2 至恩様との出会い
二礼二拍手をひとつひとつ丁寧にして、
「妖が見えなくなりますように」
と小さく呟き、強く念じる。そしてまたしっかりと一礼した。
普段使いの着物に着替えたあと、わたしは近くの神社へと赴いた。
この神社には、小さい頃からお参りに来ている。
『器量なし』と言われ始めたのは、いつからだったか。
顔のことじゃない……と思いたいけれど、自信はない。
何もないところでこけたり、突然ひとり言を口にしたり。
そういった、妖絡みのどんくささを披露するにつけ、友や嫁の候補から外されている。
ひとりで生きてゆけたらと思うけれど、行き遅れたら、などと両親を心配させるのも、本意ではない。
それにはまず、妖が見えなくなることからだ。
お百度参りではないけれど、神頼みする毎日だ。
今のところ、ご利益はないのだけれど……。
いやいや、こういうのは、信じる心が大事なはず!
そう思いながら、わたしは神社をあとにしようとした。
昼下がりの参道には、人気がない。もっとも、この神社はお祭りやお正月にしか賑わわないので、いつもの光景ではある。
不思議な音が聞こえてきたのは、分社に続く石段に差しかかったときだった。
この二十ほどの石段の先に、お稲荷様の小さな社がある。こちらにお参りするのも、日課なのだ。
空を切るような短い音が、間隔を開けながら何度も繰り返し聞こえる。その合間に、苦しそうな男の人のうめき声。
何かあったのだろうか。わたしは急いで石段を駆け上がった。
社の前には、刀を構える男の人がいた。左目は眼帯に隠れているけれど、右目は辺りを警戒するように鋭い形をしている。
他に誰かいるの……? と思ったそのとき、視界の上に黒い影が過った。
それは、普通の大きさの三倍はありそうな烏だった。黒い羽を大きく広げ、男の人に狙いを定めている。
男の人は、気づいていない。きょろきょろしているけれど、烏が見えてはいないようだ。
烏が動いた。急降下して、男の人に攻撃するつもりだ!
「右上です!」
わたしは思わず叫んでいた。
男の人は、はっとして一瞬わたしを見るけど、すぐに右へと刀を構える。
「今!」
わたしの合図と共に、彼は刀を振りかぶる。烏はそれをよけきれず、一刀両断されてしまった。
烏の体は、さらさらと砂のように解けていき、そのまま風に流されて消えていく。
妖……だったのよね? 人を襲っているところなんて、初めて見た。
咄嗟に叫んじゃったけれど、この人はいったい……。
男の人に向き直ると、ちょうど刀を鞘に納めたところだった。無我夢中で気づかなかったけれど、随分色素の薄い髪だ。日に当たる部分が、輝いて見えるほど。
そしてより特徴的なのは、その目。眼帯も十分目立つけれど、見えている右目は青く澄んでいる。もしかして、異国のお方? 着物を着てはいるけれど……。
「助けてくれてありがとうございました」
よかった、日本語はしゃべれるみたい。
あれ? 青い目と思ったのは見間違いだったのかしら? わたしの前に立った彼は、焦げ茶の目をしている。光の加減だったのかもしれない。
「貴女は妖が見えるのですね」
「えっと……」
この人には見えていないのよね? でも、倒そうとしていたし、『妖』って言っている。
言ってもいいのかしら……。
口ごもるわたしに、その人はにっこりと笑った。
「私には妖は見えないけれど、斬ることはできます。この文月で」
そう言って彼は、手にした刀を掲げた。
水面を映したかのような鞘だった。澄んだ空色に、ところどころ跳ねる深い青の飛沫。
さっき見た瞳のようで、目が引き寄せられてしまう。
「私の家は、代々、妖退治を請け負っているのです。お恥ずかしながら、私は今は妖が見えないのですが」
「妖退治……?」
「えぇ。この世には、人ならざるものが蔓延っています。妖、幽霊、化け物……。人に仇なすものばかりではありませんが、時折、襲ってこようとするものがいます。そういったものから、影に日向に人々を守るのが、我が龍ヶ峰一族の役目なのです」
龍ヶ峰……。
聞いたことがある。平安の世から続く名家で、武家や将軍の護衛を請け負っている一族のはず。
今は華族となって、帝国軍人として帝の覚えめでたいと噂されている。
そんな名家の人が、妖退治をしているなんて。
あれ? でもたしか、龍ヶ峰のご子息は、まだ学生さんと聞いたような……。
「申し遅れました、私、龍ヶ峰至恩といいます。帝都図書館の館長をしております」
「帝都図書館の?」
数年前にできたばかりの施設だ。日の本中のありとあらゆる本が集い、誰でも自由に読むことができるという。
わたしもいつか行ってみたいと思っていたけれど、父様が「これ以上、本の虫になるのは困る」と許してくれなくて、いまだ行けずにいる。
「うちにも色々ありまして、私は龍ヶ峰の末席に過ぎないもので」
龍ヶ峰様は、そう言って苦笑した。
華族といえど、複雑な事情があるようだ。華族だから、なのかもしれない。
龍ヶ峰様は、苦い表情をぱっと消して、にこりと笑いかけてきた。
「お名前をお聞きしても?」
「失礼をいたしました! わたし、桧垣千枝子と申します」
「千枝子さん……」
龍ヶ峰様はなぞるようにわたしの名前を口にすると、思案顔になる。
まさか華族のお方にまで、桧垣の機織会社の『不器量娘』の噂が届いているとは思えないけれど、龍ヶ峰様の澄んだ瞳に見つめられて居心地が悪くなってくる。
ただでさえ、整ったお顔立ちなのだ。これ以上、鼓動が速くなるのは耐えられないと思ったところで、
「千枝子さん、私の『目』になってくれませんか?」
と聞こえてきた。
「えっ?」
「先ほども申したとおり、私は今、妖を見ることができないのです。それというのも、妖退治、あっ、我々の世界では『護妖師』と言うのですが、その仕事中に、妖に左目を奪われてしまったのです」
「それはお気の毒に……」
せっかくの綺麗な目なのに。
思わず零したわたしに、龍ヶ峰様は優しい表情で頷いた。
「それから私は妖が見えなくなり、護妖師の仕事もできなくなりました。ですが私は、目を取り戻したい。護妖師の仕事はできなくてもいいのですが」
「えっ、いいのですか?」
「家督は義弟が継ぐでしょうし。図書館の仕事が、案外気に入っているのですよ」
龍ヶ峰様は、茶目っ気を含ませて笑う。
弟というのが、学生だというご子息なのかしら。お兄様なのに、家督を継がないというのは気になるけれど、図書館はよっぽどいいところなのだろう。
「そこで! 貴女の出番です!」
目の前に、びしっと人差し指を突きつけられて、わたしは目をぱちくりさせてしまう。
龍ヶ峰様の目探しを、わたしが手伝うということかしら。
「あの、龍ヶ峰様」
「至恩とお呼びください」
……いいのかしら?
初対面で失礼な気がするけれど、本人がそうおっしゃるのなら……。
「至恩様。わたし、妖とは関わり合いたくないんです」
「なんと!?」
「いたずらばかりしてくるし、物が駄目になることもあるし……。妖が見えて良かったことなんて、ひとつもありません。今日だって、『妖が見えなくなりますように』ってお祈りに来たんです」
ひとつひとつは、小さないたずらだ。でもそれが積み重なって、器量なしだと言われるようになっていった。
「おかげで変な子扱いされるわ、嫁の貰い手もないんじゃなんて言われるわ、散々です……。妖なんて、いなくなってしまえばいいのに!」
思わず、強くそう言ってしまっていた。
わたしの不幸の元凶は、全部妖だ。妖さえいなければ、家族に心配もされず、将来の不安も抱かず暮らせていたのかもしれない。
至恩様の方を見ることができない。握りこんだ拳が痛む。
視線を落としたままでいると、至恩様が一歩近づいてくるのがわかった。
そっと手を取られ、優しく手のひらを開かれる。
「傷になってしまいます。心の傷の方が、深いのでしょうが」
至恩様の右目は慈しむようで、わたしは泣きそうになってしまう。
今まで、誰もわかってくれなかった。嘘つきだって言う子もいたし、器量なしは生まれつきだと思われてきた。
至恩様は、信じてくれる。今は妖が見えないというのに、傷ついたわたしの心に気づいてくれた。
「明治になり、妖たちも棲む場所を探しているのです。だからといって、千枝子さんを傷つけていいという理由にはなりませんが」
時代が移り変わり、街の暗がりが減った。闇に潜む妖たちは、棲む場所を奪われたのだろう。
それはかわいそうなことだけれど、哀れに思う余裕は、わたしにはなかった。
「ならば私が貴女を守ります。ちょっかいかけてくる妖からも、悪意を向けてくる人からも」
「え……?」
思ってもみなかったことを言われて、頭も体も固まってしまう。
守るって、そんな義理もないのに。
「といっても、私には妖は見えないので、貴方の目に頼ることにはなってしまいますが……。千枝子さんは、私に妖の場所を教える。私は千枝子さんが妖からちょっかい出されるのを防ぐ。私の左目が見つかるまでとは言いません。貴女が妖が見えなくなるまで、というお約束ではどうでしょう?」
「でも、わたしと至恩様は知り合ったばかりで、そう良くしてもらう義理もないのに」
「ではひとつ提案があります。私と結婚しませんか?」
今度こそ、言葉も出なかった。
至恩様は、人差し指を立てて、にっこり笑っている。
「結婚、と仰いました……?」
「えぇ。縁談の心配もされていたでしょう? 龍ヶ峰なら、妖が見えることをおかしいと言う人はいませんし、何も問題ありません」
「そんな、問題って……」
そういう問題なのかしら?
突然の申し出すぎて、考えがまとまらない。
婚約って、こんなあっさりとしていいのだっけ?
「ひとつの契約です。条件つきの、契約結婚」
「契約結婚……」
ますますわからなくなってきた。父や母は何と言うか……。
そうだ、わたしだけの問題じゃない。
「突然仰られても、わたしの一存だけでは決められません! だからこの話は……」
「ふむ、それもそうだ」
あれ? 何か間違えた?
至恩様は考え込んでいて、焦るわたしに気づいていない。
「それでは、この話は今日はここまでということで。あ、これを持っていてください。魔除けにはなると思います」
そう言って至恩様は、帯の根付を外してわたしに握らせてくる。竜胆の模様が入ったこれって、龍ヶ峰の家紋なのでは……。
こんな高そうな物をいただくわけにはいかない!
「あのっ、至恩様……!」
「それではお気をつけてー!」
顔を上げたときには、もう至恩様は石段のところに差しかかっていた。ぶんぶん手を振って、わたしに背を向けてしまう。
「どうしよう……」
この根付も、契約結婚のお話も。
わたしはお社を見上げる。
あぁ、神様。お百度参りのご利益が、これですか?
これからどうなってしまうのか、皆目見当がつかなくて、わたしは立ち尽くすしかなかった。




