【書籍発売中、コミカライズ予定】王命の意味わかってます?
王国の南部を支配する、サウス公爵家には三人の娘がいた。
リリエッタ・サウスは、三姉妹の真ん中である。
南部は平均気温が体温と同等な地域なので、暑すぎてあれこれ考えたり、我慢をしたら頭がゆだってしまう。
まあ、これは俗説に過ぎないが、南部の人々は良くも悪くもため込まない。
良いと思ったことは素直に口にするし、不満だってそう。
端的に表すと「俺は言うぜ。お前も言えよ」。
裏表がなくカラッとしているといえば聞こえがいいが、見ようによってはその様は自制心に欠け、自己中心的に映るだろう。
そんな南部の気風において、リリエッタは異質だった。
ふわふわとしたストロベリーブロンドの髪は重力を感じさせず、新緑のような大きな瞳は目尻が垂れている。小さな顔に、華奢な体。
おっとり。
のんびり。
彼女はそんな言葉がよく似合う少女だった。
ニコニコと笑顔を絶やさず、自己主張よりも相手の言い分を聞くことの方が多かった。
口を開けば「私が……」「俺が……」と、自分の意見が真っ先に出てきて話が進まないのは、南部の人間にはよくあることだったが、その中にあって聞き上手な彼女は浮いていたが、好かれてもいた。
そんなリリエッタの性格を、都合がいいと考えたのかもしれない。
王国の北部を統治するブリーデン公爵家へ嫁ぐよう、王命が下った。
*
北部は南部とは真逆だ。
我が強い人間は未熟で、開けっぴろげな言動は恥とされている。
端的に表すと「空気読めよ」。
魔大陸が遙か北にあるため、魔獣が侵攻してくるのは専ら北部だ。
雪による自給率の低さ、寒さによる肉体への負担、外敵による恐怖。
それらの困難から心と体を守るため、北部の団結力は強い。身内を大切にし、その反面余所者には冷たい。
移住者は三世代経っても「ほら、あの家は外の人だから……」と言われてしまうくらい。
北部の人々は、南部の人間を嫌っている。
過去に大きないざこざがあったわけではなく、一方的に目の敵にしている。
南部は薪も布団も必要ないくらい暖かく、農耕も漁業もやればやるだけ成果が出る。
逸れた魔獣が西や東に出没することはあるが、南はまずない。
最後に南部で魔獣が観測されたのは五十年前だ。
同じ国の民なのに、何もかも恵まれている。
楽に生きているからか、他人への配慮がなく我が儘な連中。
それが北部が抱く、南部のイメージだ。
一方的な妬みは憎しみに姿を変え、細雪のように静かに降り積もり、いつしか巨大な壁へと育っていた。
ブリーデン前当主は、特にその兆候が強かった。
北部の代表として国に支援を求めるだけでなく、南部への締め付けを強く主張した。
持てる南部が、北部に物資の面で尽くすのは当然とのことだった。
だが恵まれているとはいえ、南部は楽園ではない。
南部の土壌が農耕に適しているのは、定期的な豪雨による川の氾濫により肥沃な浮遊土砂を得ていたからだ。
しかし川の氾濫は、住民の命の危険にも繋がる。
人間に都合のよいタイミングで雨が降るとも限らなければ、どの程度の規模の洪水が起きるかもわからない。
南部を横断する巨大な川沿いでは、他地域に農産物を売って作った巨額の資金を投じて、何十年も大規模工事を行っている。
橋、堤防、貯水池、運河、船の停留所……。作らなければいけないものは年々積み上がり、ある程度消化したと思えば、次は老朽化でまた工事と終わることなき公共事業地獄。
農業、漁業、工事と仕事に困らないが、生まれた土地から離れにくいのも南部だった。
働ける年齢になったら周囲の大人の口利きでいずれかの業種に放り込まれ、そのまま人生を終えるのが一般的な南部の人生だった。
衣食住に困ることはないが、選択肢はない。
開けっぴろげな性格というだけで、南部の人間は自由気ままで奔放なわけではない。
自分たちが恵まれている自覚があるからこそ、恩恵だけ受けて成人後は他所の土地で好きな仕事をするという選択ができる者は少なかった。
いないわけではないが、まず里帰りはできない。
故郷に残った親は、周囲に頭を下げて生活することになる。
*
年々悪化する両者の関係に、国は頭を悩ませた。
北部の環境が厳しいのはその通りだが、だからといって自然を相手に働いて、国で賄いきれない工事費を自分たちで捻出している南部から、その成果物を巻き上げることはできない。
長年、南部は日持ちする穀物や乾物を北部に提供しているのだから尚更。
「国が魔獣の脅威にさらされないのは、北部が足止めしてくれているからだ。既に見返りはもらっている」と、無償でそれなりの量を送り続けている。
長雨や、季節風で収穫量が落ちた年も「支援にばらつきがあってはいけない」と身を切っていた。
これ以上を求めたら、一方的ではない双方向の悪感情が育ってしまう。
北部の南部への反感は、不理解によるものが大きい。
南部は北部の人間を「厳しい土地で頑張ってる人」くらいにしか思っていないが、北部の人間は「南部の甘ったれども、苦労知らずの厚顔無恥……etc.」と悪態が尽きることはない。
北部には及ばないが、南部にだって苦労はある。
何ヶ月もかけて育てた作物をごっそり盗まれたり。豊かな土地だからと難民が押し寄せてきたり、密入国者が多かったり。
それなりに生きていけるから、と低所得者が多くて、治安が悪いのも南部の特徴だ。
北部のように嫉妬混じりの偏見で、他所の連中から当てこすられることは割と日常茶飯事だ。……まあ、南部の人間は臆さず言い返すが。
*
南と北の架け橋として、王家は南部を代表する公爵家の娘であり、人間関係の構築に定評のあるリリエッタを選んだ。
結婚相手は、この度若くしてブリーデン公爵に就任したクリフだ。
急逝した父親に代わり、二十一歳にして北部を束ねなければならなくなった銀髪碧眼の青年であり、対魔獣戦線の責任者でもある。
公爵家の男児は、民に示しをつけるために代々指揮官に就任していたが、お飾りとまではいかなくとも後方での指揮監督が主だった。
しかしクリフは体格に恵まれ、攻撃魔法にも長けていたので、現場で剣を振るうことが多かった。
お世辞抜きに誰よりも腕が立つため、精鋭揃いの一番隊の隊長も兼任している。
*
「あら、まあ」
魔獣出現の報告が入り、クリフは新婦を一顧だにすることなく教会を飛び出した。
結婚式の真っ最中に置き去りにされたリリエッタは、行き場をなくした指輪をそっとリングピローに戻した。
彼女の手にもまだ指輪は填まっていない。
流石に地面に投げ捨てられてはいないようなので、新郎の手によって彼女に填められるはずだった指輪はポケットにでもいれたのだろう。
南部から北部へ移動するのは大仕事だ。
招待客の大部分は北部の人間だ。
心配そうに見てくる両親に対して、リリエッタは微笑んでみせた。
「……皆様、今ご覧になったように、旦那様は大変お忙しい方です。若いわたくしたちが、この地を治めていくためには皆様のご協力が必要です。今後も支えていただきますようお願いいたします」
一人一人の顔を見るような動きで会場を見渡したリリエッタは、最後に来賓席をひたと見据えた。
王家の代表として出席した王太子は顔色が悪い。
当然だろう。この結婚は自分たちが強いたもので、花嫁が結婚初日にして軽んじられる様を見せつけられたのだから。
王太子が何よりも危惧しているのは、これによって南部が北部に悪感情を持つこと。――そして南部が王家に反発するようになることだ。
正直に言って、南部は自分たちの世話を自分でみている状態だ。
国の支援はどうしても貧しい土地を優先するので、豊かな南部は全部自分たちでやってしまっている。
ぶっちゃけ独立しようと思えば、簡単にできてしまう。
南部を横切る大河は大地に恵みを与えるだけでなく、治水が進むにつれ交易路としても重要な役割を担うようになった。
隣接する国にとっては重要な貿易ルートだ。
農作物の出荷に制限をかけ、他国の賛同を盾にされたら、王国からの離反を認めざるをえないだろう。
「王太子殿下。わたくしは王命を全うするため力を尽くすと誓います。今回の件も、後日ご報告いたしますので、予定通り王都へお戻りください。報告書を持たせる使者として、一名残していただけると助かりますわ」
「あ、ああ……。君の寛大さと、誇り高さに感謝しよう」
「嫌ですわ。指輪の交換はまだですが、わたくしはもう既婚者ですのよ」
現在進行形で晒し者にされているというのに、リリエッタの表情はおだやかなままだ。
やんわりと窘められ、王太子は冷や汗をかきながら言い直した。
「失礼した、公爵夫人。……エルギを残そう。困ったことがあれば、彼に頼むといい」
王太子に指名された側近が立ち上がると、無言で礼をした。
細身で文官らしい体躯だが、目つきは鋭い。リリエッタはなんとも思わなかったが、人によっては威圧を感じるだろう。
「殿下にご配慮いただき、光栄にございます。ご参列の皆様におかれましては、別会場に心ばかりのもてなしを用意しております。どうぞご歓談ください」
融和目的の結婚なので、南部と北部両方の郷土料理が並べられている。
料理を作る人間が必要だと、式の準備にはそれなりの使用人を連れてきたが、彼らは今日両親と共に南部へ戻る。
故郷を離れて、嫁入り後のリリエッタに仕えるのは、二人の侍女と、一人の従者だけだ。
三人とも地元を離れられるなら、それが北の大地でも構わないという土地に縛られることを何よりも嫌う者たちだった。
リリエッタの視界の端に、両親が嘆いている姿が映る。
あからさまに無礼な真似はされなかったが、南部から来た一団は居心地の悪い思いをしながら滞在していた。
一度サウス公爵の従者が「言いたいことがあるなら、言ってくれ」と砦の使用人に告げたところ、あっという間に「こちらはいつも通り仕事をしていただけなのに、急に言いがかりをつけられた」という噂が立った。
式の前に揉めるわけにもいかないので、その時は誤解を与えた旨を謝罪する形で決着となった。
その後も使用人たちの冷ややかな視線や、歓待とは言いがたい対応は変わらなかった。むしろあの一件は、彼らに陰口を叩く大義名分を与えてしまった。
当主になって日が浅いクリフは、使用人を管理できていないのか、する気がないのか、彼らを注意する様子はない。
婚姻の儀式を終えれば、リリエッタも北部の人間として認められるというのは幻想だった。
なんの気遣いもなく、夫が妻を式場に置き去りにしたのが現実。
絵本から抜け出したような貴公子然とした容姿のクリフだが、彼は遠くから嫁いできた妻を守るどころか、率先して蔑ろにしてみせた。
当主がこれではブリーデンの縁者や使用人たちも、リリエッタを軽んじるに違いない。
笑顔でいつも通りに振る舞う娘をハラハラしながら見ていた両親は、王太子とのやり取りでこの結婚の行く末を悟った。
「リリエッタや。婚姻は成されてしまったが、大事に至る前に離縁しよう」
「まあ、お父さま。まだ嫁いで一日も経っていないのですよ」
「いいえ、リリエッタ。旦那様の仰る通りです。両者の溝を埋めるための結婚なのに、更に深くしては本末転倒です」
「……お母さま。この結婚は王命なのです。わたくしなりに精一杯努めさせていただきますわ」
「お前一人が責任を感じる必要はない。頑張らなくていいんだよ」
「そうよ、リリエッタ。絶対に抱え込まないでちょうだい。早まった真似をしてはダメよ」
新郎不在の披露宴だが、リリエッタまで退席してしまったら責任者がいなくなる。
ひとりで来客の対応をする娘に、両親は説得を試みた。
ほとんどの招待客は見捨てられた花嫁を内心嘲笑っていたが、流石にこの会話を間近で聞いた者は良心が痛んだ。
とはいえ、リリエッタの味方になるなんてことはなく「後味が悪いな」と感じる程度だったが。
*
「君は、いつもこの時間まで寝ているのか?」
信じられないが、これが夫となったクリフが帰宅後に初めて口にした言葉だった。
結婚式は勿論、初夜も放棄した男。
本来なら再会するなり言葉を尽くして詫びるべきなのに、朝の挨拶もせず、リリエッタを咎めるような口ぶり。
謝罪を要求するつもりはなかったが、あんまりな態度にリリエッタは目の前の男の神経を疑ってしまった。
きょとんとした表情を浮かべているが、その内心は信じられないものを見る目で夫を見ている。
事前調査によるとクリフは部下から慕われており、評判は決して悪くない。
隊長として上手くやっているなら、コミュニケーション能力に問題があるとは思えない。
父親のような過激派ではないとのことだが、内心では南部の人間を嫌っているのかもしれない。
一瞬リリエッタは、王命による結婚に反発しているのかと考えたが、すぐにその考えを打ち消した。
ダイニングテーブルを挟んで対峙するクリフは無表情。
先ほどの言葉が嫌みであれば、もっと攻撃的な雰囲気を纏っているはずだが、そういった負の感情は感じられない。
淡々としているというか、無頓着で無神経な感じだ。
もし誰に対してもそうなら、人間関係のトラブルも報告されていたはずなので、これはリリエッタ限定と解釈して構わないだろう。
リリエッタに思うところがあるのか。それとも相手を問わず妻は自分の所有物と考えるタイプなのか。
どちらにせよ、彼女を一人の人間として尊重するつもりはないようだ。
「……この砦は随分人手が少ないのですね。侍女の数が足りず、朝の準備に時間がかかってしまいましたの」
「適正人数を雇っている。南部の人間は、そんなに人手を必要とするのか? この地で生きるなら自分のことくらい、自分でやってもらわないと困る。使用人を困らせないでくれ」
砦の人事は女主人の管轄だ。
嫁ぎ先で何人雇っているか把握していないリリエッタではない。
遠回しに、侍女が仕事を放棄していると伝えたのだが、クリフは気づくどころか、思い込みで批難してきた。
「……旦那様は何時にお戻りになったのですか?」
「夜中だ」
「つまり夫婦の寝室ではない場所で、お休みになったのですね」
故意に初夜をボイコットした、ということだ。
「討伐を終えて疲れていたんだ。宴に出ただけの君とは違う」
「……そうですね。精神的疲労と肉体的疲労を比べるのは無意味です」
チクリと刺しても、リリエッタの雰囲気が柔和だからかクリフには全く響いていない。
「――結婚式を中座され、初夜も迎えていないことで、この砦の者はわたくしを女主人として認めておりません」
そもそも使用人が主人を認める、というのがおかしな話だ。
就職口が少ない北部では、砦で働きたい者はごまんといる。
不満があるなら、辞めてもらって構わない。
替えの利かない人材はいない。
そもそも替えの利かない人材によって回っている組織は不健全だ、というのがリリエッタの考えだ。
人員が適切な歯車となり、負担を分散するのが健全な組織だ。
自分が休んだら現場が回らない、では困る。
体調不良の時には我慢せず休めるのが目指すべき姿だ。
「それは君の力不足だろう。俺は忙しいんだ。女主人として認められたいなら、まず俺を煩わせるのを止めてくれ」
「……確かに想像以上に旦那様はご多忙の様子。まさか結婚式も満足に執り行えないほど、兵士が足りていないとは思いませんでした」
魔獣の襲撃は今に始まったことではない。
昨日行ったのは身内の宴会ではない、王族を招いた式典だ。
現場の人間で対処できないのは問題だ。
毎度クリフ頼みというのは非常に危険なのだが、本人を含めここの人間は理解しているのだろうか。
「馬鹿にしているのか」
「いいえ、心配しております。兵士が育っていないのですか? それとも人数が足りていないのですか?」
あまり厳しいことを言いたくなかったが、聞こえる位置で陰口をたたかれたり、朝の支度すら一苦労する現状を変えなければとてもやっていけない。
厳しい土地だからこそ、領主は砦で働く者をしっかり統率しなければ。
おそらくクリフは当主になってからも、魔獣退治の方にかかりきりで、領主としては最低限の仕事しかしていないのだ。
クリフが砦を空けがちなので、使用人たちは好き勝手をしているのだろう。
妻だけでなく、使用人も放置している。
「国防も担っているんだ。そんなわけがないだろう。しかし俺が出るのが一番被害が少ない。兵士も民だ。俺が戦うことで傷付く者が減るなら、躊躇うつもりはない」
気分を害したようで、クリフが語気を強めた。
「……立派な志でいらっしゃいますが、クリフ様になにかあれば、兵士の怪我どころではございません」
「命を賭けて戦っている者を軽んじるのか」
「そのような意図はございません。領主になにかあれば、現場の兵士だけでなく領民全てに影響があると申し上げたかったのです」
「俺がしくじると思っているのか」
「いいえ」
そういう話ではない。時と場合を考えずに一人に頼り切りで、頼られた方もそれを誇りに思っているのが問題なのだ。
「国一番の武人と誉れ高いクリフ様とて一人の人間。病気や怪我は勿論、加齢による衰えもありましょう。この先のことを考えて、兵士たちだけで対処できるようにすべきです」
「それはちゃんとできている。ただ俺が戦った方が、被害が少ないからそうしているだけだ」
よりタチが悪い。
ならば式場に駆け込んできた者たちは、自分たちで対処可能なのに、王命による結婚式を台無しにしたことになる。
それにクリフも、やむにやまれずではなく率先してこの婚姻を軽んじていると解釈できる。
「クリフ様。この結婚は王命です。お互いに協力しなければ、南北の融和は為しえません」
「わかってる。だから大人しく結婚しただろう。こちらは君を受け入れた。これ以上俺に求めないでくれ」
「……それがクリフ様のお気持ちなのですね」
いやいや、入籍で終わりではない。大切なのは結婚後だ。
受け入れたというが、ブリーデンの家に名を連ねることを許しただけであって、誰もリリエッタを認めていない。
話が通じないのは、王命に対する認識の違いだろう。
リリエッタは言葉による説得を諦めた。
時間をかければいつかわかり合えるかもしれないが、せっかく王太子が側近を置いて行ってくれたのだからソレを利用しない手はない。
クリフを含めた砦の人間にはダメージを与えるが、彼らにはもう充分配慮した。
王家側の目撃者を確保したのは念のためだったが、改めて会話したクリフの印象が最悪だったのでリリエッタは容赦なくやらせてもらうことにした。
いつの間にかクリフの呼び方が、旦那様から名前呼びに変化している。そのことに危機感を抱く人物は、部屋の隅に控える使用人に至るまで一人もいなかった。
*
「わたくしは領主の妻です。女主人にこのような対応をすることが、この地ではまかり通るのですか?」
リリエッタには実家から連れてきた侍女が二人いるが、言い方を変えれば二人しかいない。
彼女たちも人間であり、人間には休息が必要だ。
朝の洗顔もそうだが、湯を使うときにはそれなりの人手がいる。
入浴時に冷え切ったお湯――そもそも最初から加熱されていない可能性がある水を持ってこられ、リリエッタは静かに咎めた。
女主人、と鸚鵡返しした侍女がプッと噴き出した。
「領主様に見捨てられている、お飾りの妻ではございませんか。この砦に置いてもらえるだけ、ありがたいと思っていただかないと」
リーダー格の侍女が口の端を吊り上げる。
侍女の中では、飛び抜けて髪や肌の手入れが行き届いている。歳の頃もリリエッタとそう変わらない。
王命がなければ、彼女が領主の花嫁候補だったのかもしれない。
「歓迎されていない客人をもてなす余裕はございません。ここで生きていきたいなら、わきまえてください」
主人に対して正気とは思えない無礼だが、周囲はそれを窘めるどころかクスクスと笑った。
今までも勤務態度に問題ありだったが、ここまでふてぶてしくはなかった。
朝のクリフとのやり取りが、使用人の間で広がっているのだろう。
「……この砦にわたくしを女主人と認めている者はいるのかしら」
「いるわけないでしょう。みんな『厄介なお客様』に迷惑しています」
「でも口頭での『みんな』なんて信用できないわ。……そうね、わたくしを女主人と認めない人間がどれくらいいるのか確認したいわ。早急に署名を集めて頂戴」
「は?」
「砦内の情報の伝達は早いようだから二日以内に提出してね。結果をクリフ様にお見せして、今後の対応を考えます」
激高もしくは、傷付く姿を想像していた侍女たちは、ふんわりと応じるリリエッタに虚を突かれた顔をした。
*
翌日。
怠惰な者たちだったが、公然とリリエッタを叩けるまたとないチャンスに嬉々として動いた。署名は一日も経たずに提出された。
「なんだこれは」
「わたくしを女主人と認めない者たちの署名です」
渡された紙の束には、冒頭に何に関する署名か明記されている。
「見ればわかる。俺が聞きたいのは、何故そんなものがあるのかということだ」
「現状を理解していただくためです」
「随分手をかけた当てこすりをするんだな。君がそんなに嫌みな人間だったとは思わなかった」
「……クリフ様はこれを見てなお、そのような結論に至るわけですね」
「周囲に受け入れられないのは、君の努力が足りていないからだ。あれこれ要求して、通らなければ攻撃する。そんな人間に領主の妻は務まらないぞ」
クリフは昨晩も初夜を放棄した。
彼に抱かれたかったわけではないが、蔑ろにされたことでリリエッタの心は冷え込み――容赦はいらないと、今は熱くたぎっている。
だが表面上はいつものリリエッタだ。やんわりと微笑み、言葉にも乱れはない。
「――お二人とも、今の会話をお聞きになりましたわね」
この部屋にいるのは領主夫妻だけではない。
不在がちな領主と、外からやってきたばかりの領主夫人に代わって、砦の運営を取り仕切っている執事長と、王太子の側近であるエルギも同席している。
「執事長。火の世話などどうしても手が離せない場合を除いて、砦で働く者をすべて集めてください」
「おい、使用人の仕事の邪魔をするな」
「上の者がどういったスタンスなのか知らなければ、そちらの方が使用人を混乱させます。効率的かつ誤解のないように周知するには、集会を開くのが一番です」
笑みを浮かべているが一歩も引く様子のないリリエッタに、クリフは「南部の人間はこれだから……」と不満を漏らした。
何をもってして「これだから」なのかは言わなかったが、きっと自己主張が強いとか我が儘などと思ったのだろう。
*
急な召集にざわめいていた使用人たちは、数分もすれば水を打ったように静まりかえった。
「この度の結婚は、国王陛下の命によるものです。これは王の命令に刃向かう者のリストであり、領主は彼らを見逃しています。北部――少なくともこの砦では、王家の決定に異を唱えることを容認しております。国の安寧を脅かす、危険な思想の持ち主です。王太子殿下にご報告ください」
衆目を集める中、リリエッタはエルギに署名を手渡した。
「おい! なんでそうなるんだ!?」
「残念ながらこの地の領主は、王命の重さを理解していないようです」
リリエッタはクリフを無視した。
「正当な血の持ち主ではありますが、危険人物を北部の代表として頂くのは問題かと」
「誰が危険人物だ!」
「初夜を拒否し続けているのは、王命に抵抗されているからでは?」
「違う!」
「では男性機能を失っていらっしゃるのですね。そういうことなら早く仰ってくださいな」
「そっ、そんなわけあるか!」
公衆の面前で不能扱いされて、クリフは怒りと羞恥で赤くなった。
「男性機能が正常なら、ますます問題です。危険思想の持ち主でないなら、己の振る舞いがどんな結果をもたらすのか想像もできない浅慮な人物ということになります。余計な火種を生まないよう、直ちに去勢させて養子を迎えなければ」
「んな!?」
「どうやらクリフ様に、領主の任は荷が重いようです。これだけの不穏分子を野放しにしているのがその証拠。彼には防衛戦線に集中してもらい、後継者が育つまでは、領主の仕事はわたくしが肩代わりいたしましょう」
お飾りの妻にされたので、お飾りの領主でお返しする。
お前は一生前線で戦ってろ。
(執務室に)オメーの席ねぇから。戻って来んでよろしい。
あんまりな提案に、クリフだけでなくエルギも絶句した。
「署名とは誰にも強制されず、本人が自らの意思で行うものです。リストに名前がある人物をこのまま雇い続けるわけにはいきません。反乱を未然に防ぐために、適当に分散させて西部の鉱山に送りましょう。あそこはいくらでも人手が欲しい場所ですからね」
国の西部には、魔石を発掘している鉱山が何ヵ所もある。
魔道具の普及に比例して動力源となる魔石の需要は年々高まっているが、発掘作業中は瘴気に晒されることになるので、従業員が廃人にならないよう勤務時間には上限がある。
短時間でも大なり小なり精神汚染されるので、好んで働くような場所ではない。
「横暴だ! 君にそんな権限はない!!」
「わたくしの権限は関係ございません。王命に違反した者たちを罰するのは王家です。――ですよね?」
これでなんの罰も与えなければ、王の沽券に関わる。
リリエッタとて今、口にした要求がそのまま通るとは思っていないが、お咎めなしで終わらないよう釘を刺した。
迂闊なことを言えないエルギは、罰については触れず「私は殿下にありのままを報告するのみです」と告げた。
「クリフ様。この先も領主でありつづけたいと願われますか? わたくしを妻として尊重し、よき夫となられるつもりはございますか?」
一方的に断罪すれば、恨まれかねない。リリエッタは追い詰められたクリフに、選択肢を与えた。
「それは……」
戦場では素早い判断が求められるが、リリエッタに奇襲で外堀を埋められて答えあぐねているのだろう。
考えなしに「誰がなんと言おうと領主は俺だ!」とか「ちゃんと妻として遇しているだろう」などと言い放てばそれまでだったが、クリフは踏みとどまった。
「この場でわたくしを女主人としてお認めになると宣言してください。王家から沙汰が下るまでの間、責任を持って砦の運営と、使用人の再編成にあたらせていただきますわ」
王太子がどんな処罰を与えるかわからないが、リリエッタは暫くこの場所で生活することになる。
力を惜しまず、少しでも居心地を良くするつもりだ。
「……ッ領主の妻としての権限を与えよう。責任を持ってことにあたってくれ」
「承りました」
*
サウス夫妻の予想は的中した。
おっとり、ふんわりした印象のリリエッタだが、実は姉妹で一番苛烈な性格をしている。
敵には容赦がなく、子供の頃は揶揄ってきた少年を片っ端から泣かせてきた。
成長するにつれ、怒りをコントロールする術を身につけたリリエッタ。
反射的に言い返さないようグッとこらえ、諸々セーブして発言しているから聞き役になっているように見えたり、のんびりした印象を与えているにすぎない。
おだやかな微笑みは、単なる顔立ちの問題であり、リリエッタは適当に愛想笑いをしているだけだ。
こうして結婚からわずか三日で、砦の実権を握ったリリエッタは遠慮なく辣腕を振るった。
使用人の大量解雇と求人は、ことの次第を北部全域に知らしめた。
*
王家の返答を待つ間、クリフは生きた心地がしなかった。
魔獣との戦いは一瞬の油断が命取りになる。
集中できない人間がいても迷惑だ。
すっかり嫁の尻に敷かれたクリフは、仕事をするリリエッタに付き従うことになった。
領主として資質に問題ありとして沙汰を待っているので、領主の仕事はできない。
他にやることがないので、リリエッタの護衛をすることになった。
領主と領主夫人、両方の仕事をこなすリリエッタをクリフは誰よりも近い場所で見続けた。
本当のところ二人がどのような夫婦であったかは当人のみぞ知るだが、十代目ブリーデン当主は養子をとることはなく、ただ一人の妻との間に五人の子供をもうけたと記録に残されている。
クリフ・ブリーデンが断種を免れたのは間違いない。