9 初めての逢引
至恩様と、帝都図書館に行く日がやってきた。
普通に自分で支度をしようとしたのだけれど、「奥様」と雪於さんに声をかけられたのが、全ての始まりだった……。
「奥様っ、動かないでくださいまし!」
「そ、そうはいっても、何だかむずむずして……」
「ええいもう! ちょいと失礼しますよ!」
雪於さんが問答無用でわたしの顎を掴み、刷毛を目元に持ってくる。慌ててぎゅっと目を瞑ると、「力を入れすぎです」と言われてしまい、そろそろと力を抜く。
瞼を滑る刷毛がくすぐったい。
朝から部屋にやってきた雪於さんは、一抱えの化粧箱を手にしていた。まさかそれ全部に化粧品が入っているとは思わなかったのだけど、雪於さんの気合いの入れ様が凄まじいものだった。
これじゃない、あれじゃないと様々な容器をわたしの顔に当て、ようやくお眼鏡にかなったものを肌に乗せていく。
鏡を見せてもらっていないから、今どうなっているのか、全くわからない。
「よし、完成です!」
唇に紅を乗せ、雪於さんが満足気に言った。
ようやく終わった……いったいどうなったのかしら……?
鏡を見せてもらえると思ったけれど、雪於さんは「さて次は」と腕まくりしている。
「ゆ、雪於さん……?」
「次はお着物ですよ! なにせ旦那様との初めての《《でえと》》ですからね!」
でえと。
雪於さんは、思いの外ハイカラらしい。
着物を引っ張り出す雪於さんの前に、わたしは別のことに思いを馳せることにした。
*
それから四半刻。
「よし、これでほんとのほんとに完成です!」
今度こそ、達成感たっぷりだ。
わたしも精神的には疲れたけれど、雪於さんが丁寧に着付けてくれたから、体はそう疲れていない。朝から疲れていたら、逢引どころじゃないだろう。
姿見の前に立って、目を瞠った。
「雪於さん、すごい……」
化粧と着る物で、こんなに変わるなんて。腕の良い人がやると、わたしでもこんな風になれるんだ……。
「元がいいですからね! より良くするため、腕が鳴りました!」
「そんなこと、言われたことがないわ?」
「ま、旦那様ったら朴念仁ですの? あとできつく言っておかねば」
不器量ですもの、とは口にできなかった。なにせ『器量なしの末娘』で、十六年間来ているのだ。良家の女中は世辞もうまいらしい。
「千枝子さん、支度は終わりましたか?」
頃良く至恩様が襖の向こうから声をかけてきて、焦ってしまった。
この姿を見て、何と言われるだろうか。
心の準備ができないまま、雪於さんが襖を開けてしまう。
わたしの姿を見て、至恩様は何も言わない。
「し、至恩様……?」
やはり変だっただろうか。
――器量なしが着飾ったところで、馬子にも衣裳。
――着物が泣いている。
そんな言葉が頭の中を巡り、顔が強張っていってしまう。
「雪於さん、やっぱり普段通りの恰好に……」
「旦那様?」
「ぐふっ」
着替えたいと言いかけたところで、至恩様の呻き声が聞こえた。
至恩様のことを見ると、お腹を押さえてうずくまっている。
「し、至恩様……!?」
「だーいじょうぶですよう、奥様。ちょっと肘鉄を食らわせただけです」
「なぜ!?」
おろおろとするわたしに、至恩様は弱々しく「大丈夫、です……」と言うけれど……。
これはよほど強く食らったんじゃないかしら?
「ちゃんと言葉になさいませ、旦那様?」
「わ、わかっています……。あまりに綺麗で言葉を失っていました」
え。
言われたことが、頭に届くまで時間を要した。
綺麗? 綺麗って言ったの?
顔が一気に熱くなっていく。
至恩様がわたしを見上げてくる。その目からどこか温度を感じるようで、ますます鼓動が速くなっていく気がした。
「はいはい、さっさと出かけてくださいねー。少しでも長く、でえとしたいでしょう?」
「雪於!」
至恩様は、勢いよく立ち上がる。
そんな、少しでも長くだなんて……そりゃあたくさん一緒にいられたら、嬉しいけれど……。
そこでようやく、至恩様の姿をしっかりと見られた。
落ち着いた色柄の着物と羽織は、普段どおり上等なものだ。だけど初めて見る物であるような気がして、今日のために用意したのかなと、少し嬉しくなった。
馬車の提案もされたけれど、普段、至恩様が通勤する様を感じたくて、バスで向かうことにしていた。大通りまで並んで歩くのが、面映ゆくもある。
先にバスに乗り込み、
「お手をどうぞ」
と、手を差し出してくる至恩様にたまらなくなってしまったけれど、ためらっていては他のお客様の迷惑になってしまう。だらしない顔にならないよう口にきゅっと力を込めて、そっと手を取った。
「晴れてよかったですねぇ」
「そ、そうですね……」
隣に座る至恩様は、普段どおりだ。わたしばかり、緊張しているのかしら?
四つの歳の差があると、余裕ぶりも違うようだ。窓の外の空を見上げて、にこにこしている。
顔が赤くなっているのがばれませんようにと祈りながら、わたしは前を向いた。
*
バスが都営公園前に到着し、また至恩様の手を取って降りることになった。
平常心……平常心……。
バスを降りたら手を離してくれたけれど、少しさみしいと思ってしまうわたしの心は勝手だ。
だけどすぐ隣を歩いているものだから、この間のように公園の緑を楽しむ余裕などない。そこに見えているはずの図書館が、すごく遠くに感じる……。
「建物は見えているのに、道は曲がりくねっているから、遠回りですよね。花壇を突っ切れたらといつも思います」
あ、実際に遠回りではあったのね。
花壇には、色とりどりの季節の花が咲いている。鮮やかな花々に、ようやく心が落ち着いた。
「でも、素敵な風景です」
「私もそう思います。この草花があるから、毎日の通勤が苦ではありませんから」
同じ気持ちであることが、嬉しくなる。
木々のトンネルを抜けて、帝都図書館の前に出た。
レンガ造りの高い塀に繋がる門は開け放されていて、どんな人でも迎え入れてくれているかのよう。
その先に続く道沿いには、青々とした芝生。いくつかベンチが置かれていて、ここで日向ぼっこするのは、とても気持ちが良さそうだわ。
門と建物の入り口のちょうど中央あたりにある噴水からは、絶え間なく水が噴き出していて、心地よい水音を響かせている。
そして辿り着いた建物を見上げて、わたしは思わずため息をついた。
「ここが、帝都図書館……」
一言で表すならば、巨大な洋館。
白壁には等間隔で大きな窓が並んでおり、壁と緑青の屋根のコントラストが鮮やかだ。
本で読んだ異国の貴族の邸宅は、こんな感じなんじゃないかしら。憧れの洋館が目の前にあって、感動してしまう。
「さ、中に入りましょうか」
至恩様に促されて、わたしは図書館へと足を踏み入れた。
扉を潜り抜けて、目の前に広がった光景に、今度こそ言葉を失った。
広々とした空間には、壁沿いに隙間なく本棚が並んでいる。
中央は数段下がる形になっており、円形のそこには机や椅子が多く置かれていた。その周囲にもいくつも背の低い本棚が並んでおり、ここだけでいったいどれだけの蔵書数になるのやら……。
「お気に召しましたか?」
至恩様がわたしの顔を覗き込みながら、そう言った。
「はい、とっても!」
わたしは視線を本棚に向けたまま答えてしまう。
どんな本があるんだろう。今日一日だけじゃ、見て回れないんじゃないかしら。
心がどきどきして、逸る気持ちを止められない。
至恩様のくすりと笑う声が聞こえて、はっとなった。いけない、思わず夢中になっちゃっていた……。
「では案内しましょうか。何か見たいものはありますか?」
「でしたら……物語、小説の棚を見たいです」
「かしこまりました。ではこちらへ」
そう言って至恩様は、手を差し出してくる。うぅ、エスコートしてくれているんだろうけれど、まだ慣れなくて恥ずかしい……。
至恩様は、階段上のフロアを案内してくれるらしい。そこは円形の通路になっていて、ステンドグラスの窓からは、柔らかな光が差している。
階下に目を向けると、座席で本を読んでいるのは、男の人が多いみたい。お役人や、学者風の方々のように見える。お仕事かしら?
「こちらが小説の棚です」
半周ほど歩いたところで、至恩様は足を止めた。
棚の上の方には、『小説』と書かれており、著者順に並んでいる。こんなにたくさんの小説があるなんて……。
「階下の座席で読めますよ」
「そうなんですね! じゃあ、これと、これと……あぁ、これも読んでみたいです!」
わたしは気になるタイトルのものを、どんどん手に取っていく。読んでみたかった本が目の前にあって、夢中にならないわけがない。
もう一冊、と取ろうとして、バランスを崩しかけたところ、至恩様が背中を支えてくれる。
「とりあえずその辺りにして、読み終わったらまた取りに来たらいかがですか?」
「そ、そうですね……。そうします」
またやってしまった……。
どうしてこう、本となると周りが見えなくなってしまうのだろう。
恥ずかしさと反省とでない交ぜになりながら、至恩様が受け止めてくれた本を受け取ろうとしたら、逆に全部取られてしまった。
「席までお持ちします。段差に気を付けて」
本当に、この人には適わない。




