夏休みのそうめんと、私の条件反射について
嫌いだったはずなのに、ふと恋しくなるもの。
忘れたと思っていたのに、身体が先に思い出してしまうもの。
小学生のころ、夏休みのお昼ごはんといえば、ほぼ毎日そうめんだった。
「そうめんでいい?」
母がそう聞くころには、もう台所で湯が沸いていた。
白い麺が鍋の中で揺れている。
あの問いは、確認ではなかったのだと思う。
ほとんど儀式だった。
乾麺は安い。ゆでるだけでいい。火を使う時間も短い。
暑い夏の台所に長く立たなくて済む。
親にとっては、これ以上ない夏休みの最適解だったのだろう。
でも、子どもにとっては違った。
最初の数日はよかった。
「夏だし、そうめんだよね」
冷たい麺をつゆにつけて、つるつると食べる。
蝉が鳴いていて、扇風機が回っていて、
昼のテレビから甲子園の歓声が聞こえている。
それだけで、ちゃんと夏だった。
ところが五日目あたりから、箸を持つ手が少し重くなった。
「また、そうめん?」
十日目になると、口に出していた。
二十日目には、もう何も言わなかった。
言っても、どうせ昼には白い麺が出てくる。
私の夏休みは、宿題やラジオ体操よりも、
白い麺の記憶で埋め尽くされている。
不思議なことに、流しそうめんでもないのに、
そうめんはいつも「流れてくる」感じがした。
鍋から。
ざるから。
母の手元から。
毎日、同じように。
そして八月の終わりには、私の体は完全に覚えてしまった。
そうめんを見る。
胃が、少し縮む。
大学生になったころ、友人が言った。
「今日、そうめん食べようぜ」
その瞬間だった。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。
頭で考えるより先に、体が反応した。
「あ、俺、そうめん無理かも」
「なんで?」
「子どものころ、毎日食ってたから」
「毎日でも別によくない?」
そうじゃない。
私にとっては「毎日」という言葉が軽すぎる。
あれは、ほとんど修行だった。
パブロフの犬という有名な実験がある。
ベルと餌を何度も結びつけると、
やがて犬はベルを聞いただけで唾液を分泌するようになる。
本来は関係のない刺激と、体の反応が結びついてしまう。
つまり、条件反射だ。
私の場合は、こうなる。
そうめん=胃が縮む。
食欲が湧くはずの食べ物で、拒否反応が起きる。
なんとも悲しい条件反射である。
それでも、長いあいだ私は、
ただ「そうめんが嫌いだった」と思っていた。
最近までは。
ある夏の日、スーパーで乾麺の袋を手に取った。
棚には、昔と変わらない白い麺が並んでいる。
その瞬間、ふと母のことを思い出した。
あのころ母は、私たちが寝ているあいだに洗濯をして、
朝ごはんを作り、暑くなれば窓を開け、昼になれば台所に立っていた。
夏休みだからといって、母の仕事まで休みになるわけではなかった。
そうめんは安かった。
すぐできた。
暑い台所に長く立たなくてもよかった。
だから母は、毎日そうめんをゆでた。
たぶん、そういうことだったのだ。
私はあのころ、「またそうめんか」と思っていた。
でも母の側からすれば、
「今日も、これなら何とかなる」
だったのかもしれない。
そう考えると、あれほど嫌だった白い麺が、少し違って見えてくる。
手抜きではなかった。
少なくとも、母にとっては、
夏を乗り切るための小さな工夫だったのだろう。
もちろん、だからといって、そうめんが好きになったわけではない。
今でもスーパーで乾麺の袋を見ると、胃の奥がほんの少し反応する。
「ああ、そうめんだ」
夏の匂いまで一緒によみがえる。
蝉の声。
扇風機の風。
昼下がりのテレビ。
宿題をやらずに机の前でぼんやりしていた時間。
そして、台所から聞こえてくる鍋の音。
けれど、たまに食べたくなることがある。
本当に、たまにだ。
夏の夕方、スーパーで乾麺を見つけたときなどに、
「今日は、そうめんでもいいか」
と思う。
鍋に湯を沸かす。
麺を入れる。
しばらくして、ざるにあける。
冷たい水で何度か洗い、氷を浮かべた器に盛る。
つゆを用意する。
そして、一口すする。
つるりと喉を通っていく。
「ああ、これだ」
そう思う。
あれほど嫌だった味なのに、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなる。
そうめんそのものが懐かしいのではない。
あの頃の夏が、懐かしいのだと思う。
宿題が終わらず焦っていた八月の終わり。
汗ばんだ畳。
扇風機の前で食べたアイス。
夕方になると少しだけ涼しくなる風。
遠くで鳴く蝉。
そして、何も知らずに「またそうめんか」と思っていた、あの頃の自分。
思えば、私はあのそうめんを嫌っていたのではなく、
同じものが毎日繰り返されることを嫌っていたのかもしれない。
けれど、人生を振り返ってみれば、同じことの繰り返しの中にこそ、
記憶は残っている。
母がゆでるそうめん。
夏休みの昼。
白い麺。
それは、私にとって「嫌だったもの」であると同時に、
もう二度と戻れない時間の形でもある。
食べ終わったあと、私は乾麺の袋を棚に戻す。
全部食べたわけではない。
残りは、また来年でいい。
「しばらくは、いいかな」
そう思う。
けれど、来年の夏になれば、また買うのだろう。
そしてきっと、鍋に湯を沸かす。
白い麺をゆでる。
冷たい水でしめる。
一口すすって、少しだけ笑う。
あれだけ嫌だったのに。
なぜか今では、ほんの少しだけ恋しい。
そうめんというのは、そういう食べ物なのかもしれない。
そして私の条件反射は、もうずっと前から、
食べ物ではなく、あの夏そのものに向けられていたのだと思う。
もしこの文章が、あなた自身の夏の匂いを少しでも呼び戻したなら、
それだけで十分だと思っている。




