第3話 ロックオン
隆也は一年間の浪人生活、そして春樹は一年間の社会人経験を経て、昨年この地で大学生となった。
大学は異なるが、近い距離にアパートを借り、週に2度は行き来して他愛もない会話を交わす。
隆也がこのコンビニでバイトをするようになってからは、春樹はこんな風に時々陣中見舞いに来てくれるようになった。
特に買いたいものがあるふうでも無さそうなのに、ふらりと深夜に顔を出してくれる。
都合のいいことに、このコンビニは、2人のアパートのちょうど中程にあるのだ。
こんな夜中に出てくるなんて、眠れないことがあるのだろうかと時たま気にはなるが、春樹の表情を見る限り、近頃はそんなことも無さそうだ。
どこにでもいる気楽な大学生に見える春樹だったが、本当の彼の苦悩を知るのは隆也だけだった。
家族全員を5年前の火事で亡くしたという悲劇は、高校の同級生なら皆知っているが、今なおこの青年を苦しめて続けているものが他にあることを、誰も知らない。
生まれつき備わってしまっていた、彼の悲しい特殊能力だ。
「考えてみたらさ、人に触れないで過ごす事って、充分可能なんだよ」
レジ袋の商品を受け取りながら、春樹が言う。
「まあ、そりゃそうかもしれないけどさ」
「買い物の時の釣り銭の受け渡しだって、うまくやればまったく触れずに済む。今みたいにね」
「スーパーのおばちゃんなんか、わざと触ってきたりしないか? 春樹なんか特にやられそうじゃん」
「ないない!」
春樹は可笑しそうに笑う。
「丸福ストアのおばちゃんは、ぎゅーってしてくるぞ。俺、何回もやられたもん」
「大丈夫。僕は、ぜったい女の人のレジに行かないから」
そうやって再び春樹は何気ない会話の延長のように笑ったが、隆也はそこでやはり胃が重くなるのを感じた。
春樹は人の肌に触れると、その瞬間の相手の感情全てを、否応なく鮮明に読みとってしまう。
喜び、悲しみ、不安、憎悪、嫌悪・・・そして時に、他人に覗かれたくない赤裸々な情事や罪の記憶まで。
触れた瞬間、相手の脳とシンクロするのだと、春樹は言う。
異質な感情が濁流のように流れ込んできて、自分の感覚と波長が違いすぎると、脳が痺れ、吐き気がする事もあると。
あることが切っ掛けで、隆也だけはその秘密を知ることになったのだが、春樹はその能力を極力他人には漏らさぬよう死守してきた。
何よりも、その能力を忌み嫌い、そんな体質の自分を嫌っているのだ。
それほど辛い事なのだと、容易に想像できる。
隆也にしても、もちろんその特異な感覚を100%理解することは出来なかったが、秘密を知った2年前から、春樹がどれほど苦しんできたかは誰よりも知っている。
一歩間違えば精神を崩壊させ、正常な世界へ帰って来られなかったかもしれない時期さえあった。
優しすぎる性格が、災いする。
優しすぎる故に、大切な恋を諦め、仕事を辞め、そして思い出を全て断ち切るように、生まれ育った土地を離れた。もう帰るべき家も家族もない。
いろんな事を乗り越えて、春樹は大学生として今ここにいる。もう2年目の春だ。
「やっぱりその能力って、どうやってもシャットアウト出来ないのか? 肌に触っちゃったらもう、無理?」
レジを閉めながら、隆也は今さらな質問をした。
そんなことが出来るならとっくにやっていると思いながら。
ほんのわずかでもいい、なにか喜ぶべき進展が欲しかった。
「うん。ほら・・・皮膚感覚や味覚は拒否しても、触れると熱い、冷たい、甘い、しょっぱいって、伝わってくるだろ? それと一緒。視覚や聴覚みたいに、遮断できないんだ」
春樹は小さな白いレジ袋をしゃらしゃら揺らして、店内を見渡す仕草をした。
「でも、出勤で満員電車に乗ることもなくなったし、今はすごく楽なんだ。あとは、こうやってわざと触って来ようとする、ハレンチなコンビニ店員の魔の手から逃げれば良いだけだし」
一瞬、琥珀の目がイタズラっぽく笑った瞬間を見逃さない。
隆也はレジカウンターから身を乗り出して素早く春樹の手を掴んだ。
まるで子供のような声を上げて春樹が笑う。
最上級の悪ふざけ。春樹にこうやって触れることが出来るのは隆也だけだった。
許される、と言ったほうがいいかもしれない。
春樹も隆也には身構えない。そして隆也は自分の心の中全てを見せることに、なんの躊躇いもない。
それが春樹の慰めになっているのか本当のところは分からなかったが、「お前の力は、そんなに嫌悪するほど罪な能力じゃないさ」と伝えたかった。
ずっとこの距離にいてやろうと思う。
この友人が、壊れてしまわないように。
◇
「ヤッパリ、ソノ能力ッテ、ドウヤッテモ シャットアウト出来ナイノカ? ・・・肌ニ触ッチャッタラ、モウ無理?」
「ウン 皮膚感覚ヤ味覚ト同ジ ・・・遮断デキナインダ」
デモ ウマクヤレバ 触レズニスム。アトハ・・・コンビニ店員ノ 魔ノ手カラ逃ゲレバ・・・
ボソボソと、視覚から得た情報を口の中で復唱した後、その青年は楽しそうに笑った。
青年の視線の先にある、その薄紅の、形の良い唇はすぐにコンビニ店員の方に向いてしまう。
随分と訓練したが、角度が60度外れると、もう読み取り不可能になる。
けれど、何日にも渡る情報収集は、なんとも美しい、この世に2つと無い宝玉を生み出した。
天野春樹・・・。サイコメトラー・・・。
青年は目に見えぬ光に吸い寄せられるように、その高身長の体を、ガラスの壁面にそっと貼り付かせた。