死んでもあなたを救ってあげる
小野寺彩芽の世界は、常に不快な雑音に満ちていた。
彼女の耳は、他人が抱く負の感情をハウリングとして受信してしまう。市役所の窓口でクレーマーに怒鳴られる時は、低く濁った地鳴りのような音が響だけで済んだ。本当に恐ろしいのは、その逆だった。
「彩芽さん、顔色が悪いわ。私が作ったスープ、温めておいたから食べてね」
そう言って微笑みかける名波貴子が近づくたび、彩芽の脳内では鼓膜が破裂しそうなほどの超高音の金属音が炸裂した。
キィィィィン、と頭蓋骨の奥を熱い針でかき回されるような激痛。貴子は地域で聖女と慕われるボランティアだった。しかし彼女の「あなたを救ってあげたい」という献身は、相手を自分に依存させ、支配しようとする無意識の傲慢に満ちていた。本人が無自覚な善意の皮を被っているからこそ、その悪意の周波数は致死量に達する。
「来ないで……お願いだから、私に関わらないで!」
彩芽が耳を押さえてうめく。だが貴子は、傷ついたような、同時にどこか恍惚とした表情で歩み寄ってきた。
「まあ、可哀想に。心を病んでいるのね。私がずっと側にいてあげるから」
その言葉と同時に、音量は限界を超えた。彩芽の耳と鼻から、タラリと血が滴り落ちる。脳が沸騰するような狂気の中で、彩芽は衝動的に机の上の裁ち鋏を掴み、貴子の胸へと突き立てた。
刃が肉を裂く鈍い音の後、世界は一瞬にして完全な無音となった。
貴子が床に倒れ伏す。彩芽は鋏を落とし、静寂の美しさに涙を流した。やっとあの地獄から解放されたのだ。
しかし、血の海に沈んだ貴子は、最期の力を振り絞って彩芽の足首を掴んだ。濁っていく瞳で彩芽を見上げ、弱々しく囁く。
「逃げて……あなたが、人殺しになっちゃうから……」
その瞬間、彩芽の脳内に響き渡ったのは、不快なハウリングではなかった。
それは、かつて聴いたこともないほど清らかで、美しい、ハープと合唱が織りなす天使の賛美歌だった。
彩芽は愕然とした。死の間際にあってもなお、貴子は自分の命より彩芽の身を案じていた。彼女の愛は、最後の最後で純度の高い無私の善意へと昇華したのだ。
「私は、なんてことを……」
己の過ちを悟り、彩芽は貴子の遺体を抱きしめて号泣した。一生この賛美歌を背負い、贖罪の中で生きていこうと決意した。
だが、涙を流す彩芽の耳元で、美しく鳴り響く賛美歌の旋律が、微かに歪み始めた。
合唱のソプラノの奥から、冷ややかな、貴子の生前の声が指し示されるように這い出てくる。
「これで、あなたは死ぬまで私のもの。一生、私を想って泣き続けなさい」
彩芽は息を呑んだ。
貴子は最初から、自分が刺されることすら計算していたのだ。自らの死をもって彩芽の心に「永遠の罪悪感」という決して外せない楔を打ち込み、完璧な支配を完成させた。
美しかったはずの賛美歌のメロディが、ゆっくりと、しかし確実に、脳を削る凶悪な金属音へと変調していく。彩芽は耳を塞いだが、その音は頭蓋骨の内部から、永久に鳴り止まないハウリングとなって響き続けた。




