第一話「伊東美咲は真面目です」
昔、風俗で金を稼いで、今は安売り王のレジ係をしながらつつ
ましく暮らしている桃ちゃんが、「伊東美咲の演技がいいよね」
と言った。
「あの一本調子の人だろ。セリフ回しが下手だ」と俺が言うと、
「その一本調子のしゃべり方がいいのよ。伊東美咲はいつでも
伊東美咲なの。だから大好きなの」
と桃ちゃんはおっしゃった。
桃ちゃんは、俺に比べたら人生設計をしっかり考えていて、
中学を出たとき、三十までは性病にかからずに真面目に、男を
しごいて、「磨き」をかけてやり、そのサービスにふさわしい
労働対価を得て、貯金をして、三十以降は淡々と安月給に甘ん
じながら、貯金を年に何回か、少額を下ろしながら小市民とし
て生きるという計画を立て、今はめでたくその計画を達成して、
妙な男に引っかかるでもなく、市井の隅で地道に生きて、週一回
のルネッサンスでのエアロビを欠かしたことのない三十七の女性。
俺は、四十の独身男。安月給だが「まあいいか」と生きる気力
などなく、ドラマ「トリック」をテレビ版から劇場版までDVD
をすべてを持っているのが、唯一の自慢という人間である。
いい年こいて、桃ちゃんと俺は電話友達で、たまにいく寿司屋
の常連である。桃ちゃんは月に十回は行くのだが、こっちは金が
ないから、月に五回の日もあれば、月に一回の日もある。桃ちゃ
んはおごってやるというのだが、「女にはおごらせられねぃ」と
いつでも断っている。だから自然、桃ちゃんの携帯に電話して、
家にいることを確認したら、携帯を切り、固定電話でこちらから
掛けるのである。
話す内容はとりとめもないことで、お互いに論理性などなく、
何の話に飛んでいくかはその日の気分次第。
今日だって、なんで伊東美咲の話が桃ちゃんから出たのか、書
いていても思いだせないのだ。ただし、「その一本調子のしゃべ
り方がいいのよ。伊東美咲はいつでも伊東美咲なの。だから大好
きなの」という言葉には反論したくなる要素が秘められていた。
それは俺が、秋吉久美子のファンであったからだ。
一本調子のしゃべり方なら秋吉に一日の長がある。ポッと出の
伊東とは違い数十年の「一本調子」なのである。
「なら秋吉久美子も好きだろ。秋吉久美子はいつでも秋吉久美子っ
て演技を、あの一本調子のセリフ回しで見事にやってるもんな」
俺は自信を持って桃ちゃんにそう言った。
あられを食っているのかシャキシャキとかむ音を電話口でさせ
ながら、
「あー、あの人ね。あの人はだめよ」
と軽いゲップの音をさせて言った。
「何で」
「真面目にしゃべってないから」
「えっ」
「秋吉久美子は真面目さが伝わらないの。何か醒めていて、かわ
いくて、でも小ばかにしたような顔をたまにして、うん、真面目
さが足りないの。伊東美咲にはそれがあるの。メタボンも「めぞ
ん一刻」でも見なさいよ」
ちなみにメタボンは俺に桃ちゃんがつけたアダ名である。
俺からみたら、秋吉久美子は役柄を自分なりに消化してその上
で、独特の虚無感を漂わせようとしていると思っていたのだが、
桃ちゃんにいわせれば、一言、「真面目にやれだったのだ」。
人はそれぞれ、自分の心の範囲で周囲の対象を認識していく。
そのとき対象の評価の基準を持っている人は強い。
桃ちゃんの「真面目か否か」もくだらぬ時間など要する必要も
なく、見たままに一瞬で分かることである。
俺は秋吉久美子のすばらしさを二分ほどしゃべったのだが、一
言言われたのである。
「メタボン、いくら理屈を言っても私には分かってるんだから。
秋吉久美子がすきなのは、おっぱいが大きいからでしょ」
そういわれたとき、私の頭の中の全ての言葉と哲学は、秋吉久
美子のおっぱいに向かって収束して、「テロ対策の法律は必要な
のか」という話題に頭の中は変わっていったのである。
そうなのだ。人は、善悪の評価の基準の奥底に動物的本能的好
悪の感情があるのだ。秋吉久美子のことをいくらほめても、最後
はおっぱいがでっかいから。野球でイチローとデカ松井はどちら
がすばらしいプレイヤーか。それはイチローだろう。何でかとい
えば、最終的には松井は超巨根ぽいから。福田首相と小沢さんは
どちらがすばらしい政治家なの。それは小沢さん。だって福田首
相ってアマガエルみたいじゃん。ブッシュとビンラディンはどち
らが人殺しなの。それはビンラディン。だってイスラム教徒で髭
はやして汗臭そう。
秋吉久美子のおっぱいは、いまだに私を酔わせてくれるし、以
前秋吉久美子と映画の中でベッドシーンをした何人かの俳優のわ
ら人形を作り、丑三つ参りをしたことがあるが、別にそれでその
俳優が死んだとか、体が不自由になったとかなどないし、私が不
審者として警官から職務質問をされ、よくみたらその警官は高校
の同級生の田中で、「すごいだろ。ピストル持ってんだ」と威張
られたくらいである。
しかしブッシュとビンラディンなら話は違うだろ。どちらも人
殺しにはかわりないことは確かだが、計画的大量殺戮の技術では
ビンラディンなどブッシュとその子分どもの足元にも及ぶまい。
表面的にわれわれは911テロをリアルタイムで見て、イスラム
原理主義者に怒りを覚えたが、なぜイスラム原理主義者があそこ
まで追い詰められたのかまでは、何も教えられていない。調べた
い人だけ調べてね。アメリカ寄りの情報ならいやというほどメディ
アに流すからね。
いまやアフガニスタンはまた世界一のケシの栽培国となり、イ
ラクでは大量殺戮生物兵器など最初からなかったことが正式にア
メリカでも認められ、イラク侵攻の大義もないままフセインは絞
首刑となり、無政府状態の中で無力な民衆が毎日のように無意味
に死んでいく。
善悪の評価の基準の奥底に動物的本能的好悪の感情があるのだ
が、純粋に理性のみで評価する力が試されるときがあるのだ。
秋吉久美子のおっぱいが許せるなら、イスラム教徒のあごひげ
も口ひげも感情的に見るのではなく、彼らの背後にある「欧米か
ら抑圧された歴史」に思いをはせたい。
ちなみに桃ちゃんに、何で伊東美咲が好きなのか聞いたところ、
「私の鼻って、とがってるけど、細くて横から見たら、ほほが邪
魔してきれいに鼻がみえなかったりするの。伊東さんの鼻って横
顔でも高くて立派な鼻が見事に見えるの」
(秋吉久美子ってそんなに鼻が低かったかな)
そう思いながら、「おやすみ」と電話を切った。
一話終了