サルスベリ、紅き刃を、夕闇に
夏の夕立は、いつだって突然だった。
さっきまで青かった空が嘘みたいに暗くなり、アスファルトを叩く大粒の雨が街を包む。
帰宅途中の学生たちは、一斉に走り出した。
「最悪ぅ~~っ!?」
「天気予報の嘘つき!」
そんな声が飛び交う中。
彼女だけは、歩いていた。
雨の中を。
ゆっくりと。
まるで、急ぐ理由なんて最初から存在しないかのように。
制服はすでにずぶ濡れになっている。
シャツは肌に張り付き、下着の色が分かるほど透けている。
普通なら、少しでも雨を避けようとする。
しかし、彼女は違った。
空を見上げ、笑っていた。
「……何やってんだ? あいつ」
思わず呟いた。
同じクラスの女子だった。
名前は知っている。
確か、神崎。
一人でいることが多く、大抵は本を読んでいる。
誰かと騒ぐわけでもない。
目立つタイプでもない。
だからこそ、余計に違和感があった。
あの神崎が。
強い雨の中を、楽しそうに歩いている。
ときおり、笑う。
そして、くるりと回る。
両手を広げ、天を仰ぐ。
その足取りは軽い。
シャワーを浴びるように。
いや、もっと楽しそうに。
世界が、自分のために用意した演出だと言っているように。
俺は勝手に想像した。
きっと何か理由があるのだ。
大切な人との思い出。
忘れられない過去。
雨の日だけ蘇る記憶。
そういう、映画みたいな何かが。
そう思った。
「か、神崎!」
気がつけば、声をかけていた。
クラスメイトだけど、今まで一度も話したことはない。
自分でも分かるくらい声が上ずった。
「あれ? 確か、同じクラスの……」
とびきりの笑顔だった。
驚いた。
神崎が、こんな顔で笑うなんて知らなかった。
授業中に名前を呼ばれた時の、消え入りそうな声とは別人みたいだった。
「か、傘……。も、持ってないのか?」
「うん、持ってない」
雨の滴りを避けるためだろう。
前髪が掻き分けられている。
いつも本を読んで俯いているせいで、よく見たことのなかった顔が、はっきりと見えた。
可愛い。
胸がドキドキと高鳴った。
「よ、よかったら、入ってけよ」
傘を少し傾ける。
その分だけ、自分の肩に雨が当たった。
でも、気にならなかった。
その直後。
「……あっ」
「んっ!?」
「ほ、ほら!」
俺は、あることに気づいた。
女の子と相合傘ってやつだ。
胸の鼓動が大きくなる。
さっきまで気にならなかった雨音まで、妙に耳に響いた。
たぶん今の俺は、顔が赤い。
「ありがとう。でも、いいよ」
「ど、どうしてだよ?」
「だって……。」
神崎は雨雲の空を見上げる。
顔を雨に打たれながら微笑んだ。
「素敵じゃない!」
「……は?」
両手を広げた。
「夕立!」
くるりと一回転。
「ずぶ濡れの女子高生!」
制服のスカートが揺れ、雨粒が舞う。
「ねっ!? 最高のシチュでしょ!」
目を輝かせる。
「今の私なら、短編を一気に書けちゃうな!
五千文字くらいの!」
何を言っているのか、よく分からなかった。
でも、これだけは分かった。
こいつ、厨二病ってやつだ。
俺も昔、夜な夜な忍者走りで、町内を無意味に走っていたから分かる。
当時の俺は本気だった。
忍者になれると信じていた。
印を結び、『滅っ!』と叫んでいた。
そんな黒歴史が、今になって鮮明に蘇る。
やめろ。
俺の中の忍者、今すぐ消えろ。
「どうしたの? 大丈夫?」
「お、おう……。だ、大丈夫だ。も、問題ない」
押し寄せてくる過去に、たまらず膝をついた。
俺は中学卒業と共に、忍者も卒業したのだ。
修学旅行のお小遣い全額を投じて買った模造刀も捨てた。
俺は、クラスの陽キャだ。
バンドも組んで、ベースを弾いている。
ウェーイ、完璧。
よし、過去は消えた。
俺は震える手で濡れた膝を払い、大きく息を吐いて立ち上がった。
「それより、本当にいいのか? 風邪、ひくぞ?」
いつしか、神崎にときめいていた胸の鼓動は収まっていた。
高校二年にもなって、厨二病を患っている。
なんて、おいたわしいやつだ。
俺は、優しい眼差しを向けた。
「平気! もしそうだとしても……。」
「そうだとしても?」
神崎が濡れそぼった髪をゆっくり掻き上げる。
一拍の間。
「それも、オツでしょ!」
顔を少し横に向け、人差し指を立てながら、ぱちりとウインクした。
俺は再び左膝を落とす。
痛む胸を右手で鷲掴みする。
追撃するのは、止せ。
『サルスベリ、紅き刃を、夕闇に……。』
頭の中の忍者が、不敵に笑う。
止めろ。
俳句を読むな。
慈悲はないのか。
びっしり書き込んだ決め台詞集のノートは、燃やしたはずだ。
なぜ、頭の中で復活している。
「本当に大丈夫?」
神崎がしゃがみ、小首を傾げながら覗き込む。
悔しいけど、可愛かった。
******
「それが、お母さんとの出会いだ」
「ええっ……。」
「だから、魔法少女は中学校で卒業しろ」
娘は、手に持っていたオモチャの魔法のステッキを背中にそっと隠した。
「いいか? 魔法少女は少女だから、魔法少女なんだ。
四十を過ぎたら、魔法おばさんだ」
「それ……。あそこにいる、お母さんに言ったら?」
リビングを見る。
そこには、日曜の朝に放送中の魔法少女と同じ衣装を着た妻の姿があった。
「きゃるーん! 悪い子はお仕置きだぞー!」
スマホを三脚に固定し、決めポーズを自撮りしている。
正直、ぐっときた。
娘には内緒だ。
「無理。高校のときに諦めた」
そう言って、リビングの向こう側を見る。
ベランダには、小さな植木のサルスベリ。
赤い花が、雨に濡れて揺れていた。
あの日と同じ、夕立だった。




