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虚構世界のユートピア

作者: 深見 鳴

 



 もうじき夜が明ける。

 東の方角から日が昇り、規則的に並んだビル群や住宅を照らす。光と陰が克明に描き出される。

 眠りから目覚めはじめる街の中を、青年は全速力で走っていた。黒い軍服を着込んでおり、髪と目は鮮やかな赤色をしている。


『目標、10番通りを北上しています』


 聞き慣れたオペレーターの声には、薄く疲れが滲んでいた。当たり前だ。夜中に叩き起こされて、日が昇るまでずっと働かされているのだから。


『a座標からX座標へ瞬間移動(テレポート)します。作動まで三、二、一』


 ゼロ、の声と共に全身を浮遊感が包む。視界が眩み、気がつくと体が宙空にあった。高さにしてビル二階分ほど。舌打ちする間にも、重力に従って体が落下していく。足裏にしっかりと地面を捉えて着地するが、かなりの衝撃が走った。目の前の景色は映像を差し替えたかのように、先ほどとは全く違うものに変わっている。


「おい、もっと高度落とせ!」

『おっとすみません。でも地面にめり込むよりましでしょ、とレイジが言っています』


 調子のいい同輩に舌打ちを返す。無線の向こうでかすかに笑う気配がした。

 瞬間移動の正確性が落ちている。さすがに能力を酷使しすぎて、集中力が切れてきているのだろう。このままだと本当に地面にめり込むか、空の上にでも飛ばされるかもしれない。


『十河少尉の方は制圧完了したそうです。先輩が追っているので最後ですよ』

「了解」

『会敵まで十三秒。そのまま直進してください。五、四、三、二、一』


 カウントダウンと共に、目の前に迫るのは鉄柵だった。その先はぽっかりと道が途切れている。だが青年はほとんど速度を落とさずに道を駆け抜けた。

 鉄柵の手すりを掴み、腕を軸にして飛び越える。その直下にある路地に、目的の人物がいた。三十代半ばと見える痩せぎすの男は、ぎょっと目を見開いて上を見上げている。


『ゼロ』


 オペレーターがカウントの終了を告げると同時に、青年は男の上に飛び降りていた。


「ちくしょう、離せッ! 退けッ!」


 喚きながら暴れる男を上から押さえ込みながら、青年は面倒臭そうにため息をつく。


「レジスタンスの一党は全て捕縛した。お前が最後だよ、おめでとうさん」

「クソ、軍の狗が……っ!」

「言うじゃねえか、犯罪者が」


 男は息を乱し、地面に顔を押し付けられながらも、青年を睨み上げる。


「サフィルスシステムは近い将来、必ず崩壊するぞ。AIが人間を支配するなんて、間違っている」

「よく言うな。お前もその恩恵を受けている内の一人だろ」

「俺は……お前たちとは違うッ!」


 男が強い力で押さえつけられた体を起こし、上から押さえつけていた青年を振り飛ばした。油断した。すぐに態勢を立て直して追いかけようとしたが、予想に反して男は逃げようとはしない。


「恩恵を受けているのは一部の富裕層だけだ! 俺たちは職業も自由に選べず、病にかかればすぐに殺される……現政府に疑問を持つことも許されない!」


 何を話し出すかと思えば、くだらない不平不満だ。ため息をつきたくなるのを堪えて、青年は頭を掻いた。


「適正値を見極めて職種を絞ることも、感染症を広めないために病人を隔離するのも、合理的な判断だろ。危険思想を持つ人物を取り締まるのは、治安の乱れを防ぐために必要なことだ」

「それは詭弁だ! お前たちは……」

「ガタガタうるせぇな」


 詭弁だということは百も承知だ。この男の主張は分かるし、同情もする。だが。


「現状を変える力もない奴が、喚くんじゃねぇよ」


 力もないのに足掻く奴が、見ていて一番腹が立つのだ。

 青年はおもむろに左手を掲げた。軍服の袖の下から、手首につけた銀の腕輪が現れる。それを見た瞬間に男は血相を変えた。

 銀の腕輪は、軍属の異能者の印だからだ。

 男が踵を返す。遅い。彼は逃げ出すのが致命的に遅かった。

 青年の周囲に炎が踊り、それは瞬く間に地を這って男の右手に噛み付いた。醜い悲鳴が上がり、肉が焦げる臭いがかすかに漂う。

 焼けた手を胸元に抱え込んで蹲っている男を見て、青年は息をついた。

 法を守らない人間は、法に守られない。逆らえば必ずああなる。誰であっても——それは勿論、自分も含めて。


「捕縛完了した。転送頼む」

『分かりました。現在地の座標を送ってください』

「ああ、今……」


 視界の隅で何かが動くのが見えた。見ると、蹲っていたはずの男がゆらりと立ち上がっている。手に何か光るものを持っていた。折り畳み式のナイフだ。

 男が大声で叫びながら、ナイフを持ってこちらに突進してくる。完全に意表を突かれた。対処しようにも、間に合わない。

 痛みを覚悟したそのとき、何の前触れもなく男の手からナイフが吹き飛んだ。突然の出来事に目を見開き、男は前につんのめってそのまま頭から地面に突っ込む。青年は男に巻き込まれるところを危うく避けて、安堵の息をついた。


「ヒイロ」


 だがそれも束の間、再び全身を緊張が支配する。恐る恐る顔を上げると、彼の上司が路地に立っていた。


「……十河少尉」


 上司と言っても歳はほとんど変わらない。ヒイロと同じく十七か十八に見える彼は、その若さにも関わらず少尉という地位に収まっていた。その理由としては、この国の軍部が徹底した実力主義であること、そして彼の親が軍の上層部にいることが挙げられる。


「こんな雑魚に何を手こずっている。貴様は訓練で何を学んできたんだ」

「申し訳ありませ……」


 ヒイロが皆まで言う前に、十河は地面に蹲っていた男の襟首を掴み、薄汚れた灰色の壁に叩きつけた。唾を吐いて咳き込む男の眼前に、先程男の手から飛んだナイフが突きつけられる。

 男に突きつけられたナイフは、宙に浮いていた。


「どうする。まだ抵抗するか?」


 低く発された脅しに、哀れな男は弱々しく首を振った。


 ◇


 アダマス区の街並みは良く言えば整然としていて、悪く言えば情緒がない。規則的に並んだ高層ビル群は、ヒイロにしてみれば気味の悪いものだった。まだエブル区のネオン街の方が落ち着くような気さえする。

 この国における上流階級の人間が住むアダマス区に、それはある。すっきりと天へ伸びる白い柱。中央統制局——住民たちには白の塔と呼ばれるそれは、この都市の心臓部だ。この塔自体が統制システム『サフィルス』の本体である。

 ほとんど音を立てることなく上昇を続けるエレベーターから外の景色を眺めながら、ヒイロは欠伸を噛み殺した。同じエレベーターに乗った十河少尉は、相変わらずの無表情で鉄の扉を睨んでいる。

 きん、と鉄琴を叩いたような音が目的の階に着いたことを告げ、扉が開いた。十河の後に続いてヒイロも降りる。


「ここで待て」

「はい」

「勝手に動くなよ」


 うるせぇな。分かってるっての。

 悪態を飛ばしたいのを必死で堪え、澄ました顔で「はい」と頷く。口ごたえした日には容赦なくボコされて、平気で二日分の飯を抜かれる。

 今日も今日とて、十河少尉はお父上への報告を欠かさない。フェルム区の軍本部からアダマス区の統制局への距離は、決して短くはないのに。

 少尉の背中が見えなくなったのを確認してから、ヒイロはぼそりと吐き捨てる。


「すげぇ忠犬っぷり」


 嘲笑をこぼし、エレベーターホール内に置かれたソファに腰掛ける。

 何はともあれ、この時間だけは十河の監視の目から解放される。束の間の休息を堪能しようと目を閉じかけたとき、かたん、という小さな音を耳が拾った。

 瞬時に懐に仕込んだ銃に手をかけ、音がした方に体を向ける。果たしてそこにいたのは、予想していたのとはかけ離れた人物だった。


「……女?」


 動揺のあまり、思わず声に出してしまう。

 そこにいたのは、ヒイロとそう変わらない年齢の少女だった。

 彼女は白かった。とにかく真っ白だった。まず肌が白い。着ているのも純白のワンピースで、なぜか裸足だった。そして何よりも目を引くのは、肩甲骨のあたりまで伸びた長い髪が真っ白なことだ。彼女の中で唯一色があるのは、瞳の緑色くらいのものだった。

 どうして女がこんなところにいる。


「おい、あんた誰だ?」


 問うと、少女は警戒心も露わに後ずさった。


「統制局の関係者か? こんなところで何して……」


 皆まで言う前に、少女は踵を返して走り去る。


「あ、おい待て!」


 ヒイロはソファから立ち上がり、逃げる少女を追いかける。十河からの命令など、その時には頭から飛んでいた。

 存外に少女の足は早く、そして統制局の廊下は入り組んでいた。普段はエントランスを通ってエレベーターに乗ってホールで椅子に座って休憩し、来た道を戻るだけなので知らなかった。廊下を走り回った後、彼女は錆びた鉄の扉を開けてその向こうへと走り去っていった。

 ヒイロも扉の向こうへ飛び込み、そして息を呑む。

 一面の緑が、眼下に広がっていた。何種類もの木々や草花が思い思いに背を伸ばしている。そこはまるで、屋内に作られた森だった。

 鉄製の階段が下に向かって伸びており、少女は軽やかな足取りでその階段を下っていた。どうやらこの空間は、数階分を貫通して吹き抜けになっているらしい。

 階段を下り終えると、彼女は何故か階段上にいるヒイロを見上げた。さっきまで逃げていたくせに、来ないのかとばかりの目をしている。

 ヒイロはため息をついて階段を下った。


「なあ、あんた本当に誰だ?」


 階段の半ばでヒイロは少女に問うた。彼女はヒイロを見上げながら答える。


「コハク。あなたは?」

「……ヒイロ」


 存外にあっさりと名乗られたことに面食らう。少女はゆっくりと歩きはじめた。部屋は壁面がすべてガラス張りになっており、その向こうに外が見えている。


「あなた、いつも見る人達とは服が違う。白じゃなくて黒ね」


 ヒイロは無言で思考した。白い服。おそらく白衣のことだ。白い塔内部に作られた庭園に、白い髪の少女。


「……軍の実験動物か」


 彼女には聞こえないように呟き、階段を下りきる。彼女は時折ヒイロの方を伺いながら、ガラス張りの壁の方へと歩いていった。


「あなた、外から来たひと?」

「ああ」

「じゃあ、外の世界を知ってる? どんなところ?」

「どうって、そこからも見える……」


 言いさして、ヒイロは声を失った。少女がガラス窓に近づき、手を触れる。その向こうに広がる景色は、現実世界とは似ても似つかないものだった。

 緑だ。一面の緑。なだらかな丘が続き、遠くには緩く湾曲した海岸線と凪の海が見える。

 立体映像だと瞬時に理解する。これはガラス窓を模した投影板だ。

 ヒイロの表情を見て、コハクは彼が理解したことを知ったのだろう。静かに口を開き、彼女はこう言った。


「ヒイロ。私に外の世界を見せて。虚構じゃない、ほんとうの世界を」


 立体映像から少女の方へ視線を移し、ヒイロは眉をひそめた。銀の腕輪が二つ、その細い手首を戒めていた。

 彼女に自由がないことを察するのに時間はいらなかった。

 かつて自分がそうだったからだ。


「何で俺に頼むんだよ」


 問うと、彼女は無言でヒイロの手首を差した。袖の下から銀の腕輪が見えている。彼女の方も、ヒイロが自分と同じだと気づいたのだろう。


「……外に出たいってことか」

「そう」

「その後はどうする。どうやって生きるんだ。住むところは、働き口は、金はどうする」


 少女は黙ってしまった。緑の無垢な瞳がヒイロを見上げている。


「ここから出たって死ぬだけだ。だったら飼い殺しにされる方がずっといい……そうだろ?」


 自分に言い聞かせるような口調になっていることに、ヒイロは自分でも気づいていた。少女は目を逸らさない。


「……死ぬのは嫌」


 軽やかに笑って、彼女は言った。


「だけど、鳥籠の中で死ぬのはもっと嫌」


 ヒイロは何も言い返せなかった。

 自分の現状を揶揄されているように感じたのだ。彼女にそんなつもりはないのだと、分かってはいても。

 彼女はにこりとヒイロに微笑みかけた。


「でも、そんなことしたらあなたの立場が危うくなっちゃうね」


 苦笑する彼女に、何かを言おうとして。だけどなにも言えずに拳を握る。


「今の話は忘れて。さようなら、赤い髪のお兄さん」


 少女は寂しげに微笑み、ヒイロに背を向けて木々の向こうへと姿を消した。ひらりと舞うスカートの裾が、影の中へ吸い込まれていく。

 言いようのない罪悪感と無力感に苛まれながら、俯く。緑の芝生と自分の靴が視界を埋めた。

 そのとき、腕輪から小さな電子音が響いた。これは通信機も兼ねているのだ。


「はい」


 考えなしに応答したことを、ヒイロは瞬時に後悔した。


「貴様、今どこにいる」


 怒気を孕んだ上司の声が、通信機の向こうから聞こえてきたからだ。


 ◇


 後頭部にたんこぶを拵えて軍本部に帰投することになったヒイロは、凄まじく不機嫌だった。

 小さく悪態をつき、廊下の壁を蹴る。苛立ちながらミーティングルームのセンサーにカードキーをかざし、中へ入った。

 部屋の扉をくぐって正面はガラス張りの窓。右手には壁一面を埋め尽くす広大なモニターが見え、左手には隣の部屋へ続く扉がある。部屋の中央にはシンプルな白の椅子と机が置いてあり、机の上には大量の菓子が広がっていた。


「あ、先輩お帰りなふぁい。大佐への報告ごくろーさまれす」


 椅子に座っていた短髪の少女が、お菓子を口に詰め込んだまま敬礼をした。彼女に言いたいことは山ほどあったが、あえて別のことを聞く。


「レイジは」


 少女は口の中にまだ物が入っているのにも関わらず、新しいクッキーを掴む。もう片方の手では左手の扉を指していた。


「いつものです。能力酔いしてげえげえ吐いてます」

「んで、お前は呑気におやつかよ」

「あたしとレイジの能力は副作用ひどいんですって」

「あの野郎、雑に飛ばしやがって。まだ足がビリビリしてんだよ」

「十河少尉の瞬間移動もしてましたからねえ。でも少尉の方は一度もミスしてませんでした」

「そうだろうな」


 乱暴にため息をつき、ヒイロは少女の斜め向かいに座る。夜明け前から働かされて、すっかりくたびれていた。

 今ヒイロの前で菓子を貪っている少女は、名前をマヤという。茶色の短髪と銀縁のメガネが特徴的な細身の少女で、先ほどの制圧任務ではオペレーターを勤めていた。彼女もヒイロと同じく、軍属の異能者だ。能力は精神感応。俗に言うテレパシー能力者であり、通信機を介さずに直接意思の伝播をすることができる。

 もう一人、隣の仮眠室で吐いている男は名をレイジといって、瞬間移動の能力者だ。人や物を移動させるだけでなく、半径十キロ以内の空間を把握することができる。敵の追跡と捕縛も彼の能力に頼ったからこそ、短時間で済ませることができた。

 彼らは軍の中でも一級の異能者だ。精神感応のマヤ、瞬間移動のレイジ、発火能力のヒイロ。そして彼らを統括する念動力の十河海。彼のみが正規の軍人であり、国内でも有名な軍人一家の長男である。彼が十代で少尉の地位に就いているのには、それが大きく関係しているのだ。

 この四人で連携し、国家の秩序を乱す輩を処罰する。反政府組織を叩き、統括システム『サフィルス』が定めた法に背いた犯罪者を捕縛し、そんなことを毎日繰り返す。

 それが彼の日常だ。


『私に外の世界を見せて』


 あの白い少女の言葉を思い出す。

 忘れればいいのに、頭の奥にこびりついて離れない。

 この日常を壊せば、待っているのは非日常だ。連行されていく犯罪者たちの姿が脳裏に浮かぶ。燃える町、教会の十字架、肉が焼ける臭い、銃声、血、そして“彼女”の悲鳴。

 そこまで思い出したところで、胸糞が悪くなってやめた。

 俺はこれでいい、と無理やり自分を納得させる。

 今更、逃げられない。


 ◇


 十河は週に一度は大佐のところへ報告に行く。大佐とは十河の直属の上司であり、彼の父親でもあった。ヒイロたちは概ね大佐の命で動き、現場の指揮監督は十河が行う。ヒイロには当たりが強い十河も、大佐には従順だ。

 白い塔のエレベーターホールで、ヒイロはいつものように十河が大佐への報告を終えるのを待っていた。何を話しているのか知らないが、いつもやたらと時間がかかる。

 人気のないエレベーターホールでソファに座っていたヒイロは、おもむろに立ち上がった。先週の記憶を辿り、明かりの絞られた薄暗い廊下を進む。昼間だとは思えないほど静かなフロアだ。

 やがて、錆びた鉄の扉が見えてくる。ヒイロはその扉を開けようとしたが、ドアノブが空回る音ばかりが聞こえた。

 鍵がかかっている。


「……あのときはあの女が向こう側から開けたのか」


 考えたのは一瞬だった。上着の内ポケットから針金を取り出し、鍵穴に差し込む。十秒とかからずに鍵が開く音がした。

 扉を開け、悠々と鉄の階段を下る。庭園は前に来たときと変わらず、木々が青い葉を茂らせ、花壇に花が咲いていた。レンガの敷き詰められた道をしばらく歩いた後、そこから外れて窓の方へと歩く。正確には、窓を模した投影板の方へと。塔の形にそって緩やかなカーブを描くそれには、精巧な立体映像が映っている。

 緑のなだらかな丘。ぽつぽつと佇む木。白い砂浜と凪いだ海。青い空がどこまでも広がる。

 見ていると不思議と安らぐ景色だった。


「これを見に来たの?」


 いつの間にか後ろにあの白い少女が立っていた。ヒイロが驚きに声を失っている間に、少女は納得したように頷いている。


「確かに、綺麗だよね。私はもう見飽きちゃったけど」


 彼女はヒイロを見上げて、初めて会ったあの日と同じように微笑んだ。


「あなたはこの景色が好き?」


 まっすぐな緑の瞳に見つめられ、少したじろぐ。


「……そうかもな」


 なんとも煮え切らない返事をしたあと、ヒイロは少女の様子がおかしいことに気がついた。ひやりと心臓を氷の手で撫でられたような心地がした。


「お前、その腕どうした」

「え、ああ、これ?」


 彼女の右腕には包帯が巻かれていた。よく見れば腕だけじゃない。左足にも同じように包帯が巻いてある。


「ちょっと実験が続いてたから、変になっちゃっただけ。投薬してるし、すぐ治るよ」


 実験。最近はめっきり聞くことのなかったその単語に、驚くほどの速さで過去の記憶が蘇る。ヒイロも能力を熟達させるため、様々なことをさせられた。あらゆるものを溶解させ、燃やし尽くした。身体中の水分を失っても、自力で立てなくなっても、文字通り血反吐を吐きながら過酷な実験に耐えた。

 今まで生きてきた中で一番辛かった記憶だ。マヤもレイジも、それに耐えきって実験体から軍属の異能者へと昇格した。実験に耐られなかった被験体の末路は、思い出したくもない。

 それと同じことを目の前の少女もされているのだと思うと、やるせなかった。


「あのさ」


 逃げたいか。

 聞こうとした言葉を、口にのぼせる前に押し留めた。聞いてはいけないと思った。


「また見に来る」


 その代わりに、投影板を指差してこう言った。少女は儚く微笑み、頷く。


「うん。待ってる」


 それから、たびたびその庭園へ訪れるようになった。彼女の包帯は増えたり減ったりを繰り返していたが、彼女自身はいつも笑顔を絶やさなかった。

 いつしか、なだらかな丘陵と凪いだ海の景色を見ること、そして庭園の白い少女と話すことが、週に一度の楽しみになっていた。


 ◇


「レジスタンスの活動が活発化してるみたいですね」


 マヤが難しい顔で腕を組む。その傍らには例のごとくクッキーやらケーキやらが置いてあった。彼女はフォークすら使わず手掴みでショートケーキを食べている。

 深夜のミーティングルームで、ヒイロはマヤと向かい合ってテーブルについていた。


「あたしとレイジは他の部隊のサポートもしてるんで体力もたないですよ」

「お前らの能力は汎用性高いしな」

「先輩、代わってください」

「無茶言うな。俺は前線向きの能力なんだよ……ところでレイジは?」

「向こうの部屋で吐いてます」

「またかよ」


 ため息をつきつつも、考えてしまう。吐くまで酷使されて、糖分が欠乏するまで使い潰される。ヒイロとて能力を使い続ければひどい脱水症状に襲われる。能力の行使には代償が伴うのだ。そうと分かっていて限界まで使われるのは、異能者が体のいい道具と思われているからだ。

 あの庭園の少女だけじゃない。鳥籠にいるのは、自分たちも同じなのだと思い知る。

 そして今夜もまた、戦いの始まりを告げるサイレンが鳴り響いた。

 ちょうどショートケーキを食べ終えたマヤが、嫌そうに顔をしかめた。


「げえ、またですよ。今夜も寝れないかも……何でレジスタンスって夜に行動するんですかね。この国では深夜十二時以降の外出は法律で禁止されているのに」

「だからこそだろ。闇に紛れられるし、人目もない」

「そんなもんですかね……」


 そう言ってマヤが立ち上がるのと同時に、ミーティングルームの扉が音もなく開いた。十河が靴音高く部屋に入ってくる。マヤとヒイロは揃って敬礼をした。


「フェルム区近郊にて武器輸送中のレジスタンス構成員を夜警担当の軍人が発見した。現在、第三班と交戦中とのことだ」


 十河は簡潔に状況を説明し、ヒイロとマヤの方へ視線を向ける。


「ヒイロは俺と共に前線へ。マヤとレイジはここに残ってバックアップをしろ」

「はい」


 敬礼を解かぬまま、声を揃えて返事をする。だが十河は不満そうに眉をひそめ、顔をしかめた。


「レイジはどうした」

「はい、少尉。隣室で休憩しております」

「連れて来い」

「はっ」


 ヒイロに対するときとは大違いの態度を取るマヤに、ヒイロは物言いたげな視線を向ける。彼女はその視線に気づかない振りをして、仮眠室へ入っていった。壁一枚隔てたところで「待て、揺らすな。中身が出る」などと必死さの滲む声でレイジが言うのが聞こえた。

 彼に目標地点まで飛ばしてもらうと、そこはフェルム区東端に位置する廃工場だった。中では既に乱闘になっているらしく、銃声や叫び声が聞こえる。


「五分で終わらせる。気を抜くなよ」

「承知しました」


 ヒイロは十河に続いて廃工場へと乗り込み、いつも通りに仕事をした。正確には数えていないが、五分も経った頃にはレジスタンス側で立っている人間はいなくなった。

 血の臭いと焦げた臭いが充満した廃工場内で、縄で柱に縛られたレジスタンスの構成員たちは年齢も性別も様々だった。中にはヒイロと同じような年の子どももいる。

 少しだけ哀れに思っていると、十河が後ろから近づいてきた。


「どうしました」

「喜べ、仕事が減った」


 そう言いながらも全く喜ばしそうな顔ではない十河に、嫌な予感を覚えた。


「減ったって……」

「転送の手間がなくなった。ヒイロ、こいつらをまとめて燃やせ」


 目を見開く。

 燃える町がフラッシュバックした。広がる血溜まりの赤色が、思考を汚していく。


「そんな、尋問は」

「しなくていい。どうせ大した情報は持っていない。最近になって活動を始めた組織だからな」

「でも」

「見せしめにしろ、との命令だ」


 十河は自分の右手に付いている銀の腕輪を指差した。その向こうから、恐らく十河大佐が指令を出してきたのだろう。

 いつしか他の軍人たちの目も二人に集まっていた。のしかかる視線を感じながら、拳を握る。


「……有益な情報を持っているかもしれません。ここで切り捨てるべきじゃない」

「それはお前が判断することではない」

「子どももいるんですよ」

「だからどうした。ここで生かしたところで、どうせ尋問が終われば殺すんだ」


 直接手を汚すことが、今までなかったわけではない。この手はとうに血で汚れている。だが、まだ殺しを躊躇するだけの道徳心は残っていた。

 十河の手が肩に置かれ、低い声で囁かれる。


「やれ。上官の命令に逆らうな」


 心臓が鳴る。冷や汗が背中に伝い、握りしめた拳が震える。

 逃げるように顔を横に向けると、縛り付けられた子どもと目が合った。その唇が音のない声を紡ぐ。

 たすけて、と。

 死の恐怖に怯えたその顔が、“彼女”の最期に重なった。また過去の記憶がフラッシュバックする。彼女の周りに広がる血溜まり、赤く濡れた手が頬に触れて、彼女が口を開く。


「反抗的なようなら、実験室に戻してやってもいいんだぞ」


 明確な脅しに、体が強張る。

 実験室へ。またあの地獄へ。一日中監視され、実験という名の拷問をされて、吐いて、血を流して、恐怖に震えて。

 ——嫌だ。

 噛み締めた唇がぶつりと切れて、口の中に血の味が広がった。


 ◇


 その後すぐに白い塔へ出向き報告をすることとなった。夜中の街を軍用車で走り、フェルム区からアダマス区へと入る。灯りのない街を窓越しに眺めた。

 何をやっているんだろう、と思う。

 あの人に救われた命で、俺は何をしている。

 あんなにも火を憎んだはずなのに、軍を憎んだはずなのに、今や自分は軍の狗で、あの時と同じような悪夢を自分の手で作り出している。

 白い塔に入り、エレベーターに乗り込むと、透明な壁の向こうに外の景色が見えた。エレベーターは静かに上昇を続け、視界が高くなってゆく。この国では深夜十二時以降は外出も店の営業も禁じられている。眼下に広がるのは、灯りひとつ灯らない、真っ黒に塗りつぶされた街だった。まるでそこに巨大な穴が空いているようだった。

 きん、と鉄琴を叩いたような音が目的の階に着いたことを告げ、扉が開いた。十河の後に続いてヒイロも降りる。


「ここで待て」

「はい」

「勝手に動くなよ」

「はい」


 いつも通りに返事をし、十河の背中を見送った後はエレベーターホールのソファに座る。

 喉が渇いた。能力を使いすぎたのだ。

 渇きを癒すために思い描いたのは、コップに満たされた水ではなくあの景色だった。

 理想を描いたようなあの景色。緑の丘を、海を、空を、見たい。

 夢遊病者のような足取りで廊下を歩いた。無心で錆びた鉄の扉の鍵を開け、中へ入る。

 庭園は昼間に見るのとは随分と趣が異なっていた。窓に投影された景色も夜に変わっており、空には星が輝いている。窓だけでなく、天井部にも星の輝きがあった。

 手すりを掴みながら、鉄の階段を下る。窓のそばまで来ると、凪いだ海に月明かりが映っているのが見えた。


「なあ」


 振り返り、生い茂る木々の方を見やる。


「いるんだろ?」


 ここにいるはずの少女へ声をかける。庭園は塔の内部にあるとは思えないほど広大だった。ヒイロは木々の間に分け入り、少女の白い姿を探した。

 夜間は別の場所に移されていることも考えられたが、ここには確かに自分以外の人の気配があった。木々の間をしばらく歩くと、開けた場所に出た。

 見上げるほどの立派な大樹が佇立していた。幹は太く絡み合い、葉を茂らせた枝葉は深く広がっている。

 その樹の根元に彼女がいた。

 白いワンピースを着た彼女は、芝生の上で蹲っているようだった。


「おい——」

「来ないで」


 今までに聞いたことのない張り詰めた声だった。強い拒絶に、足が止まる。同時に彼女の様子がおかしいことに気がついた。


「見ないで」


 包帯が外れている。彼女の周りに細長い布きれが乱雑に散らばっていた。そして包帯の下の肌は、本来の滑らかな人間の肌とは程遠かった。

 透明な結晶が肌を蝕んでいる。彼女の腕も足も、細い肩も首筋もその結晶に覆われていた。彼女は自分の体を抱き込むようにして蹲っている。


「……どうして今、来ちゃったの?」

「お前、それ……」

「今だけは会いたくなかった」


 彼女はゆっくりと体を起こし、立ち上がる。白い髪が肩からこぼれ落ちた。見せつけるように両腕を広げた彼女の顔に、いつものような笑顔はなかった。ただ悲しそうな顔をしている。


「私ね、能力を使いすぎるとこうなっちゃうの。気持ち悪いよね」

「……そんなこと」

「無理しなくていいよ。私だって気持ち悪いって思うもの」


 そう言って彼女は笑ったけれど、痛々しい笑顔だった。自分でも上手く笑えていないことは分かってるらしく、彼女は苦しそうにしながら、それでも笑う。


「怖いよ」


 すり切れた笑顔に、何も言えなくなった。


「ねえ、私どうなるの? 投薬で抑えられなくなったら全身がこうなるの?」


 矢継ぎ早な質問は、彼女自身を追い詰めているように思えた。不安は煽られ、最悪な未来の想像を形作る。


「教えてよ、ヒイロ。外の世界ってどんなところ? 私が鳥籠の中で死んじゃう前に」


 誰か助けてよ。

 消え入りそうな声が訴えると同時に、ヒイロは彼女を抱きしめていた。


「逃げよう」


 無責任な言葉が口をついて出た。


「お前はこんなところに居たらだめだ。逃げるんだ、外へ」


 逃がしてやりたい。心からそう思った。

 彼女はいつも笑顔だったけれど、平気なわけでは決してなかった。当たり前だ。こんな地獄で平気でいられる人間なんて、きっと一人もいやしない。

 取り返しがつかなくなる前に、彼女だけは。

 コハクだけは、逃がしてやりたい。

 けたたましい警報が鳴り響いた。頭が割れそうな不愉快な音が大音量で垂れ流される。


『警告。警告。B棟地下階にて原因不明の爆発が起こりました。施設内の勤務者は直ちに避難を開始してください』

「爆発……?」


 機械音声による状況報告に、ヒイロは訝しげに眉をひそめる。研究者が実験に失敗でもしたのかと思ったが、その予想は外れた。

 小さな電子音が鳴り、着信があることを示す。ヒイロは一旦コハクから離れ、通話を開始した。


「はい」

『十河だ。B棟に侵入者あり。施設内の軍事関係者は直ちに出動し敵を殲滅せよとのことだ』

「……分かりました。すぐ向かいます」


 通信を切り、腕を下ろす。心臓が大きく鳴っていた。緊張し重くなっていく体とは裏腹に、頭はどんどん冴え渡ってゆく。

 侵入者は、おそらく活動の活発化が囁かれているレジスタンスだ。B棟の地下階から侵入し、狙うはおそらくサフィルスの本体だろう。レジスタンスはAIによる支配を嫌い、これを破棄せよと声高に主張している。

 今、じゃないのか。逃げるとしたら。

 今が絶好の機会なんじゃないのか。

 強く拳を握る。コハクの不安そうな視線を感じた。

 決めなくてならない。

 これまでの日常を守り軍という組織に守ってもらうか。

 日常を壊し軍に敵対して、この少女をここから逃がすか。

 後者を選べば待っているのは死だ。今までヒイロ自身が裁いてきた犯罪者のように、彼も処罰される。軍が管理する実験動物を逃がすということは、この上なく明確な背信行為だ。

 今、決めろ。

 彼女を救うか、見捨てるか。


「……コハク」


 押し殺した声で名前を呼ぶと、彼女は少し驚いた顔をした。返事を待たず、ヒイロは彼女の細い手首を掴む。


「行こう。逃げるぞ」


 彼女の手を引いて走り出す。庭園には一階にも扉があった。こちらは上階のそれのようにドアノブのついた古いタイプではなく、鉄の自動扉だった。


「待って。扉にはロックが——」


 彼女が皆まで言う前に、ヒイロは走りながら左手を扉に向けた。手のひらに熱が集まる。炎の球が形成され、扉へ向かって飛んだ。爆発音と共に扉が吹っ飛び、新たな警報が鳴り始める。扉を壊したことで制御室に警告が行ったはずだ。早いところここから離れなくてはならない。


「待って、ヒイロ」

「黙って走れ!」

「だめだよ。こんなことしたら、あなたが処罰されてしまう」

「それも分かってて俺に頼んだんじゃないのか!」


 背後で彼女が息を呑んだ気配がした。きついことを言った自覚はあるが、謝るつもりはなかった。

 建物の内部構造はほとんど知らなかったが、勘で階段を見つけ出して駆け下りる。エレベーターは使えない。侵入者対策で停止されているはずだ。

 六階分の階段を全速力で駆け下りて、一階の廊下に出た。エントランスホールの方は避難する人々と召集を受けた軍人でごった返しており、そちらへ向かうのはリスクが高いと考えて逆方向へ走る。途中で何人か統制局の職員と思しき人間とすれ違ったが、皆混乱しているために二人を見咎める人間はいなかった。せいぜい訝しげな視線を向けられる程度だ。

 廊下を走り続けると、次第にすれ違う人間もまばらになっていった。しまいには完全に人気が無くなり、二人分の荒げた息だけが聞こえるようになる。


「ヒイロ、どこから外に出るの?」

「非常出口か何かがあるはずなんだが……無ければさっきみたいに壁をぶち抜いても」


 言葉の途中で、ヒイロは言いようのない悪寒を感じた。咄嗟にコハクを突き飛ばし、自分も床に転がる。風を切って、頭上を何かが飛んでいく。それが銃弾であることは経験則で分かった。

 あの男がよく使う手段だからだ。


「何処へ行く?」


 十河海が、二人から十数メートル距離を空けたところに立っていた。彼の周囲には銃弾が無数に浮遊していた。銃がなくとも彼は銃弾を撃てるのだ。


「……どうして、あんたがここに」

「お前がここへ来るたび何処へ行っているのか、知らないとでも思ったか」


 じゃら、と不吉な金属音がする。残弾は十河の右手の中にも無数にあるようだった。


「ガス抜きと思って見逃していたが……甘かったな。俺の判断ミスだ」


 コハクを背中に庇い、生唾を飲む。最悪だ。一番厄介な奴に道を塞がれた。


「ここで始末をつける」

「……やってみろよ」


 コハクを後ろに押しやり、ゆっくりと立ち上がる。


「あんたとは合わねぇって、ずっと思ってたんだ」


 右手の拳を握り、親指を立てて下へ向ける。今までずっと胸の内に溜め込んでいた不満を、一気に吐き出した。


「くたばれ、クソ野郎」


 瞬間、十河が何十もの銃弾を撃ち、ヒイロは左手を前に突き出して炎の壁を展開した。銃弾はヒイロの元に届く前に融解されてゆく。熱気が頬を打つのを感じながら、ヒイロは右手で銃を取り出した。炎の壁に一瞬だけ細い穴を開け、弾を撃つ。銃声が響いたが、弾道が不自然に捻じ曲がって床に落ちた。二、三発続けて撃つが、跳ね返される。

 舌打ちし、後ろにいるコハクに向けて声を張り上げた。


「逃げろ!」

「でも」

「いいから早く!」

「あなたも一緒に」

「俺はもういいんだ」


 この状況に捨て鉢になって言ったことでは決してなかった。彼女をあの鳥籠から連れ出した時点で覚悟していたことだ。


「数えきれないほど殺してきた。今更、逃げることなんて許されない」


 自分が逃げられないから、彼女に逃げて欲しかった。彼女に自分を重ねて哀れんで、助けてやりたいと思ったのだ。吐き気がするほど完璧なエゴだった。


「早く行け」


 最後に、肩越しに彼女の方を向いて微笑む。彼女は緑の瞳を大きく見開いていた。

 頬に熱が掠めて、ヒイロは十河の方へと向き直った。銃弾が炎の壁を突き抜け始めている。壁を維持できなくなってきたのだ。ただでさえ今夜は力を使い過ぎたので、エネルギー切れも早い。

 また銃弾が壁を突き抜け、今度は腕をかすめる。血飛沫が床を汚した。

 もう持たない。


「だめ」


 蜂の巣にされる覚悟をした瞬間、とっくに逃げたと思っていた彼女の声がした。かざした左手に彼女の手が重なる。

 緑の瞳に炎の色を映し、少女は感情の見えない目で十河を見据える。


「あなたは私と一緒に来るの。こんなところで、死なせない」


 何をする気だと問う寸前、何かが破裂する鋭い音が聞こえた。炎の壁が立ち消える。その向こうで、十河が膝をついていた。彼の周りに細かい金属片が散らばっている。それは、銃弾の成れの果てだった。

 頭を押さえ、十河は苦しげな呼吸を繰り返す。


「……お前」


 何が起こったのか理解できないヒイロをよそに、十河とコハクとは無言でにらみ合っていた。


「“破壊”の異能者か。統制局の研究者が共同開発しているという……」


 コハクは何も答えない。ただ静かに十河を見ている。


「ヒイロ」


 十河の深い青の目が、ヒイロを睨み据えた。


「その女はお前の手に負えないぞ。格が違う……桁違いの化け物だ」


 ヒイロは思わずコハクの方を見た。あの銃弾を、彼女が破壊したということか。

 理解した瞬間、恐怖が芽生える。途方もない力だ。もしかしたら彼女は、人間さえも破壊できるのかもしれない。

 拳を握り、唇を噛む。恐れに震えそうになるのを堪えながら、ヒイロは十河を睨み返した。


「だったらどうした」


 コハクが自分の方を一瞥したのを感じながら、ヒイロは続けて言った。


「俺はコハクをここから逃がす。彼女が何者であっても、その目的は変わらない」

「……馬鹿が、どうなっても知らないぞ」

「余計なお世話だ。あばよ、十河少尉」


 別れの挨拶を吐き捨て、コハクの手を掴んで歩き出す。ああなると十河はしばらく動けない。おそらく、弾けた銃弾の破片を防ぐのに許容以上の力を使った反動が来ている。


「ヒイロ」

「何だよ」

「私のこと、怖くないの?」

「怖いよ。お前に力を使われたら死ぬんだろ、俺は」


 後ろで彼女が何か言おうと息を吸い込む音が聞こえた。


「そんなことしない奴だって分かってる」


 先んじて言うと、繋いだ彼女の手から力が抜けた。


「だからこうして、無防備に背中向けてるだろ」

「……うん。ありがとう」


 嬉しそうにそう言った彼女に、ヒイロは何も言わなかった。ただ、窓のない暗い廊下を二人で歩く。いつしか耳障りなサイレンの音は止んでいて、あたりは水を打ったように静まり返っていた。

 廊下の突き当たりに非常扉が見えてくる。鍵を壊して扉を押し開けると、涼しい風が吹き込んできた。

 いつの間にか、東の空が白み始めている。


「ほら、コハク」


 彼女の背中を押し、外の世界へと一歩踏み出させる。

 楽園なんて、きっとどこにも存在しない。地獄から出てもまた新しい地獄が待っている。

 だけど、初めて外の世界の空気に触れ、本物の空を見上げた彼女を見て思う。

 こんな景色が見られるなら、この世界もそう悪くないと。

 眼前には東の空に輝く生まれたばかりの太陽と、新しい光に照らされて立体的な陰影を描き出す街並みが広がっていた。

 夜が明けた。




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