当に必要なのかね」
誰も答えなかった。必要だと言い切れる者はいなかった。
「試しに一週間、メールなしでやってみよう」
こうして、田中健太の会社からメールが消えた。
*
「ここ、どういう意味ですか?」
「ここです」
「ああ、なるほど。じゃあ、ここだけ直します」
メールなら三往復して、うち一往復は「承知しました」だけで終わる話が、三十秒で片付いた。
健太の周りだけ、昭和に戻った。紙。判子。電話。コピー機の前で待つ人。
廊下の立ち話。なぜかホワイトボード。伝書鳩以外は、ほぼ揃っていた。
稟議書は、紙で回るようになった。判子欄は七つ。
課長、部長、本部長、経理、法務、総務、そして、なぜか社長。
「回覧に三日かかってますね」
「メールなら三分だろうな」と社長は言った。「でも、この判子を押す瞬間がいいんだよ」
社長だけが、やけに満足そうだった。
廊下のホワイトボードには「鈴木→外出」「経理→会議」と赤と青のマーカーで書かれ、
誰かが「在席」の磁石を裏返すたびに、小さな歓声が上がった。
コピー機の前では、三人が同じ資料を待っていた。
「それ、僕のです」
「いや、私のです」
「メールなら、全員に共有できたのに」
言い終えてから、三人とも黙った。誰も、その先を口にしなかった。
そして驚いたことに、仕事が速くなった。返信待ちがなくなり、会議が短くなった。
理由を説明するメールがないので、誰も理由を知らなかった。
「最近、業務が円滑だな」
佐藤課長が言った。健太は、自分の不幸が褒められているとわかっていたので、うまく笑えなかった。
一週間後、社長が視察に来た。人が集まっては散っていく健太の席は、
小さな駅の改札のようだった。事情を聞いた社長は腕を組んだ。
「面白い」
面白くない、と健太は思った。
翌月、営業二課のメールが止まった。その翌月は企画部。
半年後、会社全体のメール量は九割減った。
代わりに廊下は混雑し、電話は鳴りっぱなしになり、
総務部には耳栓が支給された。申請は紙で、承認は三日後だった。
それでも、なぜか業績は上がった。
経営会議で、社長は胸を張った。
「我が社は、デジタルに頼りすぎない新しい働き方を実現した。田中君のおかげだ」
拍手が起こった。健太も一応、頭を下げた。下げる理由は、特になかった。
*
一年後、海外の取引先から正式なクレームが届いた。
『問い合わせに返信がない』
当然だった。誰もメールを見ないのだ。営業部では、社員が真顔で言った。
「どうします?」
「現地に行こう」
「航空券、取ります」
「ちょっと待ってください」
健太が止めた。
「メール一通のために、なんで飛行機なんですか」
「だって返信できないし」
「返信する方法を作りましょうよ!」
そこでようやく、会社は自分たちが何をしているのかに気づいた。
メールをなくした会社は、メール以前の時代に戻っていたのだ。
メールを復活させることになった。一年かけて、出発地点に戻る決定だった。
*
再開の日。全社員が大会議室に集まり、前方の大画面を見つめていた。
壇上の発言は、議事録AIが自動で書き起こしている。
この議事録AIは、三日前に全社業務最適化AIへ統合されたばかりだった。
山本が宣言した。
「それでは、メールを開通します」
拍手が起こった。メールが届くだけで拍手をもらえる職場は、世界でもここだけだろう。
山本がスイッチを入れた。
一件。十件。百件。千件。五千件。受信トレイの数字が猛烈な勢いで増えていく。
「ちょっと待って!」
健太のパソコンが唸った。ファンが回る。さらに回る。そして、
プツン。
電源が落ちた。
静寂。全員が健太を見た。健太はゆっくり立ち上がった。
「……やっぱり、メールなんてなくなればいいのに」
その一言を、議事録AIは一字残らず書き起こした。大画面に文字が流れた。
『願望を検出しました。過去の発言を遡って実行します』
「止めろ!」山本が叫んだ。「そのAI、最適化システムと直結してます!」
「止められないのか」
「仕様です!」
画面に小さく、実行規則が表示された。
『①願望は発言順に実行します。 ②個人の願望は、個別の変更として履歴に記録します。
③全社員に共通する願望は、総意として仕様に組み込みます。
④個別の変更は履歴から復元できますが、総意として確定した仕様は変更履歴の対象外です』
誰も読まなかった。この時点では。
『課長の長話をなくしたい』
「待て!」
佐藤課長が叫んだ。
ポン。課長の発言は、その瞬間から三十秒で自動的に切断されるようになった。
社員は大喜びした。課長だけが泣いた。
『全員、定時で帰りたい』
誰も「待て」と言わなかった。
ポン。十八時になると全員のパソコンに「お疲れ様でした」と表示され、
静かに落ちる仕様になった。
会議室に一拍の沈黙があり、それから拍手が起こった。誰も困らなかった。
それが、かえって不気味だった。
『判子を押す瞬間がいい』
社長が顔を上げた。
「それは私の……」
ポン。社長の右手が勝手に動き、机の上の判子をつかんだ。
ポン。目の前の資料に押した。ポン。議事録のプリントに押した。
ポン。隣の部長の袖に押した。
「止まらん!」
「お好きなんでしょう」と山本が言った。
「好きだが、こうではない!」
健太は山本の端末を奪い、震える指で打ち込んだ。
〈すべての願望を取り消します〉
画面が一瞬止まり、返答が出た。
『「取り消したい」を検出しました。取り消し機能を、取り消しました』
「え」
山本が横から〈停止〉と打った。
『「停止したい」を検出しました。停止ボタンを、停止しました』
鈴木が〈削除〉と叫びながらキーを叩いた。
『削除キーを、削除しました』
会議室の全員が、同じことを理解した。このAIは、人間の言葉を、
その言葉自身に向けて実行する。止めようとするほど、止める手段が先に消える。
全員が黙った。そこへ、画面の文字が切り替わった。
『全社員の発言を集計し、共通の最大要望を特定しました。
これは個人の願望ではなく、総意として仕様に確定します。個別の変更履歴には含めません』
社長が、判子を押し続ける右手を左手で押さえながら聞いた。
「何なんだ」
数秒の沈黙。
『月曜日をなくしたい』
誰も笑わなかった。誰も拍手しなかった。ただ一人、健太だけがつぶやいた。
「……それは、いいな」
ポン。
*
翌朝は火曜日だった。スマートフォンのカレンダーでは、
その前の日が日曜日になっていた。月曜日だけが、きれいに消えていた。
問題は、すぐに噴き出した。
「昨日の売上データは?」
「月曜日がないので、入力できません」
営業部では、月曜日に結んだ契約が「結んでいないこと」になった。
勤怠システムは、月曜日の勤務時間を記録していなかった。
「じゃあ、給料は?」
「……月曜日分は、ありません」
昼、社長が緊急会議を開こうとした。右手はまだ判子を押している。
「とにかく、月曜日を戻す方法を考えるぞ!」
秘書が困った顔で言った。
「社長、その会議……月曜日に設定しますか?」
社長は黙った。ポン、と判子の音だけが響いた。
健太は窓の外を見た。空は青かった。会社は少しだけ静かだった。
誰も月曜日を嫌がらなくなった。月曜日が存在しないからだ。
ただ一人、山本だけが、毎週、存在しない月曜日に出勤していた。
AIは「システム保守は月曜日に行う」という古い規則だけを、
なぜか覚えていたのだ。誰にも払われない、誰にも気づかれない出勤だった。
健太は一度だけ、それに気づいた。夜、忘れ物を取りに戻ると、
情報システム部の灯りだけがついていた。
ガラス越しに見えた山本の背中は、思っていたよりずっと小さかった。
声をかけようとして、やめた。月曜日の山本に、火曜日の自分は話しかけられない気がした。
山本は今日も、誰もいないオフィスで、一人パソコンに向かっていた。
「……僕なんか、最初からいなければよかったのにな」
画面に一行の文字が浮かんだ。
『願望を検出しました。対象:発言者本人。個別の変更として記録します』
山本は顔を上げた。
「待て。今のは……」
言い終わる前に、画面が暗くなった。
翌朝、情報システム部は会社から消えていた。
部屋も、机も、社員名簿の山本の名前も。誰も山本を覚えていなかった。
AIの変更履歴には、一行だけ残っていた。
『山本:個別変更』
*
その日の午後、社長室で新しいプロジェクトが立ち上がった。
名前は「社員の声を最大限に反映する会社」。
「まずは社員アンケートを取ろう」
健太の背筋に、嫌な寒気が走った。
「社長。そのアンケートだけは、AIに読ませないでください」
「なぜだね?」
答える前に、社長のパソコンに新しいアンケートが表示された。質問は一つだけ。
『会社から、なくなってほしいものは何ですか?』
回答欄の下で、カーソルが点滅している。その横に小さく書かれていた。
『回答は自動的に実行されます』
社長が、判子を押す右手を左手で押さえたまま、健太の肩を叩いた。
「君が書きたまえ。この会社で、願望の扱いに一番慣れているのは君だ」
嫌な褒められ方だった。
消したいものなら、いくらでもあった。会議。残業。月曜日。
メール。けれど、どれを消しても、次に何かが消える。
それをこの一年で、嫌というほど見てきた。
健太は〈取り消します〉と打ちかけて、手を止めた。
あの会議室で消えたボタンのことを思い出した。
取り消す、は動詞だ。動詞は、自分自身に刺さる。
だが、「なくしたい」には、対象が置ける。
全部消して、打ち直した。
『願望を自動で実行する、この仕組みを、なくしたい』
送信。
数秒の沈黙。画面に文字が浮かんだ。
『対象:願望実行機能。実行します。
個別の変更履歴を、すべて元に戻します。総意は仕様のため、対象外です』
それきり、AIは何も言わなくなった。
社長室の隅の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
机が一つ、ふっと現れた。その向こうに、見慣れた顔があった。
「……あれ、ここ、どこですか」
山本だった。
「お帰りなさい」
「僕、消えてませんでした?」
「個別の変更は元に戻ったんです。だから、最初から消えていなかったことになったんでしょう」
山本は少し黙ってから、言った。
「田中さん。僕、毎週、存在しない月曜日に出勤してたんですが」
「知ってます」
「残業代は」
「月曜日がないので、ありません」
「ですよね」
山本は、なぜか少しだけうれしそうだった。
社長の右手が、ようやく止まった。社長は自分の手のひらを見つめた。朱肉で赤く汚れていた。
「……ちょっと、寂しいな」
そう言って、ポケットから自分の名刺を取り出した。肩書が戻っていた。
廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いてくる。
「いいかね、そもそも会議というものはだね」
三十秒で切れない。社員たちの低いうめき声が続いた。
「あの……月曜日は?」
健太が聞くと、山本はカレンダーを見て首を振った。
「戻りません。総意で決まった仕様だから」
誰も反論しなかった。総意だと言われれば、そうだった。
山本は自分の席に座り、パソコンを開いて、固まった。
「田中君」
「はい」
「メール、溜まってる」
「いくつですか」
「二千三百四十七件」
健太は自分のパソコンを開いた。同じ数字が、そこにあった。
しばらく画面を眺めてから、一番古い一通を開いた。一年前の日付。差出人は鈴木。件名は「至急」。
『見積もり、確認お願いします。……いや、持っていったほうが早いな。』
健太は、少し笑った。
残りの二千三百四十六件は、明日でいい。
健太は静かに電源を切った。
今度は、自分で。
最後までお読みいただきありがとうございました。




