童貞とおっぱい
「世界を救えるのって童貞だけだと思うんですよ」
田代さんは今年で四十歳になる。独身で一人暮らし。金曜日に三百五十ミリリットルの発泡酒を二缶買うのがささやかな楽しみ。今まで女性と付き合ったことは一度も無くて、人恋しさに絶望して死にたくなったことが何度かあるけれど、そういう時は『アンパンマンマーチ』を歌ってやり過ごす。
「だってね。童貞って何より夢を見られるじゃないですか。何物にも染まっていない、何も始まっていないことに焦燥と苛立ちがあって。そこには希望も詰まってると思うんですよね」
田代さんの童貞の言い方には、少しも性的な意味を持ち合わせていないような響きを感じてしまい、どうかすると健全な会話を交わしているようにすら聞こえる。
「セックスは世界を救いそうですけどね」
「違いますよ。セックスは世界を滅ぼすんです。世界を救うのは童貞。何も知らないのが一番なんです」
田代さんとはいつもカラオケボックスで待ち合わせるけれど、一度も歌ったりしたことはない。ドリンクバーとポテトを頼めば、後は田代さんが一方的に話すだけだ。私はそれに適切な相槌を打つ。テキトーじゃダメ。すぐに見抜かれる。場合によっては意見もする。田代さんが物欲しそうな顔をした時に。
「あなたのような仕事って。儲かるんですか?」
今日の田代さんはいつもと違うと思った。何故ならカラオケボックスでビールを頼んだから。別にルール違反というわけではない。それでもいつも温厚そうに感じるその口調が、やや詮索めいたねばつきのあるものに変わったのは確かだった。
「いや別に。バイトですし」
「儲けるために仕事をしてるんじゃないってやつですか」
「まあ。そんな感じですかね」
大学生はやることがない。やることを見出して大学生になったのならまだしも、モラトリアムを延長したいだけという怠惰な理由の進学は、ましてやそこからの一人暮らしは、ただただ人を腑抜けにする。
それでも自分なりに思うことはあって社会との接点を持とうと思った。コンビニ。スーパー。カフェ店員。何が悪いのか面接の段階で落ちる感覚を覚えていて、気が付けば社会との接点どころか社会から必要とされていないのではと感付くようになってしまった。私っていらない?
「なんとなく目にとまったんですよ。『話し相手になりませんか』って文言に」
誰かの話し相手になるアルバイト。その店に相談員として登録して出来高払い。お客さんには審査があって、身元はきちんと把握されている。どこか胡散臭いと思ったけれど、オーナーだという老年のおばあさんはとても気持ちの良い方だった。
「私って。いらない人間ですか?」
やはり。今日の田代さんは違う。未だかつてない陰気さで、自嘲気味に笑いながら。無意味で無価値だと自分をこき下ろす。そのことに一種の快感さえ覚えているようで、その感じが何だか闇落ちした時の私に似ている気がして鳥肌が立った。
「なにか。あったんですか」
「なにかなきゃダメなんですか」
話を聞けば、本当に何も無いのだと言う。一人暮らしだし、派遣社員だし、童貞だし、死にたくなるし。
「毎日繰り返してるんです。それって。いらないってことなんですかね」
ここでいらない人間なんていない、などという当たり障りのない言葉を言えば、そのまま田代さんはカラオケボックスを出た後に首を括るような気がした。なんなら彼の家ではロープが吊ってあってきちんと輪っかも作られていて、後は踏み台になるものを探せばいいなんて状態で私を指名してここに来たのかもしれない。そんな情景さえ浮かび上がってきた。
「おっぱい」
私には決められない。田代さんがいる人間なのかいらない人間なのかなんて。そもそも決めてもいけないだろう。私なんかが。
「私の唯一の取り柄なんです。でっかいでしょ。おっぱい」
可もなく不可もないルックス。
可もなく不可もないスタイル。
同性異性問わず誰もが吸いつきたくなるマシュマロのようなおっぱい。
「初めて揉んだのは義父でした」
私は田代さんの右手首を掴んだ。田代さんは特に抵抗しなかった。ただ、生唾を飲み込む音だけははっきりと聞こえた。
「おっぱい。触ったことありますか」
「……ありません」
田代さんの右手首は既に熱くなっていた。汗ばんできているようにも感じる。
「おっぱい」
田代さんが呟いた。
「おっぱい」
私も言った。
「なんか。不謹慎なことを考えているのがひどくバカバカしくなる響きですね」
胸を揉まれるのは嫌いじゃない。ましてやそれで、誰かの不謹慎が、その瞬間だけでも、消えるなら。
「じゃあ。世界を救うのはおっぱいなのかもしれませんね」
【了】