第9話 汝、蛟か龍神か
「私が選んだのは――ラインハルト、です」
自分でもよく分からない。何を以って選んだというのか。何から選んだというのか。
多分国王のせいなのだろうが、勝手に口から零れ落ちた名前と同じくらいあっさりと、頭痛は治まった。初めての偏頭痛に私はプチパニック。痛みが落ち着いた今でも混乱が続く。
狼狽えるようにその場から一歩引くと、何故か兵士たちは私へと一歩近付いた。
どうも狼狽えているのは私だけではない様子。彼曰くの末裔である三人でない"誰か"の人間の名を聞いた国王は青ざめてへたり込んでしまった。
「それは……その者はっ、一体何処の俗物ですか!? 龍の巫女様、何故、なにゆえ!! わが国をお見捨てになってしまったのですかッ!?」
「――俗物とは、言ってくれるじゃないか」
声が聞こえた。この場にいる誰でもない声だ。それが聞こえたのは私だけではないようで、空気にぴりっとした緊張感が含まれる。
足元の絨毯に映された水面はまるで喜ぶように揺らめき、そこに小さな影が出来る。国王の玉座の頭上、大きなステンドグラス。そこから、何かの羽音が聞こえて――。
がしゃああああああん。甲高い音を立ててガラスが割れる。その光景が余りに美しくて、呆けたように破片の輝きを見ている私を、アマリがマントを被せて庇ってくれた。国王は頭を抱えて体を丸めている。
「……ライン、ハルト?」
そこに居たのは、ラインハルトだった。あの下手糞な笑みではなく、酷薄な冷笑で彼はドラゴンの上へ乗っていた。
「何!? 貴様が、ッ……!? 貴様、貴様がラインハルトだとッ!? 貴様が、龍の巫女に選ばれただと!?」
国王はガラス片を振り払いながら侵入者を見る。そしてそれがラインハルトだと知ると、目を剥いて怒鳴り始めた。何が何だか分からない。
ラインハルトの乗るドラゴンは広い空間を旋回し、やがて玉座の方へ――祝福へと近付く。ラインハルトは上空から飛び降りて、ドラゴンよりも早く一足先に着地する。その肩には弟トカゲは居らず、もしかするとあのドラゴンがそうなのかもしれなかった。
「久しぶり、だな。六代目の国王テオドロ・バルリエント。我が弟の犠牲の上に立つ者よ」
「黙れ!! 祝福は私のものだ! この国のものだ!! ――龍の巫女、"この無礼者を殺せ"!!」
リィイン、とまたあの音が聞こえる。ずきずきする痛みに呻いて、立っていられない。ぺたりと座り込んでしまった私をアマリは心配するように撫でる。
「今からそのネームプレートに触るよ。でも酷いことはしないから、どうか許して欲しい」
「うぅ――あああああああ! ッ、ああああ……!」
返事も出来ないで地に頭を擦り付ける私を抱き寄せて、アマリは何かを唱えて私のドッグダグに触れる。いつの間にかフィトが近付いて、それを補佐するように呪文を呟いていた。
私が暴れるのを抑えるようにアマリが頭を抱え込むが、そんなものでは頭痛は治まらない。痛くて痛くて堪らなかった。苦しくて、そんな中頭でまた声が反響する。
――殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!
「ぁ、ああ、うァ――ゥグアアアアアアア!!」
尻尾と角が出て、服がびりびりと破れる音がする。ああ、駄目だ。こんなに近くで大きくなったら二人を踏み潰してしまう。尾と角を出したまま、アマリを突き飛ばして人の少ない方――玉座へと走る。もしかするとそれは、ラインハルトを殲滅しろという命令に無意識に従ったためかもしれないが。
大きくなる体に逆らわず、龍になっても続く頭痛に私は苦悶の叫びを上げる。私が明らかに苦しんでいるので、兵士の人も戸惑って国王と私を見つめている。彼らも何が起こっているのかわからないのだ。何人かは逃げ出してしまっている。
私は酷い痛みにじっとしていられなくて、誤魔化すように壁に身をぶつける。そうすると、少しだけ破壊衝動がマシになった気がする。もう一度、もう一度と自傷を繰り返すのを、足元でラインハルトと国王は見上げていた。
「どうしたのだ龍よ! この男を殺せ! 何故言うことを聞かぬ!?」
「ミスズ……っ!?」
殺す殺すと簡単に言ってくれる。こいつはきっと、自分で生き物を殺したことがないからそんなことが言えるのだ。
私ですら、水槽の中のデュビアを自分で殺したことがある。それは食べる為だ。殺すというのは食べるということだ。そして空腹でもないのに、仲間を、友人を殺すトカゲなんて存在しない。いや、そんな生き物はこの世の何処にも居ない。
そんなことをするのは、人間だけだ。
「グルァアアアアアアアア!!!」
声が煩い。頭が痛い。ぼろりと目から涙が落ちて、もう一度頭をぶつけようとした途端、壁と私の間にドラゴンが――弟トカゲが入り込んで、クッションになる。私は彼に受け止められた上に押し返されて、地に倒れ伏した。
「フィト、今だ!」
「貴方に言われずとも分かってます!」
倒れた私の体を弟トカゲが押さえ込む。頭の方にフィトたちが寄って、またあの呪文を唱えだす。頭が痛いのは治らなくて、ボロボロと涙を零す私の頭をアルフレドが撫でてくれた。彼もまた、泣きそうな声をしていた。
「……これ、全部親父のせいなんだろう。なあ、そうだろ? 伝説の耳飾りは呪具で、親父はお前の宝物を呪いの道具にしちまった――そういうことだよなッ?
……今謝ったって仕方ねぇ、あのクソ親父を俺が止める。それからお前に土下座して謝って、そんでこの俺様を頭からバリバリ食うのも許してやる。それが出来るようになるまで、大人しく待ってろ」
「王子!?」
アルフレドが立ち去っていく。フィトはそれを止めようとしたが、彼は構わずに行ってしまった。
私が呻くと、フィトは伸ばした手を戻し、アマリと共に解呪をしてくれる。これが解けたら、私はアルフレドを殺すだろうか? いや、そんなことはしないと思う。だってこれをしたのは国王で彼は関係ないのだから。
すらりと剣が抜ける音が聞こえる。アルフレドが怪我をしないといい。彼のあの、器用な手先が失われたりしたら、私は誰にマナーを学べばいいのか分からなくなってしまう。
どれほど時間が経ったのだろうか。私は永劫とも思える苦しみを嘆きながら、夢現にアマリの声を聞いていた。
――この国は昔色んな国に狙われていた。それを初代の龍の巫女が救った。王は彼女に感謝を示し、美しい宝玉を用いた"耳飾り"を与える。龍の巫女はそれを喜び、その返礼として"十三"の祝福を国へ与えた。
今はもう何処にあるのか分からなくなってしまった十三の祝福の地、その内の一つの上へ国王は王城を建てた。残り十二の祝福は国を潤し、未だに人々を救っている……。
――初代龍の巫女は祝福を与え、この地を去った。しかし国は再び危機に晒され、"次代の"国王は再び龍の巫女を呼ぼうと、"初代龍の巫女の子供"を生贄として儀式を行った。すると"二代目の龍の巫女"が現れ、その威光でまたこの国を救った。彼女は至上の宝玉で作られた"呪具"を与えられた。
龍は子を産んで、涙に沈んで眠りに就いた。永遠の眠りだった……。
――五代目の龍の巫女が居た。彼女もこれまでと同じように、呪われた耳飾りを与えられた。彼女の代にはこの国はすっかり平和になっていた。だけど、それと同時に、初代龍の巫女の祝福は尽きようとしていた。国の富が弱まるのを怖れて、国王は五代目の龍の巫女の子供を地に捧げた。彼女が産んだのは双子だった。捧げられたのは弟だった。名前はエルマー。彼の魂は十三に引き裂かれ、祝福と化した……。
ラインハルトはステンドグラスのあった場所から差し込む陽光を浴び、国王と向かい合う。国王は怒りで顔を真っ赤にし近衛を呼ぶが、国王への不信からか、ドラゴンが至近距離に二体居るからか、彼らはただ遠巻きに見ているだけだった。
「ええい、何故だ! 何故儂の代に限ってこのようなことになるのだ!!」
「俺のような龍の成り損ない、そこらへ捨ててしまえと言ったお前の父のお陰だ。既に十二の祝福を巡り、俺の弟は魂を後一歩の所まで取り戻した。最後はお前の足元にある。俺の弟を、返してもらうぞ」
ラインハルトは細剣を抜いて構える。儀礼用の鈍らしか持っていない国王はいよいよ慌てて腰を抜かす。
「おっと、そうはさせねぇぜ!」
「……! 邪魔を、するな」
そこへアルフレドが割って入り、己が持つ剣で受け止める。ラインハルトは微かに柳眉を顰めるが、アルフレドは意にも介さず細剣を受け流した。
「ここで親父を殺されちゃ困るんだ、よッ」
「お前もまた、ッ……おぞましい儀式を世襲するか!」
「冗……っ談! 呪いを解けるのはかけた奴だけって相場が決まってんだ! こっちの都合に巻き込んじまったんだ、ミスズの呪いだけでもきっちり解いて貰わねぇと困るんだよ!」
「ッハ、そしてお前が新たに呪いをかけ直すと!?」
「ハァ? んな訳ねぇだ、ろッ! お前ホントにあいつが選んだ男かよ! 腐りきった根性してやがんな!」
剣戟の応酬に乗じて国王はずりと後ずさるが、その瞬間に彼は玉座に縫い付けられた。二つの剣が顔の前で交差して、玉座へと刺さる。
「「逃がすか」」
「ヒィッ」
「親父、俺は常々気になってたんだがよ。聞きてぇんだが、ミスズを呼んだ儀式の時に、アンタは何を生贄にしたんだ? 祝福の結晶……先代龍の巫女の餓鬼は祝福の為に十三に裂いたらしいじゃねぇか。残りのラインハルトはこの通りピンピンしてやがる。なあおい、アンタは何を捧げたんだ?」
「ほう、それは俺も気になる所だな。是非お答え願おうか。祝福を少しでも使ったと言ってみろ、殺す」
アルフレドの瞳孔は開き、呼気は荒い。それはラインハルトも同様だったが、アルフレドの様子は憎悪にも似ていた。彼は、既に何が捧げられたのかを確信しているようだった。
「た、大したものを、捧げてはいない! お、お前が気にするような、」
「この国全体に、デッケェ魔方陣があるらしいな。ヨハンから報告された。上空から見ねぇと絶対ェ分かんねぇらしいじゃねぇか?」
「そ、それは!」
「おう親父、もう一回だけ聞くぞ? ――テメェ、何を捧げやがった」
沈黙が下りる。ちゃきり、と首筋に擦り寄る鋭い切っ先に、それすらも許されないと知った国王はやぶれかぶれに叫んだ。
「――国民だ! ああ、そうさ、平民を何人か捧げた!! だが構わぬだろう!? この国全体の話だ! 奴らが豊かさを搾取するなら、大して高くも無い税を払うだけでは足りぬのだ! 儂の労力には到底――」
「黙れ。お前はこの国に相応しくない。民を喰らって君臨する王など存在して堪るか」
王冠がカラン、と音を立てて空を舞う。アルフレドの剣が振り切られ、国王の頭を紙一重で切り裂いた。冠は転がり壁にぶつかる。
アルフレドはだらりと両腕を垂らし、俯いていた。隙だらけのその様と国王を見比べ、ラインハルトもまた、嘆息して細剣を仕舞った。