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旦那様は妖語り  作者: 安芸咲良


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8 妖との遭遇

 悶々と悩みながら過ごしていた、週の半ば。お昼で授業を終えて、帰宅したときのことだった。


「千枝子さん、ちょうどよかった」


 裏庭と母屋を繋ぐ垣根から、お義母かあ様が声をかけてくる。大判の封筒を手に、慌てているようだけれど、どうしたのかしら?


「政府の方が来られて、急ぎこれを至恩さんに届けてほしいとのことだったの。でも、わたくしこれから出かけなければならなくて。千枝子さん、帝都図書館まで、これを届けてくれないかしら」


「お安い御用です。すぐに向かいますわ」


 よろしく頼むわねと言って、お義母様は母屋に取って返した。

 思いがけず、帝都図書館に行くことになってしまった。


   *


 帝都図書館は、通りに出てバスに乗り、四半刻ほど行った先にある。都営公園に隣接しており、静かな土地だ。

 バス停は公園前だから、わたしは急ぎながらも、公園の緑の良い空気に深呼吸をする。


「素敵な場所……」


 木々の間、遠くに帝都図書館の建物が見え隠れする。至恩様も、ここを通って職場まで通っているのかしら。

 本当に、静かなところ……。


「静かすぎない?」


 平日とはいえ、昼下がりだ。ここで散歩したり、遊びに来る子供たちがいても、おかしくないんじゃないかしら?

 そう思ったところで、ざわっと嫌な気配がした。

 久しく感じていなかった感覚。これは、まさか……。


「ここで何をしている」


 突然聞こえてきた男の人の声に、わたしは飛び上がった。

 振り返ると、そこにいたのは――。


時雨しぐれさん……?」


 至恩様の義弟おとうと、時雨さんだった。

 学生服をしっかりと着込み、まっすぐに被られた学生帽の下、鋭い瞳がわたしを射抜いている。


「聞こえなかったか? ここで何をしている」


「あ、わたし、至恩様に届け物を……」


 時雨さんは、日本刀を手にしていた。至恩様に初めて会った日、あの時に持っていたものに似ているけれど、ちょっと違う気もする。

 時雨さんがまた口を開きかけたところで、またぞわりと嫌な気配がした。同時に時雨さんが勢いよく振り返る。


 気づくとそこには、大きなもやのようなものがあった。わたしの身の丈の三倍はあるだろうか。よく見てみると人の形にも思えて、それが真っ黒であるから気味が悪い。

 どこに目があるのかわからないけれど、目が合った気がした。それがわたしの方へと迫ってくる!


「下がっていろ!」


 思わず目を瞑ってしまったけれど、時雨さんの声に慌てて目を開け一歩下がった。

 時雨さんが振るった刀で、もやは距離を取ったようだ。少し離れた位置で蠢いていて、こちらの様子を伺っている。


「あれは、妖……?」


「わかっているならそこでじっとしていろ。邪魔だ」


 そう言い捨てて、時雨さんはもやへと足を踏み出す。

 そうだ、龍ヶ峰家の面々は、護妖師なのだ。時雨さんも学生とはいえ、その職務を全うしているらしい。

 時雨さんの殺気を感じてか、もやの動きが速くなる。もやの頭だと思われる部分が、時雨さんに噛み付こうとする姿は、まるで獣だ。人を食わんとする意思すら感じる。


「人を食らう鬼か? いや、ここに死者はいないが……。ならば」


 時雨さんは軽い身のこなしでもやから距離を取り、刀を鞘に納めて手を合わせる。

 そこを狙おうとしたもやは、聞こえてきた声にぴたりと動きを止めた。


「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」


 これは、お経?

 時雨さんは目を閉じたまま、お経を唱え続けている。


 するとどうだろう、もやが段々と小さくなっていくではないか。殺気も少しずつ消えていくようで、ゆるゆるとした動きで時雨さんの元へと這っていく。

 時雨さんの手の届くところまで来たとき、目にも止まらぬ速さで刀が抜かれた。


「はっ!」


 一刀両断。人の子ほどの大きさになったもやの頭を、時雨さんは切り捨てていた。

 もやは空気に溶けるように消えていき、そしてやがて見えなくなった。


 くるりと切先を反転させ、刀を鞘に納めた時雨さんは、わたしの方へと向き直った。

 そして口を開こうとした時だった。


「千枝子さん!」


 声のした方を振り向くと、至恩様がこちらに駆けてくる。

 全力で走ってきたようだけど、息一つ乱れていない。


「千枝子さん、ご無事でしたか?」


「えぇ。至恩様は、どうしてここに……」


「妖の気配を感じたので、急ぎ参りました。ですが要らぬ心配でしたね」


 そう言って至恩様は、時雨さんの方を見やった。つられてわたしも彼に目をやると、苦々しげな表情をしているものだから、驚いてしまう。

 結婚式のときも、会話らしい会話はなかったけれど、この兄弟はやはり……。


「何が『要らぬ心配』ですか。僕がいなかったら、この人は食われていましたよ」


 恐ろしいことを言われて、今さらながら、恐怖心が込み上げてくる。あの妖は、そんなに悪しきものだったの……?


義兄上あにうえも気づいていると思っていましたが、この人は妖を惹きつけます。放っておいたら死にますよ?」


「だから守るために、結婚したんです」


 至恩様の声は、真剣そのものだ。

 時雨さんは怖いことを言うし、至恩様は歯の浮くようなことを言うし、わたしは青くなるべきか赤くなるべきかわからない。

 睨み合いから先に降りたのは、時雨さんの方だった。


「口先だけでは何とでも言えます。本なんぞに現を抜かしていて、本当に守れるんだか……。さっさと龍ヶ峰に戻るのが、義兄上にとってもこの人にとっても、いいんじゃないんですか?」


 それは、図書館や作家の仕事を辞めて、護妖師に専念しろ、ということだろうか。

 言われた至恩様は、何も答えない。そっと顔を見上げると、悲しげな表情で時雨さんのことを見ていた。


 その視線を真正面から受けて、逆に傷ついたのは、時雨さんの方にも見える。ぎりと唇を噛み締めると、踵を返して行ってしまった。

 至恩様がわたしへと向き直る。


「たしかに、時雨の言う通りです。根付があるだろうと私は過信していました。申し訳ございません」


「いっ、いえ! 近頃は妖を見ないからといって、油断していたのはわたしの方です。顔を上げてください」


 がばりと頭を下げられて、焦ってしまう。

 顔を上げた至恩様は、迷子になった子どものような顔をしていた。


「ですがこれでは契約違反になります。今日は家まで送っていきます。……ところで、どうして千枝子さんはここに?」


「お義母様から、至恩様にと届け物を頼まれたのです。政府の方からだと」


 そう言ったところで、封筒を手にしていないことにようやく気が付いた。妖騒ぎで、いつの間にか落としていたのだろう。封筒は少し離れた生垣の下に落ちていた。

 あまり汚れていなかったようで、ほっとする。


「至恩様は、まだお仕事がおありでしょう? 人通りの多いところを帰りますから、大丈夫ですよ?」


「いえ、送っていきます。こういう時のために、部下たちには私がいなくても仕事ができるように取り計らっています」


 頑固だ……。こうなってしまえば、意地でも意見を曲げないだろう。

 心の中で、部下の人たちに「ごめんなさい」と謝って、わたしは至恩様と帰路に就いた。




 でもやはり無理をしていたようで、次の日から、至恩様の帰りは遅くなり、ほら見たことかと思ったのだった。

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