*01*
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赤い赤い、血のように赤い、真紅の月。
少女が目を開けて最初に見たのは真円を描いた赤い月だった。
次に理解したのは、自分が、どこともわからない部屋の見も知らないベッドで寝ているということ。
慌てて飛び起き、部屋を見渡した。
シンプルな造りだが、広く、品の良いその部屋はそれだけで上流の屋敷のものだとわかる。
だが、それを理解しても今何故自分がここにいるのか、ということへの答えにはならない。
理解できないまま呆然としていると不意に扉が開いた。
「目が覚めたのか」
立っていたのは漆黒の髪の青年。
切れ長の目からのぞくのはあの月と同じ真紅の瞳。
理解できないままただじっと青年を見つめているとその後ろから深々と頭をさげながら銀髪の青年が続いて入ってきた。
「歓迎いたします、花嫁様」
「その、声……」
聞き覚えのあるその声に思わず声が出る。そう、記憶の最後に聞いた、誘なうようなあの声。
少女の反応に、銀髪の青年は微笑む。
「さすが花嫁様は聡明でいらっしゃる。ええ、私があなたをこの国へお連れいたしました」
何の悪びれもなく言われたその言葉に二の句が継げない。
「この方はエリアス第一王子。あなたの血は幸運にもエリアス様の花嫁に値すると選ばれました。エリアス様はやがてこの国を統べるお方、これからは異界のことなど忘れその血をエリアス様に捧げ一生を添い遂げるのです」
「え、花嫁……血、って……い、異界……?どういう……。い、っしょう……?」
「クリスト」
怪訝な表情をするばかりの少女に、漆黒の髪の青年が小さく息をついた。
クリストと呼ばれた銀髪の青年はそれでもまだ言葉を継ごうとしている。理解のできない怒涛の言葉たちに少女の顔に困惑が広がる。
「クリスト、彼女が困っている。少し二人にしてくれないか、俺からゆっくり説明をする」
エリアスのその言葉にクリストはわかりましたと頭を下げ、部屋を後にした。
扉が閉まる音を合図に部屋には静寂が訪れた。
「驚かせてすまない。とりあえず話がしたい。まず、君の名を教えてほしい」
ややあって口を開いたエリアスの落ち着いたトーンに、少女は少しの安堵を覚える。
「セシル、です」
混乱する単語を怒涛のように押し付けられいまだ思考が定まらないが、セシルはエリアスの問いに答えた。
「セシル。とりあえず落ち着いて話がしたい。……掛けるといい」
示された椅子にゆっくりと腰を下ろすと、続いてエリアスも向かいに腰を下ろした。
言われたように落ち着こうと、セシルはゆっくり呼吸をする。
幾分落ち着き始めたセシルを見るエリアスは、整ったその顔立ちを少し困らせながら、言葉を探しているようだった。慎重に言葉を選びながら、空気を選びながら。
「改めて、俺はエリアス。この世界で王族は占者によって異なる世界から花嫁が選ばれる。王族には一人ずつ占者が従っている、俺の場合はクリストだ」
「占者?」
「ああ、占いをし、時には予知を、そしてこの世界と異界とを往来できる者」
「あの人は私の……血って言っていたわ、血をあなたに捧げるって……」
怯えた表情のセシルにエリアスはやわらかに、しかしどこか困ったように笑む。
「俺たちは……セシルたちとは少し違う。そうだな、セシルの世界の言葉だと……吸血鬼、というものを聞いたことはないか?」
「吸血鬼……血を、吸うの……?」
「吸血しなくても死にはしないが、力が強くなる。王族は繁栄の為、各々に合う血の持ち主を異界から花嫁として迎える仕来たりになっているんだ」
「私は、吸血鬼になるの?……それとも……死ぬの……?」
「死にはしない。吸血鬼にもならない。しかし……」
エリアスの単語のひとつひとつに心臓がはねる。不安と恐怖を抱えながら、それでもセシルは言い淀むエリアスに先を促した。
「しかし……?」
「一度この世界で吸血された者はもう二度と元の世界へは帰ることはできない」
二度と、そう断言されたその言葉にセシルは目眩を覚える。
どこともわからないところにいきなり連れてこられ、理解できない状況に放り込まれた、わかった言葉は帰れないという単語だけ。
「こ、困ります……」
「わかっている。元より俺は望まない婚姻には反対なんだ。だからセシル、君が望むなら君のまま、元の世界に帰してやりたいと思っている。君が拒むなら血だって飲むつもりはない。
……周りは、特にクリストは反対するだろうが……」
真っ直ぐな瞳が偽りないと訴えていて、セシルは少し安堵する。
理解できない今の中にいて、少なくとも目の前の青年は自分の味方であろうとしてくれているのではないかと、そう信じさせてくれる瞳に。
そして望むなら帰ることができるという希望に、セシルは尋ねた。
「どうすれば帰れるの?」
しかし、その問いにエリアスは話し始めてから一番の困惑した表情に変わり、重く口を開いた。
「白い月が昇る時、儀式を行うことで異界との道はつながる、んだが……」
先程以上に言い淀むエリアスにセシルは不安を掻き立てられた。
「白い月がいつ昇るのか、そして儀式の執り行い、すべて占者つまりクリストでなければできないんだ……」
先刻エリアスが、セシルの吸血をしないことにクリストは反対するだろうと、しかも特にと言っていたことが思い出され、言い淀んでいた意図を理解しセシルは目が眩んだ。
「それってつまり……帰ることのできる望みはとても薄い、っていう……こと……」
「ゼロでは、ないさ」
否定されず、どことなく曖昧に言葉を濁されてそれはすなわちほぼ肯定に近いのではとセシルの思考は真っ白になる。
固まったセシルの前でそれ以上言葉を続けることができず、エリアスも当惑しながら口を閉ざした。
励ますようにそっと重ねられた手が、あたたかかった。