4.慈悲
人払いをして貰った。社長という立場を使えば多少の無理は効く。例えそれが病院という場所であっても。
真っ白な病室に私は1人で死を待っていた。我ながら孤独で死にたいというのも妙なモノだ。いまにも意識が飛びそうになる激痛が全身を駆け巡る。
癌、だった。元々兆候はあったのだ。だが私はそれを無視し続けた。その結果はこれだ。別段軽視していた訳ではない。ただ2年前のあの日から、もういつ死んでも構わないと考えて居た。
私は一度、目を閉じた。
あの日を思い浮かべる。
思い出さない日はなかったが臆病な私はすぐに瞳を開いてしまう。自分が嫌になる。意識を逸らすために私は何気なく部屋を見渡した。ある一点で私は視線を止めた。そこでは、真っ白なはずの部屋の片隅はある一部分だけが黒く染まっていた。
私は見間違いかと思って一度大きく瞬きをする。
すると、片隅の黒い部分に燃えるように揺れる黒い衣を着た、身の丈を超える大きな鎌を持った、ドクロの仮面の男が立っていた。
誰もが知る死神の姿。
遂に、来たか……
異様なはずなのに、私にはそれはとても自然で正しいモノに見えた。
「あなたは死神ですか?」
「……はい」
声は想像していたより高く、若い。
「私はあとどれくらい生きていられますか?」
「……1時間です」
死神の声は淡々としていた。抑揚がない、というのだろうか? あまり本を読んで来なかったせいか語彙力にはあまり自信がない。
「1時間ですか」
長い。私は思う。私のやるべきことはもう全て終わったのだ。
「死神さん」
「……はい」
「死んだら息子に会えますか?」
彼は答えなかった。
「死神さん、少し昔話をしてよろしいですか?」
彼はゆっくりと頷いた。
「2年前に死んだ息子の話です」
強い正義感を持つ聡明な子でした。大抵の親にとって子供とはそういうモノかも知れませんが。まあ親バカというやつです。
その子が19歳になった誕生日の日でした。息子は、誘拐されました。
警察は迅速に動いてくれたので彼等の不手際と責めるのは酷でしょう。
詳しい経過は省きましょうか。犯人は追い詰められた末に、息子を殺して自殺しました……
犯人の親は私に両膝と指をついて頭を下げましたよ。私はそんな彼等に“そうすることで楽になるのはあなた方だけです”と淡々と言いました。
しかし口で何を言おうと私は怒ってなどいなかった。
そしてこの2年間、怒れない私自身をなによりも許せなかった。
彼は、死神は一言も挟むことなく静かにその場に佇んでいた。
「死神さん」
「……はい」
「あなたと会ってわかりました 私は息子を愛していなかった訳ではない」
なぜなら私はいまとても晴れやかな気持ちだからだ。
「死神さん、仮面を外していただけますか?」
死神は何も言わなかった。ただ仮面の下から真っ直ぐに私を見ていた。
「感謝します、死神さん」
死神は何も言わなかった。ただ鎌の柄が持ち上がった。
「もうそんな時間ですか」
死神は何も言わなかった。ただ刃が鈍く光った。
「最後に1つだけよろしいですか?」
死神は何も言わなかった。ただ一度だけ小さく頷いた。
「仮面を外していただけますか?」
死神は何も言わなかった。ただ鎌を取り落として、仮面に手をやった。
「慈悲──、でしょうかね 神は最後に私の願いを叶えてくれた」
仮面を外した死神の頬にはいくつもの水滴が伝っていた。
長い、長い躊躇いのあとに死神は感情を殺した声で言った。
「私もあなたに感謝しています」
そして死神はぐしゃぐしゃの泣き顔で、やはり笑った。
私も、やはり笑った。