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夏休みのそうめんと、私の条件反射について

掲載日:2026/09/04

嫌いだったはずなのに、ふと恋しくなるもの。

忘れたと思っていたのに、身体が先に思い出してしまうもの。


小学生のころ、夏休みのお昼ごはんといえば、ほぼ毎日そうめんだった。


「そうめんでいい?」


母がそう聞くころには、もう台所で湯が沸いていた。

白い麺が鍋の中で揺れている。


あの問いは、確認ではなかったのだと思う。


ほとんど儀式だった。


乾麺は安い。ゆでるだけでいい。火を使う時間も短い。

暑い夏の台所に長く立たなくて済む。


親にとっては、これ以上ない夏休みの最適解だったのだろう。


でも、子どもにとっては違った。


最初の数日はよかった。


「夏だし、そうめんだよね」


冷たい麺をつゆにつけて、つるつると食べる。

蝉が鳴いていて、扇風機が回っていて、

昼のテレビから甲子園の歓声が聞こえている。


それだけで、ちゃんと夏だった。


ところが五日目あたりから、箸を持つ手が少し重くなった。


「また、そうめん?」


十日目になると、口に出していた。


二十日目には、もう何も言わなかった。


言っても、どうせ昼には白い麺が出てくる。


私の夏休みは、宿題やラジオ体操よりも、

白い麺の記憶で埋め尽くされている。


不思議なことに、流しそうめんでもないのに、

そうめんはいつも「流れてくる」感じがした。


鍋から。


ざるから。


母の手元から。


毎日、同じように。


そして八月の終わりには、私の体は完全に覚えてしまった。


そうめんを見る。


胃が、少し縮む。


大学生になったころ、友人が言った。


「今日、そうめん食べようぜ」


その瞬間だった。


胃の奥が、きゅっと縮んだ。


頭で考えるより先に、体が反応した。


「あ、俺、そうめん無理かも」


「なんで?」


「子どものころ、毎日食ってたから」


「毎日でも別によくない?」


そうじゃない。


私にとっては「毎日」という言葉が軽すぎる。


あれは、ほとんど修行だった。


パブロフの犬という有名な実験がある。


ベルと餌を何度も結びつけると、

やがて犬はベルを聞いただけで唾液を分泌するようになる。


本来は関係のない刺激と、体の反応が結びついてしまう。


つまり、条件反射だ。


私の場合は、こうなる。


そうめん=胃が縮む。


食欲が湧くはずの食べ物で、拒否反応が起きる。


なんとも悲しい条件反射である。


それでも、長いあいだ私は、

ただ「そうめんが嫌いだった」と思っていた。


最近までは。


ある夏の日、スーパーで乾麺の袋を手に取った。


棚には、昔と変わらない白い麺が並んでいる。


その瞬間、ふと母のことを思い出した。


あのころ母は、私たちが寝ているあいだに洗濯をして、

朝ごはんを作り、暑くなれば窓を開け、昼になれば台所に立っていた。


夏休みだからといって、母の仕事まで休みになるわけではなかった。


そうめんは安かった。


すぐできた。


暑い台所に長く立たなくてもよかった。


だから母は、毎日そうめんをゆでた。


たぶん、そういうことだったのだ。


私はあのころ、「またそうめんか」と思っていた。


でも母の側からすれば、


「今日も、これなら何とかなる」


だったのかもしれない。


そう考えると、あれほど嫌だった白い麺が、少し違って見えてくる。


手抜きではなかった。


少なくとも、母にとっては、

夏を乗り切るための小さな工夫だったのだろう。


もちろん、だからといって、そうめんが好きになったわけではない。


今でもスーパーで乾麺の袋を見ると、胃の奥がほんの少し反応する。


「ああ、そうめんだ」


夏の匂いまで一緒によみがえる。


蝉の声。


扇風機の風。


昼下がりのテレビ。


宿題をやらずに机の前でぼんやりしていた時間。


そして、台所から聞こえてくる鍋の音。


けれど、たまに食べたくなることがある。


本当に、たまにだ。


夏の夕方、スーパーで乾麺を見つけたときなどに、


「今日は、そうめんでもいいか」


と思う。


鍋に湯を沸かす。


麺を入れる。


しばらくして、ざるにあける。


冷たい水で何度か洗い、氷を浮かべた器に盛る。


つゆを用意する。


そして、一口すする。


つるりと喉を通っていく。


「ああ、これだ」


そう思う。


あれほど嫌だった味なのに、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなる。


そうめんそのものが懐かしいのではない。


あの頃の夏が、懐かしいのだと思う。


宿題が終わらず焦っていた八月の終わり。


汗ばんだ畳。


扇風機の前で食べたアイス。


夕方になると少しだけ涼しくなる風。


遠くで鳴く蝉。


そして、何も知らずに「またそうめんか」と思っていた、あの頃の自分。


思えば、私はあのそうめんを嫌っていたのではなく、

同じものが毎日繰り返されることを嫌っていたのかもしれない。


けれど、人生を振り返ってみれば、同じことの繰り返しの中にこそ、

記憶は残っている。


母がゆでるそうめん。


夏休みの昼。


白い麺。


それは、私にとって「嫌だったもの」であると同時に、

もう二度と戻れない時間の形でもある。


食べ終わったあと、私は乾麺の袋を棚に戻す。


全部食べたわけではない。


残りは、また来年でいい。


「しばらくは、いいかな」


そう思う。


けれど、来年の夏になれば、また買うのだろう。


そしてきっと、鍋に湯を沸かす。


白い麺をゆでる。


冷たい水でしめる。


一口すすって、少しだけ笑う。


あれだけ嫌だったのに。


なぜか今では、ほんの少しだけ恋しい。


そうめんというのは、そういう食べ物なのかもしれない。


そして私の条件反射は、もうずっと前から、

食べ物ではなく、あの夏そのものに向けられていたのだと思う。

もしこの文章が、あなた自身の夏の匂いを少しでも呼び戻したなら、

それだけで十分だと思っている。

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