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微かな潮騒を耳にしながら、香音は街灯を辿るように、タイル舗装をいく。
夜霧に煙る道の幻想は時間を忘れさせる。
香音は、足音を刻むように歩き、やがて、海を望む高台へと辿り着いた。
月に照らされた海と浜があり、遠くには港の灯りが湾の輪郭を描き出している。
そして、そこには、一人の少女がいた。
香音は、その横顔に、一瞬、はっとし、躊躇い、そして、歩みを進めた。
「こんばんは」
香音は、生来社交的ではない。
見知らぬ者に積極的に声をかけるような性格ではない。
夜の高揚のせいもある。
だが、それだけではない。
そこにいる少女の美しさがそうさせた。
近寄りがたく、それ故に、触れ合いたい。
そんな魅力が少女にはあった。
少女は、何も応えず、振り返る。
美しい黒髪は、月灯りに舞い、肩を撫ぜる。
象られたかのように理想的な均整の四肢。
神秘を感じさせるきめ細やかな褐色の肌。
眼鏡の奥に隠された感情のない瞳。
その在り方に、香音は、瞳を、心を、時を奪われた。
少女は、香音を一瞥すると、首を傾げるようにし、それから、考えるように視線を逸らした。
香音は、それを拒絶ではなく、戸惑いと捉え、一歩踏み込んだ。
「私は、織矢香音です。貴方も学園の生徒ですよね?」
知らぬ者に、名前を告げることはリスクである。
だが、それ故に、信頼を示す、有効な手段でもある。
それに少女は制服を着ていた。
制服は学園に属することを示す確かな身元証明である。
ならば、問題はないと香音は判断した。
そも、声をかけてしまった時点で、どうでもよくなっていた。
「いい夜ですね。月も綺麗」
香音は、考えて話してはいない。
ただ、思いついた言葉を口にしている。
こんな風に人と話すのは、いつ以来だろうか?
そんなことを思いながら、言葉を紡ぐ。
「ええ、そうですね。この世界は美しい」
澄んだ声が夜に凛と響いた。
通じ合えた。
そんな感覚に、香音は胸を鳴らす。
「ここには、よく来るのですか?」
何故かは、聞かなかった。
聞いてはならない気がした。
それに香音も答えられない。
「いえ、はじめてです」
「そう、私もです。気が向いて、足が向いた。
だから、出会えた。
運命かも?」
恥ずかしい台詞である。
常ならば、絶対に口にではできない。
「よければ、名前を――」
ふと、口にしていた。
香音は、そっと少女の表情を覗き、その視線に気圧される。
なんとなく、怒っているようだった。
「うっ、えっと、いやなら」
「シリン」
あわてて撤回しようとする香音に、少女は名を告げた。
「シリン、素敵な響きですね」
「カノン、貴方の名前も」
それから、二人は取り留めのない会話に興じた。
香音が話しかけ、シリンが一言二言、言葉を返す。
シリンの内心はうかがい知れないが、香音は楽しかった。
一夜の夢。
それでよかった。
天から降りてきた少女との邂逅。
ただ今は、そんな出会いに、心を踊らせていたかった。
だが、そんな儚い願いさえも叶わない。
「えっ?」
鈍く高い音が響いていた。
香音は足元を覗く。
タイルが砕けていた。
何かが、投擲された痕跡に、香音の背が凍る。
それは、悪意であり、敵意であり、害意。
間違いなく、攻撃であった。




