7.あいをしらない
この話は連載のほうにある「あいをしらない」の元になった短編です。あちらを読むつもりがある方はひどいネタバレになるのでご注意くださいm(_ _)m
あいは愛を知らない。幼い頃に両親を失ったからだ。事故にあって、頼みもしないのにあいを庇って死んだ。
あいは今年で16歳になる。両親の死後にあいを引き取った伯母夫婦はお世辞にもよくしてくれたとは言い難かった。伯母は高校には行くように言ったが、あいはそれを自分のためではなく伯母の世間体のためだと思っている。
あいに与えられた風の吹き抜けるみずぼらしい部屋は夏場はまだいいが、冬場は凍えるほどに寒かった。
あいは自分の名前がキライだった。ひらがな二文字の「あい」。愛されるような子に、誰もが会いたがるよう子になるようにと両親がつけた名前だった。冗談じゃない。あいは狭い意味で1人で生きていける。そりゃあ人類が全部滅びてあいだけが生き残ったら生きていけないかもしれないけど。
あいの高校生活は順調だった。一般的に見れば全く順調ではないのだけれど、少なくともあいにとっては。
あいは1人になりたかった。見え透いたお世辞や同情がキライだった。人の話し声もキライだった。クラスメイトの笑顔はどいつもこいつも卑屈そうにしか見えなかった。
あいにとって図書室は高校の中で唯一の聖域だった。ここにいれば誰も話し掛けてこないし、物音も少ない。退屈を紛らすための本は山のようにある。どこかの部活が開いているテスト前の勉強会も図書室でするような連中は比較的に静かだった。
あいは自分に与えられたあのみずぼらしい部屋がキライだったので放課後もよく図書室に居た。傍らに何冊も本を積んで下校時刻ギリギリになるまで読み耽った。
そんな毎日にあいは満足していた。
あいの前に彼が現れるまでは。
彼があいの前に現れたのは木枯らしの吹く11月のことだった。
彼は本が好きらしかった。あいのようによく図書室に入り浸っていたので、彼を目の端に捉えることはよくあった。
その日、彼は読み終えた本を棚に戻す際にあいの横を通り過ぎた。そのとき「あっ」と短く声を上げた。
あいが怪訝に思いながら顔をあげると「それ、君が借りてたんだ」と嬉々とした表情で言った。偽物の笑顔だ、とあいは思う。関わり合いになりたくなかったし、その本を特におもしろいとも思っていなかったので「必要なら返しますけど」と感情を込めずに返した。
「いいんだ。一度読んだから」
嬉々とした表情を崩さず彼はそのまま棚のほうへ向かった。あいが本に視線を落として少しすると向かいで何かが動いた気配があった。
「少しいいかな?」先程の彼があいの真正面の椅子に腰をおろした。
「何か?」あいは面倒に思った。自分の聖域が彼のために台無しにされてしまったのを感じた。
「読み終えたらその本の感想を聴かせて欲しいんだ。特に主人公の心理描写について」
あいはふとこの本の冒頭を思い浮かべた。幼少の頃に両親を事故で失った少年の話しだ。
鮮明に描かれたその事故はあいに自分の境遇を思い起こさせた。
だけど主人公の心理には全く共感できなかった。この話の主人公はひたすらに前向きだ。両親を無くしたからこそ強く生きていこうとしている。
「明日、また来るよ」 そう言い残して彼は席を立った。
あいはその後ろ姿をなんとなく見ていた。なぜかはわからない。彼の笑顔よりも背中に心が映っている気がした。
その日のうちにあいは本を読み終えた。くだらないと思った。ありがちな障害、同情してくれる仲間を見つけて障害に立ち向かう主人公、ハッピーエンド。
くだらない。本当にくだらない。
あいは障害に立ち向かおうとは思わない。避けて通ったほうが楽だからだ。
同情されると寒気がした。嬉しいなんて欠片も思わなかった。ハッピーエンドなんて大衆向けに付け足しただけのように思った。
フィクションだ。あいは思う。
両親が居る人向けに書かれた偽物の話。念のためにあいはもう一度流し読みをしながら各章の主要なシーンを思い浮かべたが感じたことは同じだった。
翌日、あいはやはり図書室に居た。向かいに彼がやってきた。「どうだった?」と相変わらずの嬉しそうな声で言う。
あいは不意に彼を憎く思った。彼はあの本を楽しんだのだろう。だからこそあいの聖域を汚し、あいに感想を求めている。
あいは彼を打ちのめしてやろうと思った。彼の愛する本を徹底的に貶してやろうと思った。
「つまらなかった」と切り出した。
ここに書かれたことは偽物だ。本当に両親を亡くせばこんな綺麗な感情を抱けない。
あいは自分の感じた全てを伝えた。
彼はそれを (少なくともあいとしては) 意外なことに表情を変えずに聴いていた。あいが全てを言い終えても彼は笑顔のままだった。
あいはそのことを腹立たしく思った。横っ面を叩いてやりたくなるくらいに。
自分の中にそんなに激しい感情があったことに久しぶりに気づいた。二人を沈黙が包んだ。やがて、彼はゆっくりと言った。
「やっと、同じ考えの人に会えた」
あいの背筋が凍りついた。笑顔の消えた彼の表情は恐ろしく冷たかった。なのに、あいはそれが恐ろしくて凍りついたのではなかった。それがあいの見たどの笑顔よりもはるかに魅力的に見えたのだ。
「また来るよ」彼は席を立った。あいはしばらくぼーっとしていた。
あいはなんだか落ち着かなかった。冷たく感じた彼の表情が気になった。
あいは司書の先生に彼のことを訊いてみた。
名前は戸上 優人、三年生であまり出ていないけど文芸部の副部長をしている。一番最近借りた本は夏目 漱石の『こころ』
家に帰ってからもあいは寒さと関係なく眠れなかった。
彼は放課後の少しの時間だけあいと話した。本の話が中心だった。あいと彼の考え方は似ていたが完全に同じというわけではなく『こころ』については意見が別れた。
“私”は死ぬべきだったか否か。
彼は迷うことなくあの冷たい表情で死ぬべきだったと言った。あいは否だと言った。
平行線を辿ることは目に見えていたし、彼はすぐに帰ってしまうのもわかっていたのでそれ以上は互いになにも言わなかったけれど。
『人間失格』については一致した。互いに主人公に共感を持っていた。
次第にあいは彼がなぜあいと似たような考えを持つに至ったか知りたくなった。あいは彼が帰ったあと文芸部を訪ねてみた。入部希望だというと歓迎してくれた。
「戸上さんって人に勧められたんです」あいが飄々と嘘をつくと部長らしい人は「へぇ、あいつがなぁ」と奇妙な顔をした。
「あの人、ちょっと変わってますよね」構わずに訊くと部長さんは「俺が言ったって言わないでくれよ」と前置きして嫌な笑みを浮かべた。
あいはその笑みを知っていた。『あいつ両親がいないんだって』、『かわいそうね』
そう噂する同級生達の笑みと全く同じだった。
あいは驚かなかった。その噂の内容までもあいとそっくりだった。ただし彼の境遇はもう1つひどかった。彼の両親は彼と心中しようとしたのだ。結局、彼だけが生き残った。いまは養子に引き取られ、学費を返すためにアルバイトをしているそうだった。彼が話を直ぐに切り上げて帰ってしまうのはそのためらしい。
あいの頭の中で彼がぐるぐると回っていた。家に帰ってもずっとだった。惹かれているのだろうか? あいはそれを否定しようとしたが彼の顔がどうしても消えなかった。彼に会いたいと思った。
会って話がしたかった。
次の日も彼は図書室にやってきた。いつものようにあいの向かいに座った。あいは本を閉じて真っ直ぐに彼の目を見た。
「あなたのこと、文芸部の人に訊いた」
彼は「へぇ」と事も無げに言ったけど、その瞳はわずかに揺れていた。動揺しているのだと思った。彼はそれを隠すように少し俯いた。
「そうなんじゃないかな ってちょっと思ってた」
彼は顔を上げてなにか言おうとして止めて、また俯いて、それから大分躊躇った末に顔を上げた。
「僕と心中しないか?」と彼は言った。痛みを堪えるような、決意を固めたような、必死の表情だった。
「両親が死んだことなんて僕たちは少しも悲しくない」
あいは頷いた。物心つくかつかないかのことだ。もう思い出すこともない。周りの人間が思っているより遥かに悲しみの風化は早い。
彼があいの過去を知っていたことは別に気にならなかった。口の軽い同級生にはいくらでも心当たりがある。
「それよりもそのことについて噂されることや同情されることが悔しいし、悲しい」
あいはもう一度頷いた。“両親の居ない子”として扱われることが一番嫌だった。
「だから僕は死にたい。君もそうだろ?」
だけど、あいはかぶりを振ってそれを否定した。
「少し前なら私もそうだったかもしれない」
彼はあいの言葉に打ちのめされたような表情になった。
「どうして?」
彼は絞り出すような細い声を出した。
「“あい”を知ったから」
少しもふざけたところなく、真顔であいは言った。恥ずかしいなんて欠片も思わなかった。
あいは自分を知った。誰かの横っ面を叩いてやりたいと思う激情があることを知った。彼が会いに来てくれることを嬉しく思う気持ちがあることを知った。そして自分の中の愛を知った。
彼はあいの顔を見つめてぎこちなく固まっていた。あいも彼の顔を見つめて視線を外さなかった。
「私はあなたにも“あい”を知って欲しいと思う」
あいはもう何年も見せていない笑顔を彼に見せた。笑い方を忘れていないか不安になった。
「……1つ知ったよ」
彼は表情を変えた。
「“あい”は笑うととてもキレイだ」
それは泣きながら、だけどとても穏やかな本物の笑顔だった。
優人はその日、“あい”を知った。
優人はその日、“愛”を知った。
優人はその日、“I”を知った。