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サルスベリ、紅き刃を、夕闇に

掲載日:2026/08/14




 夏の夕立は、いつだって突然だった。

 さっきまで青かった空が嘘みたいに暗くなり、アスファルトを叩く大粒の雨が街を包む。


 帰宅途中の学生たちは、一斉に走り出した。



「最悪ぅ~~っ!?」

「天気予報の嘘つき!」



 そんな声が飛び交う中。

 彼女だけは、歩いていた。


 雨の中を。

 ゆっくりと。


 まるで、急ぐ理由なんて最初から存在しないかのように。


 制服はすでにずぶ濡れになっている。

 シャツは肌に張り付き、下着の色が分かるほど透けている。

 

 普通なら、少しでも雨を避けようとする。


 しかし、彼女は違った。

 空を見上げ、笑っていた。



「……何やってんだ? あいつ」



 思わず呟いた。


 同じクラスの女子だった。

 名前は知っている。


 確か、神崎。

 一人でいることが多く、大抵は本を読んでいる。


 誰かと騒ぐわけでもない。

 目立つタイプでもない。


 だからこそ、余計に違和感があった。


 あの神崎が。

 強い雨の中を、楽しそうに歩いている。


 ときおり、笑う。

 そして、くるりと回る。


 両手を広げ、天を仰ぐ。

 その足取りは軽い。


 シャワーを浴びるように。


 いや、もっと楽しそうに。

 世界が、自分のために用意した演出だと言っているように。


 俺は勝手に想像した。

 きっと何か理由があるのだ。


 大切な人との思い出。

 忘れられない過去。

 雨の日だけ蘇る記憶。


 そういう、映画みたいな何かが。

 そう思った。



「か、神崎!」



 気がつけば、声をかけていた。


 クラスメイトだけど、今まで一度も話したことはない。

 自分でも分かるくらい声が上ずった。



「あれ? 確か、同じクラスの……」



 とびきりの笑顔だった。


 驚いた。

 神崎が、こんな顔で笑うなんて知らなかった。

 授業中に名前を呼ばれた時の、消え入りそうな声とは別人みたいだった。



「か、傘……。も、持ってないのか?」

「うん、持ってない」



 雨の滴りを避けるためだろう。

 前髪が掻き分けられている。


 いつも本を読んで俯いているせいで、よく見たことのなかった顔が、はっきりと見えた。


 可愛い。

 胸がドキドキと高鳴った。



「よ、よかったら、入ってけよ」



 傘を少し傾ける。

 その分だけ、自分の肩に雨が当たった。


 でも、気にならなかった。

 その直後。



「……あっ」

「んっ!?」

「ほ、ほら!」



 俺は、あることに気づいた。

 女の子と相合傘ってやつだ。


 胸の鼓動が大きくなる。

 さっきまで気にならなかった雨音まで、妙に耳に響いた。


 たぶん今の俺は、顔が赤い。



「ありがとう。でも、いいよ」

「ど、どうしてだよ?」

「だって……。」



 神崎は雨雲の空を見上げる。

 顔を雨に打たれながら微笑んだ。



「素敵じゃない!」

「……は?」



 両手を広げた。



「夕立!」



 くるりと一回転。



「ずぶ濡れの女子高生!」



 制服のスカートが揺れ、雨粒が舞う。



「ねっ!? 最高のシチュでしょ!」



 目を輝かせる。



「今の私なら、短編を一気に書けちゃうな!

 五千文字くらいの!」



 何を言っているのか、よく分からなかった。


 でも、これだけは分かった。

 こいつ、厨二病ってやつだ。


 俺も昔、夜な夜な忍者走りで、町内を無意味に走っていたから分かる。


 当時の俺は本気だった。

 忍者になれると信じていた。

 印を結び、『滅っ!』と叫んでいた。


 そんな黒歴史が、今になって鮮明に蘇る。


 やめろ。

 俺の中の忍者、今すぐ消えろ。



「どうしたの? 大丈夫?」

「お、おう……。だ、大丈夫だ。も、問題ない」



 押し寄せてくる過去に、たまらず膝をついた。


 俺は中学卒業と共に、忍者も卒業したのだ。

 修学旅行のお小遣い全額を投じて買った模造刀も捨てた。


 俺は、クラスの陽キャだ。

 バンドも組んで、ベースを弾いている。


 ウェーイ、完璧。

 よし、過去は消えた。


 俺は震える手で濡れた膝を払い、大きく息を吐いて立ち上がった。



「それより、本当にいいのか? 風邪、ひくぞ?」



 いつしか、神崎にときめいていた胸の鼓動は収まっていた。


 高校二年にもなって、厨二病を患っている。

 なんて、おいたわしいやつだ。


 俺は、優しい眼差しを向けた。



「平気! もしそうだとしても……。」

「そうだとしても?」



 神崎が濡れそぼった髪をゆっくり掻き上げる。


 一拍の間。



「それも、オツでしょ!」



 顔を少し横に向け、人差し指を立てながら、ぱちりとウインクした。


 俺は再び左膝を落とす。

 痛む胸を右手で鷲掴みする。


 追撃するのは、止せ。



『サルスベリ、紅き刃を、夕闇に……。』



 頭の中の忍者が、不敵に笑う。


 止めろ。

 俳句を読むな。

 慈悲はないのか。


 びっしり書き込んだ決め台詞集のノートは、燃やしたはずだ。

 なぜ、頭の中で復活している。



「本当に大丈夫?」



 神崎がしゃがみ、小首を傾げながら覗き込む。

 悔しいけど、可愛かった。




 ******




「それが、お母さんとの出会いだ」

「ええっ……。」

「だから、魔法少女は中学校で卒業しろ」



 娘は、手に持っていたオモチャの魔法のステッキを背中にそっと隠した。



「いいか? 魔法少女は少女だから、魔法少女なんだ。

 四十を過ぎたら、魔法おばさんだ」

「それ……。あそこにいる、お母さんに言ったら?」



 リビングを見る。

 そこには、日曜の朝に放送中の魔法少女と同じ衣装を着た妻の姿があった。



「きゃるーん! 悪い子はお仕置きだぞー!」



 スマホを三脚に固定し、決めポーズを自撮りしている。


 正直、ぐっときた。

 娘には内緒だ。



「無理。高校のときに諦めた」



 そう言って、リビングの向こう側を見る。


 ベランダには、小さな植木のサルスベリ。

 赤い花が、雨に濡れて揺れていた。


 あの日と同じ、夕立だった。




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