第三話 ~亡霊の話~
本当は今回で戦闘回を一気に終わらせるつもりだったのですが、学校帰りのシーンで六千文字ほど使ってしまい、残りの戦闘シーンで使い切ってしまったので次回に持ち越そうと思います。
――貴方にとっての常識は
必ずしも誰かにとっての常識ではない――
とある私立高校の校門前で、巨大なアタッシュケースを背負った全身黒尽くめの女がガードレールに腰をおろして出てくる学生達を見ていた。無論のことながら、学生もその不審な、けれど目鼻立ちはとてもよく整っている女に視線を送っては去って行った。
不良、というには少し違う。そういう雰囲気ではない。では何かと問われれば首を傾げるしかない。しかし怪しいのは確かだった。これには教師も重い腰を上げざるを得ず、女にとっては見慣れた教員玄関から男性二人と女性一人の合計三人ほどの教員が女の前に立っていた。
「当校へは如何な御用事で」
教頭だと名乗った男が女を見下ろしながら慇懃に声を掛けた。すぐに警察に突き出す用意は出来ているのだと言わんばかりに体育教師らしい男女が身構えているが、どちらも女には見覚えのない教員だった。
別に教員の人事異動程度、いつでも起こりうる物かと溜息をつくと、女は教頭の目を睨むように見据えながら聞かれたとおりに答えてやった。
「妹の迎えだけれど、何か?」
ピリリとした沈黙が流れる。お互いの脳裏にある人生経験が、処世術が同時に判断を下す。こいつとは馬が合わないと。
別に嫌いなわけではない。気に食わないのだ。理屈ではなくもっと奥深くの――そう、本能とでも呼べばいい所が磁石のN極とN極を、S極とS極を合わせた様に反発しあっているのだ。こいつが気に食わないと。
生徒達の手前、喧嘩をしようなどとは思ってもいないが、ただこいつとはうまくやっていけないという雰囲気が視線に乗ってしまうのだ。
お互いがお互いに向かって口を開こうとした時に、間が良いのか悪いのか、前者であってほしい物だが少なくともこの場を収拾させられる存在が其処に現れた。
「お姉ちゃん、どうしたのこの騒ぎ?」
「あ、真咲。やっほ、お姉ちゃんが迎えに来たよ」
先ほどまでの剣呑な空気は何処へやら、姉と呼ばれた女はガードレールから降りると尻のあたりをはたいて適当に汚れを落とし、妹――真咲の手を握った。
少なくとも昨夜までの暗い顔ではない。傭兵として海外へ出るまでに散々見て来た優しい微笑み。ああ、姉だ。私が、父がそして母がよく知る妹思いで優しい姉の顔だ。――ようやっと帰って来たのだ。
真咲は昨日姉を見てからずっと胸に巣食っていた靄が晴れたかのような感覚を覚えた。
見るからに疲れ切って、まるで信じていた物に裏切られてしまった傷心の子供の様で、見ていられなかった。痛々しい、可哀想だ、そんな陳腐な言葉で表現することは憚られた。
「最近危ないって母さんがぼやいていたから、偶には姉らしいことやるのもいいかなって思ったんだ。さ、帰ろう」
「――うん」
だが、今感じるのは少し違う。まだ少し無理する様な、何か考えないで済むようにしている様に見える。
戦場になんて行った事無いしこれからも行く機会なんてないだろう。そして戦場ではなくこの平和な国の中で四年間、姉の苦労も知らずに過ごしてきた。故に姉の気持ちが分かるなど軽々しく言ってはならないと、漠然と理解していた。だからだろうか、支えてあげたいと思っても気の利いた言葉も何も、そう何も掛けてあげることが出来ないのだ。
自分はなんて無力なのだろう。
今日この時を持って初めて、自分がこの世界においてただの人間にしか過ぎない事を、実の姉一人救うことすらできない無力な存在なのだと思い知った。
いや、救うと言うことさえ傲慢だ。その傲慢さに、その無意味さに姉は打ちひしがれ、そして家族であり戦友でもあったゲルトルートを亡くして、帰ってくるしかなくなってしまったのだ。
「学校はどう?楽しい?」
「え、あ~――うん。楽しいよ。友達できたし」
「え!?中学時代酷い虐められっ子だったのに!?……よかったぁ。また苛められでもして引きこもり予備軍にでもなっていたらどうしようかと思っていたのよ」
「それは無いよ。楓もいたし、その関係で友達だって出来たし、土日には一緒に遊んだりするんだから」
「…………そっか。良かったね」
「……うん」
沈黙。少なくとも先ほどまでの重苦しい沈黙ではなかった。それよりも身体の何処かが軽くなる様な心地よい沈黙だった。
幾つになっても、姉には敵わない。そう痛感させられた様な気がして、憤りにも似た感情と共に仄かな安らぎが身体を包んでいる。
「――踏ん切りはついたの?」
「御蔭さまでね。日本の土に埋めたら、なんか荷が下りた様な気がしてね。ああ、これで私がやるべきことはやり終えたなって」
清々しそうな声色。別に本当に重荷に思っていたなどということはないだろう。ずっと戦場で己の為に戦い続けてくれた目であり耳でもある存在だったのだから。
割り切ることはできた。それはそれで良いことなのかもしれなかった。
再びの沈黙。長く離れていたせいなのか、それとも二人ともが知らない内に成長していたからなのか、お互いにどのように言葉を交わせばいいのか分からなかった。まるで付き合いたての恋人同士のようで、自然とお互いに笑みがこぼれた。
もっと気楽に話せば良いのに、何を躊躇う必要があるのだと。もう踏ん切りがついたと言うのだから、昔のように服の話なり何なり、開いてしまった時間を取り戻せばいいのだ。
「久々の日本は如何?」
「相変わらず人は塵みたいに行き交っているし馬鹿みたいな理由で電車のダイヤグラムを乱す屑はいるし、飛行機ジャックをしたがる阿保もいればさっきの教頭みたいなウマの合わない奴もいる。ホント、日本の夏が暑苦しいのはそう言う奴らで犇めきあって社会を構成しているからとしか思えないわね」
冗談と誇張を混ぜながら、真白は我ながら辛辣な物言いだと思った。
何処の国のどの場所に行ってもそんな物は変わらない。逆に日本はまだ大人しい方だ。何処かの国では日本人の予想だにしない珍事件が毎日起こっていると言うのだから。
そう言う意味で言ってしまえば、日本のこれらのなんと平和的なことか。ある意味では懐かしさや郷愁といった感情を持ってしまうほど、海外での生活は驚きという言葉ではすませられないほど強烈な印象を持って思い出と共に刻まれている。
適当に安酒を飲もうとして警察に追いかけ回されたり、ボロボロの袈裟を着たお坊さんたちがいっぱいいる国で豚肉を食べようとして睨まれたり、ナチスの軍歌を歌ってすぐにドイツ人が鉄砲振り回しながら追いかけてきたり、中国人に日本人という理由だけで三十日間刑務所に入れられたり。碌な思い出が無い。けれどそれさえも今の自分を作る大事な要素となってこの身に流れている。
そう、それだけ濃い経験をしてきている。些か以上に濃すぎると同業者からは言われているが、それでもそういう鮮烈な経験も今となっては笑い話にしかならない。少なくとも、日本にいて体験できるような経験ではないことは確かだった。
帰りの道中、海外で居合わせた珍事件や自分がやった失態、不当逮捕などの話をしているうちにいつの間にか二人の顔には笑みが浮かんでいた。
暗くなる街中、夕闇を照らす街灯。ああ、この街はこれほどまでに綺麗だっただろうか?家出同然にこの街を出た時は汚く映った物が全て輝かしい物のように見えてきて、知らずの内に真白は真咲の頭を撫でていた。
「仕事とか、どうするの?」
「ゆっくりと探していこうかなって。幸いなことに時間はあるし」
時間だけならばある。何も問題が起こらなければ――そんな淡い期待を抱いていた時期があった。だが駄目だ。安らかな時間は唐突に終わりを告げてしまう物だと、四年間で嫌というほどに痛感してきたというのに。
真白は静かな諦念と、そして自分はやはりこれに頼るしかもう生きる道はないのだと漠然と突き付けられたようで悲しく感じた。そして妹だけは巻き込むまいと、この安らかな時間を終わらせることにした。この優しい幻想の様だった時間を。
「真咲、今からお姉ちゃんが言うことを絶対に守ってね
一つ、絶対に後ろを振り向かないこと。
一つ、絶対に立ち止まってはいけないこと。
一つ、家に着くまで絶対に気を抜かないこと。
――守れるね?」
「ど、どう言うこと?意味分からないよ!もっとしっかり説明してよ!」
これが戦場ならばその柔らかそうな尻を蹴ってでも走って帰らせると言うのに、今の真白にはそれは出来なかった。だが、それを代弁する人間だけはいた。いや、ずっと見張られて網を張られていたのだ。この男の手によって。
「おぉいおい、年長者様の言うことは素直に聞くもんだぜ、餓鬼。お前じゃあ足手まといになるって言われてんだよ」
闇から姿を現した闇の化身の如き暗い姿。野戦服の色の方が少しばかり淡いはずなのに、けれど問題なくその姿は闇に溶けていた。
白糸のように綺麗な光沢を放つ真っ白な髪の毛に彫りの深い面立ち。瞳は光彩が赤い絵の具を垂らしたかのように赤く、野戦服に納められたその肢体は細い印象を受けるが、見かけどおりに細いわけではないのは素人目からでも明らかだった。
フィールドグレーの野戦服。腕に掛けられた腕章と胸に付けられたバッジを見て直ぐにそれが何かを理解した。
SS将校の野戦服。襟章から見て恐らく大尉だろうその男はポケットに手を突っ込みながら狼かライオンのような鋭い瞳で真咲をねめつけて、品定めするように体を舐めまわすように見て行った。
「なぁ、気がつかねぇか?ここいら一体がどうなっているかをよォ」
男にしては高い声が百メートルは優に離れている位置からでも充分に聞こえてくる。その声に従うのはしゃくだったが、真白も真咲も、ゆっくりと周りを見渡した。
血溜まり。何処も彼処も血の海だった。鉄と脂の不快な匂いがこの周囲一帯を覆って魔窟と化している。こんなところを歩いていた覚えなど真咲はおろか真白にもなかった。
騒音が消えていた。車の移動する音すら聞こえない。生きている人間はこの三人を覗いて誰一人としていない。皆血糊を残して蒸発し、腐臭と悪臭の二重奏がこの空間を充満させ対流している。
「気が付かなかったかァ?自分たち以外に物音を発する存在がいないってことによォ。――ああぁ、俺が喰った。肉も骨も脳味噌も、血液以外全て平らげてやった!おかげで今日は気分がいいんだ――そこの雌餓鬼一匹程度なら、見逃してやっても構わねえぜ?どうする?」
狂っている。これだけの数を殺し尽くして、それでもなお足りないとその眼が訴えてきている。次はお前だと言外に目が告げているのだ。もう逃げられない。
いったい何なんだこの存在は。人間ではない、けれど魑魅魍魎の類でもないこの手の生物の相手などしたことが無かった。義務的に敵を殺し、味方を生かしていく。そう言う機械じみた戦争で、こんな化け物、相手にしたことがない。
竦みそうになる脚を抑えて、真白は真咲の肩を軽い力で付きとばして言った。
「逃げなさい。家まで逃げなさい。いざとなれば冬月組がどうにかしてくれるし、私もただでここを通す気はないわ。だから、速く逃げなさい――逃げろ!」
「―――――――っ!」
これでお別れかもしれない。もしかしたら一瞬で決着が付くのかもしれない。でも、それでも涙を拭って立ち向かう理由があった。
ここで奴を止めなければ、多くの人間が犠牲になる。街は機能を失い、人々は狂気に取り付かれこの吸魂鬼に吸い殺されてしまうだろう。父も、母も、妹も、この世で生きてきた痕跡を残すことすら許されずに無残に血溜まりだけを残して消え去ってしまうのだ。
せめて、せめて一瞬でも、一分一秒でもそれを伸ばさなければ。
守ると決めた。間違えないと誓った。そして今度は、義憤とか義務感とか、そんな物ではなく自分の意思で戦うと決めたのだ。なら、最期まで押し通す。その先に死が待っていようとも。
コートの中、背中側に吊るされていた二丁の拳銃のグリップを掴んで男と対峙する。
怖い、辛い、逃げ出したい。そんな弱音を吐いてはいけない。この背中は真咲の命を、家族の命を背負っているのだから、おいそれと責任を放棄してはいけない。
「ハハハッ!手前女のくせに良い面してるじゃねぇか!……そうだよその眼だよ!俺はそう言う面した奴を惨たらしく殺すのが大好きで仕方ねぇんだよォォ!」
化け物、そう化け物。喜悦に歪む顔は獲物を崖まで追いつめた肉食動物のそれだ。
退路はない。ならば戦え。死んでも殺せ、殺すのだ。手に持つその銃で奴を殺すのだ。それだけが生き残る道だ。
とっくに別れを告げたはずの戦闘論理が、戦術理論が目を覚ました。体の所有権を奪うように冷たい感覚が脳髄から漏れ出し四肢を、そして頭を冷やしきっていく。懐かしくも疎ましいこの感覚、消えているはずがない。
――殺せ、愛する者のために
――殺せ、己を生かすために
――殺せ、殺すのだ
――殺せ、敵となる全てを殺せ!
その瞬間、頭が真っ白になり目の前の敵以外は見えなくなった。
そうだ。どの道自分はこれに頼るしか出来ない。生きるために、生かすために足掻け。四年間も反復してきたことだろうが。
「準備はできた見てぇだな――それじゃあ、始めようゼ俺達の戦争をよぉぉ!」
□
夜の街を二人分の人影が疾走する。いや、疾走すると言う表現は合わない。その有様を表現するには疾走などといった表現では生ぬるい。
これを適切に表現するなら、そう狩りだ。狩猟犬が獲物を追い立てその喉笛に今噛みつかんとするような、けれど寸でのところでその狙いをわざと外して痛みと恐怖を与える強者の遊び。この場において戦いの主導権は野戦服の男に合った。
女が全力で血に濡れた街路を駆け巡るのに対して、男は余裕綽々と言ったふうに息切れもせずにその背中を追いかけ拳を振るった。
全身の毛が総毛立つようなぞわりとした悪寒。理屈ではない。本能がこれを受ければ死ぬと理解している。ただの人間の拳にそこまでの過剰反応、しかしその反射はある意味で正しかったと言えた。
爆発。
まるで戦闘機のような速さで肉薄した男の、恐らく実力の半分も出していないだろう何の型もない拳がビルを倒壊させた。土煙りが視界を一瞬だけ覆い、けれど女は立ち止まらずにそのビルの残骸の雨から逃れていた。
ありえない。人間業ではない。十五階建てのビルがただの一撃で倒壊し崩落するなど、近年のハリウッド映画でも見ない。現実味がなく、けれどそれが身近でこの身に降りかかろうとしている。
勝てない、逃げろ。常ならばそう判じて撤退していただろうが、けれど女は少しでも家族の許から遠く離れた場所へこの男を連れて行きたかった。
戦いにくい。女は舌打ちしそうになるのをこらえた。そんなことをしている暇があるなら足を動かせ一分一秒でも長くこの場所からこの男を遠ざけろ。愛する家族に、友人の家族にこれ以上の辛酸と悲嘆を味わわせることがないように、この場から遠ざけるのだ。その為に戦っている。
極論を言ってしまえば、家族や友人、その友人の家族以外の誰が死のうと女には関係ないのだ。いや、そもそもそんな良識など傭兵に身を落とした時に捨てている。そんな物に一々左右されていたら死んでいる故に。
けれどじり貧だ。相手は自分の何倍以上もの膂力を秘めた真正の化け物だ。この街路のありさまを見れば分かる。全てこの男の仕業だ。
さながら吸血鬼、いや血を残している以上吸血鬼ではない。この存在を的確に表すなら吸魂鬼というのが正しいのだろう。この男から感じる匂いは血に濡れた者特有のそれではない。もっと饐えた匂い、それこそ腐敗して腐乱した死体以上の饐えた匂いだ。
殺人鬼など比較にもならない。そもそもからして立っている目線が違っている。
この男は絶対的強者として常に搾取する側に立ち、殺人鬼は己の欲情を満たすために搾取している。殺しの理論そのものの方程式が違うのだ。故にこの男をただの殺人鬼と表現するのは憚られる――故に、吸魂鬼なのだ。
「ハハハッ!手前女のくせによく今の避けられたなぁ!大抵の奴ぁ今ので消し飛んじまうんだが、やっぱり手前処女じゃねぇな!此処来る前は何処居たんだよ――おじさん怒らないから正直に話してみろよ!」
「――ただの傭兵よ!」
ベレッタM92Fのカスタムガンが三連発。追い打ちをかけるようにデザートイーグルから一発。これだけ打ち込めば余程荒事に慣れていない人間なら四発のうちどれかで死んでいるが、女はそんな淡い期待を持たずに踵を返して建物の影に身を隠した。
手応えがない。
銃を使っていて手応えと言われても分からないかもしれないが、殺せば殺したなりの感覚が銃を握る手を通して全身に伝わる。殺せずとも致命的な怪我を負わせても同様だ。そう言う感覚があるのだ。
けれど男に銃を撃った時、その手応えが感じられなかった。まるで雲か霞を殴ったかのようなスカスカの感覚だけが手に残っている。
当たらなかったか、弾かれたか。どちらにせよ命中していないのは確かだ。ならここでうろたえるよりも先にやることがあるはずだ。
「――今の内に……」
背負っていたアタッシュケースの封を解きバレットM82a1を取りだして背負い、予備弾倉をコートの中につりさげた。
無作法で、そして野性的なチンピラの様な男の声が、誰もいない街路に反響する。見失っているわけではなく、愉しんでいるのだ。この現状を。
「何だぁ?鬼ごっこの次はかくれんぼって奴か――良いぜ相手してやるよ。そこまで趣向凝らして相手してくれる奴がいなかったもんでなぁ、正直言って新鮮だぁ」
ブーツの踵が鳴らすコツコツと近付いてくる音が心臓の脈動を早くさせる。
はたしてこんな化け物に勝てるのだろうか?今も奴の手のひらで遊ばされて、なぶり殺す準備が行われている。どうやって勝つか以前に勝てるのだろうか、この吸魂鬼に。
先程の一撃を見ただろう。あんな物をいちいち受けていたら命がいくつあっても足りやしない。正直言ってジリ貧以前の問題だ。将棋で言うなら飛車角金銀を取られた状態で王手をかけられているも同然だ。敗色濃厚以前に詰んでいる。
そうだ、二か月前もそんなジリ貧の中で一時の停戦にまで漕ぎ着けたんだ。もう一度、もう一度同じことをすればいいだけだ。なに、簡単なことだ。なりふり構わず勝つことだけを考えればいいんだ。
女は知らずの内に口角が上がるのを感じ取った。ああ、こんなときでもまだ笑う余裕だけはあったか。それも善哉だ。そうでなくては生き残れまい。
勝つ勝たない以前に勝てないと判じた時点で既に負けだ。奴はそんな女を嬲って殺すような暇人に見えるかと言われれば途轍もなく怪しいが否と答えるしかない。男は女の反応を愉しんでいるのだ。それが感じられなくなればすぐさま殺される。
次は家族か、それとも街の住人か。どちらでも結果は然して変らないと言うところが憎らしい。
ならば最後の最期まで足掻くしかないだろう。そうでなければ直ぐにお陀仏だ。
上機嫌に徘徊する鬼には悪いが、打てる手はすべて打たせてもらうことにしよう。女はにたりと笑いながら、眼前のガソリンスタンドに歩を進めた。
男は上機嫌だった。この不抜けた国にやって来てようやっとありつけた御馳走だった。滅多に食べられない高級料理を前に良く味わって食べるのと同じ心境で、男はその女を味わっていた。
戦争経験者で、かつ人殺しも経験済み。これほどの上玉、味わわずに腹に収めてはい御終いでは済ませられない。もっともっと、その強気な顔が歪んで命乞いする様を、その身の純潔を失う顔を見なければ気が済まない。
別に恨みがあるとかではない。今日が初対面で何処かで会っただなんてことなど一度もない。
ならなぜそこまで固執するのか?……人によって気に入らない食材があるのと同じように、この男も喰らう物に関して選り好みしているだけだ。それ以外に然したる理由など存在しない。
別に選り好みしなければ街の全てが狩り場になるが、圧倒的武威を前に立ち上がることすら出来ずに死を待つだけの不抜けどもを吸うほど、男は悪食ではなかった、ということだ。
故に、今のこの瞬間に先程から絶頂しっぱなしだった。少なくともこの国が、この国中が不抜けてしまっている中でやっと見つけられた最上級の食材。それを自分の手で料理し食することのできる幸せと、今か今かと食らおうとしているその状況に酔っているのだ。今回ばかりは碌に信仰もしていない神様に感謝の祈りをささげてしまえそうだった。
そして同時に落胆もしていた。もうどれほど火を通しても反応が薄くなってきた。もうそろそろ潮時かと考えると、男は無性に寂しく思えてきたのだ。
八十年ぶりの強者。不抜けた日本人ではなく戦争の現実を直視してきた戦争経験者だ。女だからとかそんな物は関係ない。要は喰らい甲斐があるかということそれ一点において性別などもはや関係はないのだ。
だからこそ、もう終わらせよう。そう思い、ずっと前から気が付いていたその気配のいる位置に向かって、せめて最期は苦しまずに殺すべきか、散々苦しませて殺すべきか、どちらが良心的かを考えていた。
そうやって油断していたからこそ、男は気が付かなかった。その漏れでる燃料の匂いに。
「へっへへへ、見ぃつけた――とでも言えばいいんだった……ッ!」
突然目の前を覆う暗い闇。一瞬前に見た銀色の光から察するに、恐らく女が背負っていたアタッシュケースだろう。やけに大事そうに抱えているから様子見で攻撃しないでいたが、こうされるなら最初に壊しておくべきだったかと舌打ちしたくなって、はたと気が付いた。
自分の身体から漂うこの、八十年前よりも圧倒的に混ざりッ気のないこの匂いは何だ?
上等だ。舐め腐りやがって雌餓鬼が。
自分にされたことが何か気が付いた男はアタッシュケースを腕の一振りで細切れに変えて見せた。とにかく苛立ちをぶつける何かが欲しかったのだが、ステンと空港の装置を誤魔化す為の素材が使用されたそれは、男の怒りを受け止めるには少しばかり柔過ぎたようだった。
「おい、どうしたよ餓鬼ぃ……かくれんぼの次はガソリン遊びってか?――あんま調子こいてっと、今に火傷負うことになるぜ?」
「大丈夫よ。なぜなら、火傷を負うことになるのはアナタだから」
おいおいちょっと待てよそりゃ今の状態じゃ洒落にならねぇぞこいつ!
男が目に見えて動揺したことに気を良くしたのか、女はにやりと口角を上げて嗤った。
ガソリンスタンドは通常運転が出来なくなった際に事故などで爆発が起こらないように地下にガソリンが貯蔵されている。ガソリンスタンドに三つ以上存在する謎のマンホールの正体がそれだ。
拳銃の銃口はガソリンの海の中心に据えられたマンホールの蓋に向けられ、子供でなくともその意味を理解することが出来た。
止める間もなく引き金が引き切られ、ガソリンスタンドは火の海に包まれた
こんなチンピラと主人公は付き合うの? と思われる方も多いでしょうが、大丈夫です、根はいい奴ですww
次回の戦闘で一話か一話の半分ほどを使って終わらせる予定で、その後に異世界入りになります。
あと、主人公の年齢は24で、主に使用している銃はバレットM82a1とデザートイーグルとタウルスPT92のカスタムガン(ソードカトラスをイメージしてくれれば幸い。あちらは92FSだが)とカスタムリボルバー二丁(マルシンさんのコンストリクターとアンリミテッドリボルバー。アンリミは上下にレールが付いている方の奴)です。ですがオートマチックは異世界入りの際にスパロボ風に言うと永久離脱します。ですのでその雄姿が見れるのは次回までとなります。
なお、コンストリクターもアンリミも8インチで、コンストリクターはあくまでもマルシンさんのがイメージなだけで匣上のバレルの大きさはシリンダーアームのところまで幅が広く作られてます。実際のアナコンダでは五発しか44マグナムを使えないのに対しパイソンのように6発使うので剛性を求めた結果と言う設定です。