6 姑の呼び出し
「ただいま帰りましたー……」
わたしはへとへとになりながら、玄関の戸を開けた。
今までで一番、学校が疲れたかもしれない。
わたしの結婚が、学校中に知れ渡っていたのだ。遠巻きにされていたのは学校でも同じで、それなのに、急にみんなが根掘り葉掘り聞いてくるものだから、戸惑ってしまった。
どこで知り合ったのだとか、弟君はどんな方なのかだとか、華族というのがみんな気になって仕方ないらしい。
一生分の会話をした気がする……。
「お帰りなさいませ、奥様」
蒼柳さんのそっけない出迎えくらいが、今は丁度いい。
洗濯物を取り込んでいたところらしい蒼柳さんは、「あ」と足を止めた。
「大奥様が、帰り次第、母屋に来るよう言っていた」
「え、お義母様が?」
なんだろう? 少し嫌な予感がする……。
*
当たり前だけど、離れより母屋の方が大きい。
龍ヶ峰家は長い歴史のある家系なので、武人を多く出している。その実、妖から要人を守る職に就いていたわけだから、取り立ててもらっていたのだろう。
母屋に赴いたわたしは、女中の一人に案内されて長い廊下を歩いていた。
「大奥様、千枝子様をお連れいたしました」
「通しなさい」
女中が開けた戸の先では、お義母様がお茶の用意をしていた。
わたしは膝を折り、頭を下げる。
「お待たせして申し訳ございません」
「帰ってすぐ来たのでしょう? お気になさらず」
冷たい印象の人だ。さっきは蒼柳さんのそっけなさが丁度いいと思ったけれど、ここまで来ると逆に緊張してしまう。
結納や式のときは、至恩様とあまり親しくしていなかった。
実の息子ではなく、しかも長男にあたる子だ。良く思っていないのかしら……。
姑として、わたしのこともどう思っているのか、わからないままで来てしまった。今日は何を言われるのか……。
「貴女は、妖が見えるのだとか」
抹茶を入れた茶碗に湯を注ぎながら、お義母様は口を開いた。「はい」と頷くわたしを一瞥し、お義母様は茶筅を手にお茶を点てていく。
「わたくしには妖は見えません。それでも龍ヶ峰のためにできることは、やらねばならなかった。この家には、政府高官の方々が妖絡みの問題を解決してほしいとやってきます。その方々に失礼のないよう、礼儀と教養が必要になる」
お義母様は茶筅を置き、わたしの方に向き直った。
差し出されたお茶に、身構えてしまう。
「茶道の心得は?」
「あまり経験がなく……」
上級士族で会社を営む桧垣家といえども、人づきあいがうまくできなかったわたしは、お茶やお花などを避けてきた。
父様や母様も「千枝子にはどうせ無理だろうから」と言って、やらずに済んだのは良かったけれど……。
ここに来てその弊害が出てしまった。
ぎこちない手つきで茶碗を取るわたしに、お義母様は鋭い視線を向けた。
「龍ヶ峰の嫁として、叩き込ませていただきます。これから毎日、学校から帰ったらすぐに、この部屋まで来るように」
まさに蛇に睨まれた蛙。
否などと言えるはずもなかった。
*
「今日のところは、これくらいでいいでしょう」
畳に倒れ伏したいところを堪えながら、わたしは心の中で安堵の息をついた。
座り方から始まり、帛紗の畳み方、お茶の温度など、一挙手一投足を指摘され、休まる間などなかった……。
「明日もお茶の稽古からやります。この調子じゃ、お花はどうなることやら……」
心底呆れられて、ぐうの音も出ない。
だけど稽古をつけてくれるだけでも、ありがたいことだと思う。至恩様のお客様相手に、失礼があってはならないから。
だけど、そうなると疑問が湧く。
「あの、至恩様からは、家督は弟の時雨様が継ぐと聞いたのですが」
龍ヶ峰家の次期当主は時雨様だ。現に至恩様は帝都図書館で働いていらっしゃる。
それならば、護妖師のお客様は、時雨様の方に来るというわけじゃないのだろうか。
わたしが問いかけると、お義母様はふうとため息をついた。
「至恩さんも、どうして持てる者の義務を果たしてくれないのか……。あの子の力は、相当なものです。片目を失ってなお、時臣さんが期待を寄せるほどです」
時臣さん……お義父様は凄腕の護妖師らしく、家を空けることが多いという。厳格そうな雰囲気で、式や結納のときはあまり話すことができなかった。
お義父様は、至恩様に期待している……?
「たしかに今のままでは、至恩さんが龍ヶ峰を継ぐかどうかは際どいところです。ですが至恩さんは、貴女と共に目を探すと言った。ならば可能性は無きにしも非ずです」
「わたしと……」
「えぇ。いつまでも英国に思いを残すようなことをされていては、時雨さんにも示しがつきません。千枝子さん、頼みましたよ」
英国? 図書館のことかしら?
お義母様の真摯な表情に、わたしは頷くことしかできなかった。
*
ようやく離れに帰ると、まだ一刻しか過ぎていなかった。ひどく濃い時間だった……。
荷物を部屋に置いて出ると、雪於さんと鉢合わせた。
「奥様、お疲れ様でございました。今日、旦那様は遅くなるそうですが、先に夕食を召し上がりますか?」
そうなんだ。
お義母様の稽古で、なんだかお腹がいっぱいだ。あとでいただくと雪於さんに言って、わたしは至恩様の書斎に向かった。
「失礼します……」
好きに入っていいと言われたけれど、声はかけた。
薄暗くなってきた部屋に、行灯の火を灯す。並んだ本の数々に、心が浮き立ってくるのがわかる。
「本当に、素敵」
本を沢山買ってもらえた我が家だけど、ここまでではなかった。これ全部、至恩様が集めたのかしら。
英語の本もあって、生家から持ってきたのかと思った。
お義母様の言っていたことが、脳裏を過る。至恩様、英国に心残りがあるのかしら……。
いつか帰りたいのかもしれない。
考えながら本棚を見ていると、『雪女』と書かれた背表紙が目に入った。手に取ってみると、どうやら小説みたい。
夜半、泊まることになった小屋で、雪女に遭遇した男たちの話だった。
雪於さんが脳裏に浮かんで読み始めたけれど、印象が全然違う。
無慈悲に男の命を奪う雪女。だけどもう一人の男の元に嫁ぎ、子を成すまでに至る。それなのに、男は雪女との約束を守ってくれなくて……。
妖しさの中に、一かけらの淋しさがある物語だった。
「千枝子さん、いらっしゃいますか?」
「えっ、至恩様!?」
遅くなると言ってなかったかしら?
わたしの返事に戸が開き、その先にいたのは確かに至恩様だった。
「あぁ、やっぱりここだった」
「雪於さんから遅くなると聞いていたのですが……。お早かったですね」
「もう八時ですよ?」
「えぇ!?」
驚いて外を見ると、もうとっぷり日が暮れて暗くなっていた。いつの間に……。
至恩様にふっと笑われて、恥ずかしくなった。
「よほど面白い本があったんですね」
「はい……。夢中になりすぎて、面目ないです」
「とんでもない! それほど本がお好きとは、図書館で働く者として嬉しい限りです」
至恩様は、本当に本がお好きみたいだ。柔らかい笑みを向けられて、嬉しいやら恥ずかしいやら……。
わたしの手元の本を、至恩様は見やった。
「『雪女』を読んでいたんですか?」
「はい。雪於さんの顔が浮かんでしまって。でも、雪於さんとは全然違う雪女でした」
「そうですか……。その本は、日本各地に伝わる怪談をまとめた本のうちの一冊なんですよ」
「あぁ、だから何だかどこかで読んだような感覚がしたんですね」
母親が寝物語に聞かせる昔話ではない、だけどどこか懐かしい感覚。
この『雪女』からは、そんなものを感じた。
ふと顔を上げると、至恩様は何か言いたそうな表情をしていた。
「至恩様?」
「……あまり新鮮さは、なかったでしょうか?」
「いえ、読んだことがあるような感覚はしましたが、それは郷愁を感じるもので。こんな本、はじめてです」
本の感想となると、すらすら出てきてしまう。本の話をできる相手がいなかったから、嬉しいことだ。
現に、何とも言えない表情をしていた至恩様は、わたしの感想に顔を綻ばせた。
「ありがとうございます。そういえば、夕食がまだなのでは? 雪於が言っていました」
ちょうどその時、わたしの腹の虫が鳴った。
どうしてこんな悪い間で!
恥ずかしすぎて、至恩様の顔をみることができない。
「私も仕事に夢中になりすぎて、飲食を忘れることがままあります。あっ、今日の弁当の卵焼き、とてもおいしかったです」
「それは良かったです」
至恩様はお優しい。話題を変えてくれたのだろう。
ともかく、卵焼きがお口に合ったようで良かった。
そうしてわたしたちは、遅い夕食を取りに居間へと向かった。




