ある残暑の厳しい1日
遠賀川誠司、二十一歳、大学生。
今日もまた絶賛大弱り中だ。
と言うのも、
「……む~……」
うちの家猫がとてつもなく不機嫌なのだ。
美奈は俺のひざの上に向かい合うように座り、その視線は俺の頭の上に向かっている。
「あ、あら? 何でそんな眼で私を見るの?」
肩の上からはおっとりとした声。
ちょっと困惑気味なその声を出した本人は、そう言いながら俺の背中にしなだれかかる。
赤間由紀、二十五歳、家事手伝い。ついでに独身。
おチビな美奈とは正反対の悩ましい体を持つ彼女は、長いデニム生地のスカートに黒いシャツ、その上に薄手の白いカーディガンを着ている。
祖父がドイツ人のクォーターで、クリーム色の長い髪と青い眼をしているが日本人である。
はっきり言って滅茶苦茶美人である。合コンなどに行ったら即座に声が掛かることだろう。
そんな彼女と俺の関係は、兄嫁の妹と言う関係である。
半年前の兄貴の結婚式のときに初めてあって以来どうにも気に入られたらしく、たまにこうして遊びに来るのだ。
……まあ、話によれば姉の惚気話から逃げてきているらしいが。
なに、くっついてくる理由? 座ったときの肩の高さがちょうど良いんだとさ。
あと、兄貴の奥さんの話じゃもの凄い年下趣味で、俺は彼女の好みど真ん中なのだとか。
そんな訳で、八畳一間の部屋の一畳分に三人が密集して座っている。
「む~……」
「う~……」
俺を挟んで向かい合う二人。
この二人、仲があまり宜しくない。
まあ、正確には美奈が一方的に由紀さんを敵視しているだけで、由紀さんとしては美奈とも仲良くしたい様である。
とはいえ、俺が言いたいことはただ一つ。
「……あちぃ……」
残暑厳しいこの季節、冷房も利かん中で何でこんなサンドウィッチを受けなきゃならんのだ。
只今の気温、ニ十九度。どう考えてもこうやって抱きついて暖を取るような温度ではない。
「……離れて」
前から俺に抱きついて由紀さんを睨む美奈。
いつもの柔っこい感触が胸に張り付く。
「え~……いいじゃない、減るもんじゃないし……」
その美奈に対して困った顔で言い返す由紀さん。
顎を俺の肩に乗せ、背中にべったり張り付く。
……背中から感じる二つの感触が煩悩を刺激するが、暑くてそれどころではない。
「……暑いから二人とも離れろ」
「嫌」
「やだ」
何なんだこいつら。
と言うか、暑くないのかあんたら。
「誠司からも何か言って」
美奈はそう言いながら俺の頬を人差し指でつついてくる。
……さっき俺は二人とも離れろと言ったはずなのだが。
しかしここで何も言わないと矛先が俺の方に向くので由紀さんに物申すことにした。
「由紀さん、何で俺の背中に張り付いてるんで?」
「う~ん、なんとなく? この体勢が一番落ち着くのよ」
「……こういう形の抱き枕ならあるのですが」
「本物には勝てないわよ」
「……際ですか」
なるほど、テレビを見る時用の抱き枕は俺をモデルに作られていたのか。そいつぁ初耳だぜ。
まあそれはともかくとして、このままでは俺が熱中症になってしまう恐れがある。
何とかして二人でも退いてもらわないと……
「はいこれ」
などと考えていると突然差し出されるペットボトル。
スポーツドリンクの入ったそれは、由紀さんの白い手に握られていた。
「汗すごいね。水分補給しないと脱水症状を起こしちゃうわよ?」
「そう思うのなら、少しでも熱を逃がすために離れていただきたいのですが」
「やだ」
そういうと、腹に回された手に力がこもる。
ああもう、こうやってくっついてくるのはうちの家猫だけで十分だってのに。
「がぶっ」
「あだだだだ!?」
突如として首筋に鋭い痛みを感じる。
うちの家猫の噛み付き攻撃である。
「いきなり何なんだよ、お前は!?」
「……そっちばっかり構わないで」
「何か言えと言ったのはお前だろうが」
「それとこれとは話が別」
「どうしろって言うんだよ……つーか、お前もお前で退け」
「嫌」
美奈はそう言うと、俺の脇の下に回した手に力を込める。
……後ろで手を組んでやがる、引き剥がすのは厳しそうだ。
あ~やばい、頭がくらくらしてきた。水分補給しないとな。
そんな訳で、俺は由紀さんからもらったスポーツドリンクに口をつける。
……これは……
「由紀さん、これって粉を溶かした奴ですか?」
「ええ、そうよ」
「……これ凄まじく濃いんですけど。俺の感覚では、恐らく二リットル分溶けてるんじゃないかと」
「え、ええっ?」
由紀さんは焦ったような表情で俺からペットボトルを引ったくり、それに口をつける。
「あ……」
それを見て、美奈が不意を撃たれたような声を上げるが気にしない。
由紀さんはスポーツドリンクを飲むと、その場でがっくりとうな垂れた。
「ああう、本当……いつもの癖で二リットル分入れちゃったんだ……ごめんね、これはこっちで処理するから……」
「別に良いですよ。濃すぎたんなら薄めれば良いんですし、口をつけたからにはこっちで処理をしますよ」
「いいの?」
「ええ。せっかくの好意ですし、ありがたく頂きますよ」
俺はそう言って由紀さんから再びペットボトルを受け取り、その中身を飲む。
由紀さん、お姉さんらしく振舞おうとしていっつも失敗するんだよな……いわゆるドジッ娘と言う奴だろうか。
「む~……」
そんな俺と由紀さんを不機嫌な眼で見比べながら、美奈が頬を膨らませる。
……俺が何かしただろうか。
とりあえず、ぷっくりと膨らんだ美奈の頬をつついてみる。
おおう、相変わらずのぷにぷに感。こいつの頬はつついていて面白いんだよな。
「むむ~……」
……おかしいな、いつもならこうやって弄ると多少落ち着くんだが、未だに恨みがましい眼を由紀さんに向けてるな。
と言うことは、俺だけじゃなくて由紀さんも何かしたってことになるが……
「えっと……どうしたの?」
由紀さんが困惑気味に話しかける。
「……間接キス」
その質問に美奈は不機嫌さを隠そうともせずにそう言った。
それを聞いて、思わずため息が出た。
……これくらいのことで怒るとか、中学生かおまいは。
「別に気にすることは無いだろうがよ。第一、お前普段俺に対して……?」
俺が美奈に対して物申そうとすると、腰に回された手に力が篭るのが分かった。
何があったのだろうと思いながら由紀さんのほうを見る。
「……間接キス……誠司君と……」
そこには真っ赤になった由紀さんの照れ顔が。
まあ、純情なのね。でも、確かに男に免疫無さそうだもんなー。俺に抱きついてるけど。
……と言うか、貴女も中学生と同レベルなのですか。
「むむぅ~……」
前から感じる圧迫感が半端ないです。
ちょっとでも機嫌を直してもらわないといかん。
と言うわけで、俺は美奈にいつもどおり構うことにする。
不機嫌そうな美奈の頬を再びつっつく。
美奈は頬をつつかれるのが好きらしく、大概これをやると期限が上向きになるのだ。
「はむっ」
「あ」
すると美奈はハムスターのごとく俺の手を掴んで、口の中でもごもごと弄り始めた。
……こうなると長い。手を掴まれているから、引っこ抜こうにも手間が掛かるし……
と言うか、毎度の事ながら何でこいつは俺の指をくわえずには居れんのか。
「がじがじ」
「いでででで!?」
割と本気で指を齧りに掛かる美奈。
不機嫌なのは分かるが、毎度毎度八つ当たりの矛先が俺に向くのは勘弁していただきたい。
「大丈夫、誠司君?」
突然叫んだことで由紀さんが心配して声をかけてくる。
齧られた指の心配をする前に熱中症の心配をしたいところだが、グッとこらえる。
「……まあ、いつもの事ですんで」
「そ、そう……」
由紀さんはそう言うと再び俺の肩に頭を乗せる。
ぴったりくっついているものだから、胸の上下ですごくリラックスした呼吸をしているのが分かる。
ついでに、押し当てられたものの弾力も伝わってくる。
しかしながら、やはり蒸し暑くてどうしようもないので何とか抜け出す方法を考える。
「……腹減ったな」
何となく呟いてみる。
すると、俺に後ろから抱き着いていた人が顔を上げた。
「あ、それじゃあ私が作ろうか?」
うむ、流石は世話好きな由紀さんだ。そう言うだろうとは思っていた。
しかし、それを阻止する奴もまた1名。
「……誠司の作るご飯が食べたい」
そうのたまうのはうちの家猫。
そして、俺はその言葉を待っていた。
「やれやれ、了解。んじゃ、何か適当に作ってくるな」
俺はそう言って立ち上がろうとする。
しかし、それをまた阻止するのが一名。
「ダメよ。ここはお姉さんに任せなさい」
ぎゅっと押さえ込むことで俺が立ち上がるのを阻止する由紀さん。
……ううむ、せっかく立ち上がるチャンスだったのにな。
この様子じゃ、何を言っても聞いてはくれなさそうだ。
「美奈、おやつは俺が作るからここは由紀さんに任せてくれないか?」
「分かった」
意外とあっさりと承諾する美奈。
まあ、話をすると由紀さんも料理は得意な様だから問題はないか。
「それじゃ、宜しくお願いします」
「了解。それじゃ、台所を借りるわよ」
由紀さんは満足そうにそう言うと、俺から離れて台所へと向かっていく。
何だか良くわからないが、異様に意気込んでいるような気もする。
……由紀さんのことだ、絶対どこかで空回りしそうな気がする。
「誠司」
由紀さんの心配をしていると、ふと前から声が掛かる。
未だに俺に張り付いている美奈に、俺は眼を向けた。
「どうした、美奈……」
前を向くと同時に唇に瑞々しくて柔らかい感触を受ける。
目の前には、いわゆるキス顔の美奈。
……また唐突に仕掛けてきたな。
「いきなりどうした?」
「……上書き」
「上書き……ああ」
何処となく不機嫌な美奈の様子に、俺は美奈が何をしたかったのか思い至った。
……こいつ、俺と由紀さんが間接キスをしたのが気に食わなかったみたいだ。
それで、直接キスをして上書きをしようとしたというわけだ。
「全く、そんなことを気にしてたのか。それぐらい……っ」
気にするなと言おうとすると、再び唇で塞がれる。
ぎゅっと押し付けるようなそれは、俺の言葉を否定するものであった。
「気にする」
「……そーですか」
そう言うと、美奈は俺の胸にぐりぐりと顔を押し付けてくる。
……本当に猫のマーキングの様である。
と言うか、由紀さんが離れただけで機嫌が段違いに良くなったな。
「あいったぁ!?」
などと思っていたら、台所から由紀さんの声が聞こえてきた。
……あ、たぶん包丁で指を切ったな。
「美奈、救急箱を取るから少し退け」
「嫌」
俺の頼みを、美奈は俺の胸に頬ずりしながら答える。
……ったく、しょうがねえな。
「……後で言うこと一つ聞いてやるから、頼む」
「……約束」
「分かってるって」
俺がそう言うと、美奈は渋々俺の上から退く。
俺は立ち上がって、救急箱を取りに行こうとする。
「誠司」
「何だ、ん……」
突如声をかけられ美奈のほうを向くと、首に前から重量が掛かると同時に唇にまた湿っぽい感触。
目の前を見ると、若干頬を染めた美奈の顔。
……やれやれ、今日はやたらと絡んでくるな。
「……早く戻ってきて」
「……了解だ」
……こりゃ早く戻らないとまた不機嫌になりそうだ。
俺はそう思いながら駆け足で手から血を流して涙眼になっている由紀さんのところへ向かうのだった。
何か思いついたので唐突に続き。
主人公は熱中症で倒れれば良いと思う。




