前編
昔の作品手直ししました。恐らく前後、長くて前中後編。
瀕死にも関わらず絞り出すような声で蝉が鳴いている。
正直うるさい。じーわじーわもかなかなかなもつくつくほーしも、遠くに聞こえるなら趣を感じるかもしれない。
クーラーのガンガンに効いた部屋で窓ガラス越しに聞くならばなおよろしい。
けれど、どろどろ溶けそうなくらい熱されたアスファルトの上を、こちらもどろどろになりそうなぐらい汗みずくで歩いている最中に耳元で喚かれると殺気すら覚えてしまう。
本日気温35度越え。
9月も半ばだというのに太陽は絶好調です。
暑いなんて言葉じゃとてもこの灼熱地獄を表わせない。
直接あたる紫外線はまさにレーザービームのように肌を攻撃してくるし、薄い夏用のTシャツを隔てたくらいではその勢いは全く揺るがない。じりじりと絶え間なく全身を焦がされている気がする。レアでもミディアムでもなく間違いなくウェルダンだ。もう勘弁して下さい。
汗で布地が皮膚に貼りつく湿った感触も、濡れてぺったりとまとわりつくシャツの身体を束縛する感じもすべて地獄の亡者が新たな犠牲者を逃すまいとしがみついているようにしか感じられない。
さらに言うならば黒は熱を吸収するらしい。少し明るめに染めているとはいえベースは黒髪である日本人にとって、帽子も被らずに夏の外出、という行為は自殺行為そのものを指すんじゃないだろうか。自分はもう死ぬんじゃないだろうか。今なら間違いなく頭頂部でいい感じの目玉焼きが出来る気がする。やればできる。フライパンを使わずにクッキングってエコなのだろうか。やってみる価値はあるのだろうか。
額から流れ落ちる汗が目に入った。瞬いたがしみる。でも汗を拭いとるために腕をあげるのさえ億劫だ。
徒歩15分など大した距離じゃないとTシャツにハーフカーゴにサンダルという軽装備で着たしまった自分は何て愚かだったのだろう。近所の奥様方やクラスメイトの女子たち、はたまた最近妙にそっけなくなってきた小学生の妹でさえ「UV対策・美白」を合言葉に日焼け止めに長袖、ツバが広い帽子に日傘と万全の対策を練って戦地に赴いているというのに!!
ごめん母に妹よ。
なんでそんなに顔やら腕やらにひたすらべたべたと妙な液体を塗り込むのか。
なんでこのくそ暑い中さらに腕カバーやらスカーフやらカーディガンまで着込むのか。
なんでどれも同じに見えるキャスケットを幾種類も使い分けているのか。
なんで雨でもないのに真っ黒い傘なんぞさすのか。
女の子はその美しくも魅惑的な肌をもっと誇示すべきだ。隠されればそれはそれでそそるがやっぱりチラリズムのチラッとぐらいは欲しい____とか思っていた煩悩にまみれ、平和ボケした兄を許してほしい。
おそらく、深い理由があったのだ。男の自分には知ることが出来ない秘密があったに違いない。
あれさえ、あの「UV対策グッズ」さえ手に入れることが出来れば彼女たちのように_____。
ぱしゃん。
涼やかな水音に混濁していた意識がすぅっと澄んでいくのを感じた。
やばかった。今、かなり朦朧としていた。
思わず頭を振り、それによってさらにぐらついた視界を手でさえぎる。
前方に見えた揺らぎが熱気うごめく陽炎なのか、自前の眩暈なのかすら判断できない程度にはまずい自覚がある。けれど、ギリギリで身体が出したエマージェンシーコールを聞き取れたのは幸いだ。とにかく休まねば・・・と日陰を探してあたりを見回す。
いつの間にか目的地である高校の端にある野外プール近くまでたどり着いていた。無意識ってすごい。すごい怖い。
夏場は男子は野外プール、女子は屋内プールを使えることになっている。水泳のメインは夏場のせいか、女子と共有する冬場の屋内プールが居心地悪いせいか、どうも野外プールの方が馴染む。
帰巣本能のように無意識でここまで来れる自分に慄きながらも安堵する。うっかり屋外プールにフラフラ近づいていなくて良かった。そんな自分に気づいたら立ち直れない。
うん。とりあえず、これ以上「頭が」茹らないために本格的に日陰で一旦休憩した方がいいかもしれない。ポケットを探ると昨日返し忘れた鍵と、ペットボトルが買える程度の小銭は入っていた。
日影と水分を求めて裏庭に移動しようとした時、ふと気になった。
____水音?
危ういところで自分を正気に戻したのはさっき聞こえた水の跳ねる音。
この近くにはプールがある。プールには水があるだろう。
けれど、そのプールの入口の鍵は閉まっている。昨日の夜、最後に閉めた本人が言うのだから間違いない。そしてプールの鍵は_____自分のポケットの中にある。
自分が帰った後は誰も入れないし_____鍵は外付けタイプだから中からは空かない。
火照って赤くなっていた顔がざあああっと音を立てて青ざめる。
もしかしてもしかしてもしかして。
昨日の部活終了は夜の7時半。
現在、日光が一番猛威を奮う午後1時半。
_____1 8 時 間。
暑かったはずなのに、鳥肌が立った。
意識せずにひゅっと喉が鳴る。
痛いぐらい鼓動が跳ね、循環した血がどくどくとこめかみを流れるのを感じた。
最後に出るとき、確認した?
した。声はかけた。
____でもトイレがある奥の方までは確認していなかった。聞こえなかったかもしれない。
昨日は自主練の日で、全員そろってなくて当たり前だったし、最後の最後まで・・・いたのは自分だけだと思っていたし。誰もいなくなったプールで泳げるのが鍵係の特権だとこっそり思っていて。
____真剣に誰か残っているかなんて確認しなくて。
月が、見えて。
静かで。
誰もいない、あの空間が。
自分だけのものだと、そう思って。
思い込んでいて。
どうしよう_____どうしよう!
慌ててポケットから鍵を探す。これじゃないこれはコインこれもコインこれだ!でもひっかかって出てこない汗と焦りで指が滑る取れない取れない急がないと_____!!
やっと鍵を取りだし、相当混乱したままプールのドアにかけられた南京錠を手に取る。
「あっつ・・・・!!」
直射日光に当てられ続けた鉄製の南京錠は、焼けた鉄板と同じくらい熱くて、思わず鍵を落としてしまう。ちゃりんっと場違いなほど涼やかな音をたてて・・・鍵が側溝にかかったグレーチングの隙間をすり抜けて落ちていった。