第7話 釈然としない夜
「このガキが急にぶつかって来たんで、俺は棚に手ぇ突いたんだよ。そしたらガシャンだ。頭から突っ込んでたらどうなってたと思うよ。え? こいつの親呼べ、こいつの親!」
怒鳴り散らしているゼロツーの横で、昨日の少年が、昨日と同じように青くなって固まっている。
小さくなってさえいれば、事態は誰かが収束してくれるとでも思っているのだろうか。
ああ、めんどくせえ。
両者にそう思いながらも隆也は、何とか営業的な笑顔を作った。
「破損したものはこちらで処理しますので、大丈夫です。気にしないでください」
こういう手合いには、無闇に低姿勢になるのは禁物だ。
下手に気遣う気配を見せれば、すぐに足元を見られ、通路の狭さや商品の配置に文句を付けられてしまう。
隆也は、淡々とやり過ごす努力をした。
「そんなんで済ます気か? 親呼べってんだ、親!」
「お客さん、動くと滑って危ないですよ。ガラスもありますし、滑ったらお尻、ひどいことになりますよ。掃除するんで、ちょっと待って下さい」
ゼロツーが、それでも抵抗しながら床の液体を踏みならす、べちゃべちゃした音がフロアに響く。
カクテルの甘ったるい匂いと、男の吐くアルコール臭が混ざって、隆也は吐き気を覚えた。
全てを隆也に丸投げしたまま、さっきから気配を消していた後輩バイト店員が、「すいません、時間過ぎたんで、上がります。おれ、次のバイトあるんで」と小声で言いながらモップとちり取りを隆也に手渡した。
無言で受け取りながら、隆也の憂鬱度は増していく。
そういえば、今夜も0時から1時まで、自分一人になるのだという嫌な事実を思い出してしまった。
最悪だ。
ゼロツーが何語かわからないろれつで喚いている声が、更に神経を逆なでる。
少年も、どうしていいのか分からないらしく、もじもじと俯き、それがまた隆也の癇に障った。
何でまた、こんな時間に!
モップで床を拭き始めながら、隆也は昨日よりも冷ややかな口調で問いかけた。
「何か急いでたのか? それともまた誰かに追いかけられてた? 2日続けて」
その言葉に少年はハッと顔を上げて、隆也を見た。
「いえ・・・。あの、そんなことは・・・」
「大体、こんな時間にこんなガキが、こんな所にいる方がおかしいんだよ。親もアホンダラだが、出入りさせてる店も店だ。ああ、棚に突っ込んだ手がヒリヒリしてきやがった。親呼ばねえんだったら、警察呼べ、警察」
少年の言葉を弾き飛ばしてがなり立てている男に、元来気の短い隆也は限界ギリギリだった。
こういう酔客の扱い方は確かマニュアルに書いてあったが、そんなことかなぐり捨てて、今すぐこの男を店の外へ放り出してしまいたい衝動に駆られた。
秒読み段階だ。
「ああ、ちくしょう、手が痛てえなあー。ほらくそガキ、名前なんてんだ。てめえの名前くらい言えんだろうが。母ちゃんが居ねえと何も喋れねえってか? なあ兄ちゃんも、何とか言ってやってよ。俺、大迷惑なんだけどさ。手、痛えし。救急車呼ぼうかなあ」
ブチリと隆也の頭の隅で、何かの切れる音がし、手に持っていたモップの柄を、パーンと床面に叩きつけた。ギョッとしてこちらを向いたゼロツーと目が合う。
男を巻き舌で怒鳴りつける自分と、数時間後こってり店長に搾られたあげく、バイトをクビになる自分の姿が、同時に脳裏をよぎったが、どうにでもなれ、だった。
「な・・・なんだよ」
「なんだよじゃねえよ。なんだよじゃあ! 大体だなあ、おっさん!」
「あの、ちょっとよろしいですか?」
とっくにゴングを鳴らした隆也の横にスッと入ってきた声は、静かだったが、不思議とその場の熱を奪う声色だった。
「損害は、私が代わりに弁償します。お幾らでしょうか」
息巻いていたゼロツーも少年も、鬼の形相になりかけていた隆也も、同時にその声の主を振り返った。
ドアチャイムが鳴ったのに、誰も気づかなかったらしい。
きっちりとスーツを着こなした30代半ばくらいのサラリーマン風の男が、まるで息子のお詫びを言うような低姿勢で隆也たちの前に立っていた。
これといって表情や造りに特徴のない、平凡な印象の男だ。
「あ、・・・ええと、弁償はこの場合ちょっとややこしくなるので、今日の所は・・・」
という隆也の声に被るようにゼロツーが喚いた。
「親か?」
「いえ、ちょっとした知り合いです。ちょうど通りかかったものですから」
サラリーマン風の男は、決まり事であったようなスムーズな仕草で財布から1万円札を取り出すと、ゼロツーに差し出した。
「足りなければ、医者の領収書を私に送ってください。残りをお支払いしますから。私は松岡と言います」
さらに名刺を取り出そうとする男を、ゼロツーは遮った。何故か馬鹿に慌てている。
「いや、いい。・・・別にいいよ、もう。これで足りると思うし」
隆也と少年と「松岡」がじっと見つめる中、ゼロツーは出来損ないの張子人形のように首をゆらゆらさせていたが、やがておぼつかない足取りで店を出ていった。
思いがけなく手にした万札を、コソコソとズボンのポケットに仕舞い込みながら。
1万円という現金が妙に生々しく、そしてゼロツーのサギ紛いの行為も腹立たしかったが、松岡の表情はとても穏やかで曇りなど少しも見受けられない。何か特別に、気分のいいことをした後のようだ。
この少年と、随分と近しい知り合いなのだろう。
隆也も事がこじれることなく収まって、正直ホッと胸をなでおろした。
「じゃ、私はこれで」
松岡は隆也に軽く声をかけると、少年の方を見て言った。
「行こう。家まで送っていってあげるよ、祐一君」
気のせいだろうか。
祐一と名を呼ばれたその少年の顔は青ざめ、怯えているようにすら見えたのだ。
いったいどんな間柄なのだろうと訝ったが、やがて松岡は少年の手をギュッと握り、そのまま一緒に店を出て行ってしまった。
最後にちらりと隆也の方を見た少年に、隆也は「良かったな」という気持ちを込めて頷いて見せたのだが、果たしてそれで良かったのかどうか。
モップを拾いあげ、何かが釈然としないまま、隆也は小さな惨事の後片づけを始めた。
◇
それから30分ほどしてコンビニに現れた春樹は、珍しく浮かない顔をしていた。
アパートから歩いて10分足らずの、このピコマートではあったが、2日続けて春樹がやって来るのも、考えてみればけっこう珍しい。
「どうかしたか? 春樹」
ちょうど店内に客が居なかったこともあり、隆也は昨日と同じように春樹をカウンターに呼び寄せた。
春樹はチラリと、ガラス越しの歩道に目をやる。
「今日、塚本を見てない?」
「今日? いや、見てないけど、なんで?」
「携帯を・・・失くした」
「落としたのか? 携帯失くした事と塚本と、なんか関係あんの?」
「エレベーターで乗り合わせて、そのあと、後ろポケットから消えてた」
「は? スられたのか!?」
「疑いたくないけど、あの時しか考えられない」
「ほら、やっぱりそうだ。言ったろ、春樹を付けてんだって。あいつなら、やりかねない!」
しゃべる端から昨日の塚本への嫌悪が隆也の中に蘇った。収まっていた血が、また沸き立つ。
面と向かって話したこともない相手なのに、塚本イコール変質者の図式が揺るぎないものになっていった。
それにしても。
昨夜、あんなに否定的だった春樹が、今日は傍から見ても分かるほど不信感を強く抱いていることが不思議だった。
「けど、なんで携帯なんか盗るんだろうな。いたずらにしちゃ幼稚過ぎる。本当に何も心当たり無いのか?」
「心当たり?」
「あいつが春樹に構ってくる理由。なんかあるだろ。それともあいつ、マジでやばい系なのか?」
春樹の表情が曇った。
そんなこと聞かれても分かるわけないよなと思いつつ、隆也は尻ポケットから自分の携帯を取りだした。
「掛けてみるぞ」
「え」
「春樹の携帯にだよ。試してみなかったのか? あいつが犯人だったら、窃盗で突きだしてやる」
けれど春樹の番号を押そうとした瞬間、まるで見計らったかのように、マナーモードにしていた隆也の携帯のバイブが震えた。
発信元を見て怒りが込み上げる。
「春樹の携帯からだ」
ここ最近見たことのない不安な目をして、春樹がこちらを見つめてきた。