第11話「愛はリトルレインなのだ」前半
第11話「愛はリトルレインなのだ」前半
白石裕子は、激しく降る冷たい三月の雨の中を、職場に
向かって歩いていた。
時刻は午前八時。
そう急ぐ必要もない。
循環する季節の中で再びめぐってきた、春の雨に打たれ
た冷えた体を暖めようと、コーヒーショップに入った。
カウンターでカフェラテを受け取り、店の奥のやっとカ
ップが置けるような小さなテーブルに向かい、パーカーを
脱ぐと壁にかけ、その壁を背にして座った。朝食でも食べ
ようかという時間なのに、あまり客がいない。裕子のまわ
りの席も空いていた。大切そうにカップを両手で包むよう
に持ちながら一口飲んで、ふと頭を上げたとき、空いてい
るカウンターの脇の通路を歩いてくる一人の男性の姿が眼
に入った。瞬間、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「孝夫さん」
裕子はつぶやいた。
そのか細い声が聞こえたのか、男は不思議そうな顔をし
て裕子の顔を見返した。
そして確信が持てたように裕子の席に近づくと立ったま
ま、
「久しぶりだね」
と懐かしそうに声をかけた。
夢を見ているような、少し気後れの交じった思いで、裕
子は相手への返事が出来ない。
「ここに座っていい」
彼は裕子の向かい側の席に座ることの許可を求める。
手には朝食のセットのプレートがあった。
「ウン」
裕子の答えに彼は腰を下ろした。
「君も朝食をとらないか。卵が好きだったよね。スクラン
ブルエッグか何か」
「カフェラテだけでいいの。気を遣ってくれてありがとう」
「こんなところで君に逢うなんて嘘みたいだよ」
彼は裕子の顔を見つめた。
裕子は白いものがちらほらと交じり始めた髪を染めてこ
なかったことを悔やんだ。
雨に濡れたとき化粧がどこかはがれてないか気になった。
「本当に久しぶりだね。よく僕だってわかったね」
「そっちだってよく私って」
彼は声を立てて笑った。
「君なら、百年先に会ってもわかるよ」
裕子は含み笑いをした。
「昔と同じね。大げさなんだから」
飲もうとしたカップを見ながら言って、それから訊ねた。
「その後、どうしてらしたの」
「何もかもうまくいったよ、といいたいけど食べるのに精
一杯かな。君におごるくらいのお金はあるけど」
「風のたよりに聞いたんだけど、結婚されてお幸せになっ
たと」
「結婚はしたんだけど、もう七年前に離婚したよ。貯金の
半分くらいをかっさらわれたよ」
「お気の毒様」
「何が気の毒なものか。世の中をみれば気の毒だらけだよ。
まともな人間を探すほうが大変だろ。よくある話さ。ちょ
いとマッチをすると、やけどをしそうなのが今の世の中さ」
彼はトーストをちぎって口にいれてコーヒーをすすった。
「君こそどうしてたの」
「夫が死んで、子供もいないの」
「不幸は誰にでもくるのかな。僕の青春の女神にも」
「今は市役所の嘱託で、市役所の近くの図書館に勤めさせ
てもらっているの」
「君は僕が海外勤務に言ってる間に結婚したんだよね。友
人の電話で知らされて、ショックだった」
「昔のことよ」
彼は笑った。
「失恋は人を詩人にすると聞いていたけど、詩人になるど
ころか毎晩酒を飲み続けて、アル中になりかけたよ」
裕子はカフェラテを全て飲み干した。
「お父さんはどうしてるの」
「父は死んだわ。五年前」
気まずい沈黙。
「お父さんは僕たちの結婚を許してくれるべきだったんだ
よね。僕が日本人と中国人の間に生れたことなんて、たい
したことではなかったはずだよ」
「私が勇気がなかったの。今なら誰と結婚しようと私の勝
手だと父に言えたわ」
裕子はそっぽを向いて言った。
それからしばらく昔の恋人を見て、彼の手に触れた。
彼の心の中から、しゃべりたいことが津波のようにあふ
れでようとしていた。大学時代に彼女に会って魔法にかか
ったように彼女のことしか考えられなくなったこと。ディ
スコでチンピラにからまれて喧嘩沙汰になり、二人でなん
とか店から逃げ出し、冬の寒い夜を何時間も歩き回ったと
きのこと。日本に帰ってきた後、よく二人でいった丘に登
って、君がくるかもしれないと、つまらない妄想にふけっ
ていたこと。
だが彼は大きく息をついただけだった。
裕子は急に手を離して、腕時計を見た。
「図書館に行くわ」
二人は同時に立ち上がり、彼は慣れてない手つきで裕子
のパーカーに手を伸ばすと裕子の背後に回った。
「おしゃれなコートだったら優雅なのにね。大げさなんだ
から」
微笑しながら、裕子は袖に手を通した。
店を出ると雨はまだ激しく降っていた。
「お会いできてよかったわ」
裕子の声を受けると、彼はもじもじして、小声で言った。
「明日、夕食でもどうだろう」
「今晩にしましようよ」
二人は携帯電話の番号を教え合った。
第十二話後半に続く