第1話 酔狂
「その少年は少し興奮気味に、車の助手席に乗り込むんだ。初めてのヒッチハイクで、初めて止まってくれた車だからね。ドキドキさ」
塚本は、ゆっくりと穏やかに、まるで詩を朗読するかのように語った。
「どこにでもあるような白いセダン。運転手は20歳くらいの、学生風の男。丁度、俺くらいのね。でも少年は警戒心なんか無い。今にも雨が降りだしそうな国道で立ちつくしていた少年にとって、その男は救いの神だったわけ」
大学構内にあるラウンジには、5月半ばの程良い自然光が溢れている。
10人余りの学生がそれぞれ雑談に興じていたが、中央のテーブルに座る男女2人の会話を聞く者は、誰もいなかった。
「その少年は運転手の男に『ヒッチハイクでどこまで行けるか、賭けをしてるんです』と、ハイテンションで言うんだ。親には、裏山に友達とキャンプに行くんだと、嘘をついて出てきたらしい」
「やりそうね。男の子って、馬鹿だから」
茶色に染めた髪を指先にクルクル絡めながら、女は言った。けれど、どこか興味無さげだ。
塚本は、話を続けた。
「そのうち雷の音が近くなってね。少年の顔が不安げになる。まだ中学一年生だ。度胸もない癖に、冒険したがる無鉄砲さが、その横顔に浮き立っていてね。運転席の男は、気付かれないようにひっそりと嗤うんだ」
ほんの少し女は眉をひそめて塚本を見た。
塚本は構わず先へ進める。
「運転席の男はスピードを上げて山道を走りながら、問う。『冒険もいいけどさ、少しばかり無謀すぎやしないかい? こうやって車に乗せてくれる大人が皆、正常かどうか、分からないだろ?』と。 少年は『え?』と振り向く。いい反応だ。
運転席の男はスッと路肩に車を止めて、シートベルトを外すんだ。リアルな事件は、映画やドラマのような、親切な余韻を用意してなんかくれない。声を上げる間も与えず、男のごつい大きな手が、少年の首を捕らえて締め上げる」
「あ・・・あの」
女は少し慌てるが、塚本は話を止めない。
「けれど突然地を裂くほどの至近距離の落雷に、男は驚いて跳ね上がり、不覚にも少年から手を放してしまった。少年はその一瞬に力を振り絞り、全力でドアを開け車外に転がり出た。
余裕をかましていた男だったが、流石に落ち着いてはいられなくなった。ほんのイタズラのつもりだったが、ここで下手に騒がれるのは不本意だ。逃がすわけにはいかない。
前方に転がり出た少年に向かって迷わず男は車を急発進させた。柔らかな体に車体がぶつかる音と落雷の音が重なり・・・」
「あの! もういいから!」
見ると女は既にイスから立ち上がり、バッグを肩に掛けて今にも逃げ出しそうな形相だ。
「気に入らなかった?」
塚本が、良く通る低い声でそう言うと、女はわざとらしく時計を見ながら一歩後退した。
「私、ホラーは得意じゃないのよ。恋愛小説なら、たまに読むんだけどさ。書きかけの作品、聞かせてくれて有難うね。いつかそれ、新人賞とか、とれたらいいね」
「今のは、即行でさっき思いついたヤツだから。投稿なんかしない」
「・・・あ、そうなの? あ! 待ち合わせした友達が来たみたい。私、行くね。時間つぶしに付き合ってくれて有難う。小説、頑張ってね、塚本君」
女は赤茶の長い髪を揺らして、ラウンジ入り口へ走って行った。
塚本は、目で追う。
このラウンジでのんびり携帯ラジオを聞いていた塚本に、馴れ馴れしく声を掛けてきた女。
同じ理学部の2回生で、加奈子と名乗った。
『ねえ、小説とか書いてるの? 塚本君。どんなの? 教えてよ』
そう、いきなり言うから、たった今頭の中に広がっていた映像を話してやった。
その結果がこれだ。
塚本は、時折こちらを見ながらヒソヒソと話している加奈子と、その友人の女の唇を、注意深く吟味した。
エナメルのテラテラしたナメクジの唇が、忙しく蠢く。
2.0の視力は、その微妙な動き、ひとつひとつを見逃さない。
--- 塚本君ッテ 話シテミテ ドウダッタ? 加奈子---
---モウ、ガッカリ。背高イシ、頭イイシ、イケメンダケド、テンデ、オタク---
---エエ? ソウナノ? 何ノ話シタノ?---
---クッダラナイ小説ノ話。殺人シーン楽シソウニ話スノヨ。キモイッタラ---
女達はやがて向こうを向いてしまったので、続きは読めなかった。
別の話題で何やら盛り上がりながら、二人はラウンジを出ていった。
どうやら自分は、あの女の好みでは無かったらしいな。
塚本は薄い唇を引き延ばして、ニンマリ笑った。
どこぞの二枚目俳優に似ていると、高校の頃から言われ続けたクールな容姿のせいか、塚本に興味を持って近づいてくる女は多かったが、本人にとってそれは迷惑以外の何者でも無かった。
くねくねと、気色の悪い動きも、ナメクジの唇も、甘ったるい喋り方も吐き気のする香水も。
そこに塚本をそそるものは何も無かった。
更にすぐ群れる行動パターンや、人を値踏みして見下すような笑いや陰口は、醜悪でしかない。
けれど女嫌いをアピールして、変人扱いされるのは得策ではないと、塚本は心得ている。
---何者にも邪魔されず、自分は己の欲望を満たすものを探求するのだ。この世は歓喜と驚異に満ちている。
奥二重の鋭い目は、臓腑を熱くさせる獲物を求めて、絶えず動いた。
『午後のニュースです。昨日から行方不明の中学1年生の少年の消息は、依然つかめず・・・』
耳に入れっぱなしだったイヤホンから、ローカルニュースが続報を伝えてきた。
塚本はボリュームを上げ、集中する。
『自宅近くの白金岳へ行くと言って家を出たまま消息を絶った少年の捜索が行われましたが、依然発見には至らず。少年は普段山へ登る趣味など無かったという家族の証言から、遭難ではなく、家出、もしくは事件事故に巻き込まれた可能性もあるとして、安否が気遣われています』
「家出だと思われたんなら、捜索は打ち切りだな。可哀想に」
ラジオを消し、眉をひとつコミカルに動かし、塚本は視線を上げた。
軽食OKのラウンジでは、テイクアウトフードを持った学生達が、わらわらと集まり始めている。
男、女、女、女、男、女・・・。そそられない。
塚本は視線を巡らせながら、左手をゆっくりと胸の辺りまで持ち上げた。
感覚を思い出すように、閉じたり開いたりしてみる。その手にはまだ、柔らかい肌の感触が残っている。
12,3歳の、ピンと張った若い少年の肌。肉、骨、青臭い匂い。
それに引き替え、大学生になった男女の何と色あせて見えることか。
塚本は退屈なあくびをひとつし、携帯とイヤホンを無造作に黒のジャケットのポケットに突っ込んで立ち上がった。
「春樹!」
ハッとして、動きを止め、振り返る。
ぽっちゃりした男子学生が、もう一人の学生に声を掛けながら、塚本のテーブルの方に近寄ってきたのだ。
声を掛けられた青年が、塚本の横を通り過ぎる。
「ああ、マサト。今からお昼?」
「そっ。『マロニエ』に行くんだ。春樹も行こうや。今日はオムライス半額サービスだぞ」
「へえ、いいね」
春樹と呼ばれた細身の青年は、柔らかく笑い、そのぽっちゃり男子学生の元に歩み寄った。
外から入る微かな風に、絹のように輝く亜麻色の髪が、サラリとゆれる。
モデル並みにスッと伸びた首、キメの細かい白い肌、ちょっと日本人には珍しい琥珀の瞳。
「理工学部2回生、天野・・・春樹」
塚本は左手の記憶を弄ぶように、握ったり開いたりしながら、にんまりと笑った。