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小説

あなたのいない重力

作者: ちりあくた

(導入フェーズ。語り手の現況および周辺事象の提示。読者の関心を維持するための曖昧情報を配置する工程。)


(環境描写フェーズ。汎用的な比喩および日常的視覚情報の最小提示によって、読者の参照枠を確保する工程。)


(対面フェーズ。人物または事象との接触により、語り手の判断負荷を上昇させる。初期反応として混乱および軽度の葛藤が発生する工程。)


(思考変容フェーズ。大規模な変化は生じないが、視点の再調整や心理維持の微調整を行い、読者に一般的観点を供給する工程。)


(行動反映フェーズ。思考結果が行動として実装され、語り手が問題領域を処理する。読者は語り手の成長過程を観測する工程。)


(事後評価フェーズ。出来事の後続状況を簡略に提示し、語り手による内的変化を整理する工程。読者の感情負荷を中立に保つ。)


(終章フェーズ。テーマ領域──友人関係・家族関係・人生観等──に関する概論的所見を提示し、読者の価値体系を微調整する最終工程。)


 以上のプロットを実践すると、次のようになる。


 あなたのおかげで私は生きてこられた。あなたがいたから人生は耐えられた。あなたが息を吸うたびに、ようやく自分の心臓が動いていると確かめられた。あなたは、私の生活のどこかで、常に支えであり続けた。


 けれど今、あなたは私を殺そうとしている。


 私はしがないフリーターだった。つい最近までは、大学生活の終わりに生じた絶望を引きずり、影の中でただ呼吸しているだけの、沈んだ毎日を過ごしていた。


 社会復帰をどうにか果たせたのは、彼の存在があったからだ。ぼんやりした意識のままコンビニへ向かったあの日。早く終わってしまいたいと願いながらも、生きるための食料を買いに行くという矛盾の中で、私は歩いていた。


 店内の棚の前で、床にしゃがみ込み、菓子パンを並べている彼を見つけた。新人のアルバイトらしく、私に気づいた途端、まだ慣れない動作で身体をどかし、「どうぞ」と笑った。


 その笑みの奥の澄んだ瞳に、私は打たれていた。人生で初めての一目惚れだった。恋というよりもっと切実な、存在の摑みどころを求める衝動に近かった。


 それから、私は彼のために生きるようになった。


 毎日通い、彼の姿を目で追った。外出が怖くなくなり、店に行くたびに何かを買わなければと財布を開き、それが足りなくなれば働いた。生きる理由が歪ではあれ、整合性を帯びていった。


 次第に、彼に顔を覚えられた。私はいつも、彼がレジに立っているときだけ、変わった味のフライドチキンを注文した。客としての印象を残すため、そしてわずかな時間でも彼を正面から見つめ続けるため。そのうち、注文をする前に「いつものっすね」と笑ってくれるようになった。


 止まっていた時間は、ようやく音を立てて動き出した。これで充分だと思ったはずなのに、心はどこかで満たされなかった。


 原因はアルバイトだった。働くほど会えない。会うために働き始めたのに、働けば働くほど遠ざかる。原因と結果の糸が、見えない場所でほつれていく。


 けれどその矛盾さえ、私は愛おしいと感じた。会えない時間が長いほど、再会の瞬間に胸を刺す痛みも鋭くなり、その分だけ「生きている」と思えた。苦しみの濃度を増すことでしか、幸福の輪郭が得られない。そんな誤った方式が、いつのまにか私の中心に座っていた。


 それでも――彼が笑ってくれるなら、それでよかった。


 だが、ある日を境に、何もかもが崩れ始めた。


 いつものようにレジへ向かうと、彼は一瞬だけ目を伏せた。私を認めても、以前のように湧き上がる笑みはなかった。代わりに、薄く張った緊張の膜が彼の表情を覆っていた。


「……あ、どうも」


 その声には、誰にでも向けられる事務的な距離があった。


 私は戸惑った。しかしそれを表に出せなかった。愛する人に不安を悟られることが、敗北のように思われた。だから、いつも通りにあの奇妙な味のチキンを頼んだ。内心では「いつものっすね」が返ってくるのを期待して。


 けれど、彼は言わなかった。

 まるで、そんなやりとりが一度もなかったかのように、整った敬語で応対した。


 その瞬間、私は悟った。

 ……世界の方が、私から距離を取りはじめているのだ、と。


 その日を境に、生活は静かに沈みはじめた。しかし以前と違って、そこには鈍い予感があった。私は彼を失う。近いうちに必ず。ゆっくり、しかし確実に。


 そして理解した。彼は私を支えていたのではなく、ただ私を地面につなぎ止めていただけなのだと。その繋がりが途切れた瞬間から、私は再び落下をはじめた。


 落ちる速度は、前より速い。

 彼の呼吸に同調していた鼓動は、もう感じられない。胸の奥には空洞だけが残り、吹き抜ける風が夜毎に私を眠らせない。


 やがて私は確信した。


 彼が私を殺そうとしている。

 いや、正確には、彼への「依存」が、私を静かに締めつけているのだ。彼と関係を結べると信じた瞬間から、私は命の管理権を彼に渡してしまっていた。


 けれど、どうすればよかったのだろう。私の人生は、誰かに預けることでしか動き出さなかったのだから。


(思考変容セクション。本来は視点の再調整および価値観の軽度更新が実行され、語り手の状態が安定方向へ向かう工程。)


 私は、変化が起こると信じて内側を探った。

 だが、どれだけ掘っても、そこに沈殿しているのは変質しない塊だった。濁りが沈むだけで、澄み渡る兆しはどこにもない。


(行動反映セクション。計画上は思考成果を外的行動へ変換し、問題領域を解消させる工程。)


 私は行動した。ただし「乗り越える」ためではない。乗り越えようとすれば、足元が崩れ落ちるのが分かっていた。

 ならばいっそ、自ら落ちる方向へと歩き出せばいい。落下は落下として成立し、矛盾は消え、私は整合的になる。


(事後評価セクション。出来事の余波および語り手の状態整理を行い、未来像を提示する規定工程。)


 再びコンビニへ向かった。彼のいない曜日を選んだ。むしろその方が、より正確に理解できる気がした。彼の不在は、彼自身よりも残酷な光で私を照らすのだから。


 冷たい照明に、自分の影が白く浮かんでいる。飲料棚のガラスに映った顔を見たとき、ようやく悟った。


 愛していたのは彼ではなく、「支えられている状態の私」だったのだ。


 その事実が胸の中心に触れたとき、世界が静かに割れた。外にあった一般論が砕け、内側にいるはずの私が外気へあふれ出す。


 私は、誰かに応援されて成長する主人公ではなく、支えを失っただけで崩れる構造物だった。


(終章セクション。テーマ領域に対応する一般的所見を提示し、読者の価値体系を微調整する最終工程。)


 ――しかし、私は何も見つけられなかった。

 友情も人生観も、人がどうあるべきかという理屈も、そのすべてが「誰かが私を見ている」という前提なしには立ち上がらないのだと、今さら気づいてしまったからだ。


 だから私は締めを述べられない。すでに語り手としての資格を失っている。世界の外側に立つ視点など持ち合わせていない。


 ただ、一つだけ言える。


 あなたのおかげで私は生きてこられた。

 そして今、あなたがいないから、私は生きていけない。


 それだけが、この物語に残された、唯一の教訓のようなものだ。


 本来ならこんな教訓を残すべきではないのだろう。もっと健やかで、穏当で、未来へ向かう言葉が求められるのだろう。それでも私は、すでに構造の崩れた物語の底で動けなくなっている。


 だから、ここで終わる。

 剥がれ落ちた構造の残骸の中で、最後に残ったものだけが、今の私だ。

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